★ 備忘録 「熱球通信」 ・ 特定非営利活動法人秋田県野球フォーラム ★

「熱球通信」は特定非営利活動法人秋田県野球フォーラム会員有志による備忘録を兼ねた「秋田県野球」にこだわった私的ブログです。掲載している記録等については公式なものではありませんのでご注意願います。リンク等についてはオールフリーですので事前のメール等一切不要です。更新頻度は原則毎日の更新です。秋田県出身で県外に在住の方も念頭に更新していきますが、内容等一部については地元情報と時差が生じる場合があります。練習・親善試合の結果情報は原則掲載しません。また、コメント送信欄と掲示板については諸般の事情により対応していません。積極的な中学硬式野球・女子野球の紹介に努めています。

校歌・記念碑

学校法人南陵学園和歌山南陵高校(生徒募集停止.給料遅配 2度措置命令)校歌

生徒募集停止処分が解除 解除に伴い来年4月から新入生を募集する方針

今年から新しくなったレゲエ調の校歌  全校生徒3年生17人・野球部員10人

2019年8月12日除幕式 全国高校選手権金足農業高校全国準優勝記念碑完成

- 幅約3m、高さ約2.5m、奥行き約70cm、御影石 -
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秋田県立秋田高校硬式野球部 全国高校野球選手権大会出場「甲子園大会の記録」

秋田野球人名録|秋田県男鹿市払戸出身 石川真良(甲子園球場の土の生みの親)

81ebb8cc-s<スポニチ> 甲子園球場建設当時、グラウンドの土をつくったのは阪神電鉄社員で、秋田県出身の野球人、石川真良氏(1890-1969年)だった。野球場の命と言える土の配合には相当な苦労があった。100年続く甲子園の土が生まれた物語を書いてみたい。(編集委員・内田雅也)甲子園球場の建設が始まった1924(大正13)年3月、グラウンドの土の配合を担当したのが阪神電鉄の用度課セメント係だった石川真良だった。野球人としての経歴が買われての起用だった。慶大野球部の第1回米国遠征(11年)に参加し投打に活躍。「幻球」と呼ばれたカーブを武器に9勝6敗の好成績を残した。入社後も大阪実業大会で優勝に導いていた。夏の全国中等学校優勝野球大会(今の全国高校野球選手権大会)で大会委員、この24年春に名古屋で初開催された選抜大会では選考委員、決勝の球審を務めている。当時33歳。肩書は現場の「工事監督員」だった。だが、建設を請け負った大林組の作業員たちは連日、ユニホーム姿、スパイクを履いて現場で滑り込みを繰り返す石川に「何をやっているのか」と不思議に思った。設計を担当した野田誠三(後の本社社長、球団オーナー)が社史『輸送奉仕の五十年』で「非常に熱心で、毎日やっていた。あれには感心した」と語っている。石川は現場に5坪(約16平方メートル)ほどのマス目を十数個作り、各地から取り寄せた土の配合を行っていた。黒土と白砂をブレンドする。砂は枝川廃川地であり、浜にも近くふんだんにあった。問題は黒土だった。最初は尼崎を流れる蓬川の土をバケツでくんできたが、乾くと白くなった。甲山の赤茶けた土を混ぜても白球が見えやすい黒さにならなかった。石川は最適な土を求め探し回った。「ある日、素晴らしい土に出会った」と、晩年、故郷の秋田県・払戸中で石川から投球を教わった戸嶋広栄から聞いた。20年前に連載『80歳甲子園球場物語』の取材で秋田県若美町(現男鹿市)を訪ねた。「軟らかく握るとふわっとする。滑り込むとさあっと土煙が舞う。これだ!と」神戸・熊内)の土だった。「うまい大根が採れ、登れば富士山が見える山の裾野だそうです」。有名な熊内大根である。今の新神戸駅周辺で山は布引山や世継山か。当時は遠く富士山が見えたのだろう。さらに改良を加え、淡路島の赤土を混ぜると粘り気が出て理想の土になった。ただ船での輸送費もあり、通常1立方メートル2円の土が50円、計20万円もかかった。野田が「最も苦労した」という甲子園の土ができあがった。球場建設顧問だった佐伯達夫(後の日本高校野球連盟会長)は自伝で<今もって定評ある甲子園の水はけの良さは石川さんの努力に負うところが大きい>と記した。川上哲治は熊本工時代、37年夏の甲子園大会決勝で敗れた際、記念に土を持ち帰り、母校のマウンドにまいた。巨人監督時代には「甲子園の土は宝物以上だ」と語っていた。石川は甲子園球場の完成を見届け、26年9月に阪神電鉄を退社。29年、専修大初代監督を務めた。晩年は故郷に帰り、手製のさおで釣りを楽しんだ。59歳で母校・払戸中の事務官となり、5年間、野球や英語を教えた。1999年10月には若美中央公園球場に「石川真良先生記念碑」が建った。教え子たちが中心の「石川真良の偉業をたたえる会」の活動だった。甲子園球場提供の「土」も埋め込まれている。碑に刻んだ「今日はきのうより、明日は今日より」は「野球十訓」の一つ。会長・小松一夫から聞いた話を思い出す。「怒らない人でした。ミスした選手にも涙を浮かべながら『もう一丁、いくか』とノックを打っていました」。こうした情熱、愛情が100年間愛される土を生んだのだった。=敬称略= <2019.8.13> 今年阪神甲子園球場95 周年。<2012.6.10> 千葉県南房総市在住の孫 相川泉さん(63)、ひ孫 相川昌也さん(33)父子が、平成24年石川真良杯学童野球大会開会式に参加。元高校球児昌也さんが始球式。【2010.8.10】以下、森岡浩氏編「甲子園高校野球人名事典」(東京堂出版)より抜粋。明治23年5月23日、南秋田郡若美町生まれ。旧制秋田中(現秋田高)から慶応義塾大学(法学部)に進学、三宅大輔捕手とバッテリー。卒業後阪神電鉄入社、阪神甲子園球場建設の際には〝土〟の責任者となり、試行錯誤の末、神戸熊内の黒土と淡路島島の赤土を組み合わせた現在に受け継がれている「基本型」を完成させる。専修大学初代監督を経て、昭和10年からは払戸中事務職員をしなjがら少年野球や母校秋田中学の指導をし、野球に臨む心得を記した「野球十訓」を著す。昭和44年9月19日逝去。平成20年以降、毎年6月に石川真良杯学童野球大会開催。

令和4年創立60周年 県立秋田南高校・中等部 校歌 作詞 境田四郎 作曲 小林清人 ​

秋田県立秋田南高等学校創立60周年動画

2025学校創立100周年|秋田県立増田高校 校歌 作詞 片野忠吉 作曲 信時潔


1985 昭和60年 能代市立能代商業高校 全国高校野球選手権大会 出場記念碑

小野平監督 中嶋健志主将 松橋英司マネ
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2022令和4年第104回全国高校校野球選手権大会出場秋田県立能代松陽高校

2016 平成28年 全国高校野球選手権大会 出場記念碑 秋田県立大曲工業高校

第98回全国高校野球選手権大会出場記念碑 大曲工業高校
<紫紺sp>さん

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2016 / 平成28年 第98回 全国高校野球選手権 大曲工応援団 不死鳥の如く


可美しき郷 我が金足 霜しろく 土こそ凍れ 見よ草の芽に / 秋田県立金足農業高校

2007 平成19年夏 金足農1-2大垣日大

秀麗の山鳥海は 久遠の雪の影浄し 浩滔の水 雄物川 / 秋田市立秋田商業高校 校歌

2004(平成16年)センバツ大会 秋田商3-0甲府工

登る朝日に照り栄えて 姿雄々しき鳥海山 千古の理想いや高く / 秋田県立本荘高校

2006 平成18年夏 本荘5-7天理

秋田さきがけ / 金足農甲子園大会準優勝をたたえる石碑 「欲しい人に譲りたい」 。

homebas3312複数の希望者の中から潟上市天王字追分西在住 佐藤恵佐雄さん(73)に贈られることになり、12月22日に佐藤さん宅駐車場で除幕式。【2019.10.20】秋田市外旭川の資材置き場に、昨年夏の第100回全国高校野球選手権記念大会で準優勝した金足農をたたえる石碑がある。同市将軍野の解体業佐藤清春さん (79) が、同校の活躍に感動し、準優勝直後に制作した。縦2・7メートル、横1・5メートルほどの大きさ。ホームベース型のプレート状の石には、当時のベンチ入りメンバーと監督の名前を刻んだ。「欲しい人がいたら、無償で譲りたい」 と佐藤さん。「金足とか、学校の近くに置ければ一番いいんだけどな」 と話した。【2019.8.14】 昨年の第100回全国高校野球選手権大会で準優勝し、硬式野球部が県民栄誉賞を受賞した県立金足農業高校で、記念碑の除幕式が行われた。スコアボードをかたどった記念碑 (黒御影石製、高さ2・5メートル、幅3メートル) は、同窓会有志の寄付で建立された。日大三を破って決勝進出を決め、校歌を熱唱するチームのカラー写真の陶板 (縦35センチ、横50センチ) と 「準優勝」「雑草軍団」 と刻んだ赤御影石プレートを配している。

秋田野球人名録/男鹿市払戸出身 石川真良 (慶応-秋田、甲子園の土生みの親)。

sin払戸小野球スポーツ少年団、高円宮賜杯第39回全日本学童軟式野球大会出場。【2019.6.11】全国高校野球選手権大会の前身の 「全国中等学校優勝野球大会」 第1回大会の記録に、秋田中の名前がある。決勝は延長十三回、1-2で惜敗したが、全国に挑む秋田勢の歴史はここから始まった。103年前に刻んだ第一歩を、記録や証言からたどる。1915 (大正4) 年7月。秋田中に大阪朝日新聞から全国大会への 「招待状」 が届いた。都道府県の代表校を勝敗で決める、地方大会のシステムが確立していない頃だった。秋田中は横手中 (現横手)、秋田農 (現大曲農) に大勝した戦績を主催側に送り、出場が認められた。当時は球児を熱心に応援する空気は薄かった。前年の14年、秋田中は関東遠征で早稲田中などと試合をしたが、親の反対で行けない生徒もいた。「祖父に 『東京までタマ転がしに行くとは何事だ』 と言われ、父は遠征に行けなかったと聞いた」。秋田高野球部OB会の元会長、竹内陸郎 (86) はそう語る。秋田市の自宅には遠征前後の選手らの写真が残る。父長九郎も写っている。だが、遠征メンバーに父の名前はない。似た理由で、大阪での第1回大会に行けない選手がいた。急ごしらえで人数をそろえたというのが実情だった。当時のコーチは、同校出身で慶応大に進んだ石川真良。石川は投手で、大きく曲がるカーブを武器にしていた。「秋田高野球史」 によると、酷暑の中、猛練習で鍛えたという。石川と野球は縁が濃かった。卒業後は阪神電鉄に勤め、甲子園球場の土を配合する仕事をした。のちに故郷の男鹿市に戻り、中学で教師をしながら子どもたちに野球を教えた。小松一夫 (82) は中学時代、石川から野球の基礎を教わった。「選手を怒らない人だった。無駄なエラーすると、皆に聞こえないように 『バカッ』 と小声でつぶやいていた」。石川を知る人は県内でも少なくなった。有志による 「石川先生をたたえる会」 の会長だった小松は19年前、男鹿市にある野球場前に記念碑を建立した。「晩年は釣りばかりしていた。手先が器用だった」 と懐かしそうに話す。大阪へ乗り込んだ秋田中は快進撃をみせる。初戦は三重四中 (通称山田中、現宇治山田)に9-1。エースの長崎広が12三振を奪った。準決勝は優勝候補と目された早稲田実に3-1で競り勝った。当時の思い出を、主将で捕手だった渡部純司が語ったテープが残る。無明舎出版代表の安倍甲が86年にインタビューしたものだ。「長崎君は球が速いうえに、(対角線上に) クロスファイアで来る。僕らは慣れていたけど、相手は打つのが難しかったんじゃないかな」 と渡部。安倍は振り返る。「インタビュー時、渡部さんは90歳近かった。でも、頭が切れて、とてもよく当時のことを覚えていた」。決勝の相手は京都二中 (現鳥羽) だった。8月23日、豊中グラウンド。中盤までゼロが並ぶ接戦は七回、6番丹市郎が適時打を放って秋田中が1点を先取し、均衡を破る。八回表を終えて1-0。99回を数える大会の歴史の中で、秋田の学校が、最も大優勝旗に近づいた瞬間でもある。=敬称略 (山田佳毅)

秋田県内野球場紹介 秋田県男鹿市角間崎 若美中央公園球場(旧 南秋田郡若美町)

正面横に石川真良 (払戸出身、甲子園球場の土の生みの親)記念碑
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少年野球大会や中等学校野球大会等で秋田市民に親しまれた 「楢山グラウンド」。

narayama楢山グラウンド界隈 <平成24年2月投稿、齋藤一洋氏ブログより紹介>。 「楢山グラウンド」。秋田市にお住まいの方で、今、この名前を聞いてすぐわかる方は少なくなったのではないでしょうか。かく言う自分も、両親から聞かされていなければ馴染みの無かった名前です。 この楢山グラウンド、秋田市南通築地にある現在の中通総合病院の一帯にあったグラウンドです。今月、中通病院の増改築が報道され、平成25年8月頃には、自分の実家付近の風景もまた大きく変わりそうな気配です。病院の隣には、子供の頃に友達と遊んだ中通児童館、そして駐車場が遊び場となっていた旧千秋会館があり、この2つの建物も、移転や解体となるようです。楢山グラウンドの歴史を調べてみると、明治33年、秋田中学(現秋田高校)の野球場として整備され、地元新聞社主催の全県少年野球大会や全県中等学校野球大会が開催されるなど、一般にも開放さて、秋田市民に 「楢山グラウンド」 として馴染んだのだそうです。中通児童館南東角には 「楢山グラウンド跡地の碑」 が建っています。 さて、楢山グラウンド、実は忘れてはならないのは 「秋田県ラグビー発祥の地」 であることです。大正12年にこの地で秋田運動クラブにより始めてのラグビーの練習が行われ、同年9月には、秋田運動クラブと秋田鉱専 (現秋田大学工学資源科学部の前身) の試合も開催された場所とのことです。昭和58年には、中通児童館西側、旧千秋会館敷地内に 「秋田県ラグビー発祥の地」 の記念碑が建立されています。 さてその後、この地には昭和7年NHK秋田放送局が立ち、番組放送を開始。自分が父親から聞かされていたのはこの時代からの記憶。電波塔が建つ風景は、南通周辺に住んでいた方々には懐かしいものなのでしょう。NHKは昭和39年に山王地区に移転。そして中通総合病院が建ったのでした。病院北東角に建つ 「NHK秋田放送局の地」 の標柱。南隣には、盲学校があったことも自分の記憶にうっすらと残っています。

東京都千代田区神田錦町 学士会館敷地内 「日本野球発祥の地」 記念碑。

yakyuuhasshou画像以上に力強さ。「日本野球発祥の地」記念碑(碑文)」この地には、もと東京大学およびその前身の開成学校があった。一八七二(明治五)年学制施行当初、第一大学区第一番中学と呼ばれた同校でアメリカ人教師ホーレス・ウィルソン氏(一八四三~一九二七)が学課の傍ら生徒達に野球を教えた。この野球は翌七三年に新校舎とともに立派な運動場が整備されると、本格的な試合ができるまでに成長した。これが 「日本の野球の始まり」といわれている。七六年初夏に京浜在住のアメリカ人チームと国際試合をした記録も残っている。ウィルソン氏はアメリカ合衆国メイン州 ゴーラム出身、志願して南北戦争に従軍した後、七一年九月にサンフランシスコで日本 政府と契約し、来日。七七年七月東京大学が発足した後に満期解約、帰国した。同氏が教えた野球は、開成学校から同校の予科だった東京英語学校(後に大学予備門、第一高等学校)その他の学校へ伝わり、やがて全国的に広まっていった。二〇〇三年、同氏は野球伝来の功労者として野球殿堂入りした。まさにこの地は 「日本野球発祥の地」である。二〇〇三年十二月 財団法人野球体育博物館 http://www.baseball-museum.or.jp/guide/floor/monument2.html
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