★ 備忘録 「熱球通信」 ・ 特定非営利活動法人秋田県野球フォーラム ★

「熱球通信」は特定非営利活動法人秋田県野球フォーラム会員有志による備忘録を兼ねた「秋田県野球」にこだわった私的ブログです。掲載している記録等については公式なものではありませんのでご注意願います。リンク等についてはオールフリーですので事前のメール等一切不要です。更新頻度は原則毎日の更新です。秋田県出身で県外に在住の方も念頭に更新していきますが、内容等一部については地元情報と時差が生じる場合があります。練習・親善試合の結果情報は原則掲載しません。また、コメント送信欄と掲示板については諸般の事情により対応していません。積極的な中学硬式野球・女子野球の紹介に努めています。

人名録(故人)

2014.1.10/巨人編成調査室 水沢薫元投手(秋田商-秋田北)都内の病院で死去。

mizusawmizusawa【2014.1.16】巨人職員だった水沢薫氏の通夜が2014(平成26年)1月16日新横浜総合斎場で。巨人原監督が球団を通してコメント(全文)。 「水沢君は厳しい闘病生活の中で、必ず復帰するという希望を持って頑張ってきていました。急な訃報を聞き、残念でなりません。よい友であり、戦友でした。思い出をたくさん作ってくれました。ご冥福をお祈り申し上げます」。【2014.1.10】元巨人軍投手で、球団の編成調査室職員を務めていた水沢薫氏(48、河合楽器-秋田商-秋田北)が、2014年(平成26年)1月10日午前0時22分、肝不全のため都内の病院で死去。水沢投手は1965年2月18日生まれ、秋田市出身、1986年ドラフト2位で巨人に入団。1992年に現役を引退後、1995年から2006年まで巨人のトレーニングコーチを務めた。その後ジャイアンツアカデミーのコーチを経て、2008年から運営部1軍監督付となり、原監督のサポートに尽力。世界一となった2009年のWBCにも帯同。秋田県人らしい温厚で誠実な人柄で、原監督からの信頼が厚く、選手・関係者からも同様に慕われていたが、体調が優れないこともあり2013年に現場を離れていた。<昭和57年夏秋田商登録選手> [投]戸嶋治(2、大曲)、[捕]○高橋明(3、羽城)、[一]藤井利典(2、大曲)、[二]進藤進(2、秋田北)、[三]河村清春(3、城南)、[遊]杉山信哉(3、二ツ井)、[左]鎌田勝(3、羽城)、[中]武藤勇人(2、大曲)、[右]今喜寿仁(3、平和)、水沢薫(3、右右、181/75、秋田北)、佐藤猛広(2、秋田北)、戸嶋浩治(2、払戸)、粟津敦(2、大曲南)、三浦敏雄(3、船川)、久米義人(3、鳳)、工藤智之(2、秋田西)、[責]登利谷重郎(54)、[監]三浦第三(41)。

2014(平成26年)1月/元巨人投手 水沢薫氏告別式 巨人原辰徳監督弔辞全文。

mizu1月10日早朝、突然の訃報が入ってきました。あなたは87年、巨人軍に入団し、選手、コーチ、そして監督付きマネジャーとして長きに渡り友人であり、そして戦友でもありました。特に2008年より監督付マネジャーとして、私はあなたに支えていただきました。共に戦い、共に喜び、共に悔しがり、たくさんの思い出を作りました。 WBCの世界一。2度の日本一。常に前向きで堂々としているあなたの姿に、私は勇気づけられたものです。素直な心、感謝する気持ち。私もあなたに教えていただきました。 おいしいものを食べるのが大好きで、感動したものは必ず写真を撮っていましたね。ワインのことも全く知らなかったミズ。最初に2人で飲んだワイン覚えていますよね。シャンベルタンです。「ナポレオンがこよなく愛したワインだよ」 と説明をしましたよね。その味が相当気に入ったんだね。そんな機会があるたび、シャンベルタン、シャンベルタンと。ミズ、本当に味がわかっていたんですか?WBCで、サンディエゴで試合をしましたね。その時サンディエゴ動物園に散歩に行こうと決め、ホテルからタクシーに乗りましたよね。その時にタクシーの運転手さんに 「go toアニマルパーク」 とミズは言って、キョトンとされましたね。その時は、少し僕が手伝ったような気がします。今思えばあれが最後のシーズンでした。2012年、5冠を達成し最高の年でした。シーズンオフ、私はあなたを 「健康診断に一緒に行こう」 と誘いました。いつものように 「ありがとございます。お願いします」 と言って向かいました。そこからちょっと辛かったな。旅行にも行きましたね。そしてその年のV旅行の日がやってきました。あなたは、家族と先生とよく話をして、V旅行に行く事を選択しましたね。久しぶりに成田空港で再会をしました。私は何も言わずにあなたを抱きしめ、あなたも私を抱きしめました。「共に戦おう」。と言葉を搾り出しました。みんなに好かれたミズ。たくさんの人が力になってくれたな。弱音をはかず、ただただ元気になり現場に戻るんだ!その希望の中、頑張りましたね。2013年1月から始まった治療、4月、5月、6月。まさに順調でした。「ミズ、オールスター以降、現場復帰目指そう」。私は本気で言い、あなたも本気でそう思いましたね。姿かたちも全く変わらず、食欲も見事でした。しかしかないませんでしたね。「ミズ。ちょっと早かったな。もう少し時間をかけよう、焦らずにまた頑張ろう」「また、1から頑張ります」。そう明るく私に答えてくれましたね。私はあなたが亡くなる日の夕方、電話をしましたね。少し体力が落ちていた事は気付いていましたが「ミズ、ちょっとしんどそうだな。もう少し体力が上がって元気になってから病院に行くよ」 「そうしてください。頑張ります」。それが最後の言葉でした。ミズ、俺は悲しい。早すぎる別れだな。でもミズは精いっぱい、全速力で頑張りました。あなたが愛した家族、奥様、2人のお嬢様、そして参列してくださっている皆さま。今はみんな悲しい。でもあなたが教えてくれた、くよくよせずに前向きに進む。この事はみんな分かっています。 ミズ、ミズはそんなことを心配せずに、天国に行ってまずはゆっくり休んでください。だって頑張ったぜ。ミズ。そして元気になったら天国から家族、みんなを見守ってください。安らかに。水沢薫、さようなら。読売巨人軍監督、原辰徳。

2020 / 秋田高-立教大 / 元プロ野球 国鉄 東京 小西秀朗さん82歳 1月13日死去

生前プロレス関係のイベントも企画
Scan10006

● 秋田高-立教大 / 元プロ野球 国鉄、東京 小西秀朗さん1月13日 82歳で死去

令和2年3月17日付 秋田さきがけ
3

秋田県野球人名録 / プロ野球完全試合達成 佐々木吉郎 投手(日本石油-秋田商)

kiti

秋田県野球人名録 / プロ野球完全試合達成 佐々木吉郎 投手(日本石油-秋田商)

完全試合―15人の試合と人生 北原遼三郎 東京書籍
hidari

秋田県野球人名録 / プロ野球完全試合達成 佐々木吉郎 投手(日本石油-秋田商)

sasakikiti2sasakikiti11966 (昭和41) 年5月1日対広島戦でプロ野球完全試合達成 (両リーグ通算8人目)。2008 (平成20年) 12月21日、敗血症のため東京都内の病院で死去、68歳。秋田市新屋生まれ、秋田商で捕手から投手にコンバート、社会人野球日本石油の投手として活躍 (橋戸賞) した後、1962年プロ野球大洋ホエールズ入団。現役期間は8年で23勝34敗。引退後、TDK野球部監督歴任、勝利数よりも完全試合の記憶が鮮明。北原遼三郎著『 完全試合 -15人の試合と人生- 』東京書籍発行、四六判。秋田県大仙市 かみおか嶽雄館「野球ミュージアム」で完全試合達成時の写真が展示されている。 <毎日新聞より抜粋> 秋田商出身入社5年目右腕は 「社会人球界随一の豪速球」 の前評判通り自慢の速球を武器に、1962年の第33回大会で43イニング連続無失点の新記録樹立、半世紀以上破られていない都市対抗の記録。プロ野球通算記録、実働8年、202試合登板、23勝34敗、8完投、4完封、259奪三振、投球回 563 2/3、防御率2.94。

秋田県野球人名故人録 / 小窪敬一元秋田経法大付野球部監督(電電東北-仙台商)

3e89dbc6-sダルビッシュ有(Yu Darvish)投手のツイッターより。なんでも自由にやっているように思われていると思いますが、投手をやる上で大事にしていることが二つあります。1・ロジンを優しく扱うこと、投げたりしない。 2・グラブの紐は全て結ぶ。 1.は 秋田経法大附 (現明桜) の 小窪敬一 元監督。 2.は PL学園元監督の中村順司監督に教えていただきました。【2007.12.31】元秋田経法大付野球部監督。平成17年12月19日 心筋梗塞のため仙台市内の病院で死去、56歳。平成13年4月から秋田経法大付で指揮を執り、同年秋の東北大会 (岩手県、仙台育英優勝) で準優勝し、平成14年センバツに出場 (平成15年退任)。昭和42年仙台商のエースとして甲子園春夏連続出場、電電東北で都市対抗4度出場、仙台商の監督として昭和58年夏甲子園出場という輝かしい球歴。NTT東北の監督も約7年間務め多くの選手を育てた。秋田県関係では竹内昌也投手 (阪神-NTT東北-本荘-象潟)。平成18年11月、1周忌を機会にフルスタ宮城で追悼試合が行われた。<秋田経法大付甲子園先発選手> [二]佐藤茂樹(3、北陽)、[遊]千田祐成(3、八郎潟)、[中])○桑島知宏(3、光陽)、[捕]松田幸樹(3、湯沢北)、[左]高橋康太(3、河辺)、[投]平塚隆一(3、あいの里東)、[一]田村潤(3、比内)、[三]山内伸悟(3、大館東)、[右]山中慎太朗(3、横手南)、木村雄太(2、花輪二)、菅原圭介(2、羽城)、田中雄也(2、二ツ井)、福田卓(3、協和)、佐藤壮(3、西仙北東)、高橋拓也(3、山田)、阿部隆雄(2、能代二)、高橋純(1、塩釜一)、佐藤大(2、泉)、今野福太郎(1、本荘南)、堀内誠(3、田代)。

秋田県野球人名故人録 / 小窪敬一元秋田経法大付野球部監督(電電東北-仙台商)

平成17年12月19日 心筋梗塞のため仙台市内の病院で死去、56歳
ko

平成25年12月6日 / 明桜野球部監督 三浦第三氏(73、秋田商)自宅で死去

miurad<2013.12.12> 高山郁夫オリックス投手コーチが弔辞。<2013.12.08> 三浦第三監督から指導を受けた明桜高校3年生20人が弔問。 明桜高校野球部監督三浦第三氏(専修大-秋田商)が2013(平成25年)12月6日午後11時秋田市新屋の自宅で死去、73歳。葬儀は12月11日午前11時から秋田市泉ベルコシティホール秋田。秋田商3年の昭和33年中堅手で甲子園大会出場、徳島商板東英二投手からその試合でチーム唯一の安打を放った。秋田商監督時代の昭和54年夏、55年春夏3季連続で甲子園出場、大館商、大曲農監督歴任。定年退職後、秋田経法大(現ノースアジア大)硬式野球部監督を経て平成23年から明桜監督。平成18年日本高野連育成功労賞受賞。厳しい指導法でも知られ、高山郁夫投手、DeNA育成1位砂田毅樹投手等多数の選手を育てる。

秋田県野球人名録 / 東京六大学リーグ 花形投手 立教大 築地俊龍投手(五城目町)

222五城目の誇り すばらしい先輩たち  昭和初期に東京六大学リーグ立教大学の主戦投手として活躍。1904(明治37年)3月7日、秋田県馬川村生。秋田中-立教大ー大洋漁業-函館オーシャン。後年は、住職の傍ら五城目町助役、町議会議員歴任、1972(昭和47年)11月13日逝去。詳細は秋田県五城目町教育委員会 「五城目町のほこり すばらしい先輩たち 第1集」で紹介。<以下一部抜粋> いなかの小さなお寺では、子どもを東京の大学にすすめるというゆとりはありませんでした。しかし、俊龍を大学野球で活躍させてやりたいという人がいて、その人の助けがあって立教大学に進学することになりました。東京六大学野球リーグで、俊龍は立大の主戦投手として活躍します。そのマウンド上の勇姿は、たくさんのファンを熱狂させました。昭和2年(1927)には六大学リーグでみごとに優勝をかざりました。昭和3年、大学を卒業した俊龍は、北海道函館の大洋漁業に入社し、ノンプロ野球の「函館オーシャン・クラブ」に入団しました。函館オーシャンは、大洋漁業を中心に明治40年(1907)につくられた球団でしたが、俊龍の入団を待っていたように、その年の第2回都市対抗野球大会にはじめて出場しました。俊龍は、かつての早稲田大学の名捕手だった監督の久慈次郎とバッテリーを組んで登場しました。この六大学を代表した黄金のバッテリーはファンを喜ばせ、函館オーシャンの名を高くしました。函館の俊龍へ、帆奈に北海道の旭川に天才的な少年投手がいるという話が聞こえてきました。さっそく遠い旭川まで、俊龍はなんども行ってピッチングのコーチをしてやりました。その少年は、のちにプロ野球で大活躍した スタルヒン 投手です。俊龍は名投手スタルヒンの生みの親ということができます。野球をつづけたかった俊龍は、お寺をつがなければなりません。26歳の昭和5年秋に会社をやめ、曹洞宗大本山永平寺で僧になるための修行に入りました。はなやかな野球選手の生活をすて、ひとりの雲水(うんすい)となってきびしい修行をはじめたのです。そして昭和9年(1934)自性院に帰り住職となりました。その後は、昭和11年から8年間、曹洞宗宗務庁につとめて東京の生活を送り、昭和37年(1962)から4年間宗議会の議員となったり、五城目町の助役や町議会議員をつとめたりしました。宗門でも、五城目町でも、すぐれた人材として俊龍に期待していたことが、こうしたことからもうかがえます。俊龍は、その期待に全力でこたえようとしました。一生、マウンドの上の精神を持ちつづけていたのです。なくなったのは昭和47年(1972)11月13日、まだ68歳でした。

秋田県野球人名録 / 東京六大学リーグ 花形投手 立教大 築地俊龍投手(五城目町)

第97回大会 能代高校硬式野球部 築地徳龍主将(五城目一)駒澤大学進学
1
2

秋田野球人名録 平成23年11月1日 嵯峨健四郎投手(プロ東映時代20勝達成)

4ef24b89平成23年11月1日午前5時30分、肝細胞がんのため神奈川県鎌倉市内の病院で死去、74歳。嵯峨健四郎投手は秋田市上北手中(城南中)から秋田商、日鉱日立を経て昭和35年東映入団、昭和39年に21勝を記録し、昭和41年にオールスター出場。昭和43年に巨人に移籍、昭和44年に東映に戻り現役引退。通算53勝42敗。秋田商時代は厳しい指導で有名な赤根谷飛雄太郎門下生の第1号。その投球フォームが師とそっくりだったとは関係者の証言。とにかく映画スターを思わせる風貌が印象的でした。中学時代の全県出場と高校時代の甲子園出場共になし。秋田さきがけ紙「八橋球場の50年-第1部 球史を彩った男たち」 登場。嵯峨健四郎  <週刊ベースボール> 悲劇の主役は嵯峨健四郎。20勝の大台を突破も、話題は・・・・60年に東映へ入団したプロ5年目の右腕だ。63年にプロ初勝利を含む6勝を挙げて一軍に定着すると、迎えた64年に21勝を挙げてブレーク。ただ、近年では20勝を超えれば大騒ぎだが、当時も投手の勲章ではあったものの、それほど珍しくなかった時代だ。注目を浴びたのは勝ち星ではなく、その打席だった。とにかく打てない。最終的には77打席連続無安打というシーズンのプロ野球新記録で閉幕。悪夢は終わらない。翌65年も嵯峨は自身の記録を更新し続ける。対戦する投手たちも、嵯峨が打席に入ると、ほかの投手に投げるのとは明らかに違っていた。あまり例のないことなので表現が難しいのだが、嵯峨と対戦した投手たちは皆、不名誉な連続記録を阻止する安打を献上した投手として球史に名を残したくなかったはずだ。打席にいるのが投手なら力を抜いたピッチングをすることも少なくないが、嵯峨が打席に入ると、容赦なく攻め立てる。権藤が胃を壊したことも紹介したが、これは嵯峨も同様だった。バットの不振は胃腸だけでなく、ピッチングにも影を落としていく。64年は21勝9敗と貯金を稼いだ男が、65年は2勝8敗と急失速。最終的に連続シーズンのプロ野球記録としては90打席連続無安打でストップしたが、64年のシーズン77打席とともに、現在もプロ野球記録として残る。権藤は3年にわたったが、2年で終わったのは不幸中の幸いだろうか。その翌66年、嵯峨は17勝9敗と復活を果たしている。

昭和58年10月12日 / 秋季東北大会決勝戦 金足農-大船渡 延長16回白熱戦

oo延長16回の熱戦。タイブレーク制が甲子園大会で導入されたのは、35年後の第90回記念選抜大会から。<2018.4.25> 訃報 / 半田英生選手逝去1983年 昭和58年10月12日、第36回秋季東北地区高校野球大会決勝戦 金足農-大船渡 (岩手県営)は、延長16回の白熱戦となり岩手県代表大船渡が優勝、金足農の東北初制覇の夢は持ち越しに 。試合は金足農が序盤の2回に2点先制も大船渡が4、5回に1点づつ返し試合は延長戦に、16回の表、大船渡が逆に2連続二塁打で逆転、金足農もその裏、鈴木の適時打で1点差と詰め寄るも後続が併殺打で試合終了、金野・水沢両投手完投、試合時間3時間56分、無失策試合、大船渡4番鈴木選手水沢投手から本塁打、[金足農](三塁打)水沢、(二塁打)工藤2、水沢。<平成58年秋季東北大会決勝戦 金足農先発> [三]大山等(2、琴丘)、[中]斎藤一広(2、雄和)、[遊]工藤浩孝(2、八郎潟)、[投]水沢博文(2、秋田北)、[捕]○ 長谷川寿(2、五城目一)、[一]鈴木善久(2、五城目一)、[左]山崎里史(2、下浜)、[二]小玉勇樹(1、五城目一)、[右]柏谷安彦(2、秋田北)、石塚昭彦(1、河辺)、安田卓(1、秋田北)、半田英生(2、井川)、石田則嗣(1、秋田北)、佐藤学(2、天王)、小玉文隆(1、羽城)、佐藤俊樹(2、船川)、浅野和幸(2、井川)、館岡明(1、五城目一)、原田好二(1、船川)、小林誠(1、秋田南)、[部長]豊島君男、[監督]嶋崎久美、[記録]鳴海猛(2、八郎潟)。

平成28年 秋季秋田市内高校野球リーグ戦 / 金足農 佐々木葵 投手(2、男鹿東)

令和3年9月14日午後1時5分永眠 ご冥福をお祈りいたします
<チョコパン>さん 
https://twitter.com/smalto19

5554145

平成23年古城敏雄氏講演会 / 我が野球人生-花も嵐も乗り越えて(南部公民館)

baae松本豊氏回想:高校への進路はチーム全員で角館に進むものだと思っていたが、経大附、秋田商、大曲農、角館の各校がこぞってスカウトに来たのを覚えている。特に経大附(現明桜)・古城敏雄監督、秋田商・三浦第三監督は熱心に何回も自宅に足を運んでくれた。<2020.8.24>1981年第53回センバツ大会準々決勝、秋田経大付-印旛をDVD観戦。実況:石井賢アナ、解説:池西増夫氏。2015.8.26 古城敏雄氏 (元秋田商、秋田経大付野球部監督)。2015(平成27年)8月25日 午前3時8分、ぼうこうがんのため秋田市の病院で死去、80歳。葬儀は29日午前11時から秋田市寺内字三千刈238-1、こすもす中央ホールで。喪主は長女の夫:村井成人さん。57年から秋田商高監督。58年夏、同校を23年ぶり甲子園に導き、60年センバツで4強に進んだ。専修大監督を経て79年から秋田経大付 (現明桜) 監督を務め、81年センバツで8強入り。両校の監督計9年で甲子園に7度出場した。元教諭。20119.28 平成23年9月30日 秋田市南部公民館文化講演会 「我が野球人生-花も嵐も乗り越えて」(講師 / 古城敏雄氏)。<2011.3.11> 秋田市民文化講演会 平成23年3月12日(土) 古城敏雄氏 「人それぞれの甲子園~勝ちを呼んだおにぎり」。<2010.2.28> 古城敏雄氏の喜寿を祝う会。伝説の赤根谷飛雄太郎監督の後任として秋田商の監督に就任して以来、石戸四六、今川敬三投手、成田光弘捕手等、また専修大監督退任後に秋田経大付監督に転じてからは松本豊投手等を育てた。

秋田県野球人名録 / 秋田県 赤根谷飛雄太郎様で郵便物届いた赤根谷飛雄太郎投手

b32554b1
県内では「投手育てさせたら 赤根谷、総合的なチームづくりは 山谷」と評された。昭和27年、母校秋田商の監督に就任。昭和31年夏、秋田商は青森球場で春の東北大会で優勝。甲子園行きを決めたが、決めると同時に赤根谷は病に倒れた。監督を退き、あとを後輩に託したが、病が少しよくなると自宅の庭にブルペンを作り、後輩球児バッテリーをここで指導して鍛えた。打倒秋田中(高)の想いが燃えた。( 越智正典 / スポーツジャーナリスト )<2014.3.15>3月14日、明桜八木茂新監督が初指導。秋田県でプロ野球経験者が高校野球を指導するのは急映 (東急、現日本ハム) に投手として在籍後、1950年代に秋田商監督を務めた赤根谷飛雄太郎氏以来2人目。<2010.4.10> 大正5年1月5日 ~ 昭和44年8月22日、秋田県の高校野球はこの人抜きに語れないと言われています。元秋田商野球部監督。詳細 → 赤根谷飛雄太郎 「秋田県 赤根谷飛雄太郎 様」 で郵便物が届いた等の逸話多数。以下引用、現役はわずか2年だったが、引退後は母校秋田商などの監督として、秋田の球界で重きをなした。諸説あるが 「巨人の星」 の星飛雄馬は、赤根谷飛雄太郎からヒントを得た名前ともいわれている。記録マニアには 「赤根谷飛雄太郎」 は殿堂入り級の有名選手だ。※ 秋田コンマーシャル倶楽部の詳細情報求めています

日刊スポーツ / ダルビッシュら育てる / 元東北高校監督 若生正広氏 70歳で死去

wakou

日刊スポーツ / 東北高監督時代にダルビッシュらを育てた名将、若生正広(わこう・まさひろ)氏が27日朝、宮城県仙台市内で、肝臓がんのため死去した。70歳だった。家族に見守られ、眠るように息を引き取ったという。若生氏は07年に黄色靱帯(じんたい)骨化症を発症。一時は回復し歩けるようになったが、13年に腰を骨折し車いす生活に。近年は持病の糖尿に加え、肝臓がんを発症した。昨年3月まで埼玉栄監督を務め、治療を続けながらグラウンドに通い続けた。高校野球指導33年、春夏合わせて11回も甲子園へ導いた。「甲子園に行ったら、人間的に自信がつく。子供が成長できる場所。なかなか味わえないものだからね」と生涯をかけて子供たちと聖地を目指し続けた。埼玉栄を退いた後も、教え子が監督を務める地元のシニアで指導することもあった。先週は九州へシニア関係者を訪ねていたが、その際、体調を崩し、仙台へ戻り治療していた。◆若生正広 1950年(昭25)9月17日生まれ、宮城県仙台市生まれ。68年、東北(宮城)3年時、夏の甲子園に主将でエースとして出場。法大、社会人野球チャイルドでプレーした後、埼玉栄の監督を経て93年秋から母校の監督に。春5回、夏2回甲子園に導き03年夏は準優勝。04年に退任し055年から九州国際大付(福岡)で監督を務め、11年センバツ準優勝。15年から埼玉栄の監督、19年から総監督。20年春に退任した。<2019.4.05> 東北、九州国際大付などを指揮し、甲子園で2度準優勝の実績を持ち、2015年から埼玉栄を率いてきた若生正広監督 (68) が勇退して総監督に就任。東北高監督時代にダルビッシュ有投手を擁した2003年夏、九州国際大付では2011年春と2度決勝進出したが、どちらも準優勝にとどまった。33年間で春夏の甲子園に計11度出場、通算16勝11敗、後任監督は、2013年から1度監督を務めていた山田孝次部長 (35)。<2015.2.06> 九州国際大付前監督若生正広氏(64、社会人野球チャイルド-法政大-東北、甲子園春夏11度出場)が、2015(平成27年)4月に埼玉栄監督に就任することになった。3年ぶり出場の昨年の甲子園大会で1回戦敗退して勇退したが、1987(昭和62年)に監督としてスタートした埼玉栄 (甲子園2度出場) で再び甲子園を目指すことになった。若生監督は東北時代にエースとして活躍 (甲子園出場)、同校監督を務めていた2003 (平成16年) 夏にダルビッシュ投手を擁して甲子園準優勝。2005 (平成18年) から九州国際大監督に転じ2011 (平成23年) 春にも準優勝。2007 (平成19年) に特定疾患の脊椎靭帯骨化症の一種である黄色靭帯骨化症を患い、昨年夏の大会は車いすで指揮した。昨年のドラフト会議では清水優心捕手が日本ハム2位、古沢勝吾内野手がソフトバンク3位で指名された。

秋田さきがけ紙 「秋田市営八橋球場50年-球史を彩った男たち」 三平晴樹投手

孫 渡部淳一投手(3、左、慶應、東京神宮シニア) 春夏甲子園連続出場
san

元プロ野球三平晴樹投手(秋田商)の孫 渡部淳一投手(慶応大、東京神宮シニア)

2020.7 慶応義塾高校で甲子園出場
8385af81

2018朝日新聞 バーチャル高校野球 / 八橋球場グラウンドキーパー 中川誠さん

gk中川誠さん葬儀 / 令和3年7月22日(木)午前11時~虹のホール・レゼール追分。<2018.4.23> 朝日新聞バーチャル高校野球 高校野球や社会人野球などで使われる八橋球場で長年グラウンド整備を務め、「八橋の住人」 とも呼ばれるグラウンドキーパー (GK) がいる。中川誠さん (64) と佐藤雅之さん (50) 。2人が忙しくなる季節が今年も始まった。高校野球の春季リーグ戦が始まった4月上旬。試合前のノックが終わると同時に、2人は他のGKらとともに小走りでグラウンドへ。できた土の穴を埋め、マウンドをならし、水をまき、ラインを引く。雨天ならばスポンジで水を抜く作業をする。試合開始までの10分ほどの間に手際よくこなしていく。中川さんは今年でGK歴47年目になる。4年前に秋田市職員を退職したが、再雇用されて続けている。10代の頃から半世紀近く、八橋球場のグラウンドを見守ってきた。「今年で65歳。この仕事をやれるのも長くない。正直、肩の荷が下りるよ」 と笑う。それでも 「やめたあと、家の中に1、2カ月もいたら、またやりたくなるのかもしれないな」。八橋球場のグラウンドは 「プレーしやすい」 と、選手や関係者に評判だ。それは、中川さんを中心としたGKたちの苦心や工夫の証しでもある。「毎年、グラウンド脇の側溝に流れた砂の量を計算して新しい砂を入れる。それでも 『今年はちょっと失敗したな』『来年はこうしよう』 と反省することは多い」 と中川さん。試合の最中、選手のプレーではなく、その足元の状態につい目がいってしまう。土の配合や整備のノウハウを中川さんから継承してきたのが、市スポーツ振興課に所属する佐藤さんだ。今年で30年目を迎えた。「シーズン中は朝5時には起きる。まず天気が気になりますね。大会の運営側から、何分後に試合ができるようになるのかと意見を求められることもあります」 ともに元高校球児。中川さんは金足農で捕手、佐藤さんは角館で投手だった。2人は市職員OBの野球チームに所属し、出場選手の合計年齢が500歳以上がルールの 「500歳野球」 で今もプレーする。「今年で夏の甲子園100回か。その秋田大会の半分近くで整備をしてきたんだなあ」。中川さんは感慨深げだ。(山田佳毅)

八橋球場グラウンドキーパー 中川誠、佐藤雅之さん 軟式秋田市役所OBチーム。

yab<昭和44年春季リーグ金足農登録選手>[投]遠藤民雄(3、井川)、[捕]三浦春樹(2、羽城)、[一]三浦昇(3、外旭川)、[二]菅原吉範(3、羽城)、[三]〇 斉藤好春(3、羽城)、[遊]佐藤芳男(3、脇本)、[左]遠藤一雄(3、井川)、[中]加藤薫(3、戸米川)、[右]菅原与志美(3、羽城)、竹田文夫(3、馬場目)、佐藤儀和(2、秋田北)、中川誠(1、秋田北)、大淵金広(2、潟西)、黒崎猛(3、川添)、一関勇一(2、五城目)、千田清(2、八郎潟)、大淵和則(2、潟西)、工藤茂則(2、琴丘)、高野新一(1、上川大内)、八柳昇(1,大川)、[部長]安杖正昭、[監督]菅原泰雄、[記録]沢田石吉広(1、五城目)。<500歳野球秋田市役所OB> 部長 / 木谷久光。監督 / 中泉孝一、コーチ / 荻原久、主将 / 佐藤康明、選手 / 佐藤貞司、鎌田弘、佐々木均、土館隆司、中島義弘、中川誠、高橋範慶、鎌田護、保坂義則、神田清武、富樫純一、柴田弘毅、大門昭男、菅原文夫、武田文人、高橋和也、小野孝洋、佐藤学、阿部雅紀、東海林健、伊藤達矢、福原忠勝、三浦浩、大和良志、佐藤雅之。<昭和60年夏角館高校野球部>[投]佐藤雅之(3、豊成)、[捕]高橋修(3、仙北)、[一]高橋修(3、二ツ井)、[二]藤岡純(3、生保内)、[三]荒川勝弘(3、中仙)、[遊]長沢政信(3、仙北)、[左]石川和彦(3、生保内)、[中]渋谷要一(3、角館)、[右]宮田浩孝(3、中仙)、○小田島広仁(3、生保内)、千葉孝志(3、田沢)、江橋賢治(3、角館)、佐藤健(3、角館)、門脇一(3、白岩)、田口泰之(3、西明寺)、村上修晃(2、豊成)、平鹿邦弘(2、生保内)、[部長]才田一展、[監督]信田秀樹。

昭和50年8月 / 第4回 東北地区中学軟式野球大会 本荘市立本荘南中学校 優勝

gai令和3年仁賀保高校野球部監督。<2020.11.19>尾留川徹教諭(矢島)令和2年度秋田県学校体育功労者(学校体育の発展、振興に貢献、秋田県学校体育研究連合会)。<2016.5.13> 中学時代に野球部のチームメートだった村岡敏英衆院議員は 「彼(工藤幹夫投手)が故障のときは励まし、逆に私が落選中は慰めてくれた親友だった。国会が終わったら見舞いに行こうと思っていたのに…」 と死を悼んだ。<若鷲旗争奪第4回東北中学軟式野球大会 、昭和50年8月12日~、宮城球場、 本荘南中優勝、大曲中準優勝>[決勝]本荘南1-0大曲(延長10回押し出し、工藤幹夫投手24イニング無失点)、[準決勝]本荘南1-0弘前一、大曲1-0佐沼、[1回戦]本荘南3-0仙台一、大曲2-0喜久田。<本荘南中登録選手>[投]工藤幹夫(3)、[捕]森川透(3)[一]上原隆(3)[二]保科政幸(3)[三]○ 尾留川徹(3)[遊]鈴木昭(3)[左]菊地正和(3)[中]斎藤潤(3)[右]渡部浩孝(3)小園(3)小野晃(3)丸山(3)小野利(3)、渡部学(2)、斎藤一(3)、[部]長谷川達夫、[監]沢田宣夫。<大曲中登録選手>[投]高橋和彦(3)、[捕]○ 斎藤頼太郎(3)、[一]藤井吉人(3)、[二]古屋司(3)、[三]伊藤利彦(3)、[遊]小西憲二郎(2)、[左]小松功司(3)、[中]桑島功(3)、[右]高橋和彦(2)、小松(2)、高橋良(3)、渡部(3)、児玉(3)、加藤(3)、[部]加藤尚、[監]後藤晃男。

2020.4 創立100周年 秋田商元教頭 武藤四郎さん 6年かけ「秋商百年史」

野球は戦前の甲子園大会で活躍した赤根谷飛雄太郎を監督に迎えた
aka
秋田商業高校創立100周年記念招待試合(6月25日、八橋球場、秋田高校招待) 
100
会場への入場は両校生徒・教職員・部員の保護者等

秋田野球人名録 / 今ではありえない伝説の酒豪 石戸四六(度胸 NO.1酒仙投手)

IMAGE0005imakawa 1デイリー新潮取材班編集、抜粋> 酒仙投手の呼称は、職業野球時代の大阪タイガースのエース・西村幸生が元祖だが、1960年代にこの名をほしいままにしたのが、石戸四六である。1961年9月、ヤクルトの前身・国鉄と契約した直後、「契約金がドカンと入ったので」と、なんと、有楽町の球団事務所から郷里の秋田県大館市までタクシーで帰った。タクシー代3万円に加え、温泉宿の宿泊代、飲食代なども合わせて、合計5万円以上。大卒初任給が1万5000円に届くかどうかという時代に、なんとも豪快な話だ。石戸は試合が終わると、ステテコ姿で日本酒を湯のみ茶碗で飲むのを常とした無類の酒好きで、「一升や二升はいけた」という。ロードで先発させようと先乗りさせると、これ幸いと飲み屋に直行してしまうため、石戸に限り先乗りはNGになった。しかし、ひとたびマウンドに上がると、横手からの重いシュートと度胸の良さを武器に、68年に金田正一以来球団史上2人目の20勝を記録するなど、9年間で70勝を挙げた。サンケイ時代の65年8月7日の大洋戦では、被安打1安打の無四球、打者27人の準完全試合。翌66年8月28日の巨人戦では、王貞治に3安打を許しただけの3安打完封で、“ 王以外ノーヒットノーラン ”の珍記録もつくっている。だが、過度の飲酒から肝機能障害と慢性胃炎を併発し、29歳の若さで引退となった。78年、ヤクルトが球団創設以来初の日本一を達成すると、石戸も祝賀会に招かれた。その日のうちに秋田に帰る予定だったのに、「列車が満席で取れない」とボヤくと、周囲から「タクシーで帰ればいいじゃないか」の声が上がった。すると、石戸は「いや、もうあんなバカな真似はできませんよ。もう無駄なお金は使う気になりませんよ」と照れながら答えたという。・巨人キラー石戸四六の全記録「白球の軌跡」(吉田一雄著、昭和56年発行)、猛牛千葉茂氏曰く 「度胸NO.1の酒仙投手」。酒仙投手と称された石戸四六投手の生涯と記録の集大成。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E6%88%B8%E5%9B%9B%E5%85%AD 吉田一雄氏は平成15年に「ノンフィクション 今川敬三の球歴 北国の球魂歌」出版。

記事検索
カテゴリ別アーカイブ
QRコード
QRコード
記事検索
月別アーカイブ
カテゴリ別アーカイブ
記事検索
サイト訪問実人数
  • 今日:
  • 昨日: