Tsukuba Club 茨城県つくば市に本拠地 日本野球連盟に加盟している社会人野球クラブチーム
筑波大学硬式野球部OBが中心となって設立 メンバーは学生社会人と幅広い層で構成されている
独立リーグ
北海道フロンティアリーグトライアウトで士別サムライブレイズが指名
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木下大地(大船渡-同志社大)畑山勝弥(由利-ノースアジア大)
令和2年4月 能代市立第五小 → 秋田市立泉小
宮城教育大時代 仙台六大学リーグ 外野手部門(右投左打)ベストナイン
伊藤蓮選手BCリーグ 信濃グランセローズ入団へ。【2016.3.11】第5期活動終了、今季は北秋田市のほか大館、鹿角、秋田、上小阿仁から女子2人を含めた27人が参加。【2015.4.14】第4季(村上雄登主将、鷹巣南)活動終了。今季は北秋田市内のほかに大館、鹿角、能代からも参加、青森県の軟式を引退した中学3年生で組織の北五BBC、平川BBCとも合川球場で練習試合。【2014.4.19】北秋田市硬式野球チーム「合川ベースボールクラブ」第3季16人の活動終了。軟式から硬式への橋渡しとして、毎年夏に野球部を引退した中学3年生を対象にチームを結成。指導は旧合川高校を23年間率いた櫻田義信監督やその教え子らが受け持つ。昨年7月末からスタートした第3季は市内外から16人が集まり、宮城遠征含め17戦に及ぶ練習試合などで経験を重ねてきた。第3季の主将を務めた伊藤蓮主将(花輪二)は強豪駒大苫小牧へ進学。【2013.12.05】秋田県学校体育研究連合会は平成25年度学校体育功労者22人を選出。高校野球関係では、櫻田義信元合川高校野球部監督。[2012.11.05]夏に軟式野球部を引退し、高校で硬式野球部入部を希望する中学3年生の硬式野球チームが県北地区を中心に各地で結成。合川ベースボールクラブ(メンバー13人)は、合川高校野球部で通算30年近く指揮を執った櫻田義信氏が中心となり結成されたチームで今年活動2年目。
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高知ファイティングドッグス ドッキー
<ザ・インタビュー~元プロ野球選手たちのセカンドステージ>かつてプロの世界で活躍した野球人にセカンドキャリアを聞く「ザ・インタビュー~元プロ野球選手たちのセカンドステージ」に昨年登場した元近鉄投手の村田辰美氏(67、三菱自動車川崎-六郷-金沢)に現在の状況を聞きました。関西独立リーグに所属する「06BUllS(ゼロロクブルズ)」の監督を務めるかたわら、加圧トレーニングのインストラクターとして長年続けてきた活動も新型コロナウイルスの影響で完全休業が続いていましたが、緊急事態宣言が解除。まずは5月25日からチーム練習が再開されることなりました。「ザ・インタビュー特別編」としてお届けします。【取材・構成=安藤宏樹】「年中夢求」をセカンドキャリアの座右の銘に掲げた村田氏にとって、新型コロナウイルスは強敵となった。4球団で構成する関西独立リーグは4月4日だった開幕を2度延期。緊急事態宣言発令を境にチーム活動も完全にストップした。04年の近鉄球団消滅をきっかけに転身した加圧トレーナーの仕事も休業に追い込まれた。そんな中、緊急事態宣言の解除を受け、チームが活動拠点を置く東大阪市にある花園中央公園野球場の使用が解禁。リーグ開幕に向けて、25日からチーム練習が再開することになった。「私自身も仕事はまったく出来ない状況でしたが、選手もみな自主トレ状態になりました。アルバイトをしている選手が多く、みんな厳しい状況が続きました。それでも離脱者は1人も出ることなく、可能な範囲で練習を続けてくれていたようです。ようやくグラウンドの使用禁止が解かれましたので、全体練習を始めようと思います」。就任2年目にして深刻な事態に見舞われた村田氏はようやく見えた小さな灯に力強い口調で現状を語った。苦しい日々が続いた。それでも村田氏は「やれることをやろう」と選手たちにチーム内のグループラインを通じて呼びかけた。「SNSなどを通じてメッセージを出してほしいとお願いしました。自主練習などの活動内容もですが、特に医療従事者のみなさんに対して感謝の思いを伝えてほしいと。飲食店やコンビニなどでアルバイトしている選手も多いですから、彼ら自身も苦しい状況にあると思いますが、東大阪市に本拠地を置くチームとして、できることは可能な限りやっていこうと」。地域に認知され、活動に共感を持つ人々の輪が広がってこそ独立チームの未来は広がる。長きに渡りプレーした所属球団を失った村田氏だからこそ、その思いは人一倍強い。球団合併で古巣・近鉄は消滅した。これを機に野球解説など球界にかかわる仕事は激減。加圧トレーニングのインストラクターとして歩み始めた。NPB入りを目指す選手たちの受け皿でもある独立リーグ球団監督に昨年就任した。チームを消滅させることはなんとしても避けたい、との思いが根底にある。昨年行ったインタビューで村田氏は次のように話していた。「インストラクターの仕事は『年中無休』と話しましたが、資格を取ったときに『年中夢求』を座右の銘にしました。夢を求めると書きます。今はブルズの監督としてNPBに1人でも2人でも送り込みたいという『夢』も加わりました。リーグ戦は10月まで続きます。『年中夢求』の精神で優勝を目指しつつ、NPBに進める選手を育てていきたいと考えています」。活動休止中も村田氏に夢を放棄する選択肢はなかった。少しでも明日につながる活動方法はないかを模索し、選手たちへ呼びかけを行い、自らは知人に頼まれた仕事を手伝った。世界に広がるコロナ禍。独立リーグへの影響も決して小さくはなく、今後もさまざまな課題が振りかかってくるだろう。それでも村田氏は夢を求めてチーム活動を再開する。◆村田辰美 1952年7月9日生まれ。秋田県出身。六郷高、三菱自動車川崎を経て74年ドラフト2位で近鉄入団。86、87年に開幕投手を務めるなど中心投手として活躍。90年、大洋へ移籍し引退するまで通算404試合に登板、85勝90敗10セーブ、防御率4・19。左投げ左打ち。引退後は近鉄投手コーチ、プロ野球ニュース解説者などを経て加圧トレーニングインストラクター。19年から関西独立リーグ・06BUllS(ゼロロクブルズ)監督を務めている。
日刊スポーツ大阪本社 かつてプロの世界で活躍した野球人にセカンドキャリアを聞 く 「ザ・インタビュー~元プロ野球選手たちのセカンドステージ」 。今回は元近鉄投手で現在は関西独立リーグ・ゼロロクブルズ (東大阪市) で監督を務める村田辰美氏(67)です。近鉄球団の消滅を機に加圧トレーニングのインストラクターとして第2の人生を歩んできた村田氏が選んだ新たな挑戦とは…。【聞き手・安藤宏樹】-今年からゼロロクブルズの監督に就任されました。近鉄時代の後輩で今季から中日打撃コーチとなった村上隆行さんの後を受け、67歳での現場復帰です。村田氏 まさか指導者としてユニホームを着るなんて思っていませんでした。村上から 「村田さんしかいない」 と言われましてね。野球をやってきた人間として若い選手とグラウンドで汗をかけることはやりがいがあると思っています。-チームとのかかわりはあったのでしょうか。村田氏 村上が監督をしていたのでは知っていましたし、仲間とチームの支援コンペや、グラウンドで指導したこともありました。ただ、私に監督の話がくることなど予期していませんでした。-8月から元阪神の桜井広大氏がコーチに就任されたようですが、現場は大変だと思います。村田氏 就任直後はコーチも不在で練習の準備からノック、打撃指導まですべてを1人でやっていました。7月に右肩が上がらなくなり、病院で検査を受けたら 「腱板不全断裂」 と診断されました。今も痛みがあります。慣れない外野ノックが原因のひとつだと思います。桜井コーチが来てくれて助かっています。チームをひとつにまとめるという意味で投手陣の整備から始めました。関西独立リーグは4球団で運営され、年間48試合を戦うリーグ戦方式で優勝を競うのですが、現在、首位争いをしています。-少し話をさかのぼらせてください。95年に近鉄を退団。野球解説者を経て、加圧トレーニングのインストラクターを始められたのは05年ごろでしょうか。村田氏 近鉄バファローズがなくなると聞いたときに、これでおそらく解説などの仕事がなくなるな、と直感しました。なにか軸になる仕事を探さないといけない。そんなときに加圧トレーニングを紹介してもらい、すぐに資格を取りました。-04年の近鉄球団消滅が転身の契機となった。一連の球団再編問題はOBにも影響を及ぼしたわけですね。村田氏 近鉄にかかわる仕事をしてきたわけですからショックでした。最初は自宅のある羽曳野で開業したのですが、1年でたたみました。人口の多い大阪に出て、市内のスポーツジムなど歩き回り、ホテルの会員制ジムと契約しました。最初は新聞のチラシ広告やポスティングを入れたりして、お客さんを必死で獲得しました。そのホテルで10年。いまのジムに移って2年になります。お客さんから予約が入ればいつでもジムに出ます。完全予約制、マンツーマンですので年中無休です。-近鉄には左の本格派として入団されています。村田氏 子供のときからプロ野球選手になるのは夢だったのですが、社会人から近鉄に入った時点で目標を達成してしまった。プロに入るのが目標で活躍するのが目標ではなかったということです。即戦力で取ってもらいながらプロに入ったことで満足してしまい、1、2年目は期待されながら何もできないまま悶々としていた。秋田のオヤジにはひと花咲かすまでは帰ってくるなと言われ、このままでは終われないと思っていた3年目の夏ごろでした。練習のときにサイドスローで投げてみたらキャッチャーの有田修三さんに 「強いボールだ」 と言われました。たまたまその当時の投手コーチは下手投げだった杉浦忠さん (元南海投手、監督)。伝説の投手にひじや下半身の使い方も教えてもらえた。球種もシュートを増やし、左打者を打ち取る中継ぎ投手としてようやく結果を出すことができたのです。-フォームを変え、その後は主に先発投手としてプロ通算85勝をマークされています。現役時代の一番の思い出は。村田氏 初優勝した79年の前期最終戦で先発させてもらった試合です。大阪球場での南海との試合。引き分け以上でなければ優勝を逃す大一番。前の晩は緊張して寝られなかった。球場は大観衆です。そんな中で1-1で引き分け、完投して前期優勝を勝ち取りました。プレーオフでは阪急に3連勝。球団の初優勝につながった前期最終戦がもっとも印象に残っています。-90年に横浜大洋に移籍、そのシーズン限りで現役を引退。評論活動を経て93年に投手コーチとして近鉄に復帰されました。村田氏 鈴木啓示監督のときです。現役時代に一緒にやっていた投手を再生してほしいということで呼んでくれたのだと思います。当時は野茂英雄だけが突出していて、89年にリーグ優勝したころの投手たちの影が薄かった。94年の開幕戦はよく覚えています。野茂が8回まで西武打線相手にノーヒット投球。9回表に石井浩郎の先制3ランが飛び出します。9回裏、清原に二塁打を打たれて記録はなくなった。ここで監督がマウンドに行くのです。その後、四球、エラーで満塁。ここでまた監督がマウンドに。2回目ですから自動的に交代です。私はブルペンにいたのですが、本当にビックリしました。ほとんどピッチングをしていなかった赤堀元之をマウンドに送り出したのですが、伊東勤に逆転サヨナラ満塁弾。このシーズンは夏場に連勝して首位争いまで持ち込んだのですが、野茂も故障などで2軍生活が長く、結局、優勝には届きませんでした。-野茂はこのシーズンを最後にメジャー挑戦。その契機となった試合とも言われています。ところで現在はインストラクターと独立リーグ監督という二足のわらじをはかれています。これからの目標は。村田氏 インストラクターの仕事は 「年中無休」と話しましたが、資格をとったときに 「年中夢求」 を座右の銘にしました。夢を求めると書きます。今はブルズの監督としてNPBに1人でも2人でも送り込みたいという 「夢」 も加わりました。リーグ戦は10月まで続きます。「年中夢求」 の精神で優勝を目指しつつ、NPBに進める選手を育てていきたいと考えています。・村田辰美 1952年7月9日生まれ。秋田県出身。六郷高、三菱自動車川崎を経て74年ドラフト2位で近鉄入団。86、87年に開幕投手を務めるなど中心投手として活躍。90年、横浜へ移籍し引退するまで通算404試合に登板、85勝90敗10セーブ、防御率4.19。左投げ左打ち。引退後は近鉄投手コーチ、プロ野球ニュース解説者などを経て加圧トレーニングインストラクター。現在は大阪市中央区にある「CREW GYM 24」に勤務。今年から関西独立リーグ・セロロクブルズ監督も務めている。
独立リーグ兵庫の球団代表辞任へ。「選手の教育に関わる立場であり、責任を取る。応援してくれた地域の人々やファン、関係者に迷惑を掛け、本当に申し訳ない」 。【2019.2.03】静岡県警は2月2日、無免許で車を運転するなどしたとして道交法違反の疑いで、野球の関西独立リーグで球団代表を務める神戸市北区、高下沢容疑者(34)を現行犯逮捕した。逮捕容疑は2日午後4時ごろ静岡県富士市の新東名高速道路下り線の追い越し車線で、乗用車を無免許運転した疑い。県警高速隊によると、パトカーが追い越し車線を走行し続ける高下容疑者の車を見つけ停止させたところ、無免許と分かったという。高下容疑者は兵庫ブルーサンダーズと和歌山ファイティングバーズの代表。【2016.10.14】 <新聞報道> 関西の野球独立リーグ 「ベースボール・ファースト・リーグ」 (BFL) に来春から、和歌山ファイティングバーズが参入する。田辺市に本拠を置く新球団は、リーグ活性化のカンフル剤になることを期待されている。BFLは2014年の発足時から兵庫ブルーサンダーズ (兵庫県三田市)、06BULLS (大阪府東大阪市)、姫路GoTo World (兵庫県姫路市)の3球団で公式戦を戦ってきた。だが、1試合平均の観客動員は約100人。苦境に立たされ、リーグの活況につながるチーム数の増加が望まれていた。昨年8月、兵庫球団が田辺市で試合をしたことが転機となった。戦力強化へ韓国、台湾などからの選手獲得にも力を入れたいBFLにとって関西国際空港から近い立地は魅力的。同球団代表でBFL理事の高下沢(こうげ・たく)さんが 「ここで新球団をつくれないか」 と地元経営者らに相談すると 「若者不足に悩む紀南地域に元気を与える1つのきっかけになれば」 と呼応。球団を運営するNPO法人が設立されて10社ほどのスポンサーが集まり、今年4月に球団が発足した。10月末までに監督を選び、11月5日からのトライアウトを経て、選手25人でチームは始動する。選手は寮に無償で宿泊でき、野球道具や食材も支給されるが、報酬はなし。プロ野球 (NPB) の狭き門を目指す若者は地元の飲食店などでアルバイトをしながら夢を追いかけることになる。新球団の理事にも就いた高下さんは 「身近な選手の活躍を子供たちに生で見てもらい、野球離れを食い止めることにも貢献したい」。地域に定着し、支えられる球団になるために、まずは存在を知ってもらうのが第一歩となる。
秋田東中で成田翔投手(ロッテ-秋田商)と同期