★ 備忘録 「熱球通信」 ・ 特定非営利活動法人秋田県野球フォーラム ★

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人名録(故人)

秋田野球人名録 / 今ではありえない伝説の酒豪 石戸四六(度胸 NO.1酒仙投手)

IMAGE0005imakawa 1秋田さきがけ|シリーズ時代を語る2023.3.3 成田光弘さん(秋田商-鷹巣)2年生のエース石戸四六さんは、私にとって面倒見のいい先輩でした。大館第一中学校の出身で下宿生活をしていて、「おらほ(県北出身者)も頑張るべ」と気さくに声をかけてくれました。の記述あり。デイリー新潮取材班編集、抜粋> 酒仙投手の呼称は、職業野球時代の大阪タイガースのエース・西村幸生が元祖だが、1960年代にこの名をほしいままにしたのが、石戸四六である。1961年9月、ヤクルトの前身・国鉄と契約した直後、「契約金がドカンと入ったので」と、なんと、有楽町の球団事務所から郷里の秋田県大館市までタクシーで帰った。タクシー代3万円に加え、温泉宿の宿泊代、飲食代なども合わせて、合計5万円以上。大卒初任給が1万5000円に届くかどうかという時代に、なんとも豪快な話だ。石戸は試合が終わると、ステテコ姿で日本酒を湯のみ茶碗で飲むのを常とした無類の酒好きで、「一升や二升はいけた」という。ロードで先発させようと先乗りさせると、これ幸いと飲み屋に直行してしまうため、石戸に限り先乗りはNGになった。しかし、ひとたびマウンドに上がると、横手からの重いシュートと度胸の良さを武器に、68年に金田正一以来球団史上2人目の20勝を記録するなど、9年間で70勝を挙げた。サンケイ時代の65年8月7日の大洋戦では、被安打1安打の無四球、打者27人の準完全試合。翌66年8月28日の巨人戦では、王貞治に3安打を許しただけの3安打完封で、“ 王以外ノーヒットノーラン ”の珍記録もつくっている。だが、過度の飲酒から肝機能障害と慢性胃炎を併発し、29歳の若さで引退となった。78年、ヤクルトが球団創設以来初の日本一を達成すると、石戸も祝賀会に招かれた。その日のうちに秋田に帰る予定だったのに、「列車が満席で取れない」とボヤくと、周囲から「タクシーで帰ればいいじゃないか」の声が上がった。すると、石戸は「いや、もうあんなバカな真似はできませんよ。もう無駄なお金は使う気になりませんよ」と照れながら答えたという。・巨人キラー石戸四六の全記録「白球の軌跡」(吉田一雄著、昭和56年発行)、猛牛千葉茂氏曰く 「度胸NO.1の酒仙投手」。酒仙投手と称された石戸四六投手の生涯と記録の集大成。石戸四六  吉田一雄氏は平成15年に「ノンフィクション 今川敬三の球歴 北国の球魂歌」出版。

秋田野球人名録|甲子園春夏7度出場 古城敏雄 元秋田商・秋田経大付野球部監督

秋田さきがけ シリーズ時代を語る(2023.3.1) 成田光弘選手と古城敏雄監督
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2015 平成27年8月25日午前3時8分 ぼうこうがんのため秋田市内の病院で死去 80歳

元プロ野球三平晴樹投手(秋田商)の孫 渡部淳一投手(慶応大、東京神宮シニア)

社会人野球ENEOSで現役継続
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2022慶應義塾体育会野球部4年 渡部淳一投手(慶応義塾高で甲子園出場)

秋田さきがけ紙 「秋田市営八橋球場50年-球史を彩った男たち」 三平晴樹投手

孫 渡部淳一投手(3、左、慶應、東京神宮シニア) 春夏甲子園連続出場
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2014.1.23 / 太田久 元能代高校監督(77)肺がんのため能代市内で死去

yokosaid元秋田県立能代高校硬式野球部監督の太田久氏(77)が2014 (平成26年) 1月23日午前8時18分、肺がんのため能代市内の病院で死去、葬儀は26日、能代市芝童森の能代典礼会館セレモ、喪主は妻和子さん。1961 (昭和36年) に母校の能代高校監督に就任。1963年夏、後にプロ野球入りした簾内政雄投手を擁して初の甲子園出場、1977、78年の夏には甲子園連続出場。教え子にはプロ通算284勝山田久志氏 (野球殿堂入り)、大沢勉氏らがいる。<昭和52年夏甲子園出場能代高校登録選手> [投]高松直志、[捕]東海林憲昭、[一]平川浩司、[二]佐藤明彦、[三]菅野政喜、[遊]佐藤弘人、[左]石井温志、[中]平川晃一、[右]佐藤哲士、大谷幸一、大友尚樹、市川基、田口清司、近藤亮悦、[責]金谷晴隆、[監]太田久。 http://www.hokuu.co.jp/2010koramu/0729kousiennto.html

昭和53年夏甲子園大会 / 対箕島戦で選手に指示を与える 能代高校 太田久 監督

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2020 秋田-立教大 元プロ野球 国鉄 東京 小西秀朗さん82歳 1月13日死去

生前プロレス関係のイベントも企画
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● 秋田高-立教大 / 元プロ野球 国鉄、東京 小西秀朗さん1月13日 82歳で死去

令和2年1月17日付 秋田さきがけ
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秋田県内少年野球試合をよくバックネット裏にて観戦

2014.1.10巨人編成調査室 水沢薫さん(秋田商-秋田北)都内の病院で死去

mizusawmizusawa現役時代は140km台の速球とシュートを中心とする投球スタイル。<2014.1.16> 巨人軍職員だった水沢薫氏の通夜が2014(平成26年)1月16日新横浜総合斎場で。巨人原監督が球団を通してコメント(全文)「水沢君は厳しい闘病生活の中で、必ず復帰するという希望を持って頑張ってきていました。急な訃報を聞き、残念でなりません。よい友であり、戦友でした。思い出をたくさん作ってくれました。ご冥福をお祈り申し上げます」<2014.1.10> 元巨人軍投手で、球団の編成調査室職員を務めていた水沢薫氏(48、河合楽器-秋田商-秋田北)が、2014年(平成26年)1月10日午前0時22分、肝不全のため都内の病院で死去。水沢投手は1965年2月18日生まれ、秋田市出身、1986年ドラフト2位で巨人に入団。1992年に現役を引退後、1995年から2006年まで巨人のトレーニングコーチを務めた。その後ジャイアンツアカデミーのコーチを経て、2008年から運営部1軍監督付となり、原監督のサポートに尽力。世界一となった2009年のWBCにも帯同。秋田県人らしい温厚で誠実な人柄で、原監督からの信頼が厚く、選手・関係者からも同様に慕われていたが、体調が優れないこともあり2013年に現場を離れていた。< 昭和57年夏 秋田商登録選手 > [投]戸嶋治(2、大曲)[捕]○ 高橋明(3、羽城)[一]藤井利典(2、大曲)[二]進藤進(2、秋田北)[三]河村清春(3、城南)[遊]杉山信哉(3、二ツ井)[左]鎌田勝(3、羽城)[中]武藤勇人(2、大曲)[右]今喜寿仁(3、平和)水沢薫(3、右右、181/75、秋田北)佐藤猛広(2、秋田北)戸嶋浩治(2、払戸)粟津敦(2、大曲南)三浦敏雄(3、船川)久米義人(3、鳳)工藤智之(2、秋田西)[責]登利谷重郎(54)[監]三浦第三(41)。

2014 平成26年1月 元巨人投手 水沢薫氏告別式 巨人軍 原辰徳監督弔辞全文

mizu1月10日早朝、突然の訃報が入ってきました。あなたは87年、巨人軍に入団し、選手、コーチ、そして監督付きマネジャーとして長きに渡り友人であり、そして戦友でもありました。特に2008年より監督付マネジャーとして、私はあなたに支えていただきました。共に戦い、共に喜び、共に悔しがり、たくさんの思い出を作りました。 WBCの世界一。2度の日本一。常に前向きで堂々としているあなたの姿に、私は勇気づけられたものです。素直な心、感謝する気持ち。私もあなたに教えていただきました。 おいしいものを食べるのが大好きで、感動したものは必ず写真を撮っていましたね。ワインのことも全く知らなかったミズ。最初に2人で飲んだワイン覚えていますよね。シャンベルタンです。「ナポレオンがこよなく愛したワインだよ」 と説明をしましたよね。その味が相当気に入ったんだね。そんな機会があるたび、シャンベルタン、シャンベルタンと。ミズ、本当に味がわかっていたんですか?WBCで、サンディエゴで試合をしましたね。その時サンディエゴ動物園に散歩に行こうと決め、ホテルからタクシーに乗りましたよね。その時にタクシーの運転手さんに 「gotoアニマルパーク」 とミズは言って、キョトンとされましたね。その時は、少し僕が手伝ったような気がします。今思えばあれが最後のシーズンでした。2012年、5冠を達成し最高の年でした。シーズンオフ、私はあなたを 「健康診断に一緒に行こう」 と誘いました。いつものように 「ありがとございます。お願いします」 と言って向かいました。そこからちょっと辛かったな。旅行にも行きましたね。そしてその年のV旅行の日がやってきました。あなたは、家族と先生とよく話をして、V旅行に行く事を選択しましたね。久しぶりに成田空港で再会をしました。私は何も言わずにあなたを抱きしめ、あなたも私を抱きしめました。「共に戦おう」。と言葉を搾り出しました。みんなに好かれたミズ。たくさんの人が力になってくれたな。弱音をはかず、ただただ元気になり現場に戻るんだ!その希望の中、頑張りましたね。2013年1月から始まった治療、4月、5月、6月。まさに順調でした。「ミズ、オールスター以降、現場復帰目指そう」。私は本気で言い、あなたも本気でそう思いましたね。姿かたちも全く変わらず、食欲も見事でした。しかしかないませんでしたね。「ミズ。ちょっと早かったな。もう少し時間をかけよう、焦らずにまた頑張ろう」「また、1から頑張ります」。そう明るく私に答えてくれましたね。私はあなたが亡くなる日の夕方、電話をしましたね。少し体力が落ちていた事は気付いていましたが「ミズ、ちょっとしんどそうだな。もう少し体力が上がって元気になってから病院に行くよ」 「そうしてください。頑張ります」。それが最後の言葉でした。ミズ、俺は悲しい。早すぎる別れだな。でもミズは精いっぱい、全速力で頑張りました。あなたが愛した家族、奥様、2人のお嬢様、そして参列してくださっている皆さま。今はみんな悲しい。でもあなたが教えてくれた、くよくよせずに前向きに進む。この事はみんな分かっています。 ミズ、ミズはそんなことを心配せずに、天国に行ってまずはゆっくり休んでください。だって頑張ったぜ。ミズ。そして元気になったら天国から家族、みんなを見守ってください。安らかに。水沢薫、さようなら。読売巨人軍監督、原辰徳。

秋田県野球人名録 / 第1回全国中等学校野球大会準優勝 / 秋田中学 渡部純司捕手

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8月18日は高校野球記念日。1915年(大正4年)のこの日、大阪の豊中球場(豊中グラウンド)で第1回全国中等学校優勝野球大会が開会した。地区予選を勝ち抜いた10校が参加し、決勝戦は京都二中と秋田中で、2-1で京都二中が優勝した。第10回から甲子園球場が会場になり、1948年(昭和23年)から全国高校野球選手権大会となった。<2018.1.04> 第1回全国中等学校野球大会決勝戦スタメン、[捕]渡部純司(5)[投]長崎廣(5)[三]鈴木久米治(3)[遊]小山田推一(4)[一]信太貞(5)[左]丹一郎(3)[中]羽石統一(4)[右]高橋蘶(2)[二]藤長治(3)。<2015.4.14>阪神甲子園球場で開催される夏の全国高校野球大会の前身 「全国中等学校優勝野球大会」 が始まって100年になる節目に合わせ、第1回大会に出場した全10校のOBが甲子園に集い、当時のカードで対戦する計画が進んでいる。第1回大会が開かれたのは1915(大正4年)8月。まだ甲子園はなく、大阪府豊中村 (現豊中市) の「豊中グラウンド」で東北から九州までの地区予選を勝ち抜いた10校が熱戦を繰り広げた。<2010.1.19、秋田県野球人名録> 渡部純司 (第1回全国中等野球大会準優勝)。秋田中の元捕手。平成5年12月22日、入院先の埼玉県の病院で老衰のため98歳で死去。甲子園の前身である大正4年の第1回全国中等学校野球大会で準優勝した秋田中野球部の元捕手。大阪豊中球場で行われた第1回大会に東北代表として出場した秋田中は、1回戦不戦勝、2回戦宇治山田中、準決勝早稲田実業を破って決勝進出、決勝で京都二中に延長13回1-2で惜敗した。秋田中卒業後、慶應義塾大学に進学し、陸上競技の選手として大正期に日本記録を保持した。戦後は旧県営手形球場の管理人や秋田大学北光会館管理人を長く務めた。 <秋田中参加選手> (投)長崎廣(捕)渡部純司(一)信太貞(二)齋藤長治(三)鈴木久米治(遊)小山田推一(左)羽石統一(中)丹一郎(右)野口眞吉、土井繁治。

秋田県野球人名録 / プロ野球完全試合達成 佐々木吉郎 投手(日本石油-秋田商)

sasakikiti2sasakikiti11966  昭和41 年5月1日 対広島戦でプロ野球完全試合達成 (両リーグ通算8人目)。2008 平成20年12月21日、敗血症のため東京都内の病院で死去、68歳。秋田市新屋生まれ、秋田商で捕手から投手にコンバート、社会人野球日本石油の投手として活躍 (橋戸賞) した後、1962年プロ野球大洋ホエールズ入団。現役期間は8年で23勝34敗。引退後、TDK野球部監督歴任。勝利数よりも完全試合の記憶が鮮明。北原遼三郎著『 完全試合 -15人の試合と人生- 』東京書籍発行、四六判。秋田県大仙市 かみおか嶽雄館「野球ミュージアム」で完全試合達成時の写真が展示されている。 <毎日新聞より抜粋> 秋田商出身入社5年目右腕は 「社会人球界随一の豪速球」 の前評判通り自慢の速球を武器に、1962年の第33回大会で43イニング連続無失点の新記録樹立、半世紀以上破られていない都市対抗の記録。プロ野球通算記録、実働8年、202試合登板、23勝34敗、8完投、4完封、259奪三振、投球回 563 2/3、防御率2.94。

秋田県野球人名故人録 / 小窪敬一元秋田経法大付野球部監督(電電東北-仙台商)

3e89dbc6-sダルビッシュ有(Yu Darvish)投手のツイッターより。なんでも自由にやっているように思われていると思いますが、投手をやる上で大事にしていることが二つあります。1・ロジンを優しく扱うこと、投げたりしない。 2・グラブの紐は全て結ぶ。 1.は 秋田経法大附 (現明桜) の 小窪敬一 元監督。 2.は PL学園元監督の中村順司監督に教えていただきました。【2007.12.31】元秋田経法大付野球部監督。平成17年12月19日 心筋梗塞のため仙台市内の病院で死去、56歳。平成13年4月から秋田経法大付で指揮を執り、同年秋の東北大会 (岩手県、仙台育英優勝) で準優勝し、平成14年センバツに出場 (平成15年退任)。昭和42年仙台商のエースとして甲子園春夏連続出場、電電東北で都市対抗4度出場、仙台商の監督として昭和58年夏甲子園出場という輝かしい球歴。NTT東北の監督も約7年間務め多くの選手を育てた。秋田県関係では竹内昌也投手 (阪神-NTT東北-本荘-象潟)。平成18年11月、1周忌を機会にフルスタ宮城で追悼試合が行われた。<秋田経法大付甲子園先発選手> [二]佐藤茂樹(3、北陽)、[遊]千田祐成(3、八郎潟)、[中])○桑島知宏(3、光陽)、[捕]松田幸樹(3、湯沢北)、[左]高橋康太(3、河辺)、[投]平塚隆一(3、あいの里東)、[一]田村潤(3、比内)、[三]山内伸悟(3、大館東)、[右]山中慎太朗(3、横手南)、木村雄太(2、花輪二)、菅原圭介(2、羽城)、田中雄也(2、二ツ井)、福田卓(3、協和)、佐藤壮(3、西仙北東)、高橋拓也(3、山田)、阿部隆雄(2、能代二)、高橋純(1、塩釜一)、佐藤大(2、泉)、今野福太郎(1、本荘南)、堀内誠(3、田代)。

秋田県野球人名故人録 / 小窪敬一元秋田経法大付野球部監督(電電東北-仙台商)

平成17年12月19日 心筋梗塞のため仙台市内の病院で死去、56歳
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平成25年12月6日 明桜高校野球部 三浦第三監督(73、秋田商)自宅で死去

miurad令和2年 秋田商創立100周年記念「写真が語る 秋商100年」でも紹介。<2013.12.12> 高山郁夫オリックス投手コーチが弔辞。<2013.12.08> 三浦第三監督から指導を受けた明桜高校3年生20人が弔問。 明桜高校野球部監督三浦第三氏(専修大-秋田商)が2013(平成25年)12月6日午後11時秋田市新屋の自宅で死去、73歳。葬儀は12月11日午前11時から秋田市泉ベルコシティホール秋田。秋田商3年の昭和33年中堅手で甲子園大会出場、徳島商板東英二投手からその試合でチーム唯一の安打を放った。秋田商監督時代の昭和54年夏、55年春夏3季連続で甲子園出場、大館商、大曲農監督歴任。定年退職後、秋田経法大(現ノースアジア大)硬式野球部監督を経て平成23年から明桜監督。平成18年日本高野連育成功労賞受賞。厳しい指導法でも知られ、高山郁夫投手、DeNA育成1位砂田毅樹投手等多数の選手を育てる。

2022令和4年11月16日 なかいずみ松司 中泉松司 幼馴染を偲び、幼馴染と

1967(昭和42年)夏甲子園大会初出場 吉田久男 本荘高校硬式野球部元監督

2a36785a2014 平成26年10月20日死去(84歳)。本荘高校監督就任3年目に選手としてはかなわなかった悲願の甲子園で采配、秋田県議会副議長、秋田県ソフトボール協会会長等歴任。<昭和41年秋季秋田県大会 本荘高校 登録選手> [投]遠藤恒男(1、本荘北)[捕]縄野邦夫(2、本荘北)[一]小石隆(2、出羽)[二]佐々木敬一(2、子吉)[三]小野実(1、本荘北)[遊]斎藤浄(1、本荘南)[左]大関堅一(2、前郷)[中]○ 小松一男(2、本荘北)[右]作左部出(2、本荘北)、斎藤勇二(1、仁賀保)、児玉徹(2、仁賀保)、荒川勝夫(1、金浦)、小園和夫(1、本荘南)、鷹島鎮雄(1、本荘南)、矢野昭治(1、本荘北)、小野康(1、川内)、佐藤正人(1、鮎川)[部]大平清[監]吉田久男[記]小松正行(1、本荘北)。

昭和58年10月12日 / 秋季東北大会決勝戦 金足農-大船渡 延長16回白熱戦

oo延長16回の熱戦。タイブレーク制が甲子園大会で導入されたのは、35年後の第90回記念選抜大会から。<2018.4.25> 訃報 / 半田英生選手逝去1983年 昭和58年10月12日、第36回秋季東北地区高校野球大会決勝戦 金足農-大船渡 (岩手県営)は、延長16回の白熱戦となり岩手県代表大船渡が優勝、金足農の東北初制覇の夢は持ち越しに 。試合は金足農が序盤の2回に2点先制も大船渡が4、5回に1点づつ返し試合は延長戦に、16回の表、大船渡が逆に2連続二塁打で逆転、金足農もその裏、鈴木の適時打で1点差と詰め寄るも後続が併殺打で試合終了、金野・水沢両投手完投、試合時間3時間56分、無失策試合、大船渡4番鈴木選手水沢投手から本塁打、[金足農](三塁打)水沢、(二塁打)工藤2、水沢。<平成58年秋季東北大会決勝戦 金足農先発> [三]大山等(2、琴丘)、[中]斎藤一広(2、雄和)、[遊]工藤浩孝(2、八郎潟)、[投]水沢博文(2、秋田北)、[捕]○ 長谷川寿(2、五城目一)、[一]鈴木善久(2、五城目一)、[左]山崎里史(2、下浜)、[二]小玉勇樹(1、五城目一)、[右]柏谷安彦(2、秋田北)、石塚昭彦(1、河辺)、安田卓(1、秋田北)、半田英生(2、井川)、石田則嗣(1、秋田北)、佐藤学(2、天王)、小玉文隆(1、羽城)、佐藤俊樹(2、船川)、浅野和幸(2、井川)、館岡明(1、五城目一)、原田好二(1、船川)、小林誠(1、秋田南)、[部長]豊島君男、[監督]嶋崎久美、[記録]鳴海猛(2、八郎潟)。

平成28年 秋季秋田市内高校野球リーグ戦 / 金足農 佐々木葵 投手(2、男鹿東)

令和3年9月14日午後1時5分永眠 ご冥福をお祈りいたします
<チョコパン>さん 
https://twitter.com/smalto19

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野球人名録 / 佐藤秀明(プロの世界で中継ぎという地味な仕事に徹し続けた左腕)

東洋大元野球部監督 高橋昭雄氏 9月7日午後 敗血症のため死去 74歳
東洋大時代 優勝パレード 杉本、大野・佐藤秀、仁村選手等(福田泰弘さん提供)

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2016.5.13 元日ハム投手 工藤幹夫さん 肝不全のため秋田市内の病院で死去

1982 昭和57年 伝説のプレーオフ 西武-日本ハム  3:42 ~

日刊スポーツ東北版 / 「甲子園」100年物語 輝いた東北の男たち 信太貞一塁手。

Ceremonial_First_Pitch_191513度目の挑戦で成し遂げられた東北勢初優勝。秋田市内の自宅でテレビ観戦した信太聡一さん(88)は「やったよと伝えたい」と、父親への思いを口にした。父の貞(さだか)さんは1915年(大4)の第1回大会に出場した秋田中(現秋田高)の一塁手だった。<2018.6.24> 信太貞選手の孫 信太誠一さん(54)が第100会大会開会式後の始球式で投手を担当。・<決勝延長13回悲劇のサヨナラ / 信太貞一塁手> 1915年(大4)に夏の甲子園の前身である 「第1回全国中等学校優勝野球大会」 が始まってから今年で100年。このコーナーでは 「甲子園100年物語~輝いた東北の男たち~」 と題し、「甲子園」 を舞台に生まれたみちのく球児たちのドラマ、秘話などをお届けしていきます。第1弾は大旗にあと1歩まで近づいた準優勝編。その初回は、延長にもつれこんだ第1回大会決勝でサヨナラ失策をした秋田中・信太貞(しだ・さだか)内野手の物語を、息子の信太聡一さん(81)と孫の誠一さん(51)に語ってもらいます。秋田中は、おやじのエラーで負けた−。息子聡一は、中学2年の時に学校で聞かされるまで、その事実を知らなかった。[聡一] 先生が教えてくれるわけです。こういう試合があって、最後はファーストのエラーで負けたと。席の後ろから 「信太のおやじだ! 」 と声が上がった。帰って家で報告したら、おやじは何も言わなかった。1915年8月23日。東北勢最初の優勝のチャンスは “エラー” で逃げていった。1-1で迎えた延長13回裏、京都二中1死二塁。二塁へ飛んだ小フライを斎藤長治がワンバウンドで処理し、一塁へ投げる。一塁の信太が 「お手玉」 し、その後すぐにホームへ転送するも、二塁走者のホームインには間に合わなかった。この決勝点を許す失策は、一塁手の信太に記録された。信太は、秋田に帰り、校誌 「羽城」 にこう寄稿している。悪戦苦闘十三合、刀折れ矢尽きて我軍万事休して戦の終った瞬間、余は忘れんとして忘れ能はざる光景である。かの燦然たる優勝旗八百円の優勝旗は、彼れ京都二中の手に授けられたのである。吾れらは帰途の電車の内、宿舎に入っても只出づるものは涙のみであった(原文ママ)本来は捕手で、大会直前の練習試合でケガをし、一塁手に転向。それでも守備中に 「さぁ、こい。さぁ、こい」 と球を呼ぶ自信はあった。攻守に活躍したとし、主催の朝日新聞から現在でいうベストナインとして表彰された。亡くなるまで言い訳はしなかった。1948年(昭23)2月22日、貞は自分の野球人生の多くを語らないまま、大腸がんでこの世を去った。その代わり、妻礼(ひろ)が、息子聡一へ、孫の誠一へ、夫から聞いた話を聞かせた。[聡一] おやじから聞いた野球の話はほとんどないの。[誠一] 子どもには話さないけど、多分、祖母には話していたんだよ。私は (礼さんから) 「おじいさんが、(エラー)やったと言われているけど、お前も野球やれ 」と、ずっと言われてきた。聡一は、後に地元紙 「秋田魁新報」 の運動記者として、1960年(昭35)から春夏通じ9度甲子園を取材。誠一は、「じいちゃんの敵を取りたい」 と、秋田高野球部で同期で元プロの石井浩郎らとともに甲子園を目指したが届かず。50歳を過ぎた今も、草野球で外野手としてプレーし続ける。野球と深く関わる2人の元には 「信太貞」 のエピソードが集まっていった。貞の野球への熱い思いは、一生続いた。秋田中を卒業後、青山学院大予科に進学したが、すぐに父成六が病気で入院したため、中退して東京で就職。休みに秋田へ帰省した際には、仲間と作った 「朝日クラブ」 という草野球チームでプレーし、少年野球大会も立ち上げた。その大会は、秋田魁新報に開催権が渡り今でも続く。その後、成六が亡くなると秋田に帰郷した。[聡一] 秋田に帰ると男鹿半島、仏戸(ふっと)の小学校で代用教員をしていた。その頃の教え子に聞いたこともあるけど、野球ばっかり教えていたそうだ。野球愛が高じて自ら 「運動の秋田社」 というスポーツ新聞社を立ちあげ、茨島(ばらじま)球場という今はなきグラウンドの管理人も務めた。甲子園予選の試合中に、熱くなってグラウンドに乱入。試合を中断させ、ヤジを受けたこともあった。妻子とともに球場近くに住む野球漬けの生活。だが、戦争の影が迫る。[聡一] 戦時中に、スポーツ新聞が作れなくなった。うちのおやじは野球以外何もできなかった。召集はされず、国策のパルプ工場で働き、終戦の半年前からは、プロペラを作る軍需工場に単身赴任した。もともと料理が出来ないため、そこで胃腸を崩し、終戦から2年半後、51歳でこの世を去った。秋田中・信太貞一塁手は、最後に失策した選手として記録に残る。ただ、こんな説もある。二塁手の斎藤は大会前に連れてきた急造の選手。ワンバウンドで捕った後、あわてて一塁へ投げたその送球が悪かった、と。[聡一] セカンドが悪いと言ってくれる人もいる。そうかもしれないが、そちらにも家族がいるんだからと思ってしまう。誰が悪い、ということは反対です。[誠一]だからうちが、エラーして負けました、と。それをずっとリベンジしようと思っているんだよ。今年12月19、20日には、100周年を記念し、甲子園球場で第1回出場10校のOB戦が行われる。誠一は、秋田高OBとしてメンバー入りを熱望する。秋田中が優勝を逃したあの日から100年。東北勢の優勝はまだない(敬称略)【高場泉穂】。◆第1回大会と秋田中 1914年、朝日新聞が全国中等学校優勝野球大会(現全国高校野球選手権大会)の開催を決定。全国各地区から10校が参加し、翌15年8月18日から23日にかけ、大阪・豊中球場で行われた。秋田中は県内の秋田農(現大曲農)、横手中(現横手高)と3校で臨時の東北大会を開催。2校に勝ち東北代表として参加した。

秋田県野球人名録 / 田中英則さん (秋田県と山形県の高校野球発展に多大な功績)

tsuruoka第104回甲子園大会、鶴岡東初戦広島盈進に勝利。・令和元年春季東北地区高校野球大会 準決勝 明桜 (旧 秋田経法大付)-鶴岡東 (旧 鶴商学園)。<2016.1.14> 平成23年夏甲子園出場 鶴岡東(鶴商学園-鶴岡商)野球部の監督を長年務めた田中英則氏が、8月12日の甲子園初戦対智弁戦を控えた2011(平成23年)8月8日、鶴岡市内の病院で急性循環不全のため死去、64歳。恩師の訃報を受けた鶴岡東佐藤俊監督は、号泣しながら 「田中先生のために校歌を」 とナインに訴え、試合後  「今日のプレーを天国から見ていてくれたと思う。これを新しい歴史にしたい」  とコメント。田中英則監督は、秋田県大館市出身で大館工から立正大に進学、卒業後の1970(昭和45年)に社会科教諭として赴任。同時に野球部監督に就任し、1978 (昭和53年) 夏選手権、1979 (昭和54年) 春センバツに君島厚志投手 (秋田県田代中) を擁して甲子園に出場。79年春センバツ大会では天理に勝利し、池田に敗退。1981 (昭和56年) 夏選手権にも甲子園出場を果たし1991 (平成3年) に監督を退任。甲子園初出場時は、人口10万人の城下町からの初めての甲子園出場で 「鶴岡市はおおいに沸いた」 と新聞報道。監督在任中は、三浦第三監督や嶋崎久美監督などと積極的に交流を図り、秋田県と山形県の高校野球発展の架け橋のさきがけとなった。<余談> 県南大曲の花館中出身の三浦第三選手と県北大館の大館一中出身の石戸四六選手は 「館」 つながりで秋田商時代から懇意。石戸投手が秋田商入学時の主戦は佐々木吉郎投手。

昭和50年8月 / 第4回 東北地区中学軟式野球大会 本荘市立本荘南中学校 優勝

gai令和3年仁賀保高校野球部監督。<2020.11.19>尾留川徹教諭(矢島)令和2年度秋田県学校体育功労者(学校体育の発展、振興に貢献、秋田県学校体育研究連合会)。<2016.5.13> 中学時代に野球部のチームメートだった村岡敏英衆院議員は 「彼(工藤幹夫投手)が故障のときは励まし、逆に私が落選中は慰めてくれた親友だった。国会が終わったら見舞いに行こうと思っていたのに…」 と死を悼んだ。<若鷲旗争奪第4回東北中学軟式野球大会 、昭和50年8月12日~、宮城球場、 本荘南中優勝、大曲中準優勝>[決勝]本荘南1-0大曲(延長10回押し出し、工藤幹夫投手24イニング無失点)、[準決勝]本荘南1-0弘前一、大曲1-0佐沼、[1回戦]本荘南3-0仙台一、大曲2-0喜久田。<本荘南中登録選手>[投]工藤幹夫(3)、[捕]森川透(3)[一]上原隆(3)[二]保科政幸(3)[三]○ 尾留川徹(3)[遊]鈴木昭(3)[左]菊地正和(3)[中]斎藤潤(3)[右]渡部浩孝(3)小園(3)小野晃(3)丸山(3)小野利(3)、渡部学(2)、斎藤一(3)、[部]長谷川達夫、[監]沢田宣夫。<大曲中登録選手>[投]高橋和彦(3)、[捕]○ 斎藤頼太郎(3)、[一]藤井吉人(3)、[二]古屋司(3)、[三]伊藤利彦(3)、[遊]小西憲二郎(2)、[左]小松功司(3)、[中]桑島功(3)、[右]高橋和彦(2)、小松(2)、高橋良(3)、渡部(3)、児玉(3)、加藤(3)、[部]加藤尚、[監]後藤晃男。

2016年5月18日葬儀 二宮清純 唯我独尊「工藤幹夫 肝の据わった奇襲秘話」

287dd911http://www.ninomiyasports.com/archives/57918 5月13日に肝不全のため55歳の若さで死去した元日本ハム投手の工藤幹夫は、1982年10月9日、右手小指を骨折していたにもかかわらず前期優勝の西武とのプレーオフ第1戦に先発したことから、引退しても “奇襲の人” とのイメージが付いて回った。プレーオフ1カ月前のことだ。自宅ドアに右手小指をはさんで骨折。手には包帯、腕にはギプス。実はこれ、親分こと大沢啓二監督が指示した手の込んだ芝居だった。西武・広岡達朗監督が 「スポーツマンシップの風上にも置けない」 と激怒したのも無理からぬ話だ。工藤は7回途中まで投げ被安打3の無失点。まんまと西武を欺いたわけだから、さぞかし痛快だっただろう…。そう思い本人に訊ねたところ、渋い表情になった。今から3年前、場所は引退後に彼が経営していた秋田のスポーツ用品店。「実はまだ骨がくっついておらず、ドクターストップがかかっていた。案の定、ケガは悪化し、投手生命を縮めるはめになってしまいましたから…」。通算30勝のうち20勝は82年の1シーズンで稼いだものだ。こうした奇襲のツケ以上に彼が悔いていたのが、「マウンドを途中で降ろされた」ことである。「まだ1点も取られていないんですよ。ここまで引っ張っておきながら何で代えるのか。マウンド上で親分とケンカになったんです。ここで降りるのは嫌だと…」 親分が工藤に代えてマウンドに送ったのは絶対的な守護神・江夏豊。広岡西武は江夏対策を練りに練っていた。江夏の足元を揺さぶるためプッシュバントを多用して塁を埋め、スクイズと見せかけて四球を選びとった。当事者の黒田正宏は語ったものだ。「僕はベンチを出る際、広岡さんに“監督、スクイズの構えをさせて下さい”と了解をとった。なぜなら南海で2年間バッテリーを組んだ経験から、アイツが瞬時の判断でスクイズをはずせることを知っとったからや」。8回裏、西武は一挙6点を奪い勝負を決めた。心肺面に不安を残す江夏を右へ左へと走らせた西武の江夏攻略策こそが奇襲だったと見ることもできる。 この3日後にも工藤は先発し、7安打1失点で完投勝利を収めた。親分への反発をモチベーションに変えたのである。「余計なこと(芝居)やらなくてもねぇ…」。以上が奇襲秘話だ。体の線は細いが肝っ玉の据わった男だった。合掌。
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