人名録(故人)
8月18日は高校野球記念日。1915年(大正4年)のこの日、大阪の豊中球場(豊中グラウンド)で第1回全国中等学校優勝野球大会が開会した。地区予選を勝ち抜いた10校が参加し、決勝戦は京都二中と秋田中で、2-1で京都二中が優勝した。第10回から甲子園球場が会場になり、1948年(昭和23年)から全国高校野球選手権大会となった。<2018.1.04> 第1回全国中等学校野球大会決勝戦スタメン、[捕]渡部純司(5)[投]長崎廣(5)[三]鈴木久米治(3)[遊]小山田推一(4)[一]信太貞(5)[左]丹一郎(3)[中]羽石統一(4)[右]高橋蘶(2)[二]齋藤長治(3)。<2015.4.14>阪神甲子園球場で開催される夏の全国高校野球大会の前身 「全国中等学校優勝野球大会」 が始まって100年になる節目に合わせ、第1回大会に出場した全10校のOBが甲子園に集い、当時のカードで対戦する計画が進んでいる。第1回大会が開かれたのは1915(大正4年)8月。まだ甲子園はなく、大阪府豊中村 (現豊中市) の「豊中グラウンド」で東北から九州までの地区予選を勝ち抜いた10校が熱戦を繰り広げた。<2010.1.19、秋田県野球人名録> 渡部純司 (第1回全国中等野球大会準優勝)。秋田中の元捕手。平成5年12月22日、入院先の埼玉県の病院で老衰のため98歳で死去。甲子園の前身である大正4年の第1回全国中等学校野球大会で準優勝した秋田中野球部の元捕手。大阪豊中球場で行われた第1回大会に東北代表として出場した秋田中は、1回戦不戦勝、2回戦宇治山田中、準決勝早稲田実業を破って決勝進出、決勝で京都二中に延長13回1-2で惜敗した。秋田中卒業後、慶應義塾大学に進学し、陸上競技の選手として大正期に日本記録を保持した。戦後は旧県営手形球場の管理人や秋田大学北光会館管理人を長く務めた。 <秋田中参加選手> (投)長崎廣(捕)渡部純司(一)信太貞(二)齋藤長治(三)鈴木久米治(遊)小山田推一(左)羽石統一(中)丹一郎(右)野口眞吉、土井繁治。
<チョコパン>さん https://twitter.com/smalto19
東洋大時代 優勝パレード 杉本、大野・佐藤秀、仁村選手等(福田泰弘さん提供)
13度目の挑戦で成し遂げられた東北勢初優勝。秋田市内の自宅でテレビ観戦した信太聡一さん(88)は「やったよと伝えたい」と、父親への思いを口にした。父の貞(さだか)さんは1915年(大4)の第1回大会に出場した秋田中(現秋田高)の一塁手だった。<2018.6.24> 信太貞選手の孫 信太誠一さん(54)が第100会大会開会式後の始球式で投手を担当。・<決勝延長13回悲劇のサヨナラ / 信太貞一塁手> 1915年(大4)に夏の甲子園の前身である 「第1回全国中等学校優勝野球大会」 が始まってから今年で100年。このコーナーでは 「甲子園100年物語~輝いた東北の男たち~」 と題し、「甲子園」 を舞台に生まれたみちのく球児たちのドラマ、秘話などをお届けしていきます。第1弾は大旗にあと1歩まで近づいた準優勝編。その初回は、延長にもつれこんだ第1回大会決勝でサヨナラ失策をした秋田中・信太貞(しだ・さだか)内野手の物語を、息子の信太聡一さん(81)と孫の誠一さん(51)に語ってもらいます。秋田中は、おやじのエラーで負けた−。息子聡一は、中学2年の時に学校で聞かされるまで、その事実を知らなかった。[聡一] 先生が教えてくれるわけです。こういう試合があって、最後はファーストのエラーで負けたと。席の後ろから 「信太のおやじだ! 」 と声が上がった。帰って家で報告したら、おやじは何も言わなかった。1915年8月23日。東北勢最初の優勝のチャンスは “エラー” で逃げていった。1-1で迎えた延長13回裏、京都二中1死二塁。二塁へ飛んだ小フライを斎藤長治がワンバウンドで処理し、一塁へ投げる。一塁の信太が 「お手玉」 し、その後すぐにホームへ転送するも、二塁走者のホームインには間に合わなかった。この決勝点を許す失策は、一塁手の信太に記録された。信太は、秋田に帰り、校誌 「羽城」 にこう寄稿している。悪戦苦闘十三合、刀折れ矢尽きて我軍万事休して戦の終った瞬間、余は忘れんとして忘れ能はざる光景である。かの燦然たる優勝旗八百円の優勝旗は、彼れ京都二中の手に授けられたのである。吾れらは帰途の電車の内、宿舎に入っても只出づるものは涙のみであった(原文ママ)。本来は捕手で、大会直前の練習試合でケガをし、一塁手に転向。それでも守備中に 「さぁ、こい。さぁ、こい」 と球を呼ぶ自信はあった。攻守に活躍したとし、主催の朝日新聞から現在でいうベストナインとして表彰された。亡くなるまで言い訳はしなかった。1948年(昭23)2月22日、貞は自分の野球人生の多くを語らないまま、大腸がんでこの世を去った。その代わり、妻礼(ひろ)が、息子聡一へ、孫の誠一へ、夫から聞いた話を聞かせた。[聡一] おやじから聞いた野球の話はほとんどないの。[誠一] 子どもには話さないけど、多分、祖母には話していたんだよ。私は (礼さんから) 「おじいさんが、(エラー)やったと言われているけど、お前も野球やれ 」と、ずっと言われてきた。聡一は、後に地元紙 「秋田魁新報」 の運動記者として、1960年(昭35)から春夏通じ9度甲子園を取材。誠一は、「じいちゃんの敵を取りたい」 と、秋田高野球部で同期で元プロの石井浩郎らとともに甲子園を目指したが届かず。50歳を過ぎた今も、草野球で外野手としてプレーし続ける。野球と深く関わる2人の元には 「信太貞」 のエピソードが集まっていった。貞の野球への熱い思いは、一生続いた。秋田中を卒業後、青山学院大予科に進学したが、すぐに父成六が病気で入院したため、中退して東京で就職。休みに秋田へ帰省した際には、仲間と作った 「朝日クラブ」 という草野球チームでプレーし、少年野球大会も立ち上げた。その大会は、秋田魁新報に開催権が渡り今でも続く。その後、成六が亡くなると秋田に帰郷した。[聡一] 秋田に帰ると男鹿半島、仏戸(ふっと)の小学校で代用教員をしていた。その頃の教え子に聞いたこともあるけど、野球ばっかり教えていたそうだ。野球愛が高じて自ら 「運動の秋田社」 というスポーツ新聞社を立ちあげ、茨島(ばらじま)球場という今はなきグラウンドの管理人も務めた。甲子園予選の試合中に、熱くなってグラウンドに乱入。試合を中断させ、ヤジを受けたこともあった。妻子とともに球場近くに住む野球漬けの生活。だが、戦争の影が迫る。[聡一] 戦時中に、スポーツ新聞が作れなくなった。うちのおやじは野球以外何もできなかった。召集はされず、国策のパルプ工場で働き、終戦の半年前からは、プロペラを作る軍需工場に単身赴任した。もともと料理が出来ないため、そこで胃腸を崩し、終戦から2年半後、51歳でこの世を去った。秋田中・信太貞一塁手は、最後に失策した選手として記録に残る。ただ、こんな説もある。二塁手の斎藤は大会前に連れてきた急造の選手。ワンバウンドで捕った後、あわてて一塁へ投げたその送球が悪かった、と。[聡一] セカンドが悪いと言ってくれる人もいる。そうかもしれないが、そちらにも家族がいるんだからと思ってしまう。誰が悪い、ということは反対です。[誠一]だからうちが、エラーして負けました、と。それをずっとリベンジしようと思っているんだよ。今年12月19、20日には、100周年を記念し、甲子園球場で第1回出場10校のOB戦が行われる。誠一は、秋田高OBとしてメンバー入りを熱望する。秋田中が優勝を逃したあの日から100年。東北勢の優勝はまだない(敬称略)【高場泉穂】。◆第1回大会と秋田中 1914年、朝日新聞が全国中等学校優勝野球大会(現全国高校野球選手権大会)の開催を決定。全国各地区から10校が参加し、翌15年8月18日から23日にかけ、大阪・豊中球場で行われた。秋田中は県内の秋田農(現大曲農)、横手中(現横手高)と3校で臨時の東北大会を開催。2校に勝ち東北代表として参加した。
平成23年11月1日午前5時30分、肝細胞がんのため神奈川県鎌倉市内の病院で死去、74歳。嵯峨健四郎投手は秋田市上北手中(城南中)から秋田商、日鉱日立を経て昭和35年東映入団、昭和39年に21勝を記録し、昭和41年にオールスター出場。昭和43年に巨人に移籍、昭和44年に東映に戻り現役引退。通算53勝42敗。秋田商時代は厳しい指導で有名な赤根谷飛雄太郎門下生の第1号。その投球フォームが師とそっくりだったとは関係者の証言。とにかく映画スターを思わせる風貌が印象的でした。中学時代の全県出場と高校時代の甲子園出場共になし。秋田さきがけ紙「八橋球場の50年-第1部 球史を彩った男たち」 登場。嵯峨健四郎 <週刊ベースボール> 悲劇の主役は嵯峨健四郎。20勝の大台を突破も、話題は・・・・60年に東映へ入団したプロ5年目の右腕だ。63年にプロ初勝利を含む6勝を挙げて一軍に定着すると、迎えた64年に21勝を挙げてブレーク。ただ、近年では20勝を超えれば大騒ぎだが、当時も投手の勲章ではあったものの、それほど珍しくなかった時代だ。注目を浴びたのは勝ち星ではなく、その打席だった。とにかく打てない。最終的には77打席連続無安打というシーズンのプロ野球新記録で閉幕。悪夢は終わらない。翌65年も嵯峨は自身の記録を更新し続ける。対戦する投手たちも、嵯峨が打席に入ると、ほかの投手に投げるのとは明らかに違っていた。あまり例のないことなので表現が難しいのだが、嵯峨と対戦した投手たちは皆、不名誉な連続記録を阻止する安打を献上した投手として球史に名を残したくなかったはずだ。打席にいるのが投手なら力を抜いたピッチングをすることも少なくないが、嵯峨が打席に入ると、容赦なく攻め立てる。権藤が胃を壊したことも紹介したが、これは嵯峨も同様だった。バットの不振は胃腸だけでなく、ピッチングにも影を落としていく。64年は21勝9敗と貯金を稼いだ男が、65年は2勝8敗と急失速。最終的に連続シーズンのプロ野球記録としては90打席連続無安打でストップしたが、64年のシーズン77打席とともに、現在もプロ野球記録として残る。権藤は3年にわたったが、2年で終わったのは不幸中の幸いだろうか。その翌66年、嵯峨は17勝9敗と復活を果たしている。
日刊スポーツ / 東北高監督時代にダルビッシュらを育てた名将、若生正広(わこう・まさひろ)氏が27日朝、宮城県仙台市内で、肝臓がんのため死去した。70歳だった。家族に見守られ、眠るように息を引き取ったという。若生氏は07年に黄色靱帯(じんたい)骨化症を発症。一時は回復し歩けるようになったが、13年に腰を骨折し車いす生活に。近年は持病の糖尿に加え、肝臓がんを発症した。昨年3月まで埼玉栄監督を務め、治療を続けながらグラウンドに通い続けた。高校野球指導33年、春夏合わせて11回も甲子園へ導いた。「甲子園に行ったら、人間的に自信がつく。子供が成長できる場所。なかなか味わえないものだからね」と生涯をかけて子供たちと聖地を目指し続けた。埼玉栄を退いた後も、教え子が監督を務める地元のシニアで指導することもあった。先週は九州へシニア関係者を訪ねていたが、その際、体調を崩し、仙台へ戻り治療していた。◆若生正広 1950年(昭25)9月17日生まれ、宮城県仙台市生まれ。68年、東北(宮城)3年時、夏の甲子園に主将でエースとして出場。法大、社会人野球チャイルドでプレーした後、埼玉栄の監督を経て93年秋から母校の監督に。春5回、夏2回甲子園に導き03年夏は準優勝。04年に退任し055年から九州国際大付(福岡)で監督を務め、11年センバツ準優勝。15年から埼玉栄の監督、19年から総監督。20年春に退任した。<2019.4.05> 東北、九州国際大付などを指揮し、甲子園で2度準優勝の実績を持ち、2015年から埼玉栄を率いてきた若生正広監督 (68) が勇退して総監督に就任。東北高監督時代にダルビッシュ有投手を擁した2003年夏、九州国際大付では2011年春と2度決勝進出したが、どちらも準優勝にとどまった。33年間で春夏の甲子園に計11度出場、通算16勝11敗、後任監督は、2013年から1度監督を務めていた山田孝次部長 (35)。<2015.2.06> 九州国際大付前監督若生正広氏(64、社会人野球チャイルド-法政大-東北、甲子園春夏11度出場)が、2015(平成27年)4月に埼玉栄監督に就任することになった。3年ぶり出場の昨年の甲子園大会で1回戦敗退して勇退したが、1987(昭和62年)に監督としてスタートした埼玉栄 (甲子園2度出場) で再び甲子園を目指すことになった。若生監督は東北時代にエースとして活躍 (甲子園出場)、同校監督を務めていた2003 (平成16年) 夏にダルビッシュ投手を擁して甲子園準優勝。2005 (平成18年) から九州国際大監督に転じ2011 (平成23年) 春にも準優勝。2007 (平成19年) に特定疾患の脊椎靭帯骨化症の一種である黄色靭帯骨化症を患い、昨年夏の大会は車いすで指揮した。昨年のドラフト会議では清水優心捕手が日本ハム2位、古沢勝吾内野手がソフトバンク3位で指名された。
秋田商業高校創立100周年記念招待試合(6月25日、八橋球場、秋田高校招待)
会場への入場は両校生徒・教職員・部員の保護者等