★ 備忘録 「熱球通信」 ・ 特定非営利活動法人秋田県野球フォーラム ★

「熱球通信」は特定非営利活動法人秋田県野球フォーラム会員有志による備忘録を兼ねた「秋田県野球」にこだわった私的ブログです。掲載している記録等については公式なものではありませんのでご注意願います。リンク等についてはオールフリーですので事前のメール等一切不要です。更新頻度は原則毎日の更新です。秋田県出身で県外に在住の方も念頭に更新していきますが、内容等一部については地元情報と時差が生じる場合があります。練習・親善試合の結果情報は原則掲載しません。また、コメント送信欄と掲示板については諸般の事情により対応していません。積極的な中学硬式野球・女子野球の紹介に努めています。

記憶残る選手

記憶に残る選手|1998 平成10年熱球通信期待 伊藤貴樹選手( 秋田-飯島 )

現在 岩手県立西和賀高校硬式野球部監督(社会科教員)
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平成4年能代高校|180cm以上6人擁し軟硬優勝も現実味を帯びた大型チーム

能代4-3佐賀東  能代0-7尽誠学園
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レギュラー平均 177.7cm 73.5kg
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1998(平成10年)第64回秋田県少年野球大会優勝 男鹿中中 目黒達也投手

平成13年2月25日 男鹿市立男鹿中中学校閉校式(男鹿南中に統合)
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(七十七銀行-東北福祉大-東北高-男鹿中中) 

秋田県出身 慶應義塾大学野球部OB選手|猿田和三主将( 内野手、秋田-豊岩 )

2a77f0f6-s東京六大学野球連盟は2月21日午前10時から公式YouTubeチャンネルで、各都道府県出身または出身校の東京六大学野球OB・OG総勢47名でキャッチボールをつなぐ動画を公開すると発表、秋田県は猿田和三秋田県副知事が担当。<2021.4.16> 佐竹敬久秋田県知事が猿田和三産業労働部長を秋田県副知事に起用。<2020.3.24> 2020令和2年度秋田県職員異動で産業労働部長に猿田和三産業労働部次長(56)。平成30年9月39日TBS系列 「消えた天才」長嶋一茂氏が紹介するのは猿田和三選手 (秋田高校~慶応義塾大学)。・猿田三兄弟としても有名、東京六大学で早稲田大石井浩郎選手と対戦。ボールパーク秋田 で詳しく紹介 ~野球が教えてくれたこと~。昭和62年度慶応義塾大学主将、5番三塁手として活躍、大学3年秋首位打者、ベストナイン2回。八橋球場の思い出 「八橋での多くの好投手との対戦が忘れられません」。<昭和56年春秋田高校硬式野球部登録選手> [投]石井浩郎(2、八郎潟)、[捕]鈴木彰(3、秋田北)、[一]伊保谷徹(1、山王)、[二]高橋誠(2、秋田西)、[三]三浦純也(2、秋田西)、[遊]○ 猿田和三(3、豊岩)、[左]住吉浩鹿(2、秋田西)、[中]稲垣寿(3、秋田西)、[右]菅原謙二(2、羽城)、天野清美(3、秋田東)、石井浩次(3、雄和)、佐々木誠(2、羽城)、立花俊幸(1、城東)、小野武紀(3、土崎)、伊藤元(2、秋田南)、浅野英樹(3、五城目一)、菅原文夫(3、山王)、[責]竹内一朔、[監]大久保正樹、[記]沢田石辰美(3、五城目一)。

記憶に残る双子選手 / ツインズといえば 佐藤一臣・佐藤宏臣 選手(東陵-太田)

huagou2月5日は「ふたごの日」<2018.6.09> 由利工野球部 石原龍之介(硬式、本荘南)選手と本荘野球部 石原翔之介(軟式)選手。【2015.4.18】春センバツ出場大曲工 / 石井裕也、西仙北 / 石井準也選手(協和)、秋田南中島和俊投手、貴俊外野手 (秋大付)。<2012.7.11> 11996 (平成8年) に太田中で(宏臣投手、一臣捕手) 全県大会出場、高校は宮城県の強豪東陵に揃って進学。高校時代、兄 / 一臣 (右左、176/72 )は主に内野手で50m 6秒台前半の俊足リードオフマンとして活躍、弟 / 宏臣(右右、181/71) は主に外野手登録もその上背から投手としても期待された。兜森昭一監督も 「これだけ野球センスのある双子も珍しい」 とコメント。他にも秋田西 / 村井健彦、康彦選手 (飯島、バッテリー)、能代商 / 工藤克也、達也選手(八森)、秋田経法大付 / 杉本正人、宗人選手(五里合)、秋田商 / 佐々木洋樹、智樹選手(西仙北東)、金足農 / 田口正也、新屋 / 正志選手(河辺)、秋田北鷹 / 長野剛也、真也選手 (鷹巣南)、湯沢商工 / 小野寺健、湯沢/康選手(三輪)、、、、。

スポーツ紙 / 双子で注目 杉本正人内野手、宗人捕手 (秋田経法大付-五里合)。

a510cbae2月5日は「ふたごの日」。・弟公三内野手も経法大付野球部OB秋田経法大付 (現明桜) の黄金期を、杉本ツインズが支えた。双子の杉本宗人捕手、正人内野手はレギュラー入りした2年夏から3季連続で甲子園に出場。夏通算4勝を挙げ、初出場の1989年 (平元) 夏には県勢6度目の4強入りに貢献した。2人は男鹿半島の小さな町 (男鹿市内) に生まれ育った。ともに五里合小4年から野球を始め、一緒に秋田経法大付に入学。宗人は捕手、正人は三塁手として2年夏からレギュラー入り。3季連続で、甲子園の土を踏んだ。宗人:田舎だったので、子供のころは野球が遊びだった。近くの農協の壁にボールを投げ合って兄弟でよく遊んでいましたね。僕はプロテクターを着けたくて捕手になった。母子家庭で経済的に苦しく、高校は特待生で入れてもらった。1学年下にはエース左腕中川伸也がいた。当時25歳の鈴木寿監督 (現寿宝=秋田修英監督) の下で、甲子園でも快進撃した。宗人:中川は1年生とは思えない球を投げた。スピードとキレがあって (入学後の) 1球目は捕れなかったぐらい。監督から「それでは先輩として後輩を指導できない」と厳しい言葉をかけられ、(捕手として) 一生懸命頑張りました。89年夏の甲子園初戦 (2回戦) は5-0で出雲商に快勝した。試合ごとに宿舎の荷物をまとめ、あれよあれよと準決勝進出。優勝した帝京に0-4で敗れたが秋田経法大付として初の1大会3勝を挙げ4強に輝いた。正人:やはり中川が一番注目されましたが、私たちも双子ということで注目されましたね。小さい時は何かと比較されて嫌でしたが、高校ではポジションも違うし、逆に心強く、いい刺激になりました。翌90年春のセンバツ初戦は鹿児島実に逆転負け。4-2の9回表、相手の代打攻勢で3点を失い、その裏に宗人が最終打者になった。宗人: (最後の打席は) 悔しすぎて覚えていない。最終回の代打攻勢は、相手が諦めたと勝手に思ってしまったんです。それがガンガン打たれ、勝ちを落としてしまった。一方、正人は89年夏の秋田県大会 (5試合) で全国5位の打率6割1分5厘をマークしたほどの強打者だった。90年夏の甲子園、2回戦の育英では延長13回裏2死一、三塁から中堅越えサヨナラ打を放った。正人:アウトコースの高めの真っすぐです。5番打者でチャンスは何回もあった。すべて凡退で6回目のチャンスに絶対決めてやるという気持ちだった。全力でスイングしてバットに当たったんです。だが続く3回戦で横浜商に延長12回2-3と惜敗。それぞれ守備、打線の要としてチームに貢献してきた杉本兄弟の甲子園は終わった。卒業後は別々の道を歩んだ。正人は秋田市役所に就職し、軟式野球部で38歳までプレーした。宗人は秋田経法大 (現ノースアジア大) に進み、全日本大学選手権に出場。その後、教員として秋田経法大付コーチやノースアジア大監督を歴任。現在は地元企業に勤務しながら、NPO法人スポーツコミュニケーションで地元の子供たちを指導する。宗人 :子どもたちの気持ちに寄り添いながら、具体的に技術指導をしています。巣立っていた子が高校や大学、社会人で活躍したり、プロ野球選手になったら楽しいですね。(敬称略)

<記憶に残る選手>2006(平成18年) 能代商の 「タッチ」 工藤克也、達也選手。

tou2月5日は「ふたごの日」。家族があだち充氏の人気マンガにちなんで命名。能代商の 「タッチ」 は、身長167cm、体重62kgと同じ、50m6秒3の俊足も共通、違うのは打席 (克也 : 右、達也 : 左) と性格 (克也 : ツッコミ、達也 : もの静か) という双子内野手。夏の選手権大会では克也9番、達也6番。兄の名前は和也ではなく配慮して克也に(漫画では達也が兄)。<平成18年夏 能代市立能代商業高校登録選手> [投]石井匠(3、山本)、[捕]阿部雄介(3、能代二)、[一]○金谷健司(3、東雲)、[二]工藤達也(3、八森)、[三]工藤克也(3、八森)、[遊]熊谷裕史(3、東雲)、[左]小野友誠(2、能代二)、[中]笠原大輔(1、八森)、[右]近藤和樹(3、琴丘)、佐藤祐弥(2、東雲)、桧森真司(3、八竜)、小玉一希(2、二ツ井)、工藤浩正(3、八森)、小林友誠(3、峰浜)、北林敬也(2、山本)、工藤勇輝(2、二ツ井)、長谷川賢悦(2、東雲)、斉藤龍斗(3、峰浜)、石井雄大(3、山本)、木村壮秀(3、峰浜)、[部]高橋司、[監]工藤明、[記]佐藤和也(2、琴丘)。第88回秋田大会1回戦 能代商10-0花輪、2回戦 能代商3-2大曲、3回戦 能代商3-6秋田中央。キャッチフレーズ 「夏の仲間にありがとう」。

<記憶に残る選手> 昭和57年 秋田西高の双子バッテリー 村井健彦、康彦選手。

mkurai2月5日は「ふたごの日」。創部4年目の若いチームで部員数もまだ20名前後の頃、ユニフォームも今とは違い白い帽子でした(懐かしい)。距離的に近いこともあり秋田北中から秋田西高に進学した両選手、学校がまだ若いこともあり、マスコミ的にはあまり注目されませんでしたが、中学時代からその素質は評価。身長が170cmと168cmで2cm違うだけ、体重は同じ64kgと、慣れないと区別がつかなかった記憶があります。はっきりと違ったのは投手の健彦選手が左/左で捕手の康彦選手が右/右だったこと。送迎に一生懸命だったお父さんは 「性格が一番違う」 と言っていましたが、早くに他界したのは残念です。(お父さんには大変お世話になりました) <昭和57年夏 秋田西登録選手>(責)佐々木久吾、(監)斎藤義春、①村井健彦(3、秋田北)、②村井康彦(3、秋田北)、③永井誠一(3、外旭川)、④◎渡部伸明(3、秋田北)、⑤戸嶋譲(3、払戸)、⑥佐藤利久(3、土崎)、⑦佐藤真人(3、外旭川)、⑧加賀谷学(3、城南)、⑨金沢希(2、山王)、関谷慶之(2、外旭川)、渡辺伸(2、秋田北)、田中見征(2、羽城)、長谷川幸一(2、土崎)、工藤文彦(2、大正寺)、畠山浩記(1、土崎)、渡部昇健(1、潟西)、八百屋信一(1、土崎)。

同級生の秋田商佐藤剛士投手に ピッチング見てたら凄いのはもちろんなんやけど

<ダルビッシュ有>

キャッチャーのフレーミングが凄いという印象

東北屈指の剛球 秋田経法大付 水沢英樹投手(3、生保内)2年連続春東北制覇

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秋田市立秋田商業高校硬式野球部 佐藤 洋(3 投 羽城)- 鳥井 将(3 捕 八郎潟)

2006(平成18年)秋田市 「広報あきた」 新春号
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2013 平成25年 第79回大会優勝 秋田市立御野場中学校 鈴木黎投手(主将)

東北大会準決勝対仙台育英秀光戦(長沼球場)完投勝利印象的
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「巨人キラー ・ 石戸四六の全記録集-白球の軌跡」( 吉田一雄著 昭和56年刊 )

明治期に創業 大館市 吉田時計店(4代目 吉田一雄さん、89)令和4年 年内で閉店
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日本製鉄室蘭シャークス 小林俊己 外野手( 函館大主将-能代松陽-八森 )勇退

hakodate日本製鉄室蘭シャークス 小林俊己選手 勇退。<2019.11.26> 日本野球連盟北海道地区連盟は11月25日、2019年度北海道社会人野球ベストナイン、連盟表彰者を発表。小林俊己選手 (23=日本製鉄室蘭シャークス) がベストナイン外野手・新人賞を受賞。【2017.9.28】<北海道新聞> 「天国にいる父に良い報告ができます」。北海道六大学野球秋季リーグが9月26日、苫小牧市とましんスタジアムなどで行われ、函館大が2011年以来、12季ぶり9度目の優勝を果たした。主将としてチームを引っ張った3年の小林俊己選手(21)=秋田・能代松陽高=は、東日本大震災の津波で亡くなった父・正さん=享年(50)=と、その後の家族を支えてくれた母・郁子さん(52)に感謝を述べた。勝てば優勝する最終戦は延長十一回までもつれる接戦。小林主将は先制打を放つなど、2安打1打点と躍動した。1点を追う九回には50メートル5秒9の俊足を生かして内野安打で出塁し、同点のホームを踏んだ。外野手として道六大学の今季ベストナインにも選ばれた。小林選手は小学4年の時、兄尚平さん(27)の影響で野球を始めた。父の正さんは野球経験はなかったが、投球練習の的を手作りするなどして小林選手を応援した。しかし、小林選手が中学2年だった11年3月11日、正さんは秋田の自宅を離れ、建設作業員として仙台で海上工事に従事していた。津波にのまれ、遺体は福島県で見つかった。ショックは大きかったが小林選手はすぐ野球の練習を再開した。「野球で良い結果を残して、父に恩返しをしたかった」。高校卒業後は先輩を頼って函館大に進学。今春に野球人生初の主将を任され、まじめな人柄と外野からでも響く大きな声でチームをまとめている。父の死後は母の郁子さんが家族を支えた。介護事務員として小林選手の弁当作りを欠かさず、姉と兄の3人の子を育てた。この日は秋田県からフェリーと車で苫小牧を訪れ、「優勝は誇らしい。父も喜んでいると思います」 と話した。

秋田県出身 慶應義塾大学野球部OB選手 / 猿田和三 内野手 (主将、秋田-豊岩)

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2015.6 山岡政志・長英選手他多数輩出 秋田市下浜地区 ふるさと野球 健在!

05b59983令和4年度で閉校する秋田市立下浜中学校(三浦直樹校長、21人)の閉校記念式典が10月29日、同校で行われた(生徒や卒業生ら167人が出席)。下浜中は昭和22年に創立、生徒数減少のため来春に秋田西・豊岩と統合、名称は秋田西中、現在の秋田西中校舎を使用。<2017.1.25> 山岡剛さんJX-ENEOS新監督就任。<2015.6.20> 大友康二さん (元 秋田県教育庁保険体育課長)「時代を語る12 ふるさと野球、健在!」。<昭和51年春 秋田高 登録選手> 小林潔(3 能代二)○ 山岡長英(3 右右 178/75 下浜)小柳雅彦(3 八郎潟)佐藤薫(3 雄和)伊藤博幸(3 秋田北)竹内一弘(3 土崎)菅原寿(3 城南)庄司智一(3 土崎)桜田浩(3 山王)高山良一(2 秋田東)若狭芳博(2 秋田東)佐々木亨(2 五城目一)大友光喜(2 下浜)三平久孝(2 協和)小玉正志(1 五城目一)齋藤正直(1 山王)佐々木雅文(1 秋田東)[責]藤田幸雄[監]大久保正樹[記]下田学。<昭和51年春 秋田商 登録選手> 山岡政志(3 右右 168/64 下浜)後藤浩(3 羽城)進藤勝(3 山王)山田満(3 上小阿仁)佐藤強(3 外旭川)高桑仁(2 船川)宮崎好(3 船越)○ 武藤一邦(3 大曲)石井靖(3 鷹巣)藤原博道(3 羽城)秋元純一(3 成章)伊藤敏春(3 雄和)横山真司(2 秋田西)石黒日芳(2 秋田西)柏木一彦(1 船川)谷村鈴義(3 八郎潟)高橋秀孝(2 土崎)[責]佐藤正吾[監]今川敬三[記]古谷隆一。以下「広報あきた」より転載。夏空の熱い太陽が照りつけるグラウンドで、白球を追う選手たちの少年のような表情が印象的でした。戦争が終わって1年後に始まった「下浜ふるさと野球大会」は地域のたくさんの人に支えられ、今年第70回を迎えました。毎年お盆の時期の恒例行事に、県外からこの日のためだけに帰省するかたもいるのだとか。まさに新旧世代を超えて、下浜を愛するみなさんが育んできた “ビッグイベント” です。選手たちは、勝利をめざして真剣な表情で試合に臨みますが、いざ始まると、三振しても笑顔、エラーしても笑顔、ときに“愛情たっぷり”の味方からのヤジにはちょっと苦笑い。勝ち負けにこだわらず、旧友との親交を深めるのが何よりの楽しみです。2日間の熱戦を終え、バットを担いでグラウンドをあとにするベテラン選手の「まだ来年なぁ」のひとことに、みんなが「まだな」と、いつものように返します。下浜ふるさと野球大会 地域の “宝物” はこれからもずっとみんなの手で大事に受け継がれて行くことでしょう。下浜ふるさと野球大会には、出場選手の合計年齢が470歳以上の「エンジョイカップの部」もあります。

違和感が全くなかったサウスポーのキャッチャー 横手清陵 古谷聖樹捕手( 山内 )

h232022令和4年度秋田県高校野球1年生大会中央地区予選 秋田商-本荘でもサウスポー三塁手。<2015.7.14> 西東京 / 田柄の左投げ捕手佐藤選手、10失点で散る、一塁手から転向4か月も悔い無し。※左投げの捕手-甲子園に出場した左投げの捕手としては、1946年夏の芦屋中 (兵庫) の橋本修三主将。右利き用のミットを改造し、マスクをかぶった。2000年夏、初戦の2回戦で松田 (現ソフトバンク) 擁する中京商 (岐阜) を破った那覇 (沖縄) は、捕手長嶺勇也に加え、三塁金城佳晃 (ともに2年) も左投げで話題になった。・古谷聖樹 (3、横手清陵-山内、左左、172/68)。2011 (平成23年) 春季高校野球秋田県大会1回戦、横手清陵-明桜 (秋田市営八橋球場)。直ぐにはサウスポーキャッチャーとは気付かない位の違和感の全くないサウスポー捕手。監督からの強肩を見込まれての打診 (新聞紹介) に快諾して外野手からコンバート、サウスポー用キャッチャーミットは特注品、元阪神中川申也投手 (秋田経法大付) と同じ山内中出身、野球センス抜群で外野手 (右翼) からのコンバ-トも練習の成果で秋田県大会でのパスボ-ルなし、捕手以外にも、投手 (完投能力あり) ・左翼・一塁もこなす。最大の魅力はバッティングで練習試合・公式戦含めて通算打率3割5分以上。※ 左投げ捕手は、右打者(競技人口右打者多い)の際三塁への送球に支障がある、本塁へ帰ってくる走者との交錯時に利き腕である左腕側から走者が突入してくるため危険、などの理由から非常に希。

違和感が全くなかったサウスポーのキャッチャー 横手清陵 古谷聖樹捕手( 山内 )

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2022令和4年第75回秋季東北地区高校野球大会(18 10/10~ 山形県)

明桜6-7八戸工大一(荘内・日新スタジアムやまがた)逆転サヨナラ
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名前が「志」で終わる秋田県関係野球指導者・選手(令和4年7月現在、41名)

si上村大志選手2020東京五輪聖火ランナー安保天志(平成25年由利監督、能代-阿仁一)・石井温志(外、能代、甲子園出場)伊藤広志(外、羽後、昭和50年羽後高校全県大会初出場)伊藤将志(専大北上-横手北)・伊藤元志(内、秋田-男鹿南、甲子園出場)・岩谷剛志(捕、秋田商-土崎)上村大志(内、天王中、2020東京五輪聖火ランナー、祖父千代志さんも昭和39年東京五輪聖火ランナー)遠藤正志(外、本荘-象潟、八橋球場本塁打)・景山貴志(外、経法大付-八郎潟、甲子園出場)・金子里志(外、秋田市立-天王)・鎌田健志(天王南中監督)・川北篤志(内、経法大付-金浦)・木村大志(外、秋田北鷹-合川)・小玉竹志(投、秋田市立ー男鹿東、金子里志選手と同期)・児玉武志(内、青森大-秋田商-勝平、秋田北シニアコーチ)・小玉正志(外、秋田-五城目一)・児玉将志(内、金足農-五城目一、甲子園出場)・斎藤正志(内、仁賀保-金浦、選手権秋田大会サヨナラ本塁打)・嵯峨一志(内、秋田工-太平、八橋球場本塁打)・佐々木大志(投、金足農-城東、甲子園出場)・佐々木千代志(元大曲工監督、日本高野連育成功労賞受賞)・佐々木雄志(内、秋田商-勝平、甲子園出場)・佐藤高(内、秋田商-太平、甲子園出場)・三戸仁志(外、秋田-八郎潟、甲子園出場)・高松直志(投、能代-山本、甲子園出場)・田村威志(投、西仙北-西仙北東、社会人野球秋田銀行)・遠山比呂志(内、酒田南-岩城、甲子園出場)・中嶋健志(投、能代商-能代一、甲子園出場)・夏井一志(内、秋田商-天王、甲子園出場)・半田貴志(内、経法大付-井川、甲子園出場)・藤田健志(内、能代松陽-能代南、選手県秋田大会準優勝)・藤田大志 (32、消防士長、平成31年1月22日、能代市富町住宅火災で消火活動中に殉職、能代-二ツ井、平成19年採用、勤続12年目、合掌)・藤谷弘志(500歳野球大曲ク、秋田還ク、秋田県初少林寺拳法8段正範士)・藤原英志(内、金足農-秋田北)・船木正志(城南中監督で第88回全県大会優勝、新潟大-秋田高軟式-秋田東)・堀江岳志(能代二中監督)・山岡政志(投、秋田商-下浜、甲子園出場)・山田久志(投、能代-能代二、プロ野球名球会)・山谷勝志(外、秋田-協和、甲子園出場)・米村洋志(内、経法大付-山王、能代シニア監督)与良大志(内、能代-八郎潟、八郎潟中で第82回全県優勝)。※順不同敬称略、自薦他薦お願いします

Timely!WEB / 社長になった「球児」に会いにいく 米沢谷友広(秋田商)

12さまざまな課題に取り組みくらしを未来へ紡ぐ “はじめの一歩” を実践する人たちを紹介するテレ朝POST 使わなくなったグローブに第二の人生を…元高校球児の起業家が野球愛で作る「再生グローブ」。・令和2年11月8日付秋田さきがけ紙で近況紹介。<2020.9.12> https://timely-web.jp/article/4118/ 米沢谷さんは名門秋田商業で甲子園に出られているそうですね。何年の時ですか?3年の夏ですね。1年の夏は決勝で金足農に一時は10点リードしていたんですけどそこから大逆転されて、2年秋の東北大会もあと一つ勝てばセンバツだったんですけど東北高校に負けて逃して。最後のチャンスでやっとでしたね。1年の夏はなかなか衝撃的な負け方ですね...スタンドから応援していたのですが、悔しかったですね。前の年に石川雅規さん(現東京ヤクルト)がエースで甲子園でベスト16まで行かれていて、中学の時に「(秋田商業にきたら)5回甲子園に出れる」って声をかけていただいて、僕らも5回甲子園に行くつもりで片道2時間かかる場所にある秋田商業を選んで寮にまで入ってましたから。5回行くつもりだった甲子園がいきなり目前で潰えてしまって...めちゃめちゃ悔しかったですね。5回出るつもりで入学したのに「1回もいけないかも...」という焦りはありました?3年のときは攝津正(元ソフトバンク)と加藤光教(元中日)というプロレベルが2枚いてセンバツでもベスト8まで行ってる秋田経法大附属(現・明桜高校)がライバルでした。なので本当に「甲子園に行けないかも...」とは思いましたね。最後の夏に決勝で勝って甲子園を決めた瞬間のことは覚えていますか?最後の夏はピッチャーの4番手だったんですけど、ベンチから飛び出してマウンドに向かって走ってるうちに大号泣してましたね(笑)。3年生はみんな泣いてましたね。甲子園出場を決めた日から甲子園での試合まで、どんな感じで過ごすのですか?決勝の次の日から2、3日はランニングとかストレッチとかのコンディショニングがメインでしたね。その後は通常のガチ練習でしたね。あとは東北とか北海道のチームがよくやる、長袖を着たりして暑さ対策の練習をしていましたね。真夏なのに冬トレと同じようなウエアを着込んで。毎日「あと○にちで甲子園だ」みたいなワクワクした気持ちで過ごすんですか?そうです、そうです。甲子園での目標は?目標はベスト4でしたね。前年の新チーム結成から秋の東北大会では負けてしまいましたが秋田県内ではずっと無敗でしたから。監督さんもベスト4は狙えるだろうと思ったのだと思います。実際は開会式直後の開幕戦でその年ベスト4まで進む育英高校(兵庫県)に9-2で負けてしまったのですが。相手が地元の高校ということもあり完全なアウェイでしたね。何もできませんでした。浮き足立ちまくりましたね(笑)。甲子園でマウンドに立つ機会は?甲子園では秋田大会よりもベンチ入り人数が2人減らされるのですが、そこで私は外されてしまいました。外されるのを告げられたのはいつですか?大阪入りしてからですね。心の準備みたいなものはあったのですか?ありましたね。ピッチャーの4番手でしたし、当落線上だなって。どのようにして伝えられたんですか?メンバーの名前が呼ばれて背番号が配られて、「名前、呼ばれなかった......」という感じですね。ーなかなかキツいですね......・でもそのあとに監督さんの配慮で、秋田のメディアの皆さんを集めて、ベンチから外れる3年生のピッチャー3人が公式練習で甲子園のマウンドで投げるから取材してあげてくれと言ってくれましたね。それで救われました。それがなかったら絶望しかなかったですね。この3年間なんだったんだって。メンバーから外れてしまったことは親御さんにはどのように報告されたんですか?あまり覚えてないですけど、電話で「ダメだったわ......」みたいなことを話したと思います。親はたぶん泣いてましたね。新チームになってからずっと背番号11番、18番を繰り返していたんですけどベンチには入っていたんですね。県大会や東北大会でもちょこちょこは投げていてそれなりに評価はされていたと思うんですけど。親も自分の息子が当落線上にいるというのは分かっていたとは思います。直前にメンバーから外されてしまってスタンドから素直に仲間を応援できました?できましたね。甲子園に出られたことが夢のようなことでもありましたし、正直もう肩も壊して限界にきていましたので、試合に出られてもベストパフォーマンスは難しいと分かってましたから。逆にベンチに後輩のピッチャーが入っていたんですけどそこを応援する気持ちの方が強かったですね。甲子園から帰ってきてからの地元の反応は?やっぱりキャーキャー言われるものですか?・当時秋田商業は人気あったと思います。田舎なんで野球部のバッグに「秋田商業」って入ってると追いかけられたりとかしましたね。石川さんが活躍されて秋田商業をブランド化してくださっていたのもあったのが大きかったと感じています。高校野球を頑張ったこと、甲子園に出たことでその後の進路で何か影響はありましたか?・大学は神奈川大学なんですけど、秋田商業で言われていたのは、最低でも日商簿記検定2級に合格して部活で全国大会に出れば就職も進学も苦労しないよ、ということでした。僕は当時から少し海外志向があったので、いくつかの指定校推薦の中から国際経営を学べる神奈川大学を選びました。海外志向が強かったのはどういった理由からですか?一番好きな選手である野茂英雄さんの影響ですかね。アメリカで一世風靡していて、その頃から自分も将来はアメリカでー、みたいなことを考えていましたね。野球ではなくビジネスで。大学で野球は続けられなかったんですよね?高3の夏に、今考えれば肩もトレーニングすれば治せたし伸びしろもまだあったと思うんですけど、自分の中では区切りとして考えてしまったんです。大学野球にせよ、社会人野球にせよ、今よりも上のレベルで(競争に)勝ち続けるのは難しいだろうなと思ったんですね。次回へ続きます(取材・構成/永松欣也)。米沢谷友広(秋田商-金沢)神奈川大学を経てスポーツ小売業大手ゼビオ株式会社に入社。経営企画室でスポーツ事業に関わる広報活動やスポンサード、新規事業開発、M&A等の投資関連業務に従事。プロ野球独立リーグやJリーグ、アイスホッケークラブ等の運営にも関わり、スポーツ小売やスポンサーサイドからみたクラブチーム経営に携わる。その間、カリフォルニア大学にてアントレプレナーシップやビジネスインキュベーション、コーポレートファイナンス単位を取得。その後はAmazon Japanにてスポーツ&アウトドア事業部の商品戦略部統括部長などを歴任し、2017年に現在の会社グローバルポーターズ株式会社(https://www.global-porters.com)を起業。トータルベースボールカンパニー構想の実現を目指して野球界の発展に努めている。

元プロ選手教えるスクール紀伊バッティングスタジアム 中川申也投手(経法大付)

fbf725f1令和4年第94回センバツ大会初出場和歌山県立和歌山東高校に中川大士外野手在籍。父は、1989年の夏の甲子園大会で1年生左腕として経法大付を4強入りに導いた元阪神の中川申也さん。<2018.12.22>平成最後の夏の甲子園で秋田県勢は第1回大会以来、103年ぶりとなる決勝に駒を進めた。吉田輝星 (日本ハムドラフト1位) 擁する金足農の快進撃に日本中が沸いた。その秋田代表として今から30年前の平成元年、甲子園に旋風を巻き起こした1年生エースがいた。1年夏の4強から3季連続で聖地の土を踏み、その後阪神に進んだ “ 元祖・秋田の星 ” 中川申也氏が、フィーバーに振り回された野球人生と秋田の高校野球への思いを明かした。「秋田の人はあんまり僕のことを好きじゃないと思いますよ。生意気だったし、調子に乗ってやりたい放題で評判も悪かった。早い話がてんぐになっていたってことです」 中学時代の実績を買われて鳴り物入りで秋田経法大付属 (現明桜) に進学した中川氏は、背番号11ながら1年生エースとしてチームを甲子園に導く。初戦の出雲商戦で完封勝利、3回戦の星稜戦では名門の意表を突く本盗で接戦を制し、瞬く間に4強へ駆け上がった。「印象深いのはやはり初戦。甲子園はスタンドが広くて、そのぶん打者までの距離が短く感じた。1人目を打ち取ったら、もう緊張はなかった。星稜戦はね、俺が 『(相手の) 左ピッチャーなんか打てん』 と言ったら、前夜に監督とコーチが風呂場で 『もうホームスチールしかないやろ』 と。走者も最初はサインの意味がわかっていなくて、3球目でようやくスタートを切ったんです」 準決勝で吉岡雄二擁する帝京に敗れたものの、甘いマスクの1年生エースは “ 東北のバンビ ”として一躍アイドルに。それまで田舎の高校生にすぎなかった生活は一変したという。「喫茶店もタクシーも全部タダ。『うちの娘が大ファンだから、サインくれたらタダでいいよ』 って。悪いやつにもよく絡まれたな。あるとき地元で有名な暴走族の総長がずっと練習を見に来よって 『あちゃ~、俺なんかしたかなあ』 と思ってたら 『お前のファンや、何かあったら俺に言え』 って。それから絡まれることはパタッとなくなりましたね (笑い) 」その後も2年春、夏と聖地の土を踏んだが、3年の夏は県大会決勝で敗退。ドラフト5位で阪神に入団するも1年時からの投げ過ぎがたたり、一軍の舞台で投げることなくユニホームを脱いだ。「確かに俺はてんぐになっていた。でも、そうさせたのはマスコミも一緒。『何でそんなに体大きくなったの?』 って聞かれて、冗談で 『メシやないです、女いっぱい食ったんすよ』 って言ったのを、本当に書くかと (笑い)。まあ、今となっては笑い話ですけどね」退団後は建設会社に入社。子供が野球を始めたのを機に、今では野球教室で少年たちに指導を続ける。「秋田にもユニホームで勝てるチームが出てきてほしい。帝京、横浜、星稜、大阪桐蔭。どこも整列しただけで威圧感があるでしょ。『秋田と当たってラッキー』 と思われるようじゃ、その時点で負けも同然。せっかく金足農があそこまで行ってくれたんだから、金足農でも明桜でも秋田商でもいい、常連チームが出るようになってくれれば。そうすれば打倒○○!って、県全体のレベルも上がりますから」 金足農が思い起こさせた30年前の秋田の躍進。“ 元祖秋田の星 ” は、フィーバーのその先を願ってやまない。1973年6月30日生まれ。秋田県横手市出身。山内小4年時に同校のクラブで野球を始める。山内中では軟式野球部。秋田経法大付進学後、1年夏、2年春、2年夏と3季連続で甲子園に出場し、1年夏は4強。91年ドラフト5位で阪神入団。95年の引退後は建設会社に勤めるかたわら野球教室を開き、少年野球の指導にあたる。176センチ、78キロ。左投げ左打ち。

<秋田高校野球ライバル物語> エースで4番で左のスラッガー 後藤光尊-佐藤力

2022.1.12 後藤光尊元オリックスコーチ 石川ミリオンスターズ 監督就任
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記憶に残る選手 / 秋田県立五城目高校 小松祐樹投手も平成22年が高校最後の夏

社会人野球 秋田GLANZ勇退
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2016.12 秋田県立新屋高校(高校時代の恩師川村監督在校)で特別課外授業

記憶に残る選手 / 秋田県立五城目高校 小松祐樹投手も平成22年が高校最後の夏

komatu社会人野球 秋田GLANZ勇退。<2014.9.14> 平成26年9月14日付秋田さきがけ紙25面(社会面)で小松祐樹選手(秋田信用金庫、社会人野球ゴールデンリバース)紹介。【2010.7.03】平成23年4月30日(土)13:00~13:30 ABS秋田放送スペシャル「つたえる サイレントベースボールが教えてくれた」放送。高校1年時からレギュラーとしてホットコーナーを守ってきた五城目小松祐樹選手(173/61、将軍野)も今年平成22年最後の夏を迎える(新チーム以降主戦投手)。昨年も観戦したが、守備が巧く聴力にハンディがあるとは感じさせない堅実なプレー、「AAB秋田朝日放送 めざせ!甲子園」でも紹介。最後の今年夏の初戦は、7月15日(木)12:30~対角館戦(八橋球場)。<平成22年春 五城目高校登録選手> ① 小松祐樹(3、将軍野)、② 佐藤優真(3、羽城)、③ 河村憲佑(3、秋田西)、④ 谷口勇大(2、天王南)、⑤ ○ 菅原幸貴(3、羽城)、⑥ 浪岡知也(3、秋田北)、⑦ 畠山塁(2、八郎潟)、⑧ 植田優輝(3、土崎)、⑨ 金沢庸平(3、土崎)、小野幸平(3、八郎潟)、菅原秀吾(2、羽城)、松井雄太(1、土崎)、松井貴也(3、土崎)、小野翔也(2、秋田北)、齊藤和哉(3、五城目一)、阿部駿之(3、勝平)、田中優斗(3、羽城)、伊藤和也(2、秋田北)、北嶋康平(2、八郎潟)、伊藤俊将(1、秋田北)、[責]佐藤浩明、[監]川村寿紀。

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