★ 備忘録 「熱球通信」 ・ 特定非営利活動法人秋田県野球フォーラム ★

「熱球通信」は特定非営利活動法人秋田県野球フォーラム会員有志による備忘録を兼ねた「秋田県野球」にこだわった私的ブログです。掲載している記録等については公式なものではありませんのでご注意願います。リンク等についてはオールフリーですので事前のメール等一切不要です。更新頻度は原則毎日の更新です。秋田県出身で県外に在住の方も念頭に更新していきますが、内容等一部については地元情報と時差が生じる場合があります。練習・親善試合の結果情報は原則掲載しません。また、コメント送信欄と掲示板については諸般の事情により対応していません。積極的な中学硬式野球・女子野球の紹介に努めています。

人名録(故人)

2014.1.10巨人編成調査室 水沢薫さん(秋田商-秋田北)都内の病院で死去

mizusawmizusawa現役時代は140km台の速球とシュートを中心とする投球スタイル。<2014.1.16> 巨人軍職員だった水沢薫氏の通夜が2014(平成26年)1月16日新横浜総合斎場で。巨人原監督が球団を通してコメント(全文)「水沢君は厳しい闘病生活の中で、必ず復帰するという希望を持って頑張ってきていました。急な訃報を聞き、残念でなりません。よい友であり、戦友でした。思い出をたくさん作ってくれました。ご冥福をお祈り申し上げます」<2014.1.10> 元巨人軍投手で、球団の編成調査室職員を務めていた水沢薫氏(48、河合楽器-秋田商-秋田北)が、2014年(平成26年)1月10日午前0時22分、肝不全のため都内の病院で死去。水沢投手は1965年2月18日生まれ、秋田市出身、1986年ドラフト2位で巨人に入団。1992年に現役を引退後、1995年から2006年まで巨人のトレーニングコーチを務めた。その後ジャイアンツアカデミーのコーチを経て、2008年から運営部1軍監督付となり、原監督のサポートに尽力。世界一となった2009年のWBCにも帯同。秋田県人らしい温厚で誠実な人柄で、原監督からの信頼が厚く、選手・関係者からも同様に慕われていたが、体調が優れないこともあり2013年に現場を離れていた。< 昭和57年夏 秋田商登録選手 > [投]戸嶋治(2、大曲)[捕]○ 高橋明(3、羽城)[一]藤井利典(2、大曲)[二]進藤進(2、秋田北)[三]河村清春(3、城南)[遊]杉山信哉(3、二ツ井)[左]鎌田勝(3、羽城)[中]武藤勇人(2、大曲)[右]今喜寿仁(3、平和)水沢薫(3、右右、181/75、秋田北)佐藤猛広(2、秋田北)戸嶋浩治(2、払戸)粟津敦(2、大曲南)三浦敏雄(3、船川)久米義人(3、鳳)工藤智之(2、秋田西)[責]登利谷重郎(54)[監]三浦第三(41)。

2014 平成26年1月 元巨人投手 水沢薫氏告別式 巨人軍 原辰徳監督弔辞全文

mizu1月10日早朝、突然の訃報が入ってきました。あなたは87年、巨人軍に入団し、選手、コーチ、そして監督付きマネジャーとして長きに渡り友人であり、そして戦友でもありました。特に2008年より監督付マネジャーとして、私はあなたに支えていただきました。共に戦い、共に喜び、共に悔しがり、たくさんの思い出を作りました。 WBCの世界一。2度の日本一。常に前向きで堂々としているあなたの姿に、私は勇気づけられたものです。素直な心、感謝する気持ち。私もあなたに教えていただきました。 おいしいものを食べるのが大好きで、感動したものは必ず写真を撮っていましたね。ワインのことも全く知らなかったミズ。最初に2人で飲んだワイン覚えていますよね。シャンベルタンです。「ナポレオンがこよなく愛したワインだよ」 と説明をしましたよね。その味が相当気に入ったんだね。そんな機会があるたび、シャンベルタン、シャンベルタンと。ミズ、本当に味がわかっていたんですか?WBCで、サンディエゴで試合をしましたね。その時サンディエゴ動物園に散歩に行こうと決め、ホテルからタクシーに乗りましたよね。その時にタクシーの運転手さんに 「gotoアニマルパーク」 とミズは言って、キョトンとされましたね。その時は、少し僕が手伝ったような気がします。今思えばあれが最後のシーズンでした。2012年、5冠を達成し最高の年でした。シーズンオフ、私はあなたを 「健康診断に一緒に行こう」 と誘いました。いつものように 「ありがとございます。お願いします」 と言って向かいました。そこからちょっと辛かったな。旅行にも行きましたね。そしてその年のV旅行の日がやってきました。あなたは、家族と先生とよく話をして、V旅行に行く事を選択しましたね。久しぶりに成田空港で再会をしました。私は何も言わずにあなたを抱きしめ、あなたも私を抱きしめました。「共に戦おう」。と言葉を搾り出しました。みんなに好かれたミズ。たくさんの人が力になってくれたな。弱音をはかず、ただただ元気になり現場に戻るんだ!その希望の中、頑張りましたね。2013年1月から始まった治療、4月、5月、6月。まさに順調でした。「ミズ、オールスター以降、現場復帰目指そう」。私は本気で言い、あなたも本気でそう思いましたね。姿かたちも全く変わらず、食欲も見事でした。しかしかないませんでしたね。「ミズ。ちょっと早かったな。もう少し時間をかけよう、焦らずにまた頑張ろう」「また、1から頑張ります」。そう明るく私に答えてくれましたね。私はあなたが亡くなる日の夕方、電話をしましたね。少し体力が落ちていた事は気付いていましたが「ミズ、ちょっとしんどそうだな。もう少し体力が上がって元気になってから病院に行くよ」 「そうしてください。頑張ります」。それが最後の言葉でした。ミズ、俺は悲しい。早すぎる別れだな。でもミズは精いっぱい、全速力で頑張りました。あなたが愛した家族、奥様、2人のお嬢様、そして参列してくださっている皆さま。今はみんな悲しい。でもあなたが教えてくれた、くよくよせずに前向きに進む。この事はみんな分かっています。 ミズ、ミズはそんなことを心配せずに、天国に行ってまずはゆっくり休んでください。だって頑張ったぜ。ミズ。そして元気になったら天国から家族、みんなを見守ってください。安らかに。水沢薫、さようなら。読売巨人軍監督、原辰徳。

秋田県野球人名録 / 第1回全国中等学校野球大会準優勝 / 秋田中学 渡部純司捕手

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8月18日は高校野球記念日。1915年(大正4年)のこの日、大阪の豊中球場(豊中グラウンド)で第1回全国中等学校優勝野球大会が開会した。地区予選を勝ち抜いた10校が参加し、決勝戦は京都二中と秋田中で、2-1で京都二中が優勝した。第10回から甲子園球場が会場になり、1948年(昭和23年)から全国高校野球選手権大会となった。<2018.1.04> 第1回全国中等学校野球大会決勝戦スタメン、[捕]渡部純司(5)[投]長崎廣(5)[三]鈴木久米治(3)[遊]小山田推一(4)[一]信太貞(5)[左]丹一郎(3)[中]羽石統一(4)[右]高橋蘶(2)[二]藤長治(3)。<2015.4.14>阪神甲子園球場で開催される夏の全国高校野球大会の前身 「全国中等学校優勝野球大会」 が始まって100年になる節目に合わせ、第1回大会に出場した全10校のOBが甲子園に集い、当時のカードで対戦する計画が進んでいる。第1回大会が開かれたのは1915(大正4年)8月。まだ甲子園はなく、大阪府豊中村 (現豊中市) の「豊中グラウンド」で東北から九州までの地区予選を勝ち抜いた10校が熱戦を繰り広げた。<2010.1.19、秋田県野球人名録> 渡部純司 (第1回全国中等野球大会準優勝)。秋田中の元捕手。平成5年12月22日、入院先の埼玉県の病院で老衰のため98歳で死去。甲子園の前身である大正4年の第1回全国中等学校野球大会で準優勝した秋田中野球部の元捕手。大阪豊中球場で行われた第1回大会に東北代表として出場した秋田中は、1回戦不戦勝、2回戦宇治山田中、準決勝早稲田実業を破って決勝進出、決勝で京都二中に延長13回1-2で惜敗した。秋田中卒業後、慶應義塾大学に進学し、陸上競技の選手として大正期に日本記録を保持した。戦後は旧県営手形球場の管理人や秋田大学北光会館管理人を長く務めた。 <秋田中参加選手> (投)長崎廣(捕)渡部純司(一)信太貞(二)齋藤長治(三)鈴木久米治(遊)小山田推一(左)羽石統一(中)丹一郎(右)野口眞吉、土井繁治。

秋田県野球人名故人録 / 小窪敬一元秋田経法大付野球部監督(電電東北-仙台商)

3e89dbc6-sダルビッシュ有(Yu Darvish)投手のツイッターより。なんでも自由にやっているように思われていると思いますが、投手をやる上で大事にしていることが二つあります。1・ロジンを優しく扱うこと、投げたりしない。 2・グラブの紐は全て結ぶ。 1.は 秋田経法大附 (現明桜) の 小窪敬一 元監督。 2.は PL学園元監督の中村順司監督に教えていただきました。【2007.12.31】元秋田経法大付野球部監督。平成17年12月19日 心筋梗塞のため仙台市内の病院で死去、56歳。平成13年4月から秋田経法大付で指揮を執り、同年秋の東北大会 (岩手県、仙台育英優勝) で準優勝し、平成14年センバツに出場 (平成15年退任)。昭和42年仙台商のエースとして甲子園春夏連続出場、電電東北で都市対抗4度出場、仙台商の監督として昭和58年夏甲子園出場という輝かしい球歴。NTT東北の監督も約7年間務め多くの選手を育てた。秋田県関係では竹内昌也投手 (阪神-NTT東北-本荘-象潟)。平成18年11月、1周忌を機会にフルスタ宮城で追悼試合が行われた。<秋田経法大付甲子園先発選手> [二]佐藤茂樹(3、北陽)、[遊]千田祐成(3、八郎潟)、[中])○桑島知宏(3、光陽)、[捕]松田幸樹(3、湯沢北)、[左]高橋康太(3、河辺)、[投]平塚隆一(3、あいの里東)、[一]田村潤(3、比内)、[三]山内伸悟(3、大館東)、[右]山中慎太朗(3、横手南)、木村雄太(2、花輪二)、菅原圭介(2、羽城)、田中雄也(2、二ツ井)、福田卓(3、協和)、佐藤壮(3、西仙北東)、高橋拓也(3、山田)、阿部隆雄(2、能代二)、高橋純(1、塩釜一)、佐藤大(2、泉)、今野福太郎(1、本荘南)、堀内誠(3、田代)。

秋田県野球人名故人録 / 小窪敬一元秋田経法大付野球部監督(電電東北-仙台商)

平成17年12月19日 心筋梗塞のため仙台市内の病院で死去、56歳
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2022令和4年11月16日 なかいずみ松司 中泉松司 幼馴染を偲び、幼馴染と

1967(昭和42年)夏甲子園大会初出場 吉田久男 本荘高校硬式野球部元監督

2a36785a2014 平成26年10月20日死去(84歳)。本荘高校監督就任3年目に選手としてはかなわなかった悲願の甲子園で采配、秋田県議会副議長、秋田県ソフトボール協会会長等歴任。<昭和41年秋季秋田県大会 本荘高校 登録選手> [投]遠藤恒男(1、本荘北)[捕]縄野邦夫(2、本荘北)[一]小石隆(2、出羽)[二]佐々木敬一(2、子吉)[三]小野実(1、本荘北)[遊]斎藤浄(1、本荘南)[左]大関堅一(2、前郷)[中]○ 小松一男(2、本荘北)[右]作左部出(2、本荘北)、斎藤勇二(1、仁賀保)、児玉徹(2、仁賀保)、荒川勝夫(1、金浦)、小園和夫(1、本荘南)、鷹島鎮雄(1、本荘南)、矢野昭治(1、本荘北)、小野康(1、川内)、佐藤正人(1、鮎川)[部]大平清[監]吉田久男[記]小松正行(1、本荘北)。

昭和58年10月12日 / 秋季東北大会決勝戦 金足農-大船渡 延長16回白熱戦

oo延長16回の熱戦。タイブレーク制が甲子園大会で導入されたのは、35年後の第90回記念選抜大会から。<2018.4.25> 訃報 / 半田英生選手逝去1983年 昭和58年10月12日、第36回秋季東北地区高校野球大会決勝戦 金足農-大船渡 (岩手県営)は、延長16回の白熱戦となり岩手県代表大船渡が優勝、金足農の東北初制覇の夢は持ち越しに 。試合は金足農が序盤の2回に2点先制も大船渡が4、5回に1点づつ返し試合は延長戦に、16回の表、大船渡が逆に2連続二塁打で逆転、金足農もその裏、鈴木の適時打で1点差と詰め寄るも後続が併殺打で試合終了、金野・水沢両投手完投、試合時間3時間56分、無失策試合、大船渡4番鈴木選手水沢投手から本塁打、[金足農](三塁打)水沢、(二塁打)工藤2、水沢。<平成58年秋季東北大会決勝戦 金足農先発> [三]大山等(2、琴丘)、[中]斎藤一広(2、雄和)、[遊]工藤浩孝(2、八郎潟)、[投]水沢博文(2、秋田北)、[捕]○ 長谷川寿(2、五城目一)、[一]鈴木善久(2、五城目一)、[左]山崎里史(2、下浜)、[二]小玉勇樹(1、五城目一)、[右]柏谷安彦(2、秋田北)、石塚昭彦(1、河辺)、安田卓(1、秋田北)、半田英生(2、井川)、石田則嗣(1、秋田北)、佐藤学(2、天王)、小玉文隆(1、羽城)、佐藤俊樹(2、船川)、浅野和幸(2、井川)、館岡明(1、五城目一)、原田好二(1、船川)、小林誠(1、秋田南)、[部長]豊島君男、[監督]嶋崎久美、[記録]鳴海猛(2、八郎潟)。

平成28年 秋季秋田市内高校野球リーグ戦 / 金足農 佐々木葵 投手(2、男鹿東)

令和3年9月14日午後1時5分永眠 ご冥福をお祈りいたします
<チョコパン>さん 
https://twitter.com/smalto19

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野球人名録 / 佐藤秀明(プロの世界で中継ぎという地味な仕事に徹し続けた左腕)

東洋大元野球部監督 高橋昭雄氏 9月7日午後 敗血症のため死去 74歳
東洋大時代 優勝パレード 杉本、大野・佐藤秀、仁村選手等(福田泰弘さん提供)

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日刊スポーツ東北版 / 「甲子園」100年物語 輝いた東北の男たち 信太貞一塁手。

Ceremonial_First_Pitch_191513度目の挑戦で成し遂げられた東北勢初優勝。秋田市内の自宅でテレビ観戦した信太聡一さん(88)は「やったよと伝えたい」と、父親への思いを口にした。父の貞(さだか)さんは1915年(大4)の第1回大会に出場した秋田中(現秋田高)の一塁手だった。<2018.6.24> 信太貞選手の孫 信太誠一さん(54)が第100会大会開会式後の始球式で投手を担当。・<決勝延長13回悲劇のサヨナラ / 信太貞一塁手> 1915年(大4)に夏の甲子園の前身である 「第1回全国中等学校優勝野球大会」 が始まってから今年で100年。このコーナーでは 「甲子園100年物語~輝いた東北の男たち~」 と題し、「甲子園」 を舞台に生まれたみちのく球児たちのドラマ、秘話などをお届けしていきます。第1弾は大旗にあと1歩まで近づいた準優勝編。その初回は、延長にもつれこんだ第1回大会決勝でサヨナラ失策をした秋田中・信太貞(しだ・さだか)内野手の物語を、息子の信太聡一さん(81)と孫の誠一さん(51)に語ってもらいます。秋田中は、おやじのエラーで負けた−。息子聡一は、中学2年の時に学校で聞かされるまで、その事実を知らなかった。[聡一] 先生が教えてくれるわけです。こういう試合があって、最後はファーストのエラーで負けたと。席の後ろから 「信太のおやじだ! 」 と声が上がった。帰って家で報告したら、おやじは何も言わなかった。1915年8月23日。東北勢最初の優勝のチャンスは “エラー” で逃げていった。1-1で迎えた延長13回裏、京都二中1死二塁。二塁へ飛んだ小フライを斎藤長治がワンバウンドで処理し、一塁へ投げる。一塁の信太が 「お手玉」 し、その後すぐにホームへ転送するも、二塁走者のホームインには間に合わなかった。この決勝点を許す失策は、一塁手の信太に記録された。信太は、秋田に帰り、校誌 「羽城」 にこう寄稿している。悪戦苦闘十三合、刀折れ矢尽きて我軍万事休して戦の終った瞬間、余は忘れんとして忘れ能はざる光景である。かの燦然たる優勝旗八百円の優勝旗は、彼れ京都二中の手に授けられたのである。吾れらは帰途の電車の内、宿舎に入っても只出づるものは涙のみであった(原文ママ)本来は捕手で、大会直前の練習試合でケガをし、一塁手に転向。それでも守備中に 「さぁ、こい。さぁ、こい」 と球を呼ぶ自信はあった。攻守に活躍したとし、主催の朝日新聞から現在でいうベストナインとして表彰された。亡くなるまで言い訳はしなかった。1948年(昭23)2月22日、貞は自分の野球人生の多くを語らないまま、大腸がんでこの世を去った。その代わり、妻礼(ひろ)が、息子聡一へ、孫の誠一へ、夫から聞いた話を聞かせた。[聡一] おやじから聞いた野球の話はほとんどないの。[誠一] 子どもには話さないけど、多分、祖母には話していたんだよ。私は (礼さんから) 「おじいさんが、(エラー)やったと言われているけど、お前も野球やれ 」と、ずっと言われてきた。聡一は、後に地元紙 「秋田魁新報」 の運動記者として、1960年(昭35)から春夏通じ9度甲子園を取材。誠一は、「じいちゃんの敵を取りたい」 と、秋田高野球部で同期で元プロの石井浩郎らとともに甲子園を目指したが届かず。50歳を過ぎた今も、草野球で外野手としてプレーし続ける。野球と深く関わる2人の元には 「信太貞」 のエピソードが集まっていった。貞の野球への熱い思いは、一生続いた。秋田中を卒業後、青山学院大予科に進学したが、すぐに父成六が病気で入院したため、中退して東京で就職。休みに秋田へ帰省した際には、仲間と作った 「朝日クラブ」 という草野球チームでプレーし、少年野球大会も立ち上げた。その大会は、秋田魁新報に開催権が渡り今でも続く。その後、成六が亡くなると秋田に帰郷した。[聡一] 秋田に帰ると男鹿半島、仏戸(ふっと)の小学校で代用教員をしていた。その頃の教え子に聞いたこともあるけど、野球ばっかり教えていたそうだ。野球愛が高じて自ら 「運動の秋田社」 というスポーツ新聞社を立ちあげ、茨島(ばらじま)球場という今はなきグラウンドの管理人も務めた。甲子園予選の試合中に、熱くなってグラウンドに乱入。試合を中断させ、ヤジを受けたこともあった。妻子とともに球場近くに住む野球漬けの生活。だが、戦争の影が迫る。[聡一] 戦時中に、スポーツ新聞が作れなくなった。うちのおやじは野球以外何もできなかった。召集はされず、国策のパルプ工場で働き、終戦の半年前からは、プロペラを作る軍需工場に単身赴任した。もともと料理が出来ないため、そこで胃腸を崩し、終戦から2年半後、51歳でこの世を去った。秋田中・信太貞一塁手は、最後に失策した選手として記録に残る。ただ、こんな説もある。二塁手の斎藤は大会前に連れてきた急造の選手。ワンバウンドで捕った後、あわてて一塁へ投げたその送球が悪かった、と。[聡一] セカンドが悪いと言ってくれる人もいる。そうかもしれないが、そちらにも家族がいるんだからと思ってしまう。誰が悪い、ということは反対です。[誠一]だからうちが、エラーして負けました、と。それをずっとリベンジしようと思っているんだよ。今年12月19、20日には、100周年を記念し、甲子園球場で第1回出場10校のOB戦が行われる。誠一は、秋田高OBとしてメンバー入りを熱望する。秋田中が優勝を逃したあの日から100年。東北勢の優勝はまだない(敬称略)【高場泉穂】。◆第1回大会と秋田中 1914年、朝日新聞が全国中等学校優勝野球大会(現全国高校野球選手権大会)の開催を決定。全国各地区から10校が参加し、翌15年8月18日から23日にかけ、大阪・豊中球場で行われた。秋田中は県内の秋田農(現大曲農)、横手中(現横手高)と3校で臨時の東北大会を開催。2校に勝ち東北代表として参加した。

秋田県野球人名録 / 田中英則さん (秋田県と山形県の高校野球発展に多大な功績)

tsuruoka第104回甲子園大会、鶴岡東初戦広島盈進に勝利。・令和元年春季東北地区高校野球大会 準決勝 明桜 (旧 秋田経法大付)-鶴岡東 (旧 鶴商学園)。<2016.1.14> 平成23年夏甲子園出場 鶴岡東(鶴商学園-鶴岡商)野球部の監督を長年務めた田中英則氏が、8月12日の甲子園初戦対智弁戦を控えた2011(平成23年)8月8日、鶴岡市内の病院で急性循環不全のため死去、64歳。恩師の訃報を受けた鶴岡東佐藤俊監督は、号泣しながら 「田中先生のために校歌を」 とナインに訴え、試合後  「今日のプレーを天国から見ていてくれたと思う。これを新しい歴史にしたい」  とコメント。田中英則監督は、秋田県大館市出身で大館工から立正大に進学、卒業後の1970(昭和45年)に社会科教諭として赴任。同時に野球部監督に就任し、1978 (昭和53年) 夏選手権、1979 (昭和54年) 春センバツに君島厚志投手 (秋田県田代中) を擁して甲子園に出場。79年春センバツ大会では天理に勝利し、池田に敗退。1981 (昭和56年) 夏選手権にも甲子園出場を果たし1991 (平成3年) に監督を退任。甲子園初出場時は、人口10万人の城下町からの初めての甲子園出場で 「鶴岡市はおおいに沸いた」 と新聞報道。監督在任中は、三浦第三監督や嶋崎久美監督などと積極的に交流を図り、秋田県と山形県の高校野球発展の架け橋のさきがけとなった。<余談> 県南大曲の花館中出身の三浦第三選手と県北大館の大館一中出身の石戸四六選手は 「館」 つながりで秋田商時代から懇意。石戸投手が秋田商入学時の主戦は佐々木吉郎投手。

2016年5月18日葬儀 二宮清純 唯我独尊「工藤幹夫 肝の据わった奇襲秘話」

287dd911http://www.ninomiyasports.com/archives/57918 5月13日に肝不全のため55歳の若さで死去した元日本ハム投手の工藤幹夫は、1982年10月9日、右手小指を骨折していたにもかかわらず前期優勝の西武とのプレーオフ第1戦に先発したことから、引退しても “奇襲の人” とのイメージが付いて回った。プレーオフ1カ月前のことだ。自宅ドアに右手小指をはさんで骨折。手には包帯、腕にはギプス。実はこれ、親分こと大沢啓二監督が指示した手の込んだ芝居だった。西武・広岡達朗監督が 「スポーツマンシップの風上にも置けない」 と激怒したのも無理からぬ話だ。工藤は7回途中まで投げ被安打3の無失点。まんまと西武を欺いたわけだから、さぞかし痛快だっただろう…。そう思い本人に訊ねたところ、渋い表情になった。今から3年前、場所は引退後に彼が経営していた秋田のスポーツ用品店。「実はまだ骨がくっついておらず、ドクターストップがかかっていた。案の定、ケガは悪化し、投手生命を縮めるはめになってしまいましたから…」。通算30勝のうち20勝は82年の1シーズンで稼いだものだ。こうした奇襲のツケ以上に彼が悔いていたのが、「マウンドを途中で降ろされた」ことである。「まだ1点も取られていないんですよ。ここまで引っ張っておきながら何で代えるのか。マウンド上で親分とケンカになったんです。ここで降りるのは嫌だと…」 親分が工藤に代えてマウンドに送ったのは絶対的な守護神・江夏豊。広岡西武は江夏対策を練りに練っていた。江夏の足元を揺さぶるためプッシュバントを多用して塁を埋め、スクイズと見せかけて四球を選びとった。当事者の黒田正宏は語ったものだ。「僕はベンチを出る際、広岡さんに“監督、スクイズの構えをさせて下さい”と了解をとった。なぜなら南海で2年間バッテリーを組んだ経験から、アイツが瞬時の判断でスクイズをはずせることを知っとったからや」。8回裏、西武は一挙6点を奪い勝負を決めた。心肺面に不安を残す江夏を右へ左へと走らせた西武の江夏攻略策こそが奇襲だったと見ることもできる。 この3日後にも工藤は先発し、7安打1失点で完投勝利を収めた。親分への反発をモチベーションに変えたのである。「余計なこと(芝居)やらなくてもねぇ…」。以上が奇襲秘話だ。体の線は細いが肝っ玉の据わった男だった。合掌。

秋田県野球人名録 / プロ野球完全試合達成 佐々木吉郎 投手(日本石油-秋田商)

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秋田県野球人名録 / プロ野球完全試合達成 佐々木吉郎 投手(日本石油-秋田商)

完全試合―15人の試合と人生 北原遼三郎 東京書籍
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訃報 / 湯沢市出身 元参院議員 佐々木満氏(総務庁長官歴任)4月7日死去 95歳

小学生~旧制能代中(能代高校)通じて野球に熱中 東京大学時代に新制山田中野球部を指導
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平成19年度 秋田わか杉国体 県選手団 (一般 A・B、成年、高校軟式、高校硬式)。

icon_anbeiina<2020.2.8> 佐々木大治さん (57、金足農-秋田東) が令和2年2月7日にお亡くなりになりました。ご冥福をお祈りいたします。葬儀 2月11日午後4時~ 秋田市土崎 ホテル大和 喪主・長女菜花子さん。<一般A> [監督]山本貴己、[選手] 鈴木幹、大塚裕輝、伊藤善裕、田中勝彦、船木和人、石塚武、宮川薫、鎌田雄大、熊谷寿三雄、山谷純、寺村俊、斎藤勝彦、村山博志、斎藤英明。<一般B> [選手監督兼任]武藤正従、[選手]高田峰明、石井大、成田荘伸、伊藤智史、中野雄太、佐藤和哉、川口昭仁、千葉大祐、佐藤博之、小松大樹、田中淳一、高橋隼平、高橋大蔵、佐藤貴彦。<成年> [選手監督兼任]東海林良明、[選手]伊藤一彦、佐藤徹、今野勝、阿部雅紀、佐々木大治、高橋幸悦、斎藤亮、尾留川務、中嶋頼光、斎藤智、高橋和也、福田芳武、高橋明、三戸仁志。<本荘高校:軟式> [部長]菅原晴彦、[監督]進藤紀、[選手]佐藤拓也、橋本芳雄、小野雄平、村上忍、東海林遼、渡辺恭平、伊藤雄太、佐々木慧悦、阿部秀人、高橋未来、小林和磨、佐々木智也、伊東圭介、佐藤大輝。<金足農:硬式> [部長]三浦兼芳、[監督]嶋崎久美、[選手]今野陽介、武田政宗、門間裕匡、山田大輔、須藤甲成、浅野高馬、櫻庭啓修、佐藤弘典、佐藤龍、栗木拓哉、高橋健介、齊藤竜也、高寺大介、船木拓美、舩木敬弘、小松宏之。

秋田相互銀行都市対抗初出場時監督 / 佐藤伸一 元秋田県アマチュア野球連盟会長

令和4年1月17日 多臓器不全のため秋田市内の病院で死去 84歳
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秋田県野球人名録 / 東京六大学リーグ 花形投手 立教大 築地俊龍投手(五城目町)

222五城目の誇り すばらしい先輩たち  昭和初期に東京六大学リーグ立教大学の主戦投手として活躍。1904(明治37年)3月7日、秋田県馬川村生。秋田中-立教大ー大洋漁業-函館オーシャン。後年は、住職の傍ら五城目町助役、町議会議員歴任、1972(昭和47年)11月13日逝去。詳細は秋田県五城目町教育委員会 「五城目町のほこり すばらしい先輩たち 第1集」で紹介。<以下一部抜粋> いなかの小さなお寺では、子どもを東京の大学にすすめるというゆとりはありませんでした。しかし、俊龍を大学野球で活躍させてやりたいという人がいて、その人の助けがあって立教大学に進学することになりました。東京六大学野球リーグで、俊龍は立大の主戦投手として活躍します。そのマウンド上の勇姿は、たくさんのファンを熱狂させました。昭和2年(1927)には六大学リーグでみごとに優勝をかざりました。昭和3年、大学を卒業した俊龍は、北海道函館の大洋漁業に入社し、ノンプロ野球の「函館オーシャン・クラブ」に入団しました。函館オーシャンは、大洋漁業を中心に明治40年(1907)につくられた球団でしたが、俊龍の入団を待っていたように、その年の第2回都市対抗野球大会にはじめて出場しました。俊龍は、かつての早稲田大学の名捕手だった監督の久慈次郎とバッテリーを組んで登場しました。この六大学を代表した黄金のバッテリーはファンを喜ばせ、函館オーシャンの名を高くしました。函館の俊龍へ、帆奈に北海道の旭川に天才的な少年投手がいるという話が聞こえてきました。さっそく遠い旭川まで、俊龍はなんども行ってピッチングのコーチをしてやりました。その少年は、のちにプロ野球で大活躍した スタルヒン 投手です。俊龍は名投手スタルヒンの生みの親ということができます。野球をつづけたかった俊龍は、お寺をつがなければなりません。26歳の昭和5年秋に会社をやめ、曹洞宗大本山永平寺で僧になるための修行に入りました。はなやかな野球選手の生活をすて、ひとりの雲水(うんすい)となってきびしい修行をはじめたのです。そして昭和9年(1934)自性院に帰り住職となりました。その後は、昭和11年から8年間、曹洞宗宗務庁につとめて東京の生活を送り、昭和37年(1962)から4年間宗議会の議員となったり、五城目町の助役や町議会議員をつとめたりしました。宗門でも、五城目町でも、すぐれた人材として俊龍に期待していたことが、こうしたことからもうかがえます。俊龍は、その期待に全力でこたえようとしました。一生、マウンドの上の精神を持ちつづけていたのです。なくなったのは昭和47年(1972)11月13日、まだ68歳でした。

秋田県野球人名録 / 東京六大学リーグ 花形投手 立教大 築地俊龍投手(五城目町)

第97回大会 能代高校硬式野球部 築地徳龍主将(五城目一)駒澤大学進学
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秋田野球人名録 平成23年11月1日 嵯峨健四郎投手(プロ東映時代20勝達成)

4ef24b89平成23年11月1日午前5時30分、肝細胞がんのため神奈川県鎌倉市内の病院で死去、74歳。嵯峨健四郎投手は秋田市上北手中(城南中)から秋田商、日鉱日立を経て昭和35年東映入団、昭和39年に21勝を記録し、昭和41年にオールスター出場。昭和43年に巨人に移籍、昭和44年に東映に戻り現役引退。通算53勝42敗。秋田商時代は厳しい指導で有名な赤根谷飛雄太郎門下生の第1号。その投球フォームが師とそっくりだったとは関係者の証言。とにかく映画スターを思わせる風貌が印象的でした。中学時代の全県出場と高校時代の甲子園出場共になし。秋田さきがけ紙「八橋球場の50年-第1部 球史を彩った男たち」 登場。嵯峨健四郎  <週刊ベースボール> 悲劇の主役は嵯峨健四郎。20勝の大台を突破も、話題は・・・・60年に東映へ入団したプロ5年目の右腕だ。63年にプロ初勝利を含む6勝を挙げて一軍に定着すると、迎えた64年に21勝を挙げてブレーク。ただ、近年では20勝を超えれば大騒ぎだが、当時も投手の勲章ではあったものの、それほど珍しくなかった時代だ。注目を浴びたのは勝ち星ではなく、その打席だった。とにかく打てない。最終的には77打席連続無安打というシーズンのプロ野球新記録で閉幕。悪夢は終わらない。翌65年も嵯峨は自身の記録を更新し続ける。対戦する投手たちも、嵯峨が打席に入ると、ほかの投手に投げるのとは明らかに違っていた。あまり例のないことなので表現が難しいのだが、嵯峨と対戦した投手たちは皆、不名誉な連続記録を阻止する安打を献上した投手として球史に名を残したくなかったはずだ。打席にいるのが投手なら力を抜いたピッチングをすることも少なくないが、嵯峨が打席に入ると、容赦なく攻め立てる。権藤が胃を壊したことも紹介したが、これは嵯峨も同様だった。バットの不振は胃腸だけでなく、ピッチングにも影を落としていく。64年は21勝9敗と貯金を稼いだ男が、65年は2勝8敗と急失速。最終的に連続シーズンのプロ野球記録としては90打席連続無安打でストップしたが、64年のシーズン77打席とともに、現在もプロ野球記録として残る。権藤は3年にわたったが、2年で終わったのは不幸中の幸いだろうか。その翌66年、嵯峨は17勝9敗と復活を果たしている。

日刊スポーツ / ダルビッシュら育てる / 元東北高校監督 若生正広氏 70歳で死去

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日刊スポーツ / 東北高監督時代にダルビッシュらを育てた名将、若生正広(わこう・まさひろ)氏が27日朝、宮城県仙台市内で、肝臓がんのため死去した。70歳だった。家族に見守られ、眠るように息を引き取ったという。若生氏は07年に黄色靱帯(じんたい)骨化症を発症。一時は回復し歩けるようになったが、13年に腰を骨折し車いす生活に。近年は持病の糖尿に加え、肝臓がんを発症した。昨年3月まで埼玉栄監督を務め、治療を続けながらグラウンドに通い続けた。高校野球指導33年、春夏合わせて11回も甲子園へ導いた。「甲子園に行ったら、人間的に自信がつく。子供が成長できる場所。なかなか味わえないものだからね」と生涯をかけて子供たちと聖地を目指し続けた。埼玉栄を退いた後も、教え子が監督を務める地元のシニアで指導することもあった。先週は九州へシニア関係者を訪ねていたが、その際、体調を崩し、仙台へ戻り治療していた。◆若生正広 1950年(昭25)9月17日生まれ、宮城県仙台市生まれ。68年、東北(宮城)3年時、夏の甲子園に主将でエースとして出場。法大、社会人野球チャイルドでプレーした後、埼玉栄の監督を経て93年秋から母校の監督に。春5回、夏2回甲子園に導き03年夏は準優勝。04年に退任し055年から九州国際大付(福岡)で監督を務め、11年センバツ準優勝。15年から埼玉栄の監督、19年から総監督。20年春に退任した。<2019.4.05> 東北、九州国際大付などを指揮し、甲子園で2度準優勝の実績を持ち、2015年から埼玉栄を率いてきた若生正広監督 (68) が勇退して総監督に就任。東北高監督時代にダルビッシュ有投手を擁した2003年夏、九州国際大付では2011年春と2度決勝進出したが、どちらも準優勝にとどまった。33年間で春夏の甲子園に計11度出場、通算16勝11敗、後任監督は、2013年から1度監督を務めていた山田孝次部長 (35)。<2015.2.06> 九州国際大付前監督若生正広氏(64、社会人野球チャイルド-法政大-東北、甲子園春夏11度出場)が、2015(平成27年)4月に埼玉栄監督に就任することになった。3年ぶり出場の昨年の甲子園大会で1回戦敗退して勇退したが、1987(昭和62年)に監督としてスタートした埼玉栄 (甲子園2度出場) で再び甲子園を目指すことになった。若生監督は東北時代にエースとして活躍 (甲子園出場)、同校監督を務めていた2003 (平成16年) 夏にダルビッシュ投手を擁して甲子園準優勝。2005 (平成18年) から九州国際大監督に転じ2011 (平成23年) 春にも準優勝。2007 (平成19年) に特定疾患の脊椎靭帯骨化症の一種である黄色靭帯骨化症を患い、昨年夏の大会は車いすで指揮した。昨年のドラフト会議では清水優心捕手が日本ハム2位、古沢勝吾内野手がソフトバンク3位で指名された。

2018朝日新聞 バーチャル高校野球 / 八橋球場グラウンドキーパー 中川誠さん

gk中川誠さん葬儀 / 令和3年7月22日(木)午前11時~虹のホール・レゼール追分。<2018.4.23> 朝日新聞バーチャル高校野球 高校野球や社会人野球などで使われる八橋球場で長年グラウンド整備を務め、「八橋の住人」 とも呼ばれるグラウンドキーパー (GK) がいる。中川誠さん (64) と佐藤雅之さん (50) 。2人が忙しくなる季節が今年も始まった。高校野球の春季リーグ戦が始まった4月上旬。試合前のノックが終わると同時に、2人は他のGKらとともに小走りでグラウンドへ。できた土の穴を埋め、マウンドをならし、水をまき、ラインを引く。雨天ならばスポンジで水を抜く作業をする。試合開始までの10分ほどの間に手際よくこなしていく。中川さんは今年でGK歴47年目になる。4年前に秋田市職員を退職したが、再雇用されて続けている。10代の頃から半世紀近く、八橋球場のグラウンドを見守ってきた。「今年で65歳。この仕事をやれるのも長くない。正直、肩の荷が下りるよ」 と笑う。それでも 「やめたあと、家の中に1、2カ月もいたら、またやりたくなるのかもしれないな」。八橋球場のグラウンドは 「プレーしやすい」 と、選手や関係者に評判だ。それは、中川さんを中心としたGKたちの苦心や工夫の証しでもある。「毎年、グラウンド脇の側溝に流れた砂の量を計算して新しい砂を入れる。それでも 『今年はちょっと失敗したな』『来年はこうしよう』 と反省することは多い」 と中川さん。試合の最中、選手のプレーではなく、その足元の状態につい目がいってしまう。土の配合や整備のノウハウを中川さんから継承してきたのが、市スポーツ振興課に所属する佐藤さんだ。今年で30年目を迎えた。「シーズン中は朝5時には起きる。まず天気が気になりますね。大会の運営側から、何分後に試合ができるようになるのかと意見を求められることもあります」 ともに元高校球児。中川さんは金足農で捕手、佐藤さんは角館で投手だった。2人は市職員OBの野球チームに所属し、出場選手の合計年齢が500歳以上がルールの 「500歳野球」 で今もプレーする。「今年で夏の甲子園100回か。その秋田大会の半分近くで整備をしてきたんだなあ」。中川さんは感慨深げだ。(山田佳毅)

八橋球場グラウンドキーパー 中川誠、佐藤雅之さん 軟式秋田市役所OBチーム。

yab<昭和44年春季リーグ金足農登録選手>[投]遠藤民雄(3、井川)、[捕]三浦春樹(2、羽城)、[一]三浦昇(3、外旭川)、[二]菅原吉範(3、羽城)、[三]〇 斉藤好春(3、羽城)、[遊]佐藤芳男(3、脇本)、[左]遠藤一雄(3、井川)、[中]加藤薫(3、戸米川)、[右]菅原与志美(3、羽城)、竹田文夫(3、馬場目)、佐藤儀和(2、秋田北)、中川誠(1、秋田北)、大淵金広(2、潟西)、黒崎猛(3、川添)、一関勇一(2、五城目)、千田清(2、八郎潟)、大淵和則(2、潟西)、工藤茂則(2、琴丘)、高野新一(1、上川大内)、八柳昇(1,大川)、[部長]安杖正昭、[監督]菅原泰雄、[記録]沢田石吉広(1、五城目)。<500歳野球秋田市役所OB> 部長 / 木谷久光。監督 / 中泉孝一、コーチ / 荻原久、主将 / 佐藤康明、選手 / 佐藤貞司、鎌田弘、佐々木均、土館隆司、中島義弘、中川誠、高橋範慶、鎌田護、保坂義則、神田清武、富樫純一、柴田弘毅、大門昭男、菅原文夫、武田文人、高橋和也、小野孝洋、佐藤学、阿部雅紀、東海林健、伊藤達矢、福原忠勝、三浦浩、大和良志、佐藤雅之。<昭和60年夏角館高校野球部>[投]佐藤雅之(3、豊成)、[捕]高橋修(3、仙北)、[一]高橋修(3、二ツ井)、[二]藤岡純(3、生保内)、[三]荒川勝弘(3、中仙)、[遊]長沢政信(3、仙北)、[左]石川和彦(3、生保内)、[中]渋谷要一(3、角館)、[右]宮田浩孝(3、中仙)、○小田島広仁(3、生保内)、千葉孝志(3、田沢)、江橋賢治(3、角館)、佐藤健(3、角館)、門脇一(3、白岩)、田口泰之(3、西明寺)、村上修晃(2、豊成)、平鹿邦弘(2、生保内)、[部長]才田一展、[監督]信田秀樹。

2020.4 創立100周年 秋田商元教頭 武藤四郎さん 6年かけ「秋商百年史」

野球は戦前の甲子園大会で活躍した赤根谷飛雄太郎を監督に迎えた
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秋田商業高校創立100周年記念招待試合(6月25日、八橋球場、秋田高校招待) 
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会場への入場は両校生徒・教職員・部員の保護者等
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