★ 備忘録 「熱球通信」 ・ 特定非営利活動法人秋田県野球フォーラム ★

「熱球通信」は特定非営利活動法人秋田県野球フォーラム会員有志による備忘録を兼ねた「秋田県野球」にこだわった私的ブログです。掲載している記録等については公式なものではありませんのでご注意願います。リンク等についてはオールフリーですので事前のメール等一切不要です。更新頻度は原則毎日の更新です。秋田県出身で県外に在住の方も念頭に更新していきますが、内容等一部については地元情報と時差が生じる場合があります。練習・親善試合の結果情報は原則掲載しません。また、コメント送信欄と掲示板については諸般の事情により対応していません。積極的な中学硬式野球・女子野球の紹介に努めています。

人名録(故人)

秋田野球人名録 / 今ではありえない伝説の酒豪 石戸四六(度胸 NO.1酒仙投手)

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人名録 / 齋藤茂樹(日本鋼管-明治大-PL学園) 元秋田経法大付、由利工監督

ss・平成15年10月9日午前6時8分、脳腫瘍のため本荘市内の病院で死去、51歳。昭和27年6月11日、秋田県本荘市生。PL学園-明治大。明治大野球部監督。東京六大学野球リーグの首位打者、盗塁王などのタイトルを獲得。社会人野球の日本鋼管でも活躍し、全日本のメンバーにも選出。昭和55年に退社し、秋田経法大付(昭和59年~昭和61年)、由利工(昭和62年~平成13年)の監督を経て母校明治大の監督就任。平成14年11月、東京都内の病院で手術を受けた後、本荘市の自宅に戻って静養していたが脳腫瘍が再発し、平成15年8月から同市内の病院に入院していた。監督当時の由利工のユニフォームは明治カラー。<就任1年目春季リーグ戦に向けての明治大齋藤茂樹監督コメント> 今年のチームはメンバーが一新し、昨年から出場していた選手はごく少ないチームです。投手陣は安定感抜群の牛田、プロキャンプで一層力をつけた一場が中心となっていくでしょう。打線は派手に打ち勝っていくチームではないので、しぶとく、泥臭く出塁し、次につなげる攻撃をしていきたいと思います。私、斎藤茂樹も就任1年目のルーキーですが、勝ち点を積み重ね、優勝目指して頑張って行こうと考えております。

野球人名録 / 佐藤秀明(プロの世界で中継ぎという地味な仕事に徹し続けた左腕)

hideakichuuou昭和60年の阪神日本一、平成元年の近鉄パ・リーグ優勝に中継ぎという地味な仕事で貢献した佐藤秀明投手(日立製作所-東洋大-秋田市立-土崎)が平成19年5月17日、46歳の若さで急逝。昭和60年ドラフト2位で阪神入団、球威に頼らない巧み投球術で、中継ぎで193試合に登板、実働7年で通算10勝11敗6セーブ、防御率4.15。戒名は「秀嶺慈球居士」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E7%A7%80%E6%98%8E  <昭和53年春秋田市立高校登録選手> [投]佐藤秀明3、土崎)、[捕]福田泰弘(3、上小阿仁)、[一]小野士(2、八郎潟)、[二]加賀谷一(3、外旭川)、[三]長谷川浩靖(3、秋田南)、[遊]佐藤重樹(3、川内)、[左]石川光一(3、戸賀)、[中]金子里志(3、天王)、[右]○ 中川透(3、土崎)、小玉竹志(3、男鹿東)、熊谷正人(3、河辺)、柿田淳(3、土崎)、加賀徹(3、湯沢北)、長谷川隆浩(3、土崎)、佐藤善紀(2、秋田南)、森元忠浩(3、土崎)、坂谷浩英(3、五城目一)、戸来洋二(3、秋田西)、福田久雄(3、土崎)、中津川辰裕(3、東由利)、[責]杉山久夫、[監]塚田丈也、[記]加藤敦(2、土崎)。

秋田県野球人名録 / AAB 秋田朝日放送で高校野球解説 牧野 強さん(秋田高校)

- 平成13年4月28日 午後9時16分急病のため永眠 -
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令和2年4月23日13時20分逝去 目黒公介選手(金足農-男鹿南、享年34歳)

423平成14年度第24回全国中学校軟式野球大会東北予選会(青森県)の大会運営の迷走ぶりが多くの紙面で取り上げられた。準決勝予定当日、雨天のため大会本部は急遽試合会場を青森市営球場からスポーツランド水沢球場に変更、この間の移動距離 約250km、午後2時頃現地に到着してみると水沢市も土砂降り状態、午後4時前に雨が小降りになると今度は 近くの胆沢町民球場で試合開始と発表。が、またしても雨脚が強くなりようやく大会本部は試合開始を断念して雨天順延を決定 (翌日も雨天順延)。この間に要した時間約8時間。これもそれも全国大会が目前に迫っており、代表校選出のために試合消化を優先させようとしたことによるもので、当然のこながら大会運営に批判が続出 (最終的に準決勝は秋田県のスタジアム大雄と平鹿町営球場、決勝は平鹿町営球場)。肝心の秋田県勢の準決勝は、雄和1-6天童三(山形)、男鹿南1-2河北(宮城)と、共に敗退して全国大会出場はならなかった。<雄和町立雄和中学校登録選手> [投]金卓史(3)、[捕]佐藤瑛彦(3)、[一]池田勇人(3)、[二]池田圭佑(3)、[三]佐藤農(3)、[遊]○ 珍田真樹(3)、[左]伊藤慎一(3)、[中]長谷川恵太(3)、[右]佐藤雄大(3)、佐藤雄太(3)、長谷川公彦(3)、高橋勇人(3)、佐藤一平(3)、佐藤広大(3)、金雄矢(3)、伊藤十夢(3)、鎌田裕輔(3)、菅原達也(3)、小白川宮貴(2)、浅野潤也(2)、[部]國安裕[監]菅原吉伸[記]永澤慶大。<男鹿市立男鹿南中学校登録選手> [投]澤木雄一(3)、[捕]柴崎達徳(3)、[一]菅原佑太(3)、[二]大友晃太(3)、[三]加藤友幸(3)、[遊]○  宮崎翔平(3)、[左]本川慎一(3)、[中]加賀力哉(3)、[右]目黒公介(3)、吉田淳一郎(3)、鎌田慎太郎(3)、秋山克也(3)、目黒雄(3)、近江隆(3)、安藤竜也(2)、中川陽介(2)、加藤翔(2)、山下恭平(2)、安田直紀(2)、石垣亮(2)、[責]木村守人[監]櫻庭豊[コ]畠山正人[記]目黒裕也。

秋田県野球人名録 / 若林俊治(佐倉の長嶋茂雄選手に注目した元巨人軍スカウト)

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2月20日 長嶋茂雄選手誕生日。<前略> 長嶋が高校時代に放った唯一のホームランは、1953年8月1日、県営大宮球場で行われた南関東大会の熊谷高戦だった。観客が満員になった甲子園出場切符をかけた試合で、超特大の本塁打を打ってのけるあたりが、長嶋の長嶋たるゆえんであるホームランが生まれたのは6回表。福島郁夫(のちに東映。通算14勝14敗)が投げた真ん中高めのストレートを、長嶋はバットの芯でとらえた。打球はぐんぐん伸び、センター後方のバックスクリーンにぶち当たった。当時は飛ばないボールで、ここまで遠くへ飛ばした高校生は初めてだった。不思議なことに、打球はバックスクリーン横の芝生席に座っていた初老の男の足元に転がった。巨人スカウトの若林俊治であった。長嶋は巨人に入団する運命にあったのかもしれない <後略> 松下茂典(ノンフィクションライター)。<2017.5.03> 巨人二軍戦に長嶋茂雄終身名誉監督が来場。6月4日(日)に長嶋氏の出身地、千葉県佐倉市長嶋茂雄記念岩名球場で行われるイースタン・リーグ公式戦巨人-ロッテに背番号3のユニホームを着て始球式の打席に立つことが球団から発表。<2013.4.12> まだ全国区では無名だった千葉県立佐倉第一高校長嶋茂雄選手の才能に注目したことで知られる元巨人軍スカウト、享年85歳。。明治36年1月2日、秋田県横手市出身、東京帝大卒業後、報知新聞社入社。その後、読売新聞社に出向し、球団総務部長、野球部長等歴任。本格的な野球経験はなかったが、販売局在籍中に全国を巡って築いた情報網がスカウトになってから生かされた。長嶋選手を初めて観た時の同氏の有名なメモ 「 関東に逸材あり。南関東のピカ一、掘り出しもの 」。 ※ 詳細は平成19年7月4日付日本経済新聞 <私の履歴書 長嶋茂雄(4)>

秋田野球人名録 / 伊藤勝三(秋田県野球界功労・日本プロ野球界初選手兼任監督)

katuzou60秋田県軟式野球連盟六十年史(平成18年12月1日発行)でも詳しく紹介。明治40年5月14日、現在の秋田市千秋矢留町生まれ。秋田中(甲子園出場)から慶応義塾大学→ノンプロ東京クラブと進み、昭和7年の都市対抗で優勝。ポジションは主に捕手。昭和11年プロ野球草創期の大東京軍に入団し、永井武雄監督解任を受け選手兼任監督1号に、戦績は2勝27敗3分。戦後秋田に帰郷し、県内実業野球の育成や母校秋田高の指導にあたる。創業した妻の実家の家業を助けるべく再上京し、秋田高校野球部OB会「東京矢留会」を設立。昭和57年2月10日、74歳で逝去。没後も「伊藤勝三基金」「伊藤勝三スポーツ振興基金」を通して秋田県スポーツ界を支援。・時事通信社 「時空甲子園」 秋田高校 秋田中時代からの伝統を誇る名門。1915年、夏の第1回大会に出場し準優勝。決勝で延長13回の熱戦の末にサヨナラ負けした。投の大久保、打の成田で65年にもベスト4。後藤、石井、滝田と並ぶ中軸打線は強力。プロで162本塁打放った 「男・石井」 の長打力に期待したい。猿田は慶大で主将。同じ慶大成田の打撃も勝負強い。投手陣の層が薄いのはやや気がかり。捕手の人材が豊富。伊藤も本職は捕手、戦前の大東京で監督を務めた。 [遊] 猿田和三、[中] 成田憲明、[二] ★後藤光尊、[三] ★石井浩郎、[左] ★滝田政治、[右] ★小西秀朗、[一] ★伊藤勝三、[捕] ★阿部茂樹、[投] 大久保正樹、齋藤新、太田政直、菅原朗仁、★永井洋二郎、高田環樹、菅原勇輝、佐藤翔、石井勇悦、小野巧。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%8B%9D%E4%B8%89

2018.8 / 元秋田商サッカー部監督 外山純さん(69、秋田商-秋田東)死去

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平成30年7月 / 旭日単光章受賞金 元金足農業高校野球部監督 菅原泰雄氏 逝去

6平成30年7月4日午後2時逝去。ご冥福をお祈りいたします。【2013.11.04】元金足農野球部監督 菅原泰雄氏(76)に旭日単光章(スポーツ振興功労)。旧昭和町 (現潟上市) 出身、金足農から東京鉄道管理局 (現JR東日本) に進み主に遊撃手で活躍 (補強選手として全国優勝経験)。昭和36年に帰郷し金足農野球部監督 (11年間)、自身の選手・監督しての甲子園出場は果たせなかったが、他校の倍やる厳しい練習で嶋崎久美氏 (65、現ノースアジア大監督) 等の甲子園出場監督始め多くの選手を育てる。現在秋田県軟式野球連盟、秋田県野球協会顧問。<昭和44年春季秋田市内リーグ 金足農 登録選手> [投]遠藤民雄(3、井川)、[捕]三浦春樹(2、羽城)、[一]三浦昇(3、外旭川)、[二]菅原吉範(3、羽城)、[三]○斉藤好春(3、羽城)、[遊]佐藤芳男(3、脇本)、[左]遠藤一雄(3、井川)、[中]加藤薫(3、戸米川)、[右]菅原与志美(3、羽城)、竹田文夫(3、馬場目)、佐藤儀和(2、北)、中川誠(1、北)、大淵金広(2、潟西)、黒崎猛(3、川添)、一関勇一(2、五城目)、千田清(2、八郎潟)、大淵和則(2、潟西)、工藤茂則(2、琴丘)、高野新一(1、上川大内)、八柳昇(1、大川)、[責]安杖正昭、[監]菅原泰雄、[記]沢田石吉広(1、五城目)。

平成28年9月 / DeNAマネジャー統括兼GM補佐 浅利光博氏(角館)が死去

asari<2016.12.31> 現在、福岡ソフトバンクホークスでコーチを務めている入来祐作氏(平成8年のドラフトで本田技研工業から読売ジャイアンツを逆指名して1位入団)が戦力外通告を受け、どこからもオファーがなく困っている時に手を差し伸べたのが、横浜入団時の編成担当者の浅利光博氏だった、打撃投手の話を打診されそれを引き受けた。2016.9.11】浅利光博氏 (DeNAマネジャー統括兼GM補佐)が 平成28年9月10日午後11時35分、胃がんのため横浜市内の病院で死去、61歳。新人テストで120人の難関を突破してプロ入り。【2006.6.02】横浜の浅利光博運営部長は6月2日、東京都内のセ・リーグ事務局を訪れ、前日のソフトバンク戦で審判の判定が食い違ったことに関して 「提訴試合」 としての申請を行い、試合のやり直しを求めた。リーグでは週明けにも受理するか却下するかを決める。9回一死一塁で横浜多村が放った三塁線のゴロを鈴木三塁塁審はファウルとしたが、渡田球審がフェアと判定。ボールは二塁→一塁と転送され併殺が成立、試合が終了した。横浜牛島監督が渡田球審に審判間の協議を求めたが受け入れられなかった。

秋田県野球人名録 / 飯塚明(秋田市副市長、昭和40年秋田高校硬式野球部主将)

17飯塚明 (秋田市副市長、昭和40年秋田高校硬式野球部主将)、昭和21年4月28日生。昭和40年夏甲子園ベスト4時の主将(早稲田大-秋田-秋田南)。夏甲子園大会予選西奥羽大会決勝で秋田商を破り、春・夏連続の出場を果たす。初戦の大阪の大鉄(ナイターゲーム)にサヨナラ勝ちし、その後も勢いに乗り日大二(東京)、津久見(大分)を撃破、準決勝で優勝した原貢監督率いる三池工(福岡)に1点差で惜敗し決勝進出を逃す。鐙(羽城)-大久保(秋田北)の投手リレーが印象的で、トップ成田から飯塚、藤原(稔)、岡本の中軸も強力だった。早稲田大学教育学部卒業後、秋田市役所入庁、秋田市教育長-秋田市副市長等歴任。平成21年7月28日、胃がんのため死去、享年63歳。<昭和40年夏秋田高校登録選手> [右]成田憲明、[遊]佐藤茂範、[二]○ 飯塚明、[捕]藤原稔、[一]岡本隆、[中]今井敦雄、[投]鐙文行、大久保正樹、[左]斎藤正人、藤原清己、[三]渡辺和美、広瀬光男、堀内一志、高橋修平、[監]渡辺博太郎。秋田南中同期に元巨人吉成昭三(秋田商)投手。

平成3年10月秋田魁新報連載 「秋田市営八橋球場50年-球史を彩った男たち」

2013yabase【2016.7.25】三平晴樹投手(阪急-大洋-大毎-日鉱日立-秋田商-土崎)平成28年7月25日逝去、77歳。昭和33年大毎入団、昭和35年に12勝を挙げ優勝に貢献、昭和40年現役引退。通算41勝34敗。<秋田魁新報1991(平成3年)10月21日~ 連載  「八橋球場の50年-第1部 球史を彩った男たち」>。今川敬三(秋田商)、水沢博文(金足農)、大久保正樹(秋田高)、遠藤恒男(本荘高)、簾内政雄(能代高)、石戸四六(秋田商)、高橋茂(大曲農)、小野巧(秋田高)、中島義博(秋田市立)、大石正行(横手高)、成田光弘(秋田商)、工藤幹夫(本荘高)、景山貴志(経法大付)、三平晴樹(秋田商)、本多秀男(秋田高)、成田憲明(秋田高)、阿部政文(大館鳳鳴)、小山満(経法大付)、三浦健二(秋田工)、船木千代美(秋田市立)、山岡政志(秋田商)、佐々木吉郎(秋田商)、嵯峨健四郎(秋田商)、小西秀朗(秋田高)、石崎透(秋田市立)、男鹿谷和美(秋田高)、猿田和三(秋田高)、山田久志(能代高)、鈴木寿(経法大付)、高橋捷郎(秋田高)、三浦清(秋田商)、武藤一邦(秋田商)、高松直志(能代高)、高橋千秋(秋田市立)、中川申也(経法大付)。

秋田県野球人名録/ 竹内一朔 元秋田県立五城目高校長(秋田高校野球部長等歴任)

平成27年7月20日大動脈狭窄のため秋田市内の病院で死去
編集委員として秋田県高等学校野球史「翔球」(平成3年8月刊)発刊尽力
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秋田県野球人名録 / 社会人野球の発展に心血 岩見 茂 元秋田県野球協会長(79)

平成27年5月22日肝臓がんのため秋田市の病院で死去
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山田久志投手に横投げを進言した 元プロ野球 田辺修 内野手(立正佼成会-能代)

puro<北羽新報参照> 能代山本出身のプロ野球選手第1号。能代高校から立教大に進んだが2年で中退し、ノンプロの立正佼成会に入り投手から内野手に転向、打力を買われて昭和38年秋に大洋に入団、背番号68。入団時身長186cm体重94kg。豪快なスイングで 「ホームランか三振」 といわれた。プロ生活は2年で終わり、その後は家業の鉄工所を継ぐ。山田久志投手のアンダースローのきっかけをつくったのが田辺さんだと、山田投手は著書で紹介。<ネットより> 1メートル87、85キロは大型選手の多い大洋の中でもひときわ目立つ。森、長田といった重量選手より一回りからだが大きくいつも68番のユニホームを窮屈そうに着ている。その田辺が一軍戦で初めてヒットを飛ばした。八日、浜松の対巨人2回戦で八回、田辺は先頭バッターとして代わったばかりの巨人四人目中村と相対した。初球は高目のカーブだったが、バットの先っぽに当った打球は鈍い音を立てながらもあっという間に左翼手堀田の頭上を越えてフェンスへ直接ゴツン。ところがスタートした田辺は一塁ベースを回ったところで、腰くだけ。一瞬ガクリとしたが持ち直してそのまま二塁へー。田辺にとって、会心とまではいわないが力にまかせた一発だった。田辺は童顔をほこばせながら、「バッター・ボックスにはいる前にシゲ(高橋重)に、最初からカーブを狙え、といわれて待っていたら本当にカーブでした。オープン戦5打席目にやっと初ヒットが出ました。一軍でヒットなんか打てっこないと思っていたからうれしいです」 と大喜び。

1月22日午前9時30分 / 能代山本広域市町村圏組合消防本部会議室で追悼式。

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<新聞報道> 昨年1月に秋田県能代市富町で消火活動中の能代消防署員2人が殉職した火災で、能代山本広域消防本部は2月21日、現在も調査中の出火原因について、判明しても公表はしない方針を示した。同日の能代山本広域市町村圏組合議会2月定例会で明らかにした。消防本部は昨年8月に調査報告書を公表したが、出火原因については消防研究センター (東京) による調査が長引いているなどとして 「調査中」 とした。議会の答弁で伊藤智消防長は 「内容に多くの個人情報が含まれており、本部としては公開しない方針。ただ、情報公開請求などには応じる」 と述べた。【2020.1.22】 能代市富町で能代消防署の消防士2人が消火活動中に殉職した住宅火災から22日で1年がたつ。複数の消防士が殉職する県内初の事態に、能代山本広域市町村圏組合消防本部は原因究明の調査を踏まえ訓練や安全管理の強化などに取り組み、「再発防止に向けて尽力していく」 としている。22日は、午前9時30分から同消防本部会議室で殉職した消防士2人の追悼式が行われる。【2019.8.28】今年1月に秋田県能代市富町で能代消防署員2人が殉職した火災で、能代山本広域消防本部は8月28日、原因究明と検証のため設置した調査委員会の報告書を公表する。消火活動時の2人の行動や、現場本部の指揮命令といった当時の状況がどの程度明らかになるかが焦点となる。火災は1月22日午前7時ごろ発生。店舗兼住宅など3棟の消火活動中、消防司令の藤田大志さん=当時(32、能代高校硬式野球部-二ツ井、平成19年採用)=と消防司令補の佐藤翔さん=同(26)=が巻き込まれて亡くなった。火災後に設置された調査委では、客観性を確保するため、県消防学校、秋田市消防本部、大曲仙北広域消防本部の協力を得たほか、火災分析の専門機関である総務省消防庁の消防研究センター (東京) が調査に入った。3月末をめどとしていた公表時期がずれ込んだことについて、能代山本広域消防本部は 「火災現場の科学的な分析と署員への聞き取りなどを慎重に照らし合わせた」 としている。

1977(昭和52年) 第43回秋田県少年野球大会出場 秋田北中 安田一彦外野手。

omi安田 一彦選手 (57、金足農-秋田北、元プロ野球小野和幸投手と同期) が1月15日10時45分にお亡くなりになりました。ご冥福をお祈りいたします。葬儀1月19日正午、秋田市金足追分 虹のホール・レぜール追分。喪主・長男豪さん。<秋田北中登録選手>  [投]千葉聡、[捕]佐藤雅人、[一]渋谷久敏、[二]藤原順、[三]秋本和昭、[遊]小野和幸、[左]山内徹雄、[中]保坂徹、[右]安田一彦、鈴木孝一、船岡正人、、、。

2014.1.23 / 太田久元能代高校監督(77)肺がんのため能代市内の病院で死去。

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2014.1.10/巨人編成調査室 水沢薫元投手(秋田商-秋田北)都内の病院で死去。

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秋田野球人名録/男鹿市払戸出身 石川真良 (慶応-秋田、甲子園の土生みの親)。

sin払戸小野球スポーツ少年団、高円宮賜杯第39回全日本学童軟式野球大会出場。【2019.6.11】全国高校野球選手権大会の前身の 「全国中等学校優勝野球大会」 第1回大会の記録に、秋田中の名前がある。決勝は延長十三回、1-2で惜敗したが、全国に挑む秋田勢の歴史はここから始まった。103年前に刻んだ第一歩を、記録や証言からたどる。1915 (大正4) 年7月。秋田中に大阪朝日新聞から全国大会への 「招待状」 が届いた。都道府県の代表校を勝敗で決める、地方大会のシステムが確立していない頃だった。秋田中は横手中 (現横手)、秋田農 (現大曲農) に大勝した戦績を主催側に送り、出場が認められた。当時は球児を熱心に応援する空気は薄かった。前年の14年、秋田中は関東遠征で早稲田中などと試合をしたが、親の反対で行けない生徒もいた。「祖父に 『東京までタマ転がしに行くとは何事だ』 と言われ、父は遠征に行けなかったと聞いた」。秋田高野球部OB会の元会長、竹内陸郎 (86) はそう語る。秋田市の自宅には遠征前後の選手らの写真が残る。父長九郎も写っている。だが、遠征メンバーに父の名前はない。似た理由で、大阪での第1回大会に行けない選手がいた。急ごしらえで人数をそろえたというのが実情だった。当時のコーチは、同校出身で慶応大に進んだ石川真良。石川は投手で、大きく曲がるカーブを武器にしていた。「秋田高野球史」 によると、酷暑の中、猛練習で鍛えたという。石川と野球は縁が濃かった。卒業後は阪神電鉄に勤め、甲子園球場の土を配合する仕事をした。のちに故郷の男鹿市に戻り、中学で教師をしながら子どもたちに野球を教えた。小松一夫 (82) は中学時代、石川から野球の基礎を教わった。「選手を怒らない人だった。無駄なエラーすると、皆に聞こえないように 『バカッ』 と小声でつぶやいていた」。石川を知る人は県内でも少なくなった。有志による 「石川先生をたたえる会」 の会長だった小松は19年前、男鹿市にある野球場前に記念碑を建立した。「晩年は釣りばかりしていた。手先が器用だった」 と懐かしそうに話す。大阪へ乗り込んだ秋田中は快進撃をみせる。初戦は三重四中 (通称山田中、現宇治山田)に9-1。エースの長崎広が12三振を奪った。準決勝は優勝候補と目された早稲田実に3-1で競り勝った。当時の思い出を、主将で捕手だった渡部純司が語ったテープが残る。無明舎出版代表の安倍甲が86年にインタビューしたものだ。「長崎君は球が速いうえに、(対角線上に) クロスファイアで来る。僕らは慣れていたけど、相手は打つのが難しかったんじゃないかな」 と渡部。安倍は振り返る。「インタビュー時、渡部さんは90歳近かった。でも、頭が切れて、とてもよく当時のことを覚えていた」。決勝の相手は京都二中 (現鳥羽) だった。8月23日、豊中グラウンド。中盤までゼロが並ぶ接戦は七回、6番丹市郎が適時打を放って秋田中が1点を先取し、均衡を破る。八回表を終えて1-0。99回を数える大会の歴史の中で、秋田の学校が、最も大優勝旗に近づいた瞬間でもある。=敬称略 (山田佳毅)

<秋田野球人名録> 右下手の小さな大投手 今川敬三投手(早稲田大-秋田商)。

imagawa今川雄策氏、平成31年4月7日執行秋田県議会議員一般選挙秋田市選挙区で当選。【2015.4.30】前秋田市議会議員今川雄策氏(42、自民党)、2015(平成27年)4月実施秋田県議会議員選挙秋田市選挙区(定数12)で7,310票を獲得し初当選。165cm63kgの小さな大投手、秋田商時代の第32回センバツ大会(昭和35年)準決勝対米子東戦での投球数74球は8回参考記録ながらの最少投球、秋田県が誇れる記録。右下手からの無類の制球と緩急をつけた投球が持ち味。早稲田大卒業後、母校秋田商の監督として2度甲子園出場。監督在任中に交通事故により死亡(享年33)。詳細は 「北国の球魂歌」 にて。スポーツ雑誌 「高校野球 心に残る名勝負名場面 大アンケート」 、昭和35年春センバツ準々決勝秋田商2-1慶応、(試合寸評)秋田商の小さな大投手今川敬三が好投、延長11回慶応の豪腕渡辺泰輔を攻略して金星。<秋田商登録選手> ①今川敬三、②保坂栄、③栗橋五郎、④鈴木義光、⑤谷真克、⑥高橋洋之、⑦藤原正己、⑧川村誠、⑨堀井喜一郎、・吉田伸介、・田中、・上村雄悦、・米山義弘、・佐々木元、(監)古城敏雄。

秋田県野球人名録/昭和61年度社会人野球 東肥クラブ 牧野強選手(秋田高校)。

牧野強 コーチ兼捕手(31、秋田)
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秋田野球人名録/ 猿田五知夫猿田興業株式会社代表取締役会長(秋田-豊岩)。

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-昭和50年春季秋田市内リーグ戦 成田朝春部長、赤沼新二監督-
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秋田野球人名録/ 猿田五知夫猿田興業株式会社代表取締役会長(秋田-豊岩)。

松下電器産業-明治大学-秋田高校。謹んでお悔やみ申し上げます。
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訃報/潟上市鎌田久氏三男 鎌田雄大さん(享年42)4月12日午後0時25分永眠。

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