★ 備忘録 「熱球通信」 ・ 特定非営利活動法人秋田県野球フォーラム ★

「熱球通信」は特定非営利活動法人秋田県野球フォーラム会員有志による備忘録を兼ねた「秋田県野球」にこだわった私的ブログです。掲載している記録等については公式なものではありませんのでご注意願います。リンク等についてはオールフリーですので事前のメール等一切不要です。更新頻度は原則毎日の更新です。秋田県出身で県外に在住の方も念頭に更新していきますが、内容等一部については地元情報と時差が生じる場合があります。練習・親善試合の結果情報は原則掲載しません。また、コメント送信欄と掲示板については諸般の事情により対応していません。積極的な中学硬式野球・女子野球の紹介に努めています。

人名録(故人)

訃報/ 1982 昭和57年全国大会初優勝 能代高校軟式野球部元監督 小玉徳征氏

kodama2014(平成26年)10月23日午前1時55分、急性心筋梗塞のため能代市内の病院で死去、73歳。1982(昭和57年)能代高校軟式野球部監督6年目の第27回全国大会で初優勝。能代商教頭、能代高教頭を経て1999年から2002年まで旧米内沢高校校長。 監督6年目で全国一に 小玉徳征能代高軟式野球部監督(八森町) 第二十七回全国高校軟式野球選手権大会は八月二十五日から三十日までの六日間、兵庫県の明石公園、高砂両球場を会場に行われた。大会には、全国各地から予選を勝ち抜いてきた十八校が参加、熱戦を展開した。最終日(三十日)の決勝戦(明石公園球場)では、奥羽代表として出場した本県の能代高が東中国代表の玉野高(岡山県)と対戦。延長十三回、三時間二十四分という熱闘の末、能代が4-3と劇的な逆転勝ちして初優勝を逐げた。同校軟式野球部は昭和二十七年の創立。今年で三十周年を迎えている。全国大会へは四十九年に初出場。この時はベスト8まで勝ち進んだ。五十四年からは連続して奥羽大会を勝ち抜き、今年で四年連続五回目の全国大会出場であった。

昭和58年10月12日 秋季東北大会決勝戦 金足農-大船渡 延長16回の白熱戦

oo<2018.4.25> 訃報 / 半田英生選手逝去。1983 (昭和58年) 10月12日、第36回秋季東北地区高校野球大会決勝戦 金足農-大船渡 (岩手県営)は、延長16回の白熱戦となり岩手県代表大船渡が優勝、金足農の東北初制覇の夢は持ち越しに 。試合は金足農が序盤の2回に2点先制も大船渡が4、5回に1点づつ返し試合は延長戦に、16回の表、大船渡が逆に2連続二塁打で逆転、金足農もその裏、鈴木の適時打で1点差と詰め寄るも後続が併殺打で試合終了、金野・水沢両投手完投、試合時間3時間56分、無失策試合、大船渡4番鈴木選手水沢投手から本塁打、[金足農](三塁打)水沢、(二塁打)工藤2、水沢。<平成58年秋東北大会決勝戦金足農先発> [三]大山等(2、琴丘)、[中]斎藤一広(2、雄和)、[遊]工藤浩孝(2、八郎潟)、[投]水沢博文(2、秋田北)、[捕]○長谷川寿(2、五城目一)、[一]鈴木善久(2、五城目一)、[左]山崎里史(2、下浜)、[二]小玉勇樹(1、五城目一)、[右]柏谷安彦(2、秋田北)、石塚昭彦(1、河辺)、安田卓(1、秋田北)、半田英生(2、井川)、石田則嗣(1、秋田北)、佐藤学(2、天王)、小玉文隆(1、羽城)、佐藤俊樹(2、船川)、浅野和幸(2、井川)、館岡明(1、五城目一)、原田好二(1、船川)、小林誠(1、秋田南)、[部長]豊島君男、[監督]嶋崎久美、[記録]鳴海猛(2、八郎潟)。

平成28年9月 / DeNAマネジャー統括兼GM補佐 浅利光博氏(角館)が死去

asari<2016.12.31> 現在、福岡ソフトバンクホークスでコーチを務めている入来祐作氏(平成8年のドラフトで本田技研工業から読売ジャイアンツを逆指名して1位入団)が戦力外通告を受け、どこからもオファーがなく困っている時に手を差し伸べたのが、横浜入団時の編成担当者の浅利光博氏だった、打撃投手の話を打診されそれを引き受けた。2016.9.11】浅利光博氏 (DeNAマネジャー統括兼GM補佐)が 平成28年9月10日午後11時35分、胃がんのため横浜市内の病院で死去、61歳。新人テストで120人の難関を突破してプロ入り。【2006.6.02】横浜の浅利光博運営部長は6月2日、東京都内のセ・リーグ事務局を訪れ、前日のソフトバンク戦で審判の判定が食い違ったことに関して 「提訴試合」 としての申請を行い、試合のやり直しを求めた。リーグでは週明けにも受理するか却下するかを決める。9回一死一塁で横浜多村が放った三塁線のゴロを鈴木三塁塁審はファウルとしたが、渡田球審がフェアと判定。ボールは二塁→一塁と転送され併殺が成立、試合が終了した。横浜牛島監督が渡田球審に審判間の協議を求めたが受け入れられなかった。

平成23年度 古城敏雄氏講演会 我が野球人生-花も嵐も乗り越えて(南部公民館)

baae1981年第53回センバツ大会準々決勝、秋田経大付-印旛をDVD観戦。実況:石井賢アナ、解説:池西増夫氏。2015.8.26 古城敏雄氏 (元秋田商、秋田経大付野球部監督)。2015(平成27年)8月25日 午前3時8分、ぼうこうがんのため秋田市の病院で死去、80歳。葬儀は29日午前11時から秋田市寺内字三千刈238-1、こすもす中央ホールで。喪主は長女の夫:村井成人さん。57年から秋田商高監督。58年夏、同校を23年ぶり甲子園に導き、60年センバツで4強に進んだ。専修大監督を経て79年から秋田経大付 (現明桜) 監督を務め、81年センバツで8強入り。両校の監督計9年で甲子園に7度出場した。元教諭。20119.28 平成23年9月30日 秋田市南部公民館文化講演会 「我が野球人生-花も嵐も乗り越えて」(講師 / 古城敏雄氏)。<2011.3.11> 秋田市民文化講演会 平成23年3月12日(土) 古城敏雄氏 「人それぞれの甲子園~勝ちを呼んだおにぎり」。<2010.2.28> 古城敏雄氏の喜寿を祝う会。伝説の赤根谷飛雄太郎監督の後任として秋田商の監督に就任して以来、石戸四六、今川敬三投手、成田光弘捕手等、また専修大監督退任後に秋田経大付監督に転じてからは松本豊投手等を育てた。

秋田県野球人名録 / 第1回全国中等学校野球大会準優勝 / 秋田中学 渡部純司捕手

t5zenkoku7601812bd2596873

8月18日は高校野球記念日。1915年(大正4年)のこの日、大阪の豊中球場(豊中グラウンド)で第1回全国中等学校優勝野球大会が開会した。地区予選を勝ち抜いた10校が参加し、決勝戦は京都二中と秋田中で、2-1で京都二中が優勝した。第10回から甲子園球場が会場になり、1948年(昭和23年)から全国高校野球選手権大会となった。<2018.1.04> 第1回全国中等学校野球大会決勝戦スタメン、[捕]渡部純司(5)[投]長崎廣(5)[三]鈴木久米治(3)[遊]小山田推一(4)[一]信太貞(5)[左]丹一郎(3)[中]羽石統一(4)[右]高橋蘶(2)[二]藤長治(3)。<2015.4.14>阪神甲子園球場で開催される夏の全国高校野球大会の前身 「全国中等学校優勝野球大会」 が始まって100年になる節目に合わせ、第1回大会に出場した全10校のOBが甲子園に集い、当時のカードで対戦する計画が進んでいる。第1回大会が開かれたのは1915(大正4年)8月。まだ甲子園はなく、大阪府豊中村 (現豊中市) の「豊中グラウンド」で東北から九州までの地区予選を勝ち抜いた10校が熱戦を繰り広げた。<2010.1.19、秋田県野球人名録> 渡部純司 (第1回全国中等野球大会準優勝)。秋田中の元捕手。平成5年12月22日、入院先の埼玉県の病院で老衰のため98歳で死去。甲子園の前身である大正4年の第1回全国中等学校野球大会で準優勝した秋田中野球部の元捕手。大阪豊中球場で行われた第1回大会に東北代表として出場した秋田中は、1回戦不戦勝、2回戦宇治山田中、準決勝早稲田実業を破って決勝進出、決勝で京都二中に延長13回1-2で惜敗した。秋田中卒業後、慶應義塾大学に進学し、陸上競技の選手として大正期に日本記録を保持した。戦後は旧県営手形球場の管理人や秋田大学北光会館管理人を長く務めた。 <秋田中参加選手> (投)長崎廣(捕)渡部純司(一)信太貞(二)齋藤長治(三)鈴木久米治(遊)小山田推一(左)羽石統一(中)丹一郎(右)野口眞吉、土井繁治。

秋田県野球人名録 / 飯塚明(秋田市副市長、昭和40年秋田高校硬式野球部主将)

17飯塚明 (秋田市副市長、昭和40年秋田高校硬式野球部主将)、昭和21年4月28日生。昭和40年夏甲子園ベスト4時の主将(早稲田大-秋田-秋田南)。夏甲子園大会予選西奥羽大会決勝で秋田商を破り、春・夏連続の出場を果たす。初戦の大阪の大鉄(ナイターゲーム)にサヨナラ勝ちし、その後も勢いに乗り日大二(東京)、津久見(大分)を撃破、準決勝で優勝した原貢監督率いる三池工(福岡)に1点差で惜敗し決勝進出を逃す。鐙(羽城)-大久保(秋田北)の投手リレーが印象的で、トップ成田から飯塚、藤原(稔)、岡本の中軸も強力だった。早稲田大学教育学部卒業後、秋田市役所入庁、秋田市教育長-秋田市副市長等歴任。平成21年7月28日、胃がんのため死去、享年63歳。<昭和40年夏秋田高校登録選手> [右]成田憲明、[遊]佐藤茂範、[二]○ 飯塚明、[捕]藤原稔、[一]岡本隆、[中]今井敦雄、[投]鐙文行、大久保正樹、[左]斎藤正人、藤原清己、[三]渡辺和美、広瀬光男、堀内一志、高橋修平、[監]渡辺博太郎。秋田南中同期に元巨人吉成昭三(秋田商)投手。

秋田さきがけ紙 「秋田市営八橋球場50年-球史を彩った男たち」 三平晴樹投手

孫 渡部淳一投手(3、左、慶應、東京神宮シニア) 春夏甲子園連続出場
san

元プロ野球三平晴樹投手(秋田商)の孫 渡部淳一投手(慶応大、東京神宮シニア)

慶応義塾高校で甲子園出場
8385af81

平成3年10月秋田魁新報連載 「秋田市営八橋球場50年-球史を彩った男たち」

2013yabase【2016.7.25】三平晴樹投手(阪急-大洋-大毎-日鉱日立-秋田商-土崎)平成28年7月25日逝去、77歳。昭和33年大毎入団、昭和35年に12勝を挙げ優勝に貢献、昭和40年現役引退。通算41勝34敗。<秋田魁新報1991(平成3年)10月21日~ 連載  「八橋球場の50年-第1部 球史を彩った男たち」>。今川敬三(秋田商)、水沢博文(金足農)、大久保正樹(秋田高)、遠藤恒男(本荘高)、簾内政雄(能代高)、石戸四六(秋田商)、高橋茂(大曲農)、小野巧(秋田高)、中島義博(秋田市立)、大石正行(横手高)、成田光弘(秋田商)、工藤幹夫(本荘高)、景山貴志(経法大付)、三平晴樹(秋田商)、本多秀男(秋田高)、成田憲明(秋田高)、阿部政文(大館鳳鳴)、小山満(経法大付)、三浦健二(秋田工)、船木千代美(秋田市立)、山岡政志(秋田商)、佐々木吉郎(秋田商)、嵯峨健四郎(秋田商)、小西秀朗(秋田高)、石崎透(秋田市立)、男鹿谷和美(秋田高)、猿田和三(秋田高)、山田久志(能代高)、鈴木寿(経法大付)、高橋捷郎(秋田高)、三浦清(秋田商)、武藤一邦(秋田商)、高松直志(能代高)、高橋千秋(秋田市立)、中川申也(経法大付)。

秋田県野球人名録/ 竹内一朔 元秋田県立五城目高校長(秋田高校野球部長等歴任)

平成27年7月20日大動脈狭窄のため秋田市内の病院で死去
編集委員として秋田県高等学校野球史「翔球」(平成3年8月刊)発刊尽力
issho

人名録 / 齋藤茂樹(日本鋼管-明治大-PL学園) 元秋田経法大付、由利工監督

ss・平成15年10月9日午前6時8分、脳腫瘍のため本荘市内の病院で死去、51歳。昭和27年6月11日、秋田県本荘市生。PL学園-明治大。明治大野球部監督。東京六大学野球リーグの首位打者、盗塁王などのタイトルを獲得。社会人野球の日本鋼管でも活躍し、全日本のメンバーにも選出。昭和55年に退社し、秋田経法大付(昭和59年~昭和61年)、由利工(昭和62年~平成13年)の監督を経て母校明治大の監督就任。平成14年11月、東京都内の病院で手術を受けた後、本荘市の自宅に戻って静養していたが脳腫瘍が再発し、平成15年8月から同市内の病院に入院していた。監督当時の由利工のユニフォームは明治カラー。<2020春季リーグ戦に向けての明治大齋藤茂樹コメント> 今年のチームはメンバーが一新し、昨年から出場していた選手はごく少ないチームです。投手陣は安定感抜群の牛田、プロキャンプで一層力をつけた一場が中心となっていくでしょう。打線は派手に打ち勝っていくチームではないので、しぶとく、泥臭く出塁し、次につなげる攻撃をしていきたいと思います。私、斎藤茂樹も就任1年目のルーキーですが、勝ち点を積み重ね、優勝目指して頑張って行こうと考えております。

秋田県野球人名録 / 社会人野球の発展に心血 岩見 茂 元秋田県野球協会長(79)

平成27年5月22日肝臓がんのため秋田市の病院で死去
97aa0192

2016年5月18日(水)二宮清純 唯我独尊「工藤幹夫 肝の据わった奇襲秘話」

287dd911http://www.ninomiyasports.com/archives/57918 13日に肝不全のため55歳の若さで死去した元日本ハム投手の工藤幹夫は、1982年10月9日、右手小指を骨折していたにもかかわらず前期優勝の西武とのプレーオフ第1戦に先発したことから、引退しても “奇襲の人” とのイメージが付いて回った。プレーオフ1カ月前のことだ。自宅ドアに右手小指をはさんで骨折。手には包帯、腕にはギプス。実はこれ、親分こと大沢啓二監督が指示した手の込んだ芝居だった。西武・広岡達朗監督が 「スポーツマンシップの風上にも置けない」 と激怒したのも無理からぬ話だ。工藤は7回途中まで投げ被安打3の無失点。まんまと西武を欺いたわけだから、さぞかし痛快だっただろう…。そう思い本人に訊ねたところ、渋い表情になった。今から3年前、場所は引退後に彼が経営していた秋田のスポーツ用品店。「実はまだ骨がくっついておらず、ドクターストップがかかっていた。案の定、ケガは悪化し、投手生命を縮めるはめになってしまいましたから…」。通算30勝のうち20勝は82年の1シーズンで稼いだものだ。こうした奇襲のツケ以上に彼が悔いていたのが、「マウンドを途中で降ろされた」ことである。「まだ1点も取られていないんですよ。ここまで引っ張っておきながら何で代えるのか。マウンド上で親分とケンカになったんです。ここで降りるのは嫌だと…」 親分が工藤に代えてマウンドに送ったのは絶対的な守護神・江夏豊。広岡西武は江夏対策を練りに練っていた。江夏の足元を揺さぶるためプッシュバントを多用して塁を埋め、スクイズと見せかけて四球を選びとった。当事者の黒田正宏は語ったものだ。「僕はベンチを出る際、広岡さんに“監督、スクイズの構えをさせて下さい”と了解をとった。なぜなら南海で2年間バッテリーを組んだ経験から、アイツが瞬時の判断でスクイズをはずせることを知っとったからや」。8回裏、西武は一挙6点を奪い勝負を決めた。心肺面に不安を残す江夏を右へ左へと走らせた西武の江夏攻略策こそが奇襲だったと見ることもできる。 この3日後にも工藤は先発し、7安打1失点で完投勝利を収めた。親分への反発をモチベーションに変えたのである。「余計なこと(芝居)やらなくてもねぇ…」。以上が奇襲秘話だ。体の線は細いが肝っ玉の据わった男だった。合掌。

野球人名録 / 佐藤秀明(プロの世界で中継ぎという地味な仕事に徹し続けた左腕)

hideakichuuou昭和60年の阪神日本一、平成元年の近鉄パ・リーグ優勝に中継ぎという地味な仕事で貢献した佐藤秀明投手(日立製作所-東洋大-秋田市立-土崎)が平成19年5月17日、46歳の若さで急逝。昭和60年ドラフト2位で阪神入団、球威に頼らない巧み投球術で、中継ぎで193試合に登板、実働7年で通算10勝11敗6セーブ、防御率4.15。戒名は「秀嶺慈球居士」 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E7%A7%80%E6%98%8E  <昭和53年春 秋田市立 登録選手> [投]佐藤秀明3、土崎)、[捕]福田泰弘(3、上小阿仁)、[一]小野士(2、八郎潟)、[二]加賀谷一(3、外旭川)、[三]長谷川浩靖(3、秋田南)、[遊]佐藤重樹(3、川内)、[左]石川光一(3、戸賀)、[中]金子里志(3、天王)、[右]○中川透(3、土崎)、小玉竹志(3、男鹿東)、熊谷正人(3、河辺)、柿田淳(3、土崎)、加賀徹(3、湯沢北)、長谷川隆浩(3、土崎)、佐藤善紀(2、秋田南)、森元忠浩(3、土崎)、坂谷浩英(3、五城目一)、戸来洋二(3、秋田西)、福田久雄(3、土崎)、中津川辰裕(3、東由利)、[責]杉山久夫、[監]塚田丈也、[記]加藤敦(2、土崎)。

野球人名録 / 佐藤秀明(プロの世界で中継ぎという地味な仕事に徹し続けた左腕)

東洋大時代 優勝パレード 杉本、大野・佐藤秀、仁村選手等(福田泰弘さん提供)
108db548

山田久志投手に横投げを進言した 元プロ野球 田辺修 内野手(立正佼成会-能代)

北羽新報
be

山田久志投手に横投げを進言した 元プロ野球 田辺修 内野手(立正佼成会-能代)

puro<北羽新報参照> 能代山本出身のプロ野球選手第1号。能代高校から立教大に進んだが2年で中退し、ノンプロの立正佼成会に入り投手から内野手に転向、打力を買われて昭和38年秋に大洋に入団、背番号68。入団時身長186cm体重94kg。豪快なスイングで 「ホームランか三振」 といわれた。プロ生活は2年で終わり、その後は家業の鉄工所を継ぐ。山田久志投手のアンダースローのきっかけをつくったのが田辺さんだと、山田投手は著書で紹介。<ネットより> 1メートル87、85キロは大型選手の多い大洋の中でもひときわ目立つ。森、長田といった重量選手より一回りからだが大きくいつも68番のユニホームを窮屈そうに着ている。その田辺が一軍戦で初めてヒットを飛ばした。八日、浜松の対巨人2回戦で八回、田辺は先頭バッターとして代わったばかりの巨人四人目中村と相対した。初球は高目のカーブだったが、バットの先っぽに当った打球は鈍い音を立てながらもあっという間に左翼手堀田の頭上を越えてフェンスへ直接ゴツン。ところがスタートした田辺は一塁ベースを回ったところで、腰くだけ。一瞬ガクリとしたが持ち直してそのまま二塁へー。田辺にとって、会心とまではいわないが力にまかせた一発だった。田辺は童顔をほこばせながら、「バッター・ボックスにはいる前にシゲ(高橋重)に、最初からカーブを狙え、といわれて待っていたら本当にカーブでした。オープン戦5打席目にやっと初ヒットが出ました。一軍でヒットなんか打てっこないと思っていたからうれしいです」 と大喜び。

訃 報 / 目黒公介 選手(金足農-男鹿南)令和2年4月23日逝去(享年34歳)

423平成14年度第24回全国中学校軟式野球大会東北予選会(青森県)の大会運営の迷走ぶりが多くの紙面で取り上げられた。準決勝予定当日、雨天のため大会本部は急遽試合会場を青森市営球場からスポーツランド水沢球場に変更、この間の移動距離 約250km、午後2時頃現地に到着してみると水沢市も土砂降り状態、午後4時前に雨が小降りになると今度は 近くの胆沢町民球場で試合開始と発表。が、またしても雨脚が強くなりようやく大会本部は試合開始を断念して雨天順延を決定 (翌日も雨天順延)。この間に要した時間約8時間。これもそれも全国大会が目前に迫っており、代表校選出のために試合消化を優先させようとしたことによるもので、当然のこながら大会運営に批判が続出 (最終的に準決勝は秋田県のスタジアム大雄と平鹿町営球場、決勝は平鹿町営球場)。肝心の秋田県勢の準決勝は、雄和1-6天童三(山形)、男鹿南1-2河北(宮城)と、共に敗退して全国大会出場はならなかった。<雄和町立雄和中学校登録選手> [投]金卓史(3)、[捕]佐藤瑛彦(3)、[一]池田勇人(3)、[二]池田圭佑(3)、[三]佐藤農(3)、[遊]○珍田真樹(3)、[左]伊藤慎一(3)、[中]長谷川恵太(3)、[右]佐藤雄大(3)、佐藤雄太(3)、長谷川公彦(3)、高橋勇人(3)、佐藤一平(3)、佐藤広大(3)、金雄矢(3)、伊藤十夢(3)、鎌田裕輔(3)、菅原達也(3)、小白川宮貴(2)、浅野潤也(2)、[部]國安裕、[監]菅原吉伸、[記]永澤慶大。<男鹿市立男鹿南中学校登録選手> [投]澤木雄一(3)、[捕]柴崎達徳(3)、[一]菅原佑太(3)、[二]大友晃太(3)、[三]加藤友幸(3)、[遊]○宮崎翔平(3)、[左]本川慎一(3)、[中]加賀力哉(3)、[右]目黒公介(3)、吉田淳一郎(3)、鎌田慎太郎(3)、秋山克也(3)、目黒雄(3)、近江隆(3)、安藤竜也(2)、中川陽介(2)、加藤翔(2)、山下恭平(2)、安田直紀(2)、石垣亮(2)、[責]木村守人、[監]櫻庭豊、[コ]畠山正人、[記]目黒裕也。

創立100周年 / 秋田商元教頭 武藤四郎さんが6年かけ執筆「秋商百年史」完成

野球は戦前の甲子園大会で活躍した赤根谷飛雄太郎を監督に迎えた
aka

● 秋田高-立教大 / 元プロ野球 国鉄、東京 小西秀朗さん1月13日 82歳で死去

プロレス関係のイベントも企画
Scan10006

● 秋田高-立教大 / 元プロ野球 国鉄、東京 小西秀朗さん1月13日 82歳で死去

令和2年3月17日付 秋田さきがけ紙
3

秋田中、秋田高校野球部OB/神﨑泰雄さん3月16日 87歳で死去 東京都三鷹市

2019年3月16日逝去
52dd48c8

秋田県野球人名故人録 / 小窪敬一元秋田経法大付野球部監督(電電東北-仙台商)

3e89dbc6-sダルビッシュ有(Yu Darvish)投手のツイッターより。なんでも自由にやっているように思われていると思いますが、投手をやる上で大事にしていることが二つあります。1・ロジンを優しく扱うこと、投げたりしない。 2・グラブの紐は全て結ぶ。 1.は 秋田経法大附 (現明桜) の 小窪敬一元監督。 2.は PL学園元監督の中村順司監督に教えていただきました。【2007.12.31】元秋田経法大付野球部監督。平成17年12月19日心筋梗塞のため仙台市内の病院で死去、56歳。平成13年4月から秋田経法大付で指揮を執り、同年秋の東北大会 (岩手県、仙台育英優勝) で準優勝し、平成14年センバツに出場 (平成15年退任)。昭和42年仙台商のエースとして甲子園春夏連続出場、電電東北で都市対抗4度出場、仙台商の監督として昭和58年夏甲子園出場という輝かしい球歴。NTT東北の監督も約7年間務め多くの選手を育てた。秋田県関係では竹内昌也投手 (阪神-NTT東北-本荘-象潟)。平成18年11月、1周忌を機会にフルスタ宮城で追悼試合が行われた。<秋田経法大付甲子園先発選手> [二]佐藤茂樹(3、北陽)、[遊]千田祐成(3、八郎潟)、[中])○桑島知宏(3、光陽)、[捕]松田幸樹(3、湯沢北)、[左]高橋康太(3、河辺)、[投]平塚隆一(3、あいの里東)、[一]田村潤(3、比内)、[三]山内伸悟(3、大館東)、[右]山中慎太朗(3、横手南)、木村雄太(2、花輪二)、菅原圭介(2、羽城)、田中雄也(2、二ツ井)、福田卓(3、協和)、佐藤壮(3、西仙北東)、高橋拓也(3、山田)、阿部隆雄(2、能代二)、高橋純(1、塩釜一)、佐藤大(2、泉)、今野福太郎(1、本荘南)、堀内誠(3、田代)。

秋田県野球人名故人録 / 小窪敬一元秋田経法大付野球部監督(電電東北-仙台商)

平成17年12月19日心筋梗塞のため仙台市内の病院で死去、56歳
ko

秋田野球人名録 / プロ野球完全試合達成 佐々木吉郎投手 (日本石油-秋田商)。

kiti
記事検索
カテゴリ別アーカイブ
記事検索
月別アーカイブ
カテゴリ別アーカイブ
記事検索
訪問者数
  • 今日:
  • 昨日: