★ 備忘録 「熱球通信」 ・ 特定非営利活動法人秋田県野球フォーラム ★

「熱球通信」は特定非営利活動法人秋田県野球フォーラム会員有志による備忘録を兼ねた「秋田県野球」にこだわった私的ブログです。掲載している記録等については公式なものではありませんのでご注意願います。リンク等についてはオールフリーですので事前のメール等一切不要です。更新頻度は原則毎日の更新です。秋田県出身で県外に在住の方も念頭に更新していきますが、内容等一部については地元情報と時差が生じる場合があります。練習・親善試合の結果情報は原則掲載しません。また、コメント送信欄と掲示板については諸般の事情により対応していません。積極的な中学硬式野球・女子野球の紹介に努めています。

人名録(故人)

秋田高-立教大 元プロ野球 国鉄 東京在籍 小西秀朗さん 令和2年1月13日死去

生前プロレス関係のイベントも企画
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秋田高-立教大|元プロ野球選手 小西秀朗さん 令和2年1月13日死去 82歳

令和2年1月17日付 秋田さきがけ
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生前 少年野球の試合をよくバックネット裏で観戦

読売巨人職員 水沢薫さん( 昭和40年2月18日生 )平成26年1月10日死去

mizusawmizusawa現役時代は140km台の速球とシュートを中心とする投球スタイル。<2014.1.16> 巨人軍職員だった水沢薫氏の通夜が2014(平成26年)1月16日新横浜総合斎場で。巨人原監督が球団を通してコメント(全文)「水沢君は厳しい闘病生活の中で、必ず復帰するという希望を持って頑張ってきていました。急な訃報を聞き、残念でなりません。よい友であり、戦友でした。思い出をたくさん作ってくれました。ご冥福をお祈り申し上げます」<2014.1.10> 元巨人軍投手で、球団の編成調査室職員を務めていた水沢薫氏(48、河合楽器-秋田商-秋田北)が、2014平成26年1月10日午前0時22分、肝不全のため都内の病院で死去。水沢投手は1965年2月18日生まれ、秋田市出身、1986年ドラフト2位で巨人に入団。1992年に現役を引退後、1995年から2006年まで巨人のトレーニングコーチを務めた。その後ジャイアンツアカデミーのコーチを経て、2008年から運営部1軍監督付となり、原監督のサポートに尽力。世界一となった2009年のWBCにも帯同。秋田県人らしい温厚で誠実な人柄で、原監督からの信頼が厚く、選手・関係者からも同様に慕われていたが、体調が優れないこともあり2013年に現場を離れていた。< 昭和57年夏 秋田商登録選手 > [投]戸嶋治(2 大曲 )[捕]○ 高橋明(3 羽城 )[一]藤井利典(2 大曲 )[二]進藤進(2 秋田北 )[三]河村清春(3 城南 )[遊]杉山信哉(3 二ツ井 )[左]鎌田勝(3 羽城 )[中]武藤勇人(2 大曲 )[右]今喜寿仁(3 平和 )水沢薫(3 右右 181/75 秋田北 )佐藤猛広(2 秋田北 )戸嶋浩治(2 払戸 )粟津敦(2 大曲南 )三浦敏雄(3 船川 )久米義人(3 鳳 )工藤智之(2 秋田西 )[責]登利谷重郎(54)[監]三浦第三(41)。

秋田野球人名録|山谷喜志夫 元秋田高監督( 函館オーシャンズ-法政大-秋田 )

1134山谷監督の一番の思い出は、バント練習で、投手が全力投球するボールをバッターボックスで手づかみにする荒業にはドギモを抜かれた。選手全員が深く感激し、この監督のもとならばの意を強くしたものだった。また山谷監督は、人柄もおおらかで当時多くの周囲の人々の支援を得たのもそのせいであったと思う( 秋田高校同窓会HPより )。秋田商赤根谷飛雄太郎選手・監督と常に対比される。旧秋田中で選手、秋田高で監督として輝かしい球歴誇る。旧秋田中では1年から正選手で昭和6年から4年連続甲子園出場、内野以外にも捕・投・外もこなす俊足強肩ファイト溢れるオールラウンドプレーヤー。法政大に進学し、卒業後は社会人函館オーシャンズにも一時籍を置く。秋田高監督在任中12年間で3度母校を甲子園に導く。「 投手育てさせたら 赤根谷、総合的なチームづくりは 山谷 」 と評された。昭和48年秋田高校100周年記念式典で特別表彰。山谷勝志選手も昭和48年に秋田高校で甲子園出場。平成日逝去。昭和29年卒業 本多秀男氏: 昭和28年は、秋田高校にとっても、我が野球部にとっても記念すべき年であった。秋田南高校から秋田高校になり、創立80周年にあたる節目の年であり、昭和26年、27年とあと一歩まで迫りながら手にすることが出来なかった奥羽3県の代表の座と紫紺の優勝旗を握ることが出来たのである。県営手形球場で宿敵八戸高校を破り、16年ぶり9度目の甲子園の切符を手に入れることが出来た。試合終了のサイレンと同時になだれ込んで山谷監督を胴上げする先輩や感涙にむせびながら凱歌を高唱する職員、在校生の姿が今も鮮明に蘇ってくる。秋田高校硬式野球部|校史資料|秋田県立秋田高等学校同窓会

秋田野球人名録|小窪敬一 元秋田経法大付野球部監督(56 電電東北-仙台商 )

平成17年12月19日 心筋梗塞のため仙台市内の病院で死去
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秋田県野球人名故人録 小窪敬一元秋田経法大付野球部監督( 電電東北-仙台商 )

a0f578e3ダルビッシュ有( Yu Darvish )投手のツイッターより。なんでも自由にやっているように思われていると思いますが、投手をやる上で大事にしていることが二つあります。1・ロジンを優しく扱うこと、投げたりしない。 2・グラブの紐は全て結ぶ。 1.は 秋田経法大附( 現明桜 )の 小窪敬一 元監督。 2.は PL学園元監督の中村順司監督に教えていただきました。<2007.12.31> 元秋田経法大付野球部監督。平成17年12月19日 心筋梗塞のため仙台市内の病院で死去、56歳。平成13年4月から秋田経法大付で指揮を執り、同年秋の東北大会 ( 岩手県、仙台育英優勝 ) で準優勝し、平成14年センバツに出場 ( 平成15年退任 )。昭和42年仙台商のエースとして甲子園春夏連続出場、電電東北で都市対抗4度出場、仙台商の監督として昭和58年夏甲子園出場という輝かしい球歴。NTT東北の監督も約7年間務め多くの選手を育てた。秋田県関係では竹内昌也投手( 阪神-NTT東北-本荘-象潟 )。平成18年11月1周忌を機会にフルスタ宮城で追悼試合が行われた。< 秋田経法大付 甲子園先発選手 > [二]佐藤茂樹(3 北陽 )[遊]千田祐成(3 八郎潟 )[中]○ 桑島知宏(3 光陽 )[捕]松田幸樹(3 湯沢北 )[左]高橋康太(3 河辺 )[投]平塚隆一(3 あいの里東 )[一]田村潤(3 比内 )[三]山内伸悟(3 大館東 )[右]山中慎太朗(3 横手南 )木村雄太(2 花輪二 )菅原圭介(2 羽城 )田中雄也(2 二ツ井 )福田卓(3 協和 )佐藤壮(3 西仙北東 )高橋拓也(3 山田 )阿部隆雄(2 能代二 )高橋純(1 塩釜一 )佐藤大(2 泉 )今野福太郎(1 本荘南 )堀内誠(3 田代 ) 。

平成28年9月10日 DeNA MGR統括兼GM補佐 浅利光博氏( 角館 )死去

asari昭和30年2月8日生、角館高校卒業後、軟式野球チーム釜仙( 東京 )でプレー 。昭和51年大洋の入団テストを受験( 参加者120人 )して合格、ドラフト外で入団。<2016.12.31> 現在、福岡ソフトバンクホークスでコーチを務めている入来祐作氏(平成8年のドラフトで本田技研工業から読売ジャイアンツを逆指名して1位入団)が戦力外通告を受け、どこからもオファーがなく困っている時に手を差し伸べたのが、横浜入団時の編成担当者の浅利光博氏だった、打撃投手の話を打診されそれを引き受けた。<2016.9.15 スポーツ紙> 9月10日に、胃がんのため61歳で死去したDeNA浅利光博GM補佐・マネジャー統括の通夜が15日、横浜市のセレモホール金沢文庫で行われた。実直な人柄で現場を下支えする期間が長く、多くの球界関係者が参列し故人を悼んだ。2016.9.11> 浅利光博氏 ( DeNAマネジャー統括兼GM補佐 )が 平成28年9月10日午後11時35分 胃がんのため横浜市内の病院で死去、61歳。新人テストで120人の難関を突破してプロ入り。<2006.6.02> 横浜の浅利光博運営部長は6月2日、東京都内のセ・リーグ事務局を訪れ、前日のソフトバンク戦で審判の判定が食い違ったことに関して 「 提訴試合 」 としての申請を行い、試合のやり直しを求めた。リーグでは週明けにも受理するか却下するかを決める。9回一死一塁で横浜多村が放った三塁線のゴロを鈴木三塁塁審はファウルとしたが、渡田球審がフェアと判定。ボールは二塁 → 一塁と転送され併殺が成立、試合が終了した。横浜牛島監督が渡田球審に審判間の協議を求めたが受け入れられなかった。

2025都市対抗野球1回戦で登板 ENEOS 渡部淳一 投手( 慶応大-慶応高 )

元プロ野球 三平晴樹投手( 秋田商 )の孫 
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慶応義塾高で甲子園出場

秋田さきがけ「 秋田市営八橋球場50年 - 球史を彩った男たち 」三平晴樹 投手

孫 渡部淳一投手(3、左、慶應、東京神宮シニア) 春夏甲子園連続出場
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8月18日高校野球記念日|第1回全国中等学校大会 準優勝 秋田中 渡部純司捕手

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1915年( 大正4年 )のこの日、大阪の豊中球場( 豊中グラウンド )で第1回全国中等学校優勝野球大会が開会した。地区予選を勝ち抜いた10校が参加し、決勝戦は京都二中と秋田中で、2-1で京都二中が優勝。第10回から甲子園球場が会場になり、1948年( 昭和23年 )から全国高校野球選手権大会となった。< 2018.1.04 > 第1回全国中等学校野球大会決勝戦スタメン、[捕]渡部純司(5)[投]長崎廣(5)[三]鈴木久米治(3)[遊]小山田推一(4)[一]信太貞(5)[左]丹一郎(3)[中]羽石統一(4)[右]高橋蘶(2)[二]藤長治(3)。< 2015.4.14 > 阪神甲子園球場で開催される夏の全国高校野球大会の前身 「全国中等学校優勝野球大会」 が始まって100年になる節目に合わせ、第1回大会に出場した全10校のOBが甲子園に集い、当時のカードで対戦する計画が進んでいる。第1回大会が開かれたのは1915(大正4年)8月。まだ甲子園はなく、大阪府豊中村 (現豊中市) の「豊中グラウンド」で東北から九州までの地区予選を勝ち抜いた10校が熱戦を繰り広げた。< 2010.1.19 秋田県野球人名録 > 渡部純司 ( 第1回全国中等野球大会準優勝 )。秋田中の元捕手。平成5年12月22日、入院先の埼玉県の病院で老衰のため98歳で死去。甲子園の前身である大正4年の第1回全国中等学校野球大会で準優勝した秋田中野球部の元捕手。大阪豊中球場で行われた第1回大会に東北代表として出場した秋田中は、1回戦不戦勝、2回戦宇治山田中、準決勝早稲田実業を破って決勝進出、決勝で京都二中に延長13回1-2で惜敗した。秋田中卒業後、慶應義塾大学に進学し、陸上競技の選手として大正期に日本記録を保持した。戦後は旧県営手形球場の管理人や秋田大学北光会館管理人を長く務めた。 < 秋田中参加選手 > (投)長崎廣(捕)渡部純司(一)信太貞(二)齋藤長治(三)鈴木久米治(遊)小山田推一(左)羽石統一(中)丹一郎(右)野口眞吉、土井繁治 。

人名録 | 齋藤茂樹( 日本鋼管-明治大-PL学園 )元 秋田経法大付 由利工監督

ssIMG_20250812_0001・平成15年10月9日午前6時8分、脳腫瘍のため本荘市内の病院で死去、51歳 。昭和27年6月11日 秋田県本荘市生。PL学園-明治大 。明治大野球部監督 。東京六大学野球リーグの首位打者、盗塁王などのタイトルを獲得 。社会人野球の日本鋼管でも活躍し、全日本のメンバーにも選出 。昭和55年に退社し、秋田経法大付( 昭和59年~昭和61年 )由利工( 昭和62年~平成13年 )の監督を経て母校明治大の監督就任 。平成14年11月、東京都内の病院で手術を受けた後、本荘市の自宅に戻って静養していたが脳腫瘍が再発し、平成15年8月から同市内の病院に入院していた。監督当時の由利工のユニフォームは明治カラー 。< 就任1年目春季リーグ戦に向けての明治大齋藤茂樹監督コメント > 今年のチームはメンバーが一新し、昨年から出場していた選手はごく少ないチームです。投手陣は安定感抜群の牛田、プロキャンプで一層力をつけた一場が中心となっていくでしょう。打線は派手に打ち勝っていくチームではないので、しぶとく、泥臭く出塁し、次につなげる攻撃をしていきたいと思います。私、斎藤茂樹も就任1年目のルーキーですが、勝ち点を積み重ね、優勝目指して頑張って行こうと考えております。

平成9年まで金足農業高校野球部コーチ 山平東さん逝去( 嶋崎久美元監督同期 )

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長谷川寿氏追悼『 金農野球部でお世話になった、山平東コーチがお亡くなりになりました。「悔いはないよ」と声に力が無かったですが、3日前に電話で話しができてよかったです。山平コーチは嶋崎監督とは同級生で、アクセルとブレーキの役割で、監督を上手にコントロールして、私たちを良い方向に行くように導いてくださってました。いつも、野球部のことを真剣に考えてくださり、長きにわたって支えていただきました。2年前、マスターズ甲子園に出場し、ともに再び土を踏めたことが、とても良い思い出です。心よりご冥福をお祈りいたします 』』<2020.2.18> 令和2年2月金足農業高校野球部OB会定期総会において石井雅樹副会長が新会長に就任。令和2年役員体制 ( 相談役 ) S25 奈良吉丸、S37 加藤政光、S37 佐藤肇、S40 中泉松之助( 顧問 )S39 〇 中山英悦、S41 嶋﨑久美、S41 〇 山平東、S44 〇 金 子安夫、( 会長 ) S53 〇 石井雅樹( 副会長 )S46高野真一、S46 舘岡正義、S54 〇 湊供日児、S55 渡辺亮、S59 長谷川寿 。〇 新任 歴代指導者&夏大成績 | 金足農業高校野球部OBOG会

秋田野球人名録|横手出身 若林俊治元巨人スカウト( 無名 長嶋茂雄選手に注目 )

長嶋茂雄巨人軍終身名誉監督 6月3日午前6時39分 都内の病院で肺炎のため死去 喪主 次女 三奈 氏
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- 秋田さきがけ -

2025.5.30 秋田さきがけ「 追想 」金足農・男鹿海洋野球部 中田稔 元監督

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秋田県野球人名録 / AAB 秋田朝日放送で高校野球解説 牧野 強さん(秋田高校)

- 平成13年4月28日 午後9時16分急病のため永眠 -
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2025.3.12 秋田さきがけ「 北斗星 」佐藤秀明 投手( 東洋大-秋田市立 )

野球人名録|佐藤秀明( プロの世界で中継ぎという地味な仕事に徹し続けた左腕 )

東洋大元野球部監督 高橋昭雄氏 令和4年9月7日午後 敗血症のため死去 74歳
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東洋大時代 優勝パレード 杉本、大野・佐藤秀、仁村選手等(福田泰弘さん提供)

野球人名録 / 佐藤秀明(プロの世界で中継ぎという地味な仕事に徹し続けた左腕)

hideakichuuou昭和60年の阪神日本一、平成元年の近鉄パ・リーグ優勝に中継ぎという地味な仕事で貢献した佐藤秀明投手(日立製作所-東洋大-秋田市立-土崎)が平成19年5月17日、46歳の若さで急逝。昭和60年ドラフト2位で阪神入団、球威に頼らない巧み投球術で、中継ぎで193試合に登板、実働7年で通算10勝11敗6セーブ、防御率4.15。戒名は「秀嶺慈球居士」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E7%A7%80%E6%98%8E  < 昭和53年春秋田市立高校登録選手 > [投]佐藤秀明3、土崎)、[捕]福田泰弘(3、上小阿仁)、[一]小野士(2、八郎潟)、[二]加賀谷一(3、外旭川)、[三]長谷川浩靖(3、秋田南)、[遊]佐藤重樹(3、川内)、[左]石川光一(3、戸賀)、[中]金子里志(3、天王)、[右]○ 中川透(3、土崎)、小玉竹志(3、男鹿東)、熊谷正人(3、河辺)、柿田淳(3、土崎)、加賀徹(3、湯沢北)、長谷川隆浩(3、土崎)、佐藤善紀(2、秋田南)、森元忠浩(3、土崎)、坂谷浩英(3、五城目一)、戸来洋二(3、秋田西)、福田久雄(3、土崎)、中津川辰裕(3、東由利)、[責]杉山久夫、[監]塚田丈也、[記]加藤敦(2、土崎)。

秋田さきがけ わか杉国体天皇杯獲得貢献 後条孟 前秋田県軟式野球連会長(85)

2024.12.3 秋田さきがけ12面
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2024.11.9 元プロ野球選手 故 成田光弘氏(令和5年10月逝去 )を偲ぶ会

2024.11.10 秋田さきがけ28面
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今年2月の北秋田市に続き秋田市中通イヤタカで開催 

秋田県野球人名録|右下手投げ 小さな大投手 今川敬三投手(早稲田大-秋田商)

im32017平成29年弟99回全国高校野球選手権大会、三本松(香川)のエース右腕佐藤圭悟投手 (3年) がわずか87球の2失点完投で二松学舎大付を下した。87球での9回完投は、1980年以降では最少4位タイ。<2015.4.24> 毎日新聞 | 今から55年前、秋田商に165センチの 「小さな大投手」 がいた。今川敬三さん (故人) は抜群の制球力を持つアンダースロー。1960年 (昭35) 春のセンバツで4強入りし、そこから4季連続甲子園出場。60年春準決勝・米子東戦での74球 (8回) は、いまだに完投最少投球数のセンバツ記録だ。今川と同級生で、バッテリーを組んでいた保坂栄さん (71) は 「並外れた何かを持っていた」と話す。1960年(昭35)春のセンバツで4強入りし、そこから4季連続甲子園出場。60年春準決勝・米子東戦での74球(8回)は、いまだに完投最少投球数のセンバツ記録だ。今川と同級生で、バッテリーを組んでいた保坂栄さん(71)は 「並外れた何かを持っていた」と話す。保坂 当時は全県から 「エースで4番」 が秋田商に集まりました。同級生は最初は60人ぐらいで、残ったのは10数人。投手じゃないのは私だけでした。今川はランニングでいつも後方を走り、目立ちたがらないタイプ。1年夏まで打撃投手を務めたのですが、コントロールが良くて、打たれても打球が飛ばない。そこに (古城敏男) 監督は何かを見いだしたんでしょうね。新チームになった時に、今川を上手から下手投げに変えさせました。グラウンドのすぐそばに元秋田商監督の赤根谷 (飛雄太郎) さんの自宅があり、その庭のブルペンで練習しました。赤根谷さんが私の後ろに腰かけ、ステッキでミットを押さえて 「動かすな」 と言う。今川はそこに投げられないと、自分でボールを拾いにいきました。その繰り返しです。そうして磨いた制球力が今川の武器だった。直球にスライダー、カーブ、胸元に伸びる、沈むの2種のシュートを交え、コーナーをついた。4度の甲子園で8戦に登板し、うち2試合が無四死球、5試合がわずか1四死球だった。だが、強みはコントロールだけではない。「丸太のような」 太い腕を持ち、パワーもあった。保坂 いつでも打てるようなボールに見えるらしいけど、球威、キレがありました。打者のひざ頭あたりからぐっと伸びて、パーンと、ミットに手応えがあった。当時はお下がりの丸くて薄いミットだったから、痛くて痛くて。ミットと手の間にスポンジを入れていました。今川には 「保坂、音が響かないじゃないか。面白くない」 と言われましたよ。60年春、準々決勝の相手は優勝候補筆頭の慶応 (神奈川)。後に南海入りする右腕渡辺泰輔を擁し、バッティングも1回戦で21安打と好調。今川は慶応打線をシュートとカーブでうまくかわし、延長11回の末、2-1で完投勝利した。保坂 質のいいボールだから、打たれてもつまった当たりか、凡フライになるんです。渡辺が今川が亡くなった後に、墓参りに来たのですが、「もう1回試合してもやっぱり打てないだろうよ」 と言っていました。今川は早大卒業後、秋田に戻り、67年に母校の監督に就任。70、75年夏の2度甲子園出場に導いた。だが76年6月17日深夜、実家の大館市に向かう途中、センターラインを越え、対向車線のトラックと正面衝突。33歳の若さでこの世を去った。翌日の地元紙 「秋田魁新報」 の見出しは 「今川監督、居眠り運転で死ぬ」。当時、秋田銀行郡山支店(福島)に勤務していた保坂さんは、知らせを受け、すぐに秋田へ向かった。保坂 あまり見られませんでした。69年に自分が結婚式を挙げた時、あいつは練習を終え、秋田商ユニホームのまま来ました(笑い)。それだけ飾らないやつだった。今でも仲間と集まると 「今川がいなかったら甲子園に行けなかった。引っ張ってもらった」 と話します。(敬称略)[高場泉穗]

東北中学野球 秋田県勢同士 決勝戦|令和6年 泉-桜・昭和50年 本荘南-大曲

gai昭和50年8月 第4回東北地区中学軟式野球大会 本荘市立本荘南中学校 優勝。<2020.11.19> 尾留川徹教諭 令和2年度秋田県学校体育功労者(学校体育の発展、振興に貢献、秋田県学校体育研究連合会)。<2016.5.13> 中学時代に野球部のチームメートだった村岡敏英衆院議員は 「 彼(工藤幹夫投手)が故障のときは励まし、逆に私が落選中は慰めてくれた親友だった。国会が終わったら見舞いに行こうと思っていたのに… 」 と死を悼んだ。< 若鷲旗争奪第4回東北中学軟式野球大会 、昭和50年8月12日~、宮城球場、 本荘南中優勝、大曲中準優勝 >[決勝]本荘南1-0大曲(延長10回押し出し、工藤幹夫投手24イニング無失点)[準決勝]本荘南1-0弘前一、大曲1-0佐沼、[1回戦]本荘南3-0仙台一、大曲2-0喜久田。< 本荘南中登録選手 >[投]工藤幹夫(3)[捕]森川透(3)[一]上原隆(3)[二]保科政幸(3)[三]○ 尾留川徹(3)[遊]鈴木昭(3)[左]菊地正和(3)[中]斎藤潤(3)[右]渡部浩孝(3)小園(3)小野晃(3)丸山(3)小野利(3)渡部学(2)斎藤一(3)[部]長谷川達夫[監]沢田宣夫。< 大曲中登録選手 >[投]高橋和彦(3)[捕]○ 斎藤頼太郎(3)[一]藤井吉人(3)[二]古屋司(3)[三]伊藤利彦(3)[遊]小西憲二郎(2)[左]小松功司(3)[中]桑島功(3)[右]高橋和彦(2)小松(2)高橋良(3)渡部(3)児玉(3)加藤(3)[部]加藤尚[監]後藤晃男。

2024.7.12 元プロ日拓・日ハム 大沢勉さん(76)秋田市内の病院で死去

2016.5.13 元日ハム投手 工藤幹夫さん 肝不全のため秋田市内の病院で死去

1982 昭和57年 伝説のプレーオフ 西武-日本ハム  3:42 ~

秋田野球人名録|秋田県男鹿市払戸出身 石川真良(甲子園球場の土の生みの親)

81ebb8cc-s<スポニチ> 甲子園球場建設当時、グラウンドの土をつくったのは阪神電鉄社員で、秋田県出身の野球人、石川真良氏(1890-1969年)だった。野球場の命と言える土の配合には相当な苦労があった。100年続く甲子園の土が生まれた物語を書いてみたい。(編集委員・内田雅也)甲子園球場の建設が始まった1924(大正13)年3月、グラウンドの土の配合を担当したのが阪神電鉄の用度課セメント係だった石川真良だった。野球人としての経歴が買われての起用だった。慶大野球部の第1回米国遠征(11年)に参加し投打に活躍。「幻球」と呼ばれたカーブを武器に9勝6敗の好成績を残した。入社後も大阪実業大会で優勝に導いていた。夏の全国中等学校優勝野球大会(今の全国高校野球選手権大会)で大会委員、この24年春に名古屋で初開催された選抜大会では選考委員、決勝の球審を務めている。当時33歳。肩書は現場の「工事監督員」だった。だが、建設を請け負った大林組の作業員たちは連日、ユニホーム姿、スパイクを履いて現場で滑り込みを繰り返す石川に「何をやっているのか」と不思議に思った。設計を担当した野田誠三(後の本社社長、球団オーナー)が社史『輸送奉仕の五十年』で「非常に熱心で、毎日やっていた。あれには感心した」と語っている。石川は現場に5坪(約16平方メートル)ほどのマス目を十数個作り、各地から取り寄せた土の配合を行っていた。黒土と白砂をブレンドする。砂は枝川廃川地であり、浜にも近くふんだんにあった。問題は黒土だった。最初は尼崎を流れる蓬川の土をバケツでくんできたが、乾くと白くなった。甲山の赤茶けた土を混ぜても白球が見えやすい黒さにならなかった。石川は最適な土を求め探し回った。「ある日、素晴らしい土に出会った」と、晩年、故郷の秋田県・払戸中で石川から投球を教わった戸嶋広栄から聞いた。20年前に連載『80歳甲子園球場物語』の取材で秋田県若美町(現男鹿市)を訪ねた。「軟らかく握るとふわっとする。滑り込むとさあっと土煙が舞う。これだ!と」神戸・熊内)の土だった。「うまい大根が採れ、登れば富士山が見える山の裾野だそうです」。有名な熊内大根である。今の新神戸駅周辺で山は布引山や世継山か。当時は遠く富士山が見えたのだろう。さらに改良を加え、淡路島の赤土を混ぜると粘り気が出て理想の土になった。ただ船での輸送費もあり、通常1立方メートル2円の土が50円、計20万円もかかった。野田が「最も苦労した」という甲子園の土ができあがった。球場建設顧問だった佐伯達夫(後の日本高校野球連盟会長)は自伝で<今もって定評ある甲子園の水はけの良さは石川さんの努力に負うところが大きい>と記した。川上哲治は熊本工時代、37年夏の甲子園大会決勝で敗れた際、記念に土を持ち帰り、母校のマウンドにまいた。巨人監督時代には「甲子園の土は宝物以上だ」と語っていた。石川は甲子園球場の完成を見届け、26年9月に阪神電鉄を退社。29年、専修大初代監督を務めた。晩年は故郷に帰り、手製のさおで釣りを楽しんだ。59歳で母校・払戸中の事務官となり、5年間、野球や英語を教えた。1999年10月には若美中央公園球場に「石川真良先生記念碑」が建った。教え子たちが中心の「石川真良の偉業をたたえる会」の活動だった。甲子園球場提供の「土」も埋め込まれている。碑に刻んだ「今日はきのうより、明日は今日より」は「野球十訓」の一つ。会長・小松一夫から聞いた話を思い出す。「怒らない人でした。ミスした選手にも涙を浮かべながら『もう一丁、いくか』とノックを打っていました」。こうした情熱、愛情が100年間愛される土を生んだのだった。=敬称略= <2019.8.13> 今年阪神甲子園球場95 周年。<2012.6.10> 千葉県南房総市在住の孫 相川泉さん(63)、ひ孫 相川昌也さん(33)父子が、平成24年石川真良杯学童野球大会開会式に参加。元高校球児昌也さんが始球式。【2010.8.10】以下、森岡浩氏編「甲子園高校野球人名事典」(東京堂出版)より抜粋。明治23年5月23日、南秋田郡若美町生まれ。旧制秋田中(現秋田高)から慶応義塾大学(法学部)に進学、三宅大輔捕手とバッテリー。卒業後阪神電鉄入社、阪神甲子園球場建設の際には〝土〟の責任者となり、試行錯誤の末、神戸熊内の黒土と淡路島島の赤土を組み合わせた現在に受け継がれている「基本型」を完成させる。専修大学初代監督を経て、昭和10年からは払戸中事務職員をしなjがら少年野球や母校秋田中学の指導をし、野球に臨む心得を記した「野球十訓」を著す。昭和44年9月19日逝去。平成20年以降、毎年6月に石川真良杯学童野球大会開催。
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