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「急に来たんでビックリした」オフに結婚式をあげて「カアちゃんのために、今年は稼がなきゃなんないスから」と臨んだ86年、先輩・東尾修の投球術やスライダーを必死に学び、序盤は防御率1点台で一時トップに立つ活躍だ。青春が終わって人生が始まり、トレードマークとなる口ヒゲを蓄え、開幕5連勝でオールスター戦にも初めて監督推薦で出場する。第3戦で吉村禎章(巨人)からサヨナラ2ランを浴びるも、この年は6勝5敗、防御率4.53。117.1回を投げ、チームは日本一を勝ち取った。翌87年、4勝11敗と黒星が先行しながら、4完投を含む130.2回を投げて7年目にして初の規定投球回に到達。防御率3.86はリーグ12位だった。2年連続の日本一に輝く当時の西武投手陣には若手の柱に工藤や渡辺がいて、外国人の郭泰源、ベテランの東尾や松沼博久も健在だった。25歳の小野は、その12球団屈指の先発ローテの一枠を確保。ようやくプロの世界で生きていけるという手応えを感じるも、男の運命なんて一寸先はどうなるか分からない。そのオフに中日・平野謙とのトレードが成立するのである。「やっと先発に定着したところに、急に来たんでビックリした。頭に来たんで、相手は誰ですか、って聞いたんです。格は向こうが上。それなのに1対1と言うから、分かりました、って。交換相手も自分の価値ですからね」(週刊ベースボールONLINE『プロ野球1980年代の名選手』より)なんで俺が……と瞬間的に腹が立ったが、冷静に考えたら悪い話じゃない。何の仕事でも組織内の自分の立ち位置が見えてくると、同時に先も見えてしまう。えてしてそんなときは環境の変え時だ。球界屈指のスカウト網で若い逸材が集結した西武では、この先も良くてローテ4番手、5番手だろう。だが、先発が手薄な中日なら成り上がれるチャンスがある。週べ87年12月14日号「87'トレード中間決算報告」によると、当初は平野を狙い指名してきた西武に、中日はもうひとりの投手を加え強気に渡辺を要求。さすがに西武も近未来のエース渡辺は出せないと松沼兄弟を候補にあげたがいったんは破談する。中日が主力クラスの投手を狙いパ各球団に話を持ちかけるもまとまらず、諦めない西武は再び小野と立花義家で、平野と藤王康晴を指名。二転三転したトレード話は、平野と小野の1対1で成立した。中日選手会長も務め、盗塁王経験と3度のゴールデン・グラブ賞獲得歴があり年俸4400万円の32歳・平野に対して、通算15勝の25歳・小野は1600万円。実績だけを見れば格差トレードだが、西武は星野仙一監督とそりが合わずレギュラーを剥奪されたリードオフマンを再生可能と踏み、中日側は「(86年4勝11敗の)勝ち負けがひっくり返って当然のピッチャーだ」と “和製バレンズエラ” の才能と伸び代に懸けた。そして、結果的にこの移籍が小野和幸の野球人生を劇的に変えることになる――。(後編へ続く)























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