秋田さきがけ|シリーズ時代を語る2023.3.3 成田光弘さん(秋田商-鷹巣)2年生のエース石戸四六さんは、私にとって面倒見のいい先輩でした。大館第一中学校の出身で下宿生活をしていて、「おらほ(県北出身者)も頑張るべ」と気さくに声をかけてくれました。の記述あり。<デイリー新潮取材班編集、抜粋> 酒仙投手の呼称は、職業野球時代の大阪タイガースのエース・西村幸生が元祖だが、1960年代にこの名をほしいままにしたのが、石戸四六である。1961年9月、ヤクルトの前身・国鉄と契約した直後、「契約金がドカンと入ったので」と、なんと、有楽町の球団事務所から郷里の秋田県大館市までタクシーで帰った。タクシー代3万円に加え、温泉宿の宿泊代、飲食代なども合わせて、合計5万円以上。大卒初任給が1万5000円に届くかどうかという時代に、なんとも豪快な話だ。石戸は試合が終わると、ステテコ姿で日本酒を湯のみ茶碗で飲むのを常とした無類の酒好きで、「一升や二升はいけた」という。ロードで先発させようと先乗りさせると、これ幸いと飲み屋に直行してしまうため、石戸に限り先乗りはNGになった。しかし、ひとたびマウンドに上がると、横手からの重いシュートと度胸の良さを武器に、68年に金田正一以来球団史上2人目の20勝を記録するなど、9年間で70勝を挙げた。サンケイ時代の65年8月7日の大洋戦では、被安打1安打の無四球、打者27人の準完全試合。翌66年8月28日の巨人戦では、王貞治に3安打を許しただけの3安打完封で、“ 王以外ノーヒットノーラン ”の珍記録もつくっている。だが、過度の飲酒から肝機能障害と慢性胃炎を併発し、29歳の若さで引退となった。78年、ヤクルトが球団創設以来初の日本一を達成すると、石戸も祝賀会に招かれた。その日のうちに秋田に帰る予定だったのに、「列車が満席で取れない」とボヤくと、周囲から「タクシーで帰ればいいじゃないか」の声が上がった。すると、石戸は「いや、もうあんなバカな真似はできませんよ。もう無駄なお金は使う気になりませんよ」と照れながら答えたという。・巨人キラー石戸四六の全記録「白球の軌跡」(吉田一雄著、昭和56年発行)、猛牛千葉茂氏曰く 「度胸NO.1の酒仙投手」。酒仙投手と称された石戸四六投手の生涯と記録の集大成。石戸四六 吉田一雄氏は平成15年に「ノンフィクション 今川敬三の球歴 北国の球魂歌」出版。
人名録(故人)

2015 平成27年8月25日午前3時8分 ぼうこうがんのため秋田市内の病院で死去 80歳

2022慶應義塾体育会野球部4年 渡部淳一投手(慶応義塾高で甲子園出場)






秋田県内少年野球試合をよくバックネット裏にて観戦



8月18日は高校野球記念日。1915年(大正4年)のこの日、大阪の豊中球場(豊中グラウンド)で第1回全国中等学校優勝野球大会が開会した。地区予選を勝ち抜いた10校が参加し、決勝戦は京都二中と秋田中で、2-1で京都二中が優勝した。第10回から甲子園球場が会場になり、1948年(昭和23年)から全国高校野球選手権大会となった。<2018.1.04> 第1回全国中等学校野球大会決勝戦スタメン、[捕]渡部純司(5)[投]長崎廣(5)[三]鈴木久米治(3)[遊]小山田推一(4)[一]信太貞(5)[左]丹一郎(3)[中]羽石統一(4)[右]高橋蘶(2)[二]齋藤長治(3)。<2015.4.14>阪神甲子園球場で開催される夏の全国高校野球大会の前身 「全国中等学校優勝野球大会」 が始まって100年になる節目に合わせ、第1回大会に出場した全10校のOBが甲子園に集い、当時のカードで対戦する計画が進んでいる。第1回大会が開かれたのは1915(大正4年)8月。まだ甲子園はなく、大阪府豊中村 (現豊中市) の「豊中グラウンド」で東北から九州までの地区予選を勝ち抜いた10校が熱戦を繰り広げた。<2010.1.19、秋田県野球人名録> 渡部純司 (第1回全国中等野球大会準優勝)。秋田中の元捕手。平成5年12月22日、入院先の埼玉県の病院で老衰のため98歳で死去。甲子園の前身である大正4年の第1回全国中等学校野球大会で準優勝した秋田中野球部の元捕手。大阪豊中球場で行われた第1回大会に東北代表として出場した秋田中は、1回戦不戦勝、2回戦宇治山田中、準決勝早稲田実業を破って決勝進出、決勝で京都二中に延長13回1-2で惜敗した。秋田中卒業後、慶應義塾大学に進学し、陸上競技の選手として大正期に日本記録を保持した。戦後は旧県営手形球場の管理人や秋田大学北光会館管理人を長く務めた。 <秋田中参加選手> (投)長崎廣(捕)渡部純司(一)信太貞(二)齋藤長治(三)鈴木久米治(遊)小山田推一(左)羽石統一(中)丹一郎(右)野口眞吉、土井繁治。







東洋大時代 優勝パレード 杉本、大野・佐藤秀、仁村選手等(福田泰弘さん提供)

13度目の挑戦で成し遂げられた東北勢初優勝。秋田市内の自宅でテレビ観戦した信太聡一さん(88)は「やったよと伝えたい」と、父親への思いを口にした。父の貞(さだか)さんは1915年(大4)の第1回大会に出場した秋田中(現秋田高)の一塁手だった。<2018.6.24> 信太貞選手の孫 信太誠一さん(54)が第100会大会開会式後の始球式で投手を担当。・<決勝延長13回悲劇のサヨナラ / 信太貞一塁手> 1915年(大4)に夏の甲子園の前身である 「第1回全国中等学校優勝野球大会」 が始まってから今年で100年。このコーナーでは 「甲子園100年物語~輝いた東北の男たち~」 と題し、「甲子園」 を舞台に生まれたみちのく球児たちのドラマ、秘話などをお届けしていきます。第1弾は大旗にあと1歩まで近づいた準優勝編。その初回は、延長にもつれこんだ第1回大会決勝でサヨナラ失策をした秋田中・信太貞(しだ・さだか)内野手の物語を、息子の信太聡一さん(81)と孫の誠一さん(51)に語ってもらいます。秋田中は、おやじのエラーで負けた−。息子聡一は、中学2年の時に学校で聞かされるまで、その事実を知らなかった。[聡一] 先生が教えてくれるわけです。こういう試合があって、最後はファーストのエラーで負けたと。席の後ろから 「信太のおやじだ! 」 と声が上がった。帰って家で報告したら、おやじは何も言わなかった。1915年8月23日。東北勢最初の優勝のチャンスは “エラー” で逃げていった。1-1で迎えた延長13回裏、京都二中1死二塁。二塁へ飛んだ小フライを斎藤長治がワンバウンドで処理し、一塁へ投げる。一塁の信太が 「お手玉」 し、その後すぐにホームへ転送するも、二塁走者のホームインには間に合わなかった。この決勝点を許す失策は、一塁手の信太に記録された。信太は、秋田に帰り、校誌 「羽城」 にこう寄稿している。悪戦苦闘十三合、刀折れ矢尽きて我軍万事休して戦の終った瞬間、余は忘れんとして忘れ能はざる光景である。かの燦然たる優勝旗八百円の優勝旗は、彼れ京都二中の手に授けられたのである。吾れらは帰途の電車の内、宿舎に入っても只出づるものは涙のみであった(原文ママ)。本来は捕手で、大会直前の練習試合でケガをし、一塁手に転向。それでも守備中に 「さぁ、こい。さぁ、こい」 と球を呼ぶ自信はあった。攻守に活躍したとし、主催の朝日新聞から現在でいうベストナインとして表彰された。亡くなるまで言い訳はしなかった。1948年(昭23)2月22日、貞は自分の野球人生の多くを語らないまま、大腸がんでこの世を去った。その代わり、妻礼(ひろ)が、息子聡一へ、孫の誠一へ、夫から聞いた話を聞かせた。[聡一] おやじから聞いた野球の話はほとんどないの。[誠一] 子どもには話さないけど、多分、祖母には話していたんだよ。私は (礼さんから) 「おじいさんが、(エラー)やったと言われているけど、お前も野球やれ 」と、ずっと言われてきた。聡一は、後に地元紙 「秋田魁新報」 の運動記者として、1960年(昭35)から春夏通じ9度甲子園を取材。誠一は、「じいちゃんの敵を取りたい」 と、秋田高野球部で同期で元プロの石井浩郎らとともに甲子園を目指したが届かず。50歳を過ぎた今も、草野球で外野手としてプレーし続ける。野球と深く関わる2人の元には 「信太貞」 のエピソードが集まっていった。貞の野球への熱い思いは、一生続いた。秋田中を卒業後、青山学院大予科に進学したが、すぐに父成六が病気で入院したため、中退して東京で就職。休みに秋田へ帰省した際には、仲間と作った 「朝日クラブ」 という草野球チームでプレーし、少年野球大会も立ち上げた。その大会は、秋田魁新報に開催権が渡り今でも続く。その後、成六が亡くなると秋田に帰郷した。[聡一] 秋田に帰ると男鹿半島、仏戸(ふっと)の小学校で代用教員をしていた。その頃の教え子に聞いたこともあるけど、野球ばっかり教えていたそうだ。野球愛が高じて自ら 「運動の秋田社」 というスポーツ新聞社を立ちあげ、茨島(ばらじま)球場という今はなきグラウンドの管理人も務めた。甲子園予選の試合中に、熱くなってグラウンドに乱入。試合を中断させ、ヤジを受けたこともあった。妻子とともに球場近くに住む野球漬けの生活。だが、戦争の影が迫る。[聡一] 戦時中に、スポーツ新聞が作れなくなった。うちのおやじは野球以外何もできなかった。召集はされず、国策のパルプ工場で働き、終戦の半年前からは、プロペラを作る軍需工場に単身赴任した。もともと料理が出来ないため、そこで胃腸を崩し、終戦から2年半後、51歳でこの世を去った。秋田中・信太貞一塁手は、最後に失策した選手として記録に残る。ただ、こんな説もある。二塁手の斎藤は大会前に連れてきた急造の選手。ワンバウンドで捕った後、あわてて一塁へ投げたその送球が悪かった、と。[聡一] セカンドが悪いと言ってくれる人もいる。そうかもしれないが、そちらにも家族がいるんだからと思ってしまう。誰が悪い、ということは反対です。[誠一]だからうちが、エラーして負けました、と。それをずっとリベンジしようと思っているんだよ。今年12月19、20日には、100周年を記念し、甲子園球場で第1回出場10校のOB戦が行われる。誠一は、秋田高OBとしてメンバー入りを熱望する。秋田中が優勝を逃したあの日から100年。東北勢の優勝はまだない(敬称略)【高場泉穂】。◆第1回大会と秋田中 1914年、朝日新聞が全国中等学校優勝野球大会(現全国高校野球選手権大会)の開催を決定。全国各地区から10校が参加し、翌15年8月18日から23日にかけ、大阪・豊中球場で行われた。秋田中は県内の秋田農(現大曲農)、横手中(現横手高)と3校で臨時の東北大会を開催。2校に勝ち東北代表として参加した。

令和3年仁賀保高校野球部監督。<2020.11.19>尾留川徹教諭(矢島)令和2年度秋田県学校体育功労者(学校体育の発展、振興に貢献、秋田県学校体育研究連合会)。<2016.5.13> 中学時代に野球部のチームメートだった村岡敏英衆院議員は 「彼(工藤幹夫投手)が故障のときは励まし、逆に私が落選中は慰めてくれた親友だった。国会が終わったら見舞いに行こうと思っていたのに…」 と死を悼んだ。<若鷲旗争奪第4回東北中学軟式野球大会 、昭和50年8月12日~、宮城球場、 本荘南中優勝、大曲中準優勝>[決勝]本荘南1-0大曲(延長10回押し出し、工藤幹夫投手24イニング無失点)、[準決勝]本荘南1-0弘前一、大曲1-0佐沼、[1回戦]本荘南3-0仙台一、大曲2-0喜久田。<本荘南中登録選手>[投]工藤幹夫(3)、[捕]森川透(3)、[一]上原隆(3)、[二]保科政幸(3)、[三]○ 尾留川徹(3)、[遊]鈴木昭(3)、[左]菊地正和(3)、[中]斎藤潤(3)、[右]渡部浩孝(3)、小園(3)、小野晃(3)、丸山(3)、小野利(3)、渡部学(2)、斎藤一(3)、[部]長谷川達夫、[監]沢田宣夫。<大曲中登録選手>[投]高橋和彦(3)、[捕]○ 斎藤頼太郎(3)、[一]藤井吉人(3)、[二]古屋司(3)、[三]伊藤利彦(3)、[遊]小西憲二郎(2)、[左]小松功司(3)、[中]桑島功(3)、[右]高橋和彦(2)、小松(2)、高橋良(3)、渡部(3)、児玉(3)、加藤(3)、[部]加藤尚、[監]後藤晃男。
