★ 備忘録 「熱球通信」 ・ 特定非営利活動法人秋田県野球フォーラム ★

「熱球通信」は特定非営利活動法人秋田県野球フォーラム会員有志による備忘録を兼ねた「秋田県野球」にこだわった私的ブログです。掲載している記録等については公式なものではありませんのでご注意願います。リンク等についてはオールフリーですので事前のメール等一切不要です。更新頻度は原則毎日の更新です。秋田県出身で県外に在住の方も念頭に更新していきますが、内容等一部については地元情報と時差が生じる場合があります。練習・親善試合の結果情報は原則掲載しません。また、コメント送信欄と掲示板については諸般の事情により対応していません。積極的な中学硬式野球・女子野球の紹介に努めています。

人名録(故人)

2025.3.12 秋田さきがけ「 北斗星 」佐藤秀明 投手( 東洋大-秋田市立 )

野球人名録|佐藤秀明( プロの世界で中継ぎという地味な仕事に徹し続けた左腕 )

東洋大元野球部監督 高橋昭雄氏 令和4年9月7日午後 敗血症のため死去 74歳
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東洋大時代 優勝パレード 杉本、大野・佐藤秀、仁村選手等(福田泰弘さん提供)

野球人名録 / 佐藤秀明(プロの世界で中継ぎという地味な仕事に徹し続けた左腕)

hideakichuuou昭和60年の阪神日本一、平成元年の近鉄パ・リーグ優勝に中継ぎという地味な仕事で貢献した佐藤秀明投手(日立製作所-東洋大-秋田市立-土崎)が平成19年5月17日、46歳の若さで急逝。昭和60年ドラフト2位で阪神入団、球威に頼らない巧み投球術で、中継ぎで193試合に登板、実働7年で通算10勝11敗6セーブ、防御率4.15。戒名は「秀嶺慈球居士」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E7%A7%80%E6%98%8E  < 昭和53年春秋田市立高校登録選手 > [投]佐藤秀明3、土崎)、[捕]福田泰弘(3、上小阿仁)、[一]小野士(2、八郎潟)、[二]加賀谷一(3、外旭川)、[三]長谷川浩靖(3、秋田南)、[遊]佐藤重樹(3、川内)、[左]石川光一(3、戸賀)、[中]金子里志(3、天王)、[右]○ 中川透(3、土崎)、小玉竹志(3、男鹿東)、熊谷正人(3、河辺)、柿田淳(3、土崎)、加賀徹(3、湯沢北)、長谷川隆浩(3、土崎)、佐藤善紀(2、秋田南)、森元忠浩(3、土崎)、坂谷浩英(3、五城目一)、戸来洋二(3、秋田西)、福田久雄(3、土崎)、中津川辰裕(3、東由利)、[責]杉山久夫、[監]塚田丈也、[記]加藤敦(2、土崎)。

巨人軍職員 水沢薫さん( 昭和40年2月18日生 )平成26年1月10日 死去

mizusawmizusawa現役時代は140km台の速球とシュートを中心とする投球スタイル。<2014.1.16> 巨人軍職員だった水沢薫氏の通夜が2014(平成26年)1月16日新横浜総合斎場で。巨人原監督が球団を通してコメント(全文)「水沢君は厳しい闘病生活の中で、必ず復帰するという希望を持って頑張ってきていました。急な訃報を聞き、残念でなりません。よい友であり、戦友でした。思い出をたくさん作ってくれました。ご冥福をお祈り申し上げます」<2014.1.10> 元巨人軍投手で、球団の編成調査室職員を務めていた水沢薫氏(48、河合楽器-秋田商-秋田北)が、2014平成26年1月10日午前0時22分、肝不全のため都内の病院で死去。水沢投手は1965年2月18日生まれ、秋田市出身、1986年ドラフト2位で巨人に入団。1992年に現役を引退後、1995年から2006年まで巨人のトレーニングコーチを務めた。その後ジャイアンツアカデミーのコーチを経て、2008年から運営部1軍監督付となり、原監督のサポートに尽力。世界一となった2009年のWBCにも帯同。秋田県人らしい温厚で誠実な人柄で、原監督からの信頼が厚く、選手・関係者からも同様に慕われていたが、体調が優れないこともあり2013年に現場を離れていた。< 昭和57年夏 秋田商登録選手 > [投]戸嶋治(2、大曲)[捕]○ 高橋明(3、羽城)[一]藤井利典(2、大曲)[二]進藤進(2、秋田北)[三]河村清春(3、城南)[遊]杉山信哉(3、二ツ井)[左]鎌田勝(3、羽城)[中]武藤勇人(2、大曲)[右]今喜寿仁(3、平和)水沢薫(3、右右、181/75、秋田北)佐藤猛広(2、秋田北)戸嶋浩治(2、払戸)粟津敦(2、大曲南)三浦敏雄(3、船川)久米義人(3、鳳)工藤智之(2、秋田西)[責]登利谷重郎(54)[監]三浦第三(41)。

秋田さきがけ わか杉国体天皇杯獲得貢献 後条孟 前秋田県軟式野球連会長(85)

2024.12.3 秋田さきがけ12面
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2024.11.9 元プロ野球選手 故 成田光弘氏(令和5年10月逝去 )を偲ぶ会

2024.11.10 秋田さきがけ28面
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今年2月の北秋田市に続き秋田市中通イヤタカで開催 

秋田県野球人名録|右下手投げ 小さな大投手 今川敬三投手(早稲田大-秋田商)

im32017平成29年弟99回全国高校野球選手権大会、三本松(香川)のエース右腕佐藤圭悟投手 (3年) がわずか87球の2失点完投で二松学舎大付を下した。87球での9回完投は、1980年以降では最少4位タイ。<2015.4.24> 毎日新聞 | 今から55年前、秋田商に165センチの 「小さな大投手」 がいた。今川敬三さん (故人) は抜群の制球力を持つアンダースロー。1960年 (昭35) 春のセンバツで4強入りし、そこから4季連続甲子園出場。60年春準決勝・米子東戦での74球 (8回) は、いまだに完投最少投球数のセンバツ記録だ。今川と同級生で、バッテリーを組んでいた保坂栄さん (71) は 「並外れた何かを持っていた」と話す。1960年(昭35)春のセンバツで4強入りし、そこから4季連続甲子園出場。60年春準決勝・米子東戦での74球(8回)は、いまだに完投最少投球数のセンバツ記録だ。今川と同級生で、バッテリーを組んでいた保坂栄さん(71)は 「並外れた何かを持っていた」と話す。保坂 当時は全県から 「エースで4番」 が秋田商に集まりました。同級生は最初は60人ぐらいで、残ったのは10数人。投手じゃないのは私だけでした。今川はランニングでいつも後方を走り、目立ちたがらないタイプ。1年夏まで打撃投手を務めたのですが、コントロールが良くて、打たれても打球が飛ばない。そこに (古城敏男) 監督は何かを見いだしたんでしょうね。新チームになった時に、今川を上手から下手投げに変えさせました。グラウンドのすぐそばに元秋田商監督の赤根谷 (飛雄太郎) さんの自宅があり、その庭のブルペンで練習しました。赤根谷さんが私の後ろに腰かけ、ステッキでミットを押さえて 「動かすな」 と言う。今川はそこに投げられないと、自分でボールを拾いにいきました。その繰り返しです。そうして磨いた制球力が今川の武器だった。直球にスライダー、カーブ、胸元に伸びる、沈むの2種のシュートを交え、コーナーをついた。4度の甲子園で8戦に登板し、うち2試合が無四死球、5試合がわずか1四死球だった。だが、強みはコントロールだけではない。「丸太のような」 太い腕を持ち、パワーもあった。保坂 いつでも打てるようなボールに見えるらしいけど、球威、キレがありました。打者のひざ頭あたりからぐっと伸びて、パーンと、ミットに手応えがあった。当時はお下がりの丸くて薄いミットだったから、痛くて痛くて。ミットと手の間にスポンジを入れていました。今川には 「保坂、音が響かないじゃないか。面白くない」 と言われましたよ。60年春、準々決勝の相手は優勝候補筆頭の慶応 (神奈川)。後に南海入りする右腕渡辺泰輔を擁し、バッティングも1回戦で21安打と好調。今川は慶応打線をシュートとカーブでうまくかわし、延長11回の末、2-1で完投勝利した。保坂 質のいいボールだから、打たれてもつまった当たりか、凡フライになるんです。渡辺が今川が亡くなった後に、墓参りに来たのですが、「もう1回試合してもやっぱり打てないだろうよ」 と言っていました。今川は早大卒業後、秋田に戻り、67年に母校の監督に就任。70、75年夏の2度甲子園出場に導いた。だが76年6月17日深夜、実家の大館市に向かう途中、センターラインを越え、対向車線のトラックと正面衝突。33歳の若さでこの世を去った。翌日の地元紙 「秋田魁新報」 の見出しは 「今川監督、居眠り運転で死ぬ」。当時、秋田銀行郡山支店(福島)に勤務していた保坂さんは、知らせを受け、すぐに秋田へ向かった。保坂 あまり見られませんでした。69年に自分が結婚式を挙げた時、あいつは練習を終え、秋田商ユニホームのまま来ました(笑い)。それだけ飾らないやつだった。今でも仲間と集まると 「今川がいなかったら甲子園に行けなかった。引っ張ってもらった」 と話します。(敬称略)[高場泉穗]

東北中学野球 秋田県勢同士 決勝戦|令和6年 泉-桜・昭和50年 本荘南-大曲

gai昭和50年8月 第4回東北地区中学軟式野球大会 本荘市立本荘南中学校 優勝。<2020.11.19> 尾留川徹教諭 令和2年度秋田県学校体育功労者(学校体育の発展、振興に貢献、秋田県学校体育研究連合会)。<2016.5.13> 中学時代に野球部のチームメートだった村岡敏英衆院議員は 「 彼(工藤幹夫投手)が故障のときは励まし、逆に私が落選中は慰めてくれた親友だった。国会が終わったら見舞いに行こうと思っていたのに… 」 と死を悼んだ。< 若鷲旗争奪第4回東北中学軟式野球大会 、昭和50年8月12日~、宮城球場、 本荘南中優勝、大曲中準優勝 >[決勝]本荘南1-0大曲(延長10回押し出し、工藤幹夫投手24イニング無失点)[準決勝]本荘南1-0弘前一、大曲1-0佐沼、[1回戦]本荘南3-0仙台一、大曲2-0喜久田。< 本荘南中登録選手 >[投]工藤幹夫(3)[捕]森川透(3)[一]上原隆(3)[二]保科政幸(3)[三]○ 尾留川徹(3)[遊]鈴木昭(3)[左]菊地正和(3)[中]斎藤潤(3)[右]渡部浩孝(3)小園(3)小野晃(3)丸山(3)小野利(3)渡部学(2)斎藤一(3)[部]長谷川達夫[監]沢田宣夫。< 大曲中登録選手 >[投]高橋和彦(3)[捕]○ 斎藤頼太郎(3)[一]藤井吉人(3)[二]古屋司(3)[三]伊藤利彦(3)[遊]小西憲二郎(2)[左]小松功司(3)[中]桑島功(3)[右]高橋和彦(2)小松(2)高橋良(3)渡部(3)児玉(3)加藤(3)[部]加藤尚[監]後藤晃男。

2024.7.12 元プロ日拓・日ハム 大沢勉さん(76)秋田市内の病院で死去

2016.5.13 元日ハム投手 工藤幹夫さん 肝不全のため秋田市内の病院で死去

1982 昭和57年 伝説のプレーオフ 西武-日本ハム  3:42 ~

秋田野球人名録|秋田県男鹿市払戸出身 石川真良(甲子園球場の土の生みの親)

81ebb8cc-s<スポニチ> 甲子園球場建設当時、グラウンドの土をつくったのは阪神電鉄社員で、秋田県出身の野球人、石川真良氏(1890-1969年)だった。野球場の命と言える土の配合には相当な苦労があった。100年続く甲子園の土が生まれた物語を書いてみたい。(編集委員・内田雅也)甲子園球場の建設が始まった1924(大正13)年3月、グラウンドの土の配合を担当したのが阪神電鉄の用度課セメント係だった石川真良だった。野球人としての経歴が買われての起用だった。慶大野球部の第1回米国遠征(11年)に参加し投打に活躍。「幻球」と呼ばれたカーブを武器に9勝6敗の好成績を残した。入社後も大阪実業大会で優勝に導いていた。夏の全国中等学校優勝野球大会(今の全国高校野球選手権大会)で大会委員、この24年春に名古屋で初開催された選抜大会では選考委員、決勝の球審を務めている。当時33歳。肩書は現場の「工事監督員」だった。だが、建設を請け負った大林組の作業員たちは連日、ユニホーム姿、スパイクを履いて現場で滑り込みを繰り返す石川に「何をやっているのか」と不思議に思った。設計を担当した野田誠三(後の本社社長、球団オーナー)が社史『輸送奉仕の五十年』で「非常に熱心で、毎日やっていた。あれには感心した」と語っている。石川は現場に5坪(約16平方メートル)ほどのマス目を十数個作り、各地から取り寄せた土の配合を行っていた。黒土と白砂をブレンドする。砂は枝川廃川地であり、浜にも近くふんだんにあった。問題は黒土だった。最初は尼崎を流れる蓬川の土をバケツでくんできたが、乾くと白くなった。甲山の赤茶けた土を混ぜても白球が見えやすい黒さにならなかった。石川は最適な土を求め探し回った。「ある日、素晴らしい土に出会った」と、晩年、故郷の秋田県・払戸中で石川から投球を教わった戸嶋広栄から聞いた。20年前に連載『80歳甲子園球場物語』の取材で秋田県若美町(現男鹿市)を訪ねた。「軟らかく握るとふわっとする。滑り込むとさあっと土煙が舞う。これだ!と」神戸・熊内)の土だった。「うまい大根が採れ、登れば富士山が見える山の裾野だそうです」。有名な熊内大根である。今の新神戸駅周辺で山は布引山や世継山か。当時は遠く富士山が見えたのだろう。さらに改良を加え、淡路島の赤土を混ぜると粘り気が出て理想の土になった。ただ船での輸送費もあり、通常1立方メートル2円の土が50円、計20万円もかかった。野田が「最も苦労した」という甲子園の土ができあがった。球場建設顧問だった佐伯達夫(後の日本高校野球連盟会長)は自伝で<今もって定評ある甲子園の水はけの良さは石川さんの努力に負うところが大きい>と記した。川上哲治は熊本工時代、37年夏の甲子園大会決勝で敗れた際、記念に土を持ち帰り、母校のマウンドにまいた。巨人監督時代には「甲子園の土は宝物以上だ」と語っていた。石川は甲子園球場の完成を見届け、26年9月に阪神電鉄を退社。29年、専修大初代監督を務めた。晩年は故郷に帰り、手製のさおで釣りを楽しんだ。59歳で母校・払戸中の事務官となり、5年間、野球や英語を教えた。1999年10月には若美中央公園球場に「石川真良先生記念碑」が建った。教え子たちが中心の「石川真良の偉業をたたえる会」の活動だった。甲子園球場提供の「土」も埋め込まれている。碑に刻んだ「今日はきのうより、明日は今日より」は「野球十訓」の一つ。会長・小松一夫から聞いた話を思い出す。「怒らない人でした。ミスした選手にも涙を浮かべながら『もう一丁、いくか』とノックを打っていました」。こうした情熱、愛情が100年間愛される土を生んだのだった。=敬称略= <2019.8.13> 今年阪神甲子園球場95 周年。<2012.6.10> 千葉県南房総市在住の孫 相川泉さん(63)、ひ孫 相川昌也さん(33)父子が、平成24年石川真良杯学童野球大会開会式に参加。元高校球児昌也さんが始球式。【2010.8.10】以下、森岡浩氏編「甲子園高校野球人名事典」(東京堂出版)より抜粋。明治23年5月23日、南秋田郡若美町生まれ。旧制秋田中(現秋田高)から慶応義塾大学(法学部)に進学、三宅大輔捕手とバッテリー。卒業後阪神電鉄入社、阪神甲子園球場建設の際には〝土〟の責任者となり、試行錯誤の末、神戸熊内の黒土と淡路島島の赤土を組み合わせた現在に受け継がれている「基本型」を完成させる。専修大学初代監督を経て、昭和10年からは払戸中事務職員をしなjがら少年野球や母校秋田中学の指導をし、野球に臨む心得を記した「野球十訓」を著す。昭和44年9月19日逝去。平成20年以降、毎年6月に石川真良杯学童野球大会開催。

秋田中 秋田高校野球部OB|神﨑泰雄さん3月16日87歳で死去 東京都三鷹市

2019年3月16日逝去
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平成23年古城敏雄氏講演会|我が野球人生-花も嵐も乗り越えて(南部公民館)

baae松本豊氏回想:高校への進路はチーム全員で角館に進むものだと思っていたが、経大附、秋田商、大曲農、角館の各校がこぞってスカウトに来たのを覚えている。特に経大附(現明桜)・古城敏雄監督、秋田商・三浦第三監督は熱心に何回も自宅に足を運んでくれた。<2020.8.24>1981年第53回センバツ大会準々決勝、秋田経大付-印旛をDVD観戦。実況:石井賢アナ、解説:池西増夫氏。2015.8.26 古城敏雄氏 (元秋田商、秋田経大付野球部監督)。2015(平成27年)8月25日 午前3時8分、ぼうこうがんのため秋田市の病院で死去、80歳。葬儀は29日午前11時から秋田市寺内字三千刈238-1、こすもす中央ホールで。喪主は長女の夫:村井成人さん。57年から秋田商高監督。58年夏、同校を23年ぶり甲子園に導き、60年センバツで4強に進んだ。専修大監督を経て79年から秋田経大付 (現明桜) 監督を務め、81年センバツで8強入り。両校の監督計9年で甲子園に7度出場した。元教諭。20119.28 平成23年9月30日 秋田市南部公民館文化講演会 「我が野球人生-花も嵐も乗り越えて」(講師 / 古城敏雄氏)。<2011.3.11> 秋田市民文化講演会 平成23年3月12日(土) 古城敏雄氏 「人それぞれの甲子園~勝ちを呼んだおにぎり」。<2010.2.28> 古城敏雄氏の喜寿を祝う会。伝説の赤根谷飛雄太郎監督の後任として秋田商の監督に就任して以来、石戸四六、今川敬三投手、成田光弘捕手等、また専修大監督退任後に秋田経大付監督に転じてからは松本豊投手等を育てた。

2014.1.23|太田久元能代高監督(77)肺がんのため能代市内の病院で死去

yokosaid元秋田県立能代高校硬式野球部監督の太田久氏(77)が2014平成26年1月23日午前8時18分、肺がんのため能代市内の病院で死去、葬儀は1月26日、能代市芝童森の能代典礼会館セレモで、喪主は妻和子さん。1961昭和36年 に母校の能代高校硬式野球部監督に就任。1963年夏、後にプロ野球入りした簾内政雄投手を擁して初の甲子園出場、1977、78年の夏には甲子園連続出場。教え子にはプロ通算284勝山田久志氏 (野球殿堂入り)、大沢勉氏らがいる。< 昭和52年夏甲子園出場能代高校登録選手 > [投]高松直志、[捕]東海林憲昭、[一]平川浩司、[二]佐藤明彦、[三]菅野政喜、[遊]佐藤弘人、[左]石井温志、[中]平川晃一、[右]佐藤哲士、大谷幸一、大友尚樹、市川基、田口清司、近藤亮悦、[責]金谷晴隆、[監]太田久。 http://www.hokuu.co.jp/2010koramu/0729kousiennto.html

秋田高-立教大 元プロ野球 国鉄 東京在籍 小西秀朗さん 令和2年1月13日死去

生前プロレス関係のイベントも企画
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秋田高-立教大|元プロ野球選手 小西秀朗さん 令和2年1月13日死去 82歳

令和2年1月17日付 秋田さきがけ
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秋田県内少年野球試合をよくバックネット裏にて観戦

秋田野球人名録|山谷喜志夫 元秋田高監督( 函館オーシャンズ-法政大-秋田 )

1134山谷監督の一番の思い出は、バント練習で、投手が全力投球するボールをバッターボックスで手づかみにする荒業にはドギモを抜かれた。選手全員が深く感激し、この監督のもとならばの意を強くしたものだった。また山谷監督は、人柄もおおらかで当時多くの周囲の人々の支援を得たのもそのせいであったと思う(秋田高校同窓会HPより)。秋田商赤根谷飛雄太郎選手・監督と常に対比される。旧秋田中で選手、秋田高で監督として輝かしい球歴誇る。旧秋田中では1年から正選手で昭和6年から4年連続甲子園出場、内野以外にも捕・投・外もこなす俊足強肩ファイト溢れるオールラウンドプレーヤー。法政大に進学し、卒業後は社会人函館オーシャンズにも一時籍を置く。秋田高監督在任中12年間で3度母校を甲子園に導く。「投手育てさせたら 赤根谷、総合的なチームづくりは 山谷」 と評された。昭和48年秋田高校100周年記念式典で特別表彰。山谷勝志選手も昭和48年に秋田高校で甲子園出場。平成日逝去。昭和29年卒業 本多秀男氏: 昭和28年は、秋田高校にとっても、我が野球部にとっても記念すべき年であった。秋田南高校から秋田高校になり、創立80周年にあたる節目の年であり、昭和26年、27年とあと一歩まで迫りながら手にすることが出来なかった奥羽3県の代表の座と紫紺の優勝旗を握ることが出来たのである。県営手形球場で宿敵八戸高校を破り、16年ぶり9度目の甲子園の切符を手に入れることが出来た。試合終了のサイレンと同時になだれ込んで山谷監督を胴上げする先輩や感涙にむせびながら凱歌を高唱する職員、在校生の姿が今も鮮明に蘇ってくる。秋田高校硬式野球部|校史資料|秋田県立秋田高等学校同窓会

秋田県野球人名録 / プロ野球完全試合達成 佐々木吉郎 投手(日本石油-秋田商)

sasakikiti2sasakikiti11966  昭和41 年5月1日 対広島戦でプロ野球完全試合達成 (両リーグ通算8人目)。2008 平成20年12月21日、敗血症のため東京都内の病院で死去、68歳。秋田市新屋生まれ、秋田商で捕手から投手にコンバート、社会人野球日本石油の投手として活躍 (橋戸賞) した後、1962年プロ野球大洋ホエールズ入団。現役期間は8年で23勝34敗。引退後、TDK野球部監督歴任。勝利数よりも完全試合の記憶が鮮明。北原遼三郎著『 完全試合 -15人の試合と人生- 』東京書籍発行、四六判。秋田県大仙市 かみおか嶽雄館「野球ミュージアム」で完全試合達成時の写真が展示されている。 <毎日新聞より抜粋> 秋田商出身入社5年目右腕は 「社会人球界随一の豪速球」 の前評判通り自慢の速球を武器に、1962年の第33回大会で43イニング連続無失点の新記録樹立、半世紀以上破られていない都市対抗の記録。プロ野球通算記録、実働8年、202試合登板、23勝34敗、8完投、4完封、259奪三振、投球回 563 2/3、防御率2.94。

平成25年12月6日 明桜高校野球部 三浦第三監督(73、秋田商)自宅で死去

miurad令和2年 秋田市立秋田商業高校創立100周年記念「写真が語る 秋商100年」でも紹介。<2013.12.12> 高山郁夫オリックス投手コーチが弔辞。<2013.12.08> 三浦第三監督から指導を受けた明桜高校3年生20人が弔問。 明桜高校野球部監督三浦第三氏(専修大-秋田商)が2013(平成25年)12月6日午後11時秋田市新屋の自宅で死去、73歳。葬儀は12月11日午前11時から秋田市泉ベルコシティホール秋田。秋田商3年の昭和33年中堅手で甲子園大会出場、徳島商板東英二投手からその試合でチーム唯一の安打を放った。秋田商監督時代の昭和54年夏、55年春夏3季連続で甲子園出場、大館商、大曲農監督歴任。定年退職後、秋田経法大(現ノースアジア大)硬式野球部監督を経て平成23年から明桜監督。平成18年日本高野連育成功労賞受賞。厳しい指導法でも知られ、高山郁夫投手、DeNA育成1位砂田毅樹投手等多数の選手を育てる。

1982昭和57年第27回全国大会初優勝 能代高軟式野球部元監督 小玉徳征氏

kodama2014平成26年 10月23日 午前1時55分、急性心筋梗塞のため能代市内の病院で死去、73歳。1982昭和57年能代高校軟式野球部監督6年目の第27回全国大会で初優勝。能代商教頭、能代高教頭を経て1999年から2002年まで旧米内沢高校校長。 監督6年目で全国一に 小玉徳征能代高軟式野球部監督(八森町) 第二十七回全国高校軟式野球選手権大会は八月二十五日から三十日までの六日間、兵庫県の明石公園、高砂両球場を会場に行われた。大会には、全国各地から予選を勝ち抜いてきた十八校が参加、熱戦を展開した。最終日(三十日)の決勝戦(明石公園球場)では、奥羽代表として出場した本県の能代高が東中国代表の玉野高(岡山県)と対戦。延長十三回、三時間二十四分という熱闘の末、能代が4-3と劇的な逆転勝ちして初優勝を逐げた。同校軟式野球部は昭和二十七年の創立。今年で三十周年を迎えている。全国大会へは四十九年に初出場。この時はベスト8まで勝ち進んだ。五十四年からは連続して奥羽大会を勝ち抜き、今年で四年連続五回目の全国大会出場であった。

中嶋聡選手見いだす|元プロ野球選手 成田光弘氏 北秋田市内の病院で死去 81歳

葬儀|令和5年10月23日 北秋田市JA葬祭虹のホールたかのす 喪主 妻 洋子さん
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( 秋田県軟式野球連盟副会長歴任 )

プロ野球 大毎オリオンズ・阪急ブレーブス 在籍 成田光弘さん(秋田商-鷹巣中)

( 画像:左 / ボールパーク秋田 右 / 秋田魁新報社 )
秋田さきがけ シリーズ時代を語る 2023.2.24~ 北秋田市 成田光弘さん(秋田商)

秋田野球人名録|甲子園大会春夏7度出場 古城敏雄 元 秋田商・秋田経大付 監督

平成27年8月25日午前3時8分ぼうこうがんのため秋田市内の病院で死去80歳
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秋田さきがけ シリーズ時代を語る(2023.3.1) 成田光弘選手と古城敏雄監督

秋田県野球人名録|秋田県 赤根谷飛雄太郎様で郵便物届いた赤根谷飛雄太郎投手

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秋田県内では「投手育てさせたら 赤根谷、総合的なチームづくりは 山谷」と評された。昭和27年、母校秋田商の監督に就任。昭和31年夏、秋田商は青森球場で春の東北大会で優勝。甲子園行きを決めたが、決めると同時に赤根谷は病に倒れた。監督を退き、あとを後輩に託したが、病が少しよくなると自宅の庭にブルペンを作り、後輩球児バッテリーをここで指導して鍛えた。打倒秋田中(高)の想いが燃えた。( 越智正典 / スポーツジャーナリスト )<2014.3.15>3月14日、明桜八木茂新監督が初指導。秋田県でプロ野球経験者が高校野球を指導するのは急映 (東急、現日本ハム) に投手として在籍後、1950年代に秋田商監督を務めた赤根谷飛雄太郎氏以来2人目。<2010.4.10> 大正5年1月5日 ~ 昭和44年8月22日、秋田県の高校野球はこの人抜きに語れないと言われています。元秋田商野球部監督。詳細 → 赤根谷飛雄太郎 「秋田県 赤根谷飛雄太郎 様」 で郵便物が届いた等の逸話多数。以下引用、現役はわずか2年だったが、引退後は母校秋田商などの監督として、秋田の球界で重きをなした。諸説あるが 「巨人の星」 の星飛雄馬は、赤根谷飛雄太郎からヒントを得た名前ともいわれている。記録マニアには 「赤根谷飛雄太郎」 は殿堂入り級の有名選手だ。

山田久志投手に横手投げ進言 元プロ野球 大洋 田辺修 選手( 立正佼成会-能代 )

稲川誠さん 能代松陽高校指導
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( 2016.12 .27 北羽新報 )
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