
プロ野球




https://www.tokyo-sports.co.jp/ 藤田太陽「ライジング・サン」(8) 高校に入学してからも1年生の時は控え選手でした。投手としては本当にたまに投げるくらいでした。ダブルヘッダーの2試合目に少し投げろとか、少し守れとかその程度でした。県内では甲子園とは無縁の高校とはいえ、やっぱり当時の3年生にはかなわなかったです。対抗できるものはというと、肩の強さだけでしたね。でも当然、野球ってそれだけじゃないですよね。あと、そんなことよりも星一徹のように豹変した父との鬼のトレーニングが苦しかったです。「何なんだよ、これは」とは思いながらも耐えてました。すると、2年生になって打球がいきなり段違いに飛ぶようになっていました。僕たちのチームでは練習試合で強いチームとはあまり対戦していませんが、2年生だった1年間でホームランを30本以上打てたんです。そうするともう、バッティングが楽しくなってしまいました。実は2年生の秋くらいには広島カープがドラフトにかけるという話もあったそうです。高校時代は日本ハムと広島から野手としてスカウトの調査が入っていました。事前に書き込んだ調査書では、投手と野手のどちらでプロでは勝負したいかを問われました。一応、チームとしては野手で考えているが、本人の希望は聞いておきますと。でも、入団してからはこちらで判断させてもらいますという話でした。とはいえ、当時の僕は高校生です。自分で判断もできないですし、監督のところで止まっていた話もあったそうです。中日やヤクルトからも調査があったようです。3年生で投手としてデビューした後には普通に145キロとか、投げていましたからね。当時の高校生としてはかなり速かった方だと思います。小中学校時代には投手をしていないので、使い減りしていないというのもプロ受けしたんだと思われます。ヒジのしなり、柔らかさがいいと、とにかくそこがいいと言われましたね。高校から野手としてプロ入りしていたらどうなっていたんでしょうね。その時点でそこそこ守れて、足が速くて、体が大きく頑丈なら、一から作ることができますよね。指名順も4位くらいで隠し玉として狙える。でも、当時の僕は本当にプロになんてなれるのか?という感覚でした。僕なんて誰も知らないのに。そんな気持ちでした。エグいなと自覚していたのは肩だけです。いわゆる、投手として投げるボールがすごいなとは思ってはいませんでした。外野からバックホームで投げているボールを、マウンドからズドンと投げているだけでしたから。何となくそのへんに真っすぐを投げて、意外にうまく習得できたスライダーを投げていたら、勝手に三振を取れるという感覚でした。3年生が引退し、新チームとなって2年生秋から投手として本格始動しましたが、秋にはまだ僕はエースではなかった。それで冬を越してやっと、ストライクが入るようになった。そんな初心者の投手でしたからね。ちゃんと投手にもなれていませんし、野手としてドラフト候補と言われても本当にピンときませんでした。そんな僕の内心とは裏腹に、3年生春からは投手としてどんどん結果が残ってしまう。1、2年生で土台を作ってきた成果も出ていると思われましたが、野球はそんなに甘くはなかったんです。

https://www.tokyo-sports.co.jp/ 藤田太陽「ライジング・サン」(6) 遊撃守備で強肩をひけらかす、という快感を覚えた中学3年の僕なのですが、相手校が強豪校の時などはアピールに必死でした。たくさん高校のスカウトの方々が見に来ますからね。なので、普段よりさらに深く守って見せ場をつくることにいそしんでいました。実際にその後、複数の高校からスカウトをしていただいたのですが、僕はあの肩で決めてもらったんだと、アピールは成功だったなと思っています。仙台育英、東北高、秋田経法大付、金足農業にそれぞれ推薦を出してもらいました。その何日か後に校内でケンカをしてしまって。理由は、その当時にお付き合いしていた彼女に、消しゴムを投げつけられた程度のちょっかいを出されて、もめ事になったレベルなのですが…。進学の支障にはならず幸いでした。ヤクルトの石川雅規が進学した秋田商も考えていましたが、僕にはスカウトは来てくれてなかったですね。条件として特待生とのお話をいただいたのは3校でした。その中で親は秋田経法大付、僕は仙台育英に気持ちが傾いていました。でも、もしけがをしてしまったらとか、僕の性格が判断を変えていきました。これは阪神を選ぶ時にもこういう気質が働いたと思うんです。実家は秋田で仙台だと親が試合を普段から見られないし、練習風景だって頻繁には見ることができない。それじゃあ、両親には楽しんでもらえないなと。じゃあ、何が一番いいだろうかと考えたんです。で、その当時、最も熱心に誘ってくれていたのが新屋高の鎌田監督だったんです。本当に熱意のある人で「君の手で甲子園に連れて行ってくれ。君のことが必要なんだ。君のために秋田県の中から、3年生になって甲子園を目指せるメンバーを血眼になって探し、スカウトしているから」と言われ心に響きました。他の選手にも同じこと、みんなに言っていたかもしれませんけどね(笑い)。強豪校のスカウトは「藤田くんさえ良ければ来てくれればいいですよ」というスタンス。もちろん環境も整っているし、素晴らしいなと思いました。でも、新屋高は「ウチのグラウンドは石ころだらけだけど、先生がちゃんと整備して何とか君たちに野球をやらせてやるから」という鎌田先生のスタイルでした。僕にとっては、こっちの方が信用できる先生だなというふうに感じました。違う判断をすれば未来は変わったかもしれません。でも、それはもう分からない話です。僕は新屋高の鎌田監督の下で野球をやりたいと思いました。本当に普通の公立高校でした。吹奏楽部が強くて全国大会にも出ているくらい。野球では無名です。学力も普通で5教科500点満点で300点弱取れれば合格のレベルでした。当時は公立高校でも運動部を優遇して獲れるシステムがあったそうで、僕は私立の強豪校ではなく新屋高を選んで進学しました。強豪校の環境やブランドより、誘ってくれた監督の人柄で進路を選んだ。それは、阪神に入団した時とどこか似ているような気がします。





プロ野球12球団主要応援歌メドレー
http://www.go-stop-call.com/4umpire.html 打球が打たれたら、先ずその方向にステップしてスタートします。そうすると何が見えるかと言いますと、打球を追う審判が眼に飛び込んできます。打球だけを見ていては、打球を追う審判は眼に入りません。打球に対してステップしてスタートするから見えるのです。誰が打球を判断する当該かなって他の審判を見ているようでは、すでにスタートが遅れていると理解する必要があります。
ポーズ・リード・リアクトという用語をご存じの方も多いかと思いますが、意味は知っていても、実際の行動として表現されている方は少ないのが現状だと思います。打球の判断は常にすべての審判がするのですから、誰がその打球の判定の当該審判かと考えていること自体が間違いなのです。打球の性質というものを判断するには、まずは打球の方向にステップしてみてください。打球の方向にステップするという意味は、視界を広くするという意味が含まれています。視界が狭い審判の動きというものは、自分よがりな動きをする可能性がとても高いです。自分よがりの動きをするのが、まだ審判初心者であれば、それはある意味仕方がない場合もありますが、ベテラン審判が自分よがりの動きをすることで、皆さんが大好きなマニュアル通りに動けなくなることも多いですよ。多くのベテランは、他の審判にマニュアル通りに動くように反省会等で指示をするのではないですか。マニュアル通りに動きなさいと指示をしている審判が、逆にマニュアル通りに動くことを阻害しているとすれば。。。。若い審判がどのような動きをしようが、ベテランは黙ってカバーリングをするべきなのですよ。それがクルーとしてのフォーメーションなのです。その第一歩が、打球に対してステップしてスタートなのです。外野手の中間付近に飛んだ打球の判断は難しいと思っている審判の方は多いと思いますが、難しくありません。「あなたが追えばよい」だけです。他人任せの判断ではなく、自己中心的な判断で良いのです。その判断が自分よりも他の審判が早ければ、その打球に関しては、その判断は早かった審判に任せれば問題ありません。俺の打球なのになって思っても、他の審判のほうがすでにその打球の当該になっているのです。判断が遅い審判の出番はありません。判定も出来ません。審判というものは、プレイの判定をして、初めて審判としての価値が出てくるのです。あなたは判定がしたくてグラウンドに立っているのではないですか。難しいプレイの判定をしたいから、グラウンドに立っているのではないですか難しいプレイの判定を、そのプレイの近くで見て、正しい判定がしたいのではないですか。それが審判の判定というものです。難しいプレイの遭遇することが怖いですか。打球に対してのステップからスタートが遅い審判は、その難しいプレイから避けているように、私は感じてしまいます。難しいプレイの判定から逃げている審判は、仲間からの信頼もなくなります。それはもっとも避けなけれがいけないことですよ。信頼関係というものは、それは審判経験の多さや、年齢的なものでは補えません。常に審判としての行動をしてるかどうか、これだけが判断基準です。皆さんの周囲で本当に信頼されている審判というものは、そうではないですか大きな大会に派遣されたとか、有名校同士の試合で審判したとか、審判の正しい判定をしたかどうかよりも、そっちが信頼を得るのだと思っているとすればそれは考えを改めたほうが宜しいですよ。たとえ練習試合でも、審判として一生懸命取り組んでいる審判のほうが、仲間としても信頼があるのは言うまでもありません。その信頼を得るための第一歩が、打球に対してのステップからスタートだといっても良いかもしれません。これが出来ている審判は、仲間が困っている時でも、きっと助けてくれることでしょう。仲間が抗議されているときに、選手と会話なんかしてるような審判は、それだけで駄目な奴って烙印をおされるのです。仲間のことを考えている審判は、決して遅い動きはしないものです。審判の判定というものは、素早い動きと、そしてプレイに近づく勇気がなければ出来ません。プレイの判定は、距離よりも角度だって言っているようでは、判定の神髄というものを理解していないという事を表明してるようなものですので、仲間の前で言わないほうが宜しいと思います。角度重視なら、審判がグラウンド上にいる必要などないのですからね。フォーメーションも要らない。そんなことで、難しいプレイの判定が出来るのであれば、それこそ審判など不要ですよ。あなたの価値というものは、プレイに近づいて、正しい判定をすることで認められるのですからね。プレイに近づく勇気のある審判だけが、仲間からもチームからも信頼されるのです。終わります。少しでも参考なって、次のグラウンド上での審判に役立つとすれば、著者としてこれほど嬉しいことはありません。騙されてと思って、実践してみてください。実践すれば、絶対に良い結果が出ますよ。出ないはずがありません。私が少なくても結果は出してきたのですから。




http://www.go-stop-call.com/4umpire.html 打球が打たれたらスタートするわけですが、貴方はどちらの足からステップしていますか? もちろん、打球の打たれた方向の足から「ステップ」するんですよね。そうしていますか? 打球の方向にステップするのは、それは「プレイに正対する」ためなんですよ。「何だそんな事知ってるよ!」でしょうか?「貴方」は、打球の方向にステップしていますか?それが問題なんですよ。知っていても実践しなければ、知らないと一緒です。特に「打球の方向にステップ」するのは、意識的にステップしますよ。無意識では足の運びが上手く行きません。特に内野内に位置した審判の場合は、それが著しく行動に現れます。スムーズな足の運びが出来ないんですね。何気ない事でも理由があるのが、審判としての行動なのですね。プロ審判のスムーズな動きは、すべてこれです。これ。参考になりましたでしょうか。実践すれば、必ず結果はついてきます。しなければ、良い結果が出た理由を知ることはないでしょう。理由を知る必要があるのです。まして上に立って後輩を指導する立場の審判はね。<深い意味があります>では、打球の方向にステップして、次はどうするのかという事は、次回のこっそり審判で解説したいと思います。野球もシーズン終了となり、来年度に向けて色々と考えたりされている事と思います。今の時期にゆっくりしてしまうと、来年度の出足が遅れますよ。既に来年は始まっていると思うのが、出来る審判の考え方です。私の制作したレポートをお持ちの方は、再度すべてに目を通して頂くだけで、審判としての気持ちが盛り上がるのではないかと思いますので、ぜひ通読されてください。


<週刊ベースボール> 巨人・菅原勝矢の記事からいく。秋田県出身。67年に11勝を挙げたが、しばらく伸び悩んでいた右腕だ。独特の担ぎ投げから投じる重い速球が武器だが、気が弱く、藤田元司コーチからは「びびんちょ」と呼ばれていた。この男、いろいろな記録を持つ。たとえば、66年8月21日、初登板のサンケイ戦(神宮)で初登板初先発初完封。67年5月18日の阪神戦(甲子園)での2勝目は、1安打完封勝利、さらに、この年の8月15日、同じく阪神戦(甲子園)で1球勝利、1日置いた同カードで5回雨天コールドの完封勝利。71年9月6日のヤクルト戦(神宮)では6回までの降雨コールドでのノーヒットノーラン。そして、この72年途中まで続いた11連勝。71年まで通算20勝とは思えぬ勝ち運がある、いや、そこまでしないと勝てないと考えると、勝ち運がなかった男、とも言えるか。<スポーツ紙紹介、一部略> 長い巨人の番記者生活で、この男ほど波瀾万丈の道を歩んだ選手を知らない。菅原勝矢投手、秋田県立鷹巣農林高から東京農大を経て、昭和41年に巨人に入団、現役8年間で33勝8敗、防御率2.98という成績を残している。秋田県大館市の農家に10人兄弟の9番目として生まれた。兄弟で高校へ進学したのは彼ひとりという極貧の環境だったが、「どうしても野球がしたい」 と東京農大へ。ところが、1年目の春のリーグ戦に3勝をあげ、素質を見抜いた巨人の青木宥明スカウトにくどかれると、家計を助けたいと大学をスパッと退学、プロの水に飛び込んだ。ずんぐりむっくりの体形、赤い頬、ズーズー弁、まるで砲丸投げのようなぎこちない投法・・・・。チームメートだけでなく、番記者からも好かれるキャラクターだった。ニックネームは 「ガービー君」 。東北なまりが消えず、「カーブ」 が 「ガービー」 に聞こえるからだった。入団当時は速球だけだったが、カーブ、スライダーと球種を増やすにつれて成績も上昇し、41年に初勝利、42年には11勝4敗という好成績をマークしている。この間、なぜか菅原には珍記録がついて回った。まず、プロ入り初登板だった41年8月21日のサンケイ戦で、初勝利が完封勝ち。神宮球場が初めてなら、ナイターも初体験だった。2勝目となった42年5月15日の阪神戦は、ノーヒットノーラン目前の1安打(1四球)完封という離れ業だった。さらに意外だったのは5年がかりの11連勝。これだけ間隔をあけながらの記録だと、うっかり見過ごされかねないほど、珍しい記録といえる。巨人投手の連勝記録は松田清の19連勝、初登板から無傷の連勝としては41年の堀内恒夫の13連勝だが、いずれも短期間でマークしたもの。菅原のような例はあまりない。理由は簡単。活躍→抜擢→故障→空白→活躍→このサイクルの繰り返し。さまざまな故障に泣かされ、ブランクは長かったが、久々に登板となってもなぜか負け投手だけにはならなかった。ついているのかいないのか? まったく不思議な男だった。その11連勝は43年から始まった。6月30日の大洋戦完封勝ち(後楽園)が華々しい? スタート。ところが2連勝目が9月21日の中日戦(中日)。なんと84日ぶりの白星だった。この間、菅原は原因不明の故障に悩まされていた。背中の筋肉が硬くなり、投げているうちに「背中がつる」(筋肉の収縮現象)のである。「人には説明できないですね。いくら話しても実感してはもらえないでしょう」 と、菅原は童顔を曇らせるだけだった。それでも体調がよくなった秋には、阪神戦(9月28日)、広島戦(10月10日)と連勝を伸ばしてみせる。「もう大丈夫。ローテーションの一角をまかせる」 と、川上監督を喜ばせた44年と45年には勝ち星なしの2軍生活。理由は前回と同じ背中の筋肉がつる奇病だった。大学時代から交際していた美代子さんは44年、結婚したとたんに近所のお地蔵さんに通うのが日課になってしまった。そして46年後半に4連勝すると、47年は開幕からエンジン全開で4月22日の3勝目で、延べ11連勝をマークした次第。もうひとつの珍記録がある。これは42年8月15日の阪神戦(後楽園)だった。8回2死から金田正一投手が負傷降板し、菅原がリリーフ。藤田平を1球で左飛に打ち取った。その裏、巨人は2点を取って逆転。打順が回ってきた菅原には代打が送られ、9回は中村稔が抑えた。これにより38年8月21日の近鉄・ミケンズ、41年8月26日の中日・坂東英二に次いでの 「1球で勝利投手」 に。

<Full-Count 編集部>9月23日のソフトバンク-オリックス戦(PayPayドーム)。5回2死一、二塁で、オリックスの左腕・田嶋が4球目を投げようとした際に、打席のグラシアルが突然タイムを要求。その様子を見た田嶋は投球動作に入っていたが、ボールを投げずに動きを中断した。塁審からのボーク宣告で走者は進塁しかけたが、森球審は審判団を集めて協議。場内も騒然とする中「打者が打撃姿勢をやめたことにより、投手も投球を中断した。双方がルール違反を犯している。元に戻し、試合を再開します」と説明したのだった。思わぬ事態を冷静に裁いた森球審に対し、当時ファンからも「ほんま森球審最高」「審判がルールちゃんと頭に入ってたことがすごい」などと称賛の声が相次いだ。今回の動画を見たファンからも「バッターが打撃姿勢をやめたせいでピッチャーが投球を途中でやめた場合は何もなかったことにするというのはホント勉強になった」とのコメントが寄せられていた。
