人名録(故人)
・平成15年10月9日午前6時8分、脳腫瘍のため本荘市内の病院で死去、51歳。昭和27年6月11日、秋田県本荘市生。PL学園-明治大。明治大野球部監督。東京六大学野球リーグの首位打者、盗塁王などのタイトルを獲得。社会人野球の日本鋼管でも活躍し、全日本のメンバーにも選出。昭和55年に退社し、秋田経法大付(昭和59年~昭和61年)、由利工(昭和62年~平成13年)の監督を経て母校明治大の監督就任。平成14年11月、東京都内の病院で手術を受けた後、本荘市の自宅に戻って静養していたが脳腫瘍が再発し、平成15年8月から同市内の病院に入院していた。監督当時の由利工のユニフォームは明治カラー。<就任1年目春季リーグ戦に向けての明治大齋藤茂樹監督コメント> 今年のチームはメンバーが一新し、昨年から出場していた選手はごく少ないチームです。投手陣は安定感抜群の牛田、プロキャンプで一層力をつけた一場が中心となっていくでしょう。打線は派手に打ち勝っていくチームではないので、しぶとく、泥臭く出塁し、次につなげる攻撃をしていきたいと思います。私、斎藤茂樹も就任1年目のルーキーですが、勝ち点を積み重ね、優勝目指して頑張って行こうと考えております。
・2月20日 長嶋茂雄選手誕生日。<前略> 長嶋が高校時代に放った唯一のホームランは、1953年8月1日、県営大宮球場で行われた南関東大会の熊谷高戦だった。観客が満員になった甲子園出場切符をかけた試合で、超特大の本塁打を打ってのけるあたりが、長嶋の長嶋たるゆえんであるホームランが生まれたのは6回表。福島郁夫(のちに東映。通算14勝14敗)が投げた真ん中高めのストレートを、長嶋はバットの芯でとらえた。打球はぐんぐん伸び、センター後方のバックスクリーンにぶち当たった。当時は飛ばないボールで、ここまで遠くへ飛ばした高校生は初めてだった。不思議なことに、打球はバックスクリーン横の芝生席に座っていた初老の男の足元に転がった。巨人スカウトの若林俊治であった。長嶋は巨人に入団する運命にあったのかもしれない <後略> 松下茂典(ノンフィクションライター)。<2017.5.03> 巨人二軍戦に長嶋茂雄終身名誉監督が来場。6月4日(日)に長嶋氏の出身地、千葉県佐倉市長嶋茂雄記念岩名球場で行われるイースタン・リーグ公式戦巨人-ロッテに背番号3のユニホームを着て始球式の打席に立つことが球団から発表。<2013.4.12> まだ全国区では無名だった千葉県立佐倉第一高校長嶋茂雄選手の才能に注目したことで知られる元巨人軍スカウト、享年85歳。。明治36年1月2日、秋田県横手市出身、東京帝大卒業後、報知新聞社入社。その後、読売新聞社に出向し、球団総務部長、野球部長等歴任。本格的な野球経験はなかったが、販売局在籍中に全国を巡って築いた情報網がスカウトになってから生かされた。長嶋選手を初めて観た時の同氏の有名なメモ 「 関東に逸材あり。南関東のピカ一、掘り出しもの 」。 ※ 詳細は平成19年7月4日付日本経済新聞 <私の履歴書 長嶋茂雄(4)>
編集委員として秋田県高等学校野球史「翔球」(平成3年8月刊)発刊尽力
平成27年5月22日肝臓がんのため秋田市の病院で死去
-昭和50年春季秋田市内リーグ戦 成田朝春部長、赤沼新二監督-