★ 備忘録 「熱球通信」 ・ 特定非営利活動法人秋田県野球フォーラム ★

「熱球通信」は特定非営利活動法人秋田県野球フォーラム会員有志による備忘録を兼ねた「秋田県野球」にこだわった私的ブログです。掲載している記録等については公式なものではありませんのでご注意願います。リンク等についてはオールフリーですので事前のメール等一切不要です。更新頻度は原則毎日の更新です。秋田県出身で県外に在住の方も念頭に更新していきますが、内容等一部については地元情報と時差が生じる場合があります。練習・親善試合の結果情報は原則掲載しません。また、コメント送信欄と掲示板については諸般の事情により対応していません。積極的な中学硬式野球・女子野球の紹介に努めています。

プロ野球

東スポWeb / セレクションを受験したのはJR東日本東北と川崎製鉄千葉です

arayhttps://www.tokyo-sports.co.jp/ 「藤田太陽ライジング・サン」(10) 高校3年生で投手デビューを果たしました。春からの練習試合ではほぼ、点を取られない無双モードでした。それでも簡単に甲子園に行けるほど甘くはありません。最後の夏の大会はノーシードから1回戦で勝利したものの、2回戦負けでした。当時から打者の練習に関しては高性能なマシンもありましたし、夏の大会では速い球だけでは対応されることもありました。連打や長打はないのですが、四球や失策が絡んで失点というパターンはそこそこありました。やはり速い球を投げるだけでは試合には勝てません。2回戦を勝ち進んでいれば、その次は金足農業との対戦でした。当時は一番の甲子園候補でした。しかし、前年の秋季大会で優勝していた秋田商が甲子園への切符を手に入れました。石川雅規(後に青山学院大からヤクルト入り)のいた秋田商です。前年秋に準優勝していた我々、新屋高は藤田太陽もいるし甲子園もあるんじゃないかという空気はありました。金足農業に勝てば先の道が見えている感じもあったのですが、その時点でスキがあったんでしょうね。最後の夏が終わればその後の進路の話になります。いろいろな大学や企業の方々が学校に来て、監督と話をしていたのを覚えています。希望すれば、だいたいの野球名門校には進学できるとも言っていただきました。東京六大学、東都リーグ、地元なら東北福祉大などです。見学に行ってみるかとも勧められましたが、その当時の僕はお断りを入れさせていただきました。プロ以外では社会人しか頭になかったんです。地元のTDKかJR東日本東北、川崎製鉄千葉(現JFE東日本)の3つしか頭にありませんでした。理由の一つは金属バットはを持った大人の社会人を相手に対戦できるということ。その厳しい環境で結果を残し日本代表で日の丸をつけたかったんです。柔道をやっていた時、国歌演奏をバックに表彰台に立つ選手の姿がすごくカッコ良くて憧れました。国の代表としてプレーしたいという気持ちがとにかく強かったんです。大学に行くとまた1年生から奴隷のような生活が始まるとイメージしていました。そんなんなら、ちゃんとお給料もらえて、職業としての野球がしたかった。早ければ3年でプロに進むこともできる。それで社会人野球を選びました。プロ入り時に逆指名もできて自分で入団するチームを選べたらいいなとも思っていました。実際にセレクションを受験したのはJR東日本東北と、川崎製鉄千葉です。どちらにも合格をもらいました。僕の中ではようやくここで、スイッチが変わりました。これまでは地元で自由に野球をやらせてもらってきました。でも、ここからは人生をかけた勝負なんだと。大学を飛び越えて社会人で野球をやるなら、高いレベルでやらないと意味がない。何度も都市対抗に出場している名門の川崎製鉄千葉を、ここでは選ばせていただきました。全国区のチームであったというのが一番の選んだ理由です。両親には大学に行けと言われました。今までなら、親に見てもらうために東北地方の大学を選んだかもしれません。でも、その時の自分は違いました。18歳で覚悟を決めて、まだ卒業式の前に千葉に行って練習に参加していました。初めて親元を離れての生活になります。自分なりに気合を入れて実りある野球生活をと意気込んでいましたが、ここでも僕を待っていたのは試練でした。

ベースボールマガジン社 / 週刊ベースボール2021.2.01 / ドラフト候補特集

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東スポWeb / 2年の新チームになってからの秋季県大会では準優勝したんです

arayhttps://www.tokyo-sports.co.jp/ 「藤田太陽ライジング・サン」(9) ついに投手として本格的に始動しました。高校3年生の春です。新3年生となる春先の試合からどんどん投手として投げさせてもらって結局、夏の大会前まで防御率が0・60くらいでした。正確な数字は覚えていませんが、何せ点を取られなかった記憶があります。大会前の新聞なんかには、ダークホース的な扱われ方をしていたのを覚えています。もともと、2年生で打撃に目覚めて4番を打たせてもらってましたから、投手として投げ始めるとワンマンチームみたいな感じになってしまいました。ただ、やっぱり慣れてない投手を本格的にやりだして、結果も伴って楽しくなる半面でヒジが痛かったですね。本当の意味でのピッチングフォームというものを知らなかったんです。ヒジがしなって柔らかいという表現で褒められるとうれしいですが、実際はヒジがかなり痛かった。今みたいにトレーニング方法も近代化してませんでしたし、インナーマッスルがどうとか知識がなかった時代です。鉄棒にぶら下がって指の力を鍛えるくらいしかなかった。投球後のアイシングくらいはしてましたけど。試合の方は僕が投げれば連勝、連勝、連勝です。その前の新チームになってからの秋季県大会では準優勝したんです。春は投げてない試合で負けて、夏の予選はノーシードでした。当時の秋田県は金足農業、秋田商業、秋田経法大付とあともう1校、進学校の秋田高が有力チームとされていました。秋田高の1学年上にはのちにオリックスや楽天で活躍された、後藤光尊さんが4番で投手。僕らが3年生のころにはもちろんいませんが、後藤さんがスーパースターだったのをすごく覚えてます。その後は同じ川崎製鉄千葉でチームメートとなりお世話になりました。肝心な甲子園をかけた夏の大会はというと2回戦敗退です。僕が先発して自責1でしたが、失点7でしたかね。延長戦でサヨナラ失策で高校野球は終わりました。チームとして失策は多かったです。でも、当時の自分はそれが嫌だとは思わなかった。そういうのを含めて、僕はこのチームで野球をしようと決めたわけですから。周囲には新屋高でなければ甲子園に出られたのに、とか言われたりはしました。でも、新屋高で甲子園に出るために自分は選んで入ってきた。みんな一生懸命やってるのは分かってるし「なんでエラーしてんだよ」とは1ミリも思わなかったです。自分自身も完成した投手ではないですしね。人を責めるなら、僕があの場面で三振取れなかったからそうなったんだと、そう考えていました。僕は高校野球で県大会優勝投手になったこともない。投手をやり始めてまだしばらくの人間が調子に乗って、練習試合でうまくいったからって、そんなに甘いものではない。本大会ではヒジの痛みもあって、ガンッと全力で投げられない苦しい投球でした。でも、そのうまくいかなかった経験が、次に社会人野球に進もうと思えた原動力になりました。とんとん拍子にうまくいっていたら、そのままプロに行っていたかもしれないですけどね。この高校3年生のシーズンが投手・藤田太陽の元年でした。

「タイチ」リレーに意欲 / ヤクルト 石山泰稚投手(ヤマハ-東北福祉大-金足農)

333<スポーツ紙> ヤクルトの守護神・石山が、東北福祉大の後輩でドラフト2位の山野との「タイチ」リレーに意欲を示した。石山は泰稚、山野は太一で読みは同じ「たいち」。即戦力左腕の山野は先発を希望しており10学年下の後輩から先輩への継投の可能性に「なんとか勝ちを消さないように」と意欲を示した。昨季は防御率2.01、20セーブを挙げ、取得した国内FA権は行使せずに4年総額7億円の契約。「その分働かないといけない」と今季のフル回転を誓った。<2019.12.11> 2000万円ダウンの8000万円で契約更改。上半身のコンディション不良や夏場のインフルエンザで、前年からほぼ半減の34試合の登板に終わったが 「来年は倍やり返したい」。来季は新球習得にも挑戦する。【2018.12.12】5200万円増となる年俸1億円でサイン。【2017.10.22】ヤクルトは10月21日、神宮外苑で秋季練習を行い、練習を見守った石井弘寿投手コーチ (40) はリリーフ陣の整備、「勝利の方程式」 確立に向け、秋吉亮 (28) と石山泰稚 (29) 両投手にリーダー役になることを “厳命” 2014.12.11】ヤクルト2年目石山泰稚投手が2014(平成26年)12月10日、300万円増の3800万円で更改。今季はセットアッパーの他に先発でも14試合に登板(3勝8敗)。昨オフに結婚した絵里夫人と今月6日に東京都内で挙式、来年4月上旬第1子誕生予定。【2013.12.31】ルーキーながら60試合に登板し3勝3敗10セーブ、防御率2・78の成績、5年間の交際を経て仙台市内で保育士として働く絵里さんと結婚。東北福祉大時代に知り合い、静岡浜松市ヤマハ入社後は遠距離恋愛を続けていた。挙式・披露宴は来オフの予定。【2013.12.04】2013(平成25年)12月3日ヤクルトドラフト1位ルーキー石山泰稚投手、2000万円増の年俸3500万円(推定)で契約更改。救援で60試合に登板して3勝3敗10セーブ。「オールスターにも出させていただき、充実した1年だった。今後も行けと言われたところで結果を出せるよう精いっぱい頑張る」 。【2013.7.02】プロ野球マツダオールスターゲーム2013に監督推薦で出場。【2013.5.06】平成25年5月5日対阪神9回戦3番手登板、投球回数1回被安打3四死球1自責点2プロ初勝利。【2012.12.06】ヤクルト元エースでヤマハ先輩西村投手の29が候補も、最終的に本人の意向で背番号は12。【2012.11.30】ヤクルトは2012(平成24年)11月29日、ドラフトで1位指名したヤマハ石山泰稚投手(24)と浜松市のヤマハ本社で入団交渉、契約金1億円プラス出来高払い3000万円、年俸1500万円で仮契約。【2012.10.25】ヤクルト、ヤマハ石山泰稚投手指名。金足農関係選手の指名は平成2年足利豊投手以来。【2010.10.13】 東北福祉大 石山泰稚投手プロ志望届提出も ドラフト指名なし。

東スポWeb / 高校時代は「日本ハム」「広島」から野手としてスカウトの調査が

arayhttps://www.tokyo-sports.co.jp/ 藤田太陽「ライジング・サン」(8) 高校に入学してからも1年生の時は控え選手でした。投手としては本当にたまに投げるくらいでした。ダブルヘッダーの2試合目に少し投げろとか、少し守れとかその程度でした。県内では甲子園とは無縁の高校とはいえ、やっぱり当時の3年生にはかなわなかったです。対抗できるものはというと、肩の強さだけでしたね。でも当然、野球ってそれだけじゃないですよね。あと、そんなことよりも星一徹のように豹変した父との鬼のトレーニングが苦しかったです。「何なんだよ、これは」とは思いながらも耐えてました。すると、2年生になって打球がいきなり段違いに飛ぶようになっていました。僕たちのチームでは練習試合で強いチームとはあまり対戦していませんが、2年生だった1年間でホームランを30本以上打てたんです。そうするともう、バッティングが楽しくなってしまいました。実は2年生の秋くらいには広島カープがドラフトにかけるという話もあったそうです。高校時代は日本ハムと広島から野手としてスカウトの調査が入っていました。事前に書き込んだ調査書では、投手と野手のどちらでプロでは勝負したいかを問われました。一応、チームとしては野手で考えているが、本人の希望は聞いておきますと。でも、入団してからはこちらで判断させてもらいますという話でした。とはいえ、当時の僕は高校生です。自分で判断もできないですし、監督のところで止まっていた話もあったそうです。中日やヤクルトからも調査があったようです。3年生で投手としてデビューした後には普通に145キロとか、投げていましたからね。当時の高校生としてはかなり速かった方だと思います。小中学校時代には投手をしていないので、使い減りしていないというのもプロ受けしたんだと思われます。ヒジのしなり、柔らかさがいいと、とにかくそこがいいと言われましたね。高校から野手としてプロ入りしていたらどうなっていたんでしょうね。その時点でそこそこ守れて、足が速くて、体が大きく頑丈なら、一から作ることができますよね。指名順も4位くらいで隠し玉として狙える。でも、当時の僕は本当にプロになんてなれるのか?という感覚でした。僕なんて誰も知らないのに。そんな気持ちでした。エグいなと自覚していたのは肩だけです。いわゆる、投手として投げるボールがすごいなとは思ってはいませんでした。外野からバックホームで投げているボールを、マウンドからズドンと投げているだけでしたから。何となくそのへんに真っすぐを投げて、意外にうまく習得できたスライダーを投げていたら、勝手に三振を取れるという感覚でした。3年生が引退し、新チームとなって2年生秋から投手として本格始動しましたが、秋にはまだ僕はエースではなかった。それで冬を越してやっと、ストライクが入るようになった。そんな初心者の投手でしたからね。ちゃんと投手にもなれていませんし、野手としてドラフト候補と言われても本当にピンときませんでした。そんな僕の内心とは裏腹に、3年生春からは投手としてどんどん結果が残ってしまう。1、2年生で土台を作ってきた成果も出ていると思われましたが、野球はそんなに甘くはなかったんです。

埼玉西武ライオンズ・ニュース / 合同自主トレ練習前のルーティン 赤上優人投手

2016 / 小さなエースが明かした投球技術 「石川雅規のピッチングバイブル」

Cg_3jmtU4AA2Scw<週刊ベースボール ON LINE> まだまだ、歩みを止める気はない。今月22日に41歳とな石川雅規、プロ20年目のシーズンを迎えた。チーム最年長として臨む今季も、若手のように必死にポジションをつかみにいく。昨季は自身9度目の開幕投手を務めたが、7月中旬から約1カ月間上半身のコンディション不良で離脱。10試合目でようやく初勝利を手にするなど、15試合の登板で2勝8敗、防御率4.48と苦しんだ。ただ「まだまだコンディショニングさえ整えれば、勝負できると思っている」との言葉どおり、衰え知らずの肉体と高い技術を持ち、先発陣が手薄な中、今季も先発ローテーションの一角として期待される。<2016.6.06> 球が遅くても抑えられる!小さな大投手、石川雅規の投球術。身長167cmながらプロ通算100勝を達成、小さなエースが初めて明かした 「勝つ投球技術」。ピッチングの奥義、全公開。 1980年1月22日、秋田県生まれ。秋田商‐青山学院大を経て、2002年に自由獲得枠でヤクルトスワローズに入団。秋田商時代には3年の夏に甲子園出場。青山学院大進学後は、2年の春に6勝を挙げMVPを獲得。2000年のシドニーオリンピック日本代表。プロ入り1年目は29試合に登板。12勝9敗、防御率3.33で新人王を受賞。その後もチームのエースとして活躍を続け、2008年には最優秀防御率のタイトルを獲得。<目次> 第1章 バッターをどう抑えるか---僕の投球哲学、第2章 キャッチボール---すべての基本はここにあり、第3章 全8球種 僕の持ち球、全部見せます、第4章 試合への準備---用具・トレーニング・栄養、第5章 石川雅規の”作り方”---小学校からプロまで。

東スポWeb / 最も熱心に誘ってくれていたのが新屋高校の鎌田監督だったんです

a3a4827chttps://www.tokyo-sports.co.jp/  藤田太陽「ライジング・サン」(6) 遊撃守備で強肩をひけらかす、という快感を覚えた中学3年の僕なのですが、相手校が強豪校の時などはアピールに必死でした。たくさん高校のスカウトの方々が見に来ますからね。なので、普段よりさらに深く守って見せ場をつくることにいそしんでいました。実際にその後、複数の高校からスカウトをしていただいたのですが、僕はあの肩で決めてもらったんだと、アピールは成功だったなと思っています。仙台育英、東北高、秋田経法大付、金足農業にそれぞれ推薦を出してもらいました。その何日か後に校内でケンカをしてしまって。理由は、その当時にお付き合いしていた彼女に、消しゴムを投げつけられた程度のちょっかいを出されて、もめ事になったレベルなのですが…。進学の支障にはならず幸いでした。ヤクルトの石川雅規が進学した秋田商も考えていましたが、僕にはスカウトは来てくれてなかったですね。条件として特待生とのお話をいただいたのは3校でした。その中で親は秋田経法大付、僕は仙台育英に気持ちが傾いていました。でも、もしけがをしてしまったらとか、僕の性格が判断を変えていきました。これは阪神を選ぶ時にもこういう気質が働いたと思うんです。実家は秋田で仙台だと親が試合を普段から見られないし、練習風景だって頻繁には見ることができない。それじゃあ、両親には楽しんでもらえないなと。じゃあ、何が一番いいだろうかと考えたんです。で、その当時、最も熱心に誘ってくれていたのが新屋高の鎌田監督だったんです。本当に熱意のある人で「君の手で甲子園に連れて行ってくれ。君のことが必要なんだ。君のために秋田県の中から、3年生になって甲子園を目指せるメンバーを血眼になって探し、スカウトしているから」と言われ心に響きました。他の選手にも同じこと、みんなに言っていたかもしれませんけどね(笑い)。強豪校のスカウトは「藤田くんさえ良ければ来てくれればいいですよ」というスタンス。もちろん環境も整っているし、素晴らしいなと思いました。でも、新屋高は「ウチのグラウンドは石ころだらけだけど、先生がちゃんと整備して何とか君たちに野球をやらせてやるから」という鎌田先生のスタイルでした。僕にとっては、こっちの方が信用できる先生だなというふうに感じました。違う判断をすれば未来は変わったかもしれません。でも、それはもう分からない話です。僕は新屋高の鎌田監督の下で野球をやりたいと思いました。本当に普通の公立高校でした。吹奏楽部が強くて全国大会にも出ているくらい。野球では無名です。学力も普通で5教科500点満点で300点弱取れれば合格のレベルでした。当時は公立高校でも運動部を優遇して獲れるシステムがあったそうで、僕は私立の強豪校ではなく新屋高を選んで進学しました。強豪校の環境やブランドより、誘ってくれた監督の人柄で進路を選んだ。それは、阪神に入団した時とどこか似ているような気がします。

ベースボールマガジン社/週刊ベースボール2021.1.25/新加入選手写真名鑑

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ベースボールマガジン / 週刊ベースボール2021.1.18 / 2021球界大予想

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埼玉西武ライオンズ育成1位 / 赤上優人投手(東北公益文化-角館-桧木内)入寮

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2021ドラフト候補 / TDK 佐藤開陸投手(165/63、能代松陽-鷹巣南)

2018.1.4 / 燃える男・闘将 楽天球団副会長 星野仙一氏死去 がん闘病70歳

hosho楽天 星野仙一球団副会長が平成30年1月4日に亡くなったことが分かった。<2013.1.27、新聞報道> 楽天星野仙一監督(66)が1月25日、秋田のファンに仙台来訪を呼び掛けた。東北各県の後援会 「楽仙会」 の秋田県懇親会に出席。秋田市内のホテルで後援者約20人と昼食をともにした。席上、同会が今季の年間指定席を購入したことを聞いたが 「それだけじゃなく、ぜひ、ご自分でもKスタ宮城へいらしてください。(日帰り可能な) デーゲームもありますよ」 と  “営業活動”  を忘れなかった。来訪を呼び掛けるだけの理由がある。後援者からは、斎藤、ジョーンズら新戦力が話題に挙がった。星野監督は 「斎藤は若手の勉強になる。ジョーンズは実績は申し分ない。日本の投手の攻めを、どれだけ我慢できるか。マギーは、ちょっと粗いけど楽しみ」 と返答。「ひょっとしたら、ひょっとするレベルまで来ている」 と球団初優勝へ、かすかに自信をのぞかせた。仙台への帰路、秋田駅ではファンから 「今年は頼みますよ」 の声。大きな期待に応えるつもりだ。

巨人、日ハム、広島、西武、DeNA、ロッテ、ヤクルト、オリックス、阪神、楽天、中日、SB。

プロ野球12球団主要応援歌メドレー

鷲谷亘元プロ野球審判員(秋田市立ー秋田北)こっそり覚える野球審判1063号

222http://www.go-stop-call.com/4umpire.html 打球が打たれたら、先ずその方向にステップしてスタートします。そうすると何が見えるかと言いますと、打球を追う審判が眼に飛び込んできます。打球だけを見ていては、打球を追う審判は眼に入りません。打球に対してステップしてスタートするから見えるのです。誰が打球を判断する当該かなって他の審判を見ているようでは、すでにスタートが遅れていると理解する必要があります。
ポーズ・リード・リアクトという用語をご存じの方も多いかと思いますが、意味は知っていても、実際の行動として表現されている方は少ないのが現状だと思います。打球の判断は常にすべての審判がするのですから、誰がその打球の判定の当該審判かと考えていること自体が間違いなのです。打球の性質というものを判断するには、まずは打球の方向にステップしてみてください。打球の方向にステップするという意味は、視界を広くするという意味が含まれています。視界が狭い審判の動きというものは、自分よがりな動きをする可能性がとても高いです。自分よがりの動きをするのが、まだ審判初心者であれば、それはある意味仕方がない場合もありますが、ベテラン審判が自分よがりの動きをすることで、皆さんが大好きなマニュアル通りに動けなくなることも多いですよ。多くのベテランは、他の審判にマニュアル通りに動くように反省会等で指示をするのではないですか。マニュアル通りに動きなさいと指示をしている審判が、逆にマニュアル通りに動くことを阻害しているとすれば。。。。若い審判がどのような動きをしようが、ベテランは黙ってカバーリングをするべきなのですよ。それがクルーとしてのフォーメーションなのです。その第一歩が、打球に対してステップしてスタートなのです。外野手の中間付近に飛んだ打球の判断は難しいと思っている審判の方は多いと思いますが、難しくありません。「あなたが追えばよい」だけです。他人任せの判断ではなく、自己中心的な判断で良いのです。その判断が自分よりも他の審判が早ければ、その打球に関しては、その判断は早かった審判に任せれば問題ありません。俺の打球なのになって思っても、他の審判のほうがすでにその打球の当該になっているのです。判断が遅い審判の出番はありません。判定も出来ません。審判というものは、プレイの判定をして、初めて審判としての価値が出てくるのです。あなたは判定がしたくてグラウンドに立っているのではないですか。難しいプレイの判定をしたいから、グラウンドに立っているのではないですか難しいプレイの判定を、そのプレイの近くで見て、正しい判定がしたいのではないですか。それが審判の判定というものです。難しいプレイの遭遇することが怖いですか。打球に対してのステップからスタートが遅い審判は、その難しいプレイから避けているように、私は感じてしまいます。難しいプレイの判定から逃げている審判は、仲間からの信頼もなくなります。それはもっとも避けなけれがいけないことですよ。信頼関係というものは、それは審判経験の多さや、年齢的なものでは補えません。常に審判としての行動をしてるかどうか、これだけが判断基準です。皆さんの周囲で本当に信頼されている審判というものは、そうではないですか大きな大会に派遣されたとか、有名校同士の試合で審判したとか、審判の正しい判定をしたかどうかよりも、そっちが信頼を得るのだと思っているとすればそれは考えを改めたほうが宜しいですよ。たとえ練習試合でも、審判として一生懸命取り組んでいる審判のほうが、仲間としても信頼があるのは言うまでもありません。その信頼を得るための第一歩が、打球に対してのステップからスタートだといっても良いかもしれません。これが出来ている審判は、仲間が困っている時でも、きっと助けてくれることでしょう。仲間が抗議されているときに、選手と会話なんかしてるような審判は、それだけで駄目な奴って烙印をおされるのです。仲間のことを考えている審判は、決して遅い動きはしないものです。審判の判定というものは、素早い動きと、そしてプレイに近づく勇気がなければ出来ません。プレイの判定は、距離よりも角度だって言っているようでは、判定の神髄というものを理解していないという事を表明してるようなものですので、仲間の前で言わないほうが宜しいと思います。角度重視なら、審判がグラウンド上にいる必要などないのですからね。フォーメーションも要らない。そんなことで、難しいプレイの判定が出来るのであれば、それこそ審判など不要ですよ。あなたの価値というものは、プレイに近づいて、正しい判定をすることで認められるのですからね。プレイに近づく勇気のある審判だけが、仲間からもチームからも信頼されるのです。終わります。少しでも参考なって、次のグラウンド上での審判に役立つとすれば、著者としてこれほど嬉しいことはありません。騙されてと思って、実践してみてください。実践すれば、絶対に良い結果が出ますよ。出ないはずがありません。私が少なくても結果は出してきたのですから。

 

「最弱球団 高橋ユニオンズ青春記」長谷川晶一著、平成23年9月刊、白夜書房

feb684331950年代に3年間しか存在しなかったプロ野球チームのエースを追ったノンフィクション「無名の開幕投手~高橋ユニオンズエース・滝良彦の軌跡」(桜山社)が刊行された。著者は中京テレビアナウンサーの佐藤啓さん(58)。根っからの野球好きと愛校心が、隠れた名選手の半生を浮かび上がらせた。【毎日新聞、太田敦子】滝投手は名古屋市の南山大(当時は南山外国語専門学校)出身の唯一のプロ野球選手。52年に「毎日オリオンズ」に入団し、54年に新球団「高橋ユニオンズ」に移籍、開幕投手を務めた。しかし球団は3年で解散し、30歳で現役を引退した。佐藤さんは愛知県出身で南山大を卒業。90年に中京テレビにアナウンサーとして入社した。デビューは巨人・中日戦の「ドラゴンズ応援放送」の副音声実況だったという。雑誌でたまたま滝投手の存在を知った佐藤さんが本人と対面したのは2017年、87歳で亡くなる3年前だった。体調を崩し話すのがままならなくなるまで、約20回にわたり話を聞き取った。球界関係者や同窓生、かつての同僚など80人以上にも取材を重ねた。スポーツの実況中継を数多く経験してきた佐藤さんが、プロ歴8年の滝投手に魅せられた理由の一つは出身大学の先輩だったこと。「南山大はスポーツのイメージが薄いが、こんなにたくましい先輩がいたことに本当に驚いた」と明かす。つかれたように資料を集め、電話をかけ、足を運んで情報を集める様子は本に登場する。滝投手の人生を丹念に追う中で、派手ではないが真面目に練習に打ち込み、堅実なプレーで信頼を集める選手像、謙虚だが強い自負を持った人柄が浮かび上がってきた。本では野球を取り巻く歴史もひもといている。戦時中の高校では敵国発祥のスポーツに圧力がかかり、野球部が廃止されたこと。戦後、粗悪なバットやボールに悩まされながらもプレーできる喜びに浸ったこと。それぞれの時代に活躍した他の選手も、実況中継さながらに生き生きと描かれている。佐藤さんは「滝さんを通した出会いで、より野球が好きになった。大きなプレゼントでした」と話している<2015.9.01>1954年から3年間でプロ野球界から姿を消した 「高橋ユニオンズ」 のオーナー、故高橋龍太郎氏の孫にあたる秋山哲夫さん(73)が、計600ページに及ぶ 「球団の歩み」 を自費出版。<2014.11.20> 2014(平成26年)11月19日、1954(昭和29年)からわずか3年間パ・リーグに所属しただけで、プロ野球界から姿を消した 「高橋ユニオンズ」 OB会が都内で開催。<2012.1.03>「最弱球団高橋ユニオンズ青春記」(長谷川晶一、平成23年9月刊、定価税込1,890円、白夜書房)。高橋ユニオンズは、戦後たった3年間(1954年~56年)だけ存在した幻の球団で日本プロ野球史上唯一の高橋龍太郎氏個人所有による球団。雑誌「野球小僧」の連載に大幅に加筆修正して単行本化、高橋ユニオンズ全所属選手/高橋ユニオンズ全試合結果収録。

超弱小球団 高橋ユニオンズ(別名 トンボユニオンズ)をあなたは知っていますか

E1319650240896_1_s1954年から3年で解散した高橋ユニオンズのOB会が2017年11月8日、都内で行われ、56年に慶大から入団しスター選手となった佐々木信也氏 (84) らOBや関係者約20人が出席した。同球団はパ・リーグ8つ目のチームとして誕生 (2年目はトンボユニオンズ)。3年間の成績は6、8、8位で、56年シーズンを最後に解散した。OB会は今回で幕を下ろすことになり、佐々木氏は 「野球をしていてあんなに負けた経験はなかった。それでも記憶に残るチームだった」 と感慨深げ。【2017.9.29】ヤクルトは9月28日対広島戦に敗れ今季94敗目。1961年近鉄 (140試合36勝103敗1分、勝率.261)、1955年大洋 (130試合31勝99敗、勝率.239)、1956年高橋 (154試52勝98敗4分、勝率.351)、1955年トンボ (141試合42勝98敗1分、勝率.300)。【2015.11.10】<スポーツ紙> 1954(昭和29年)にパ・リーグ8番目の球団として誕生しながらわずか3年間で解散に追い込まれた高橋ユニオンズのOB会が11月9日、都内で行われた。フジテレビ系で人気のあった 「プロ野球ニュース」 の初代キャスターを務めた佐々木信也さんを始め、青木惇さん、家永伸彦さん、村上勤さん、吉原 (旧姓田中) 淳二さんと元選手5人のほか、関係者18人の計23人が集まり親睦を深めた。54年に16勝した滝良彦さんは87歳で病に伏しているもののOB会出席への思いが強く、ビデオメッセージを南山大後輩で中京テレビアナウンス部の佐藤啓さんに託した。その映像は、出席した皆さんを感動させた。高橋龍太郎オーナーのお孫さんで資料価値の高い 「高橋球団(ユニオンズ)」 3年間の歩みを上梓した秋山哲夫さんご夫妻や、同じお孫さんで秋山さんのいとこの方、ユニオンズ合宿所若水旅館の竹内さん親子、本拠地の川崎球場のバットボーイを務められていた中川さん。「最弱球団 高橋ユニオンズ 青春記」を書いてユニオンズを世に出した長谷川晶一さん。週刊ベースボールで 「記録の手帳」 を長期連載中の御大・千葉功さんなど多士済々のメンバーが集まった。今回は1955年に1年間でネーミングライツとして出資したトンボ鉛筆の関係者が初めて出席。来年は同球団の解散60周年記念のOB会を行うことを決めて終えた。【2010.5.25】スタルヒンも在籍した高橋ユニオンズは、プロ野球解説佐々木信也氏が在籍したことでも有名な超弱小球団で別名トンボユニオンズ。「Number」 でも特集、相沢正夫 <高橋ユニオンズという 「窓ぎわ球団」 をあなたは知っていますか>。

高橋ユニオンズ在籍 ヴィクトル・スタルヒン投手正墓所 横手市雄物川町「崇念寺」

c8aa206381cGK6m8SFL__AC_UL320_ML3_<2017.5.17> 日本ハム栗山監督が秋田県横手市内の崇念寺で通算303勝を誇るビクトル・スタルヒン氏の墓参り。<2016.9.30> 史上初の300勝を挙げたヴィクトル・スタルヒン投手(1916~1957)の生誕100年を記念し、スタルヒンの墓がある横手市雄物川町の 「雄物川ビクトルズ」 と 「旭川スタルヒンズ」 が記念試合 (旭川スタルヒン球場)。<2014.8.03> 東北楽天大久保博元2軍監督と投手3人(ルーク・ファンミル、大塚尚仁、古川侑利)が横手市雄物川町今宿崇徳院を訪れスタルヒン投手の墓参り。<2013.9.12> 2013(平成25年)9月 第5回秋田県雄物川スタルヒン杯550歳野球大会。秋田県横手市内外から36チームが参加し、横手市雄物川町の4球場で開催。優勝 / 横手クラブ(横手市)、準優勝 / 角館クラブ(仙北市)。 <2013.2.04> 旭川市内有志が顕彰会を設立しスタルヒン投手銅像建立へ奔走。北海道旭川市内で少年時代を過ごしたスタルヒン投手の功績を伝えるべく市内で銭湯を営む杉尾昇さん(77)を中心とした有志約70人が顕彰活動に奔走。 <2010.4.26> 1916年(大正5年)5月4日は、ヴィクトル・スタルヒン投手の生誕日、新聞で紹介されたヴィクトル・スタルヒン正墓所 「雄物川町崇念寺」 。そのスタルヒンも在籍した高橋ユニオンズは、プロ野球解説佐々木信也氏が在籍したことでも有名な超弱小球団で別名トンボユニオンズ。「Number」 でも特集、相沢正夫 <高橋ユニオンズという 「窓ぎわ球団」 をあなたは知っていますか>。

鷲谷亘元プロ野球審判員(秋田市立ー秋田北)こっそり覚える野球審判1062号

f9659721http://www.go-stop-call.com/4umpire.html 打球が打たれたらスタートするわけですが、貴方はどちらの足からステップしていますか? もちろん、打球の打たれた方向の足から「ステップ」するんですよね。そうしていますか? 打球の方向にステップするのは、それは「プレイに正対する」ためなんですよ。「何だそんな事知ってるよ!」でしょうか?「貴方」は、打球の方向にステップしていますか?それが問題なんですよ。知っていても実践しなければ、知らないと一緒です。特に「打球の方向にステップ」するのは、意識的にステップしますよ。無意識では足の運びが上手く行きません。特に内野内に位置した審判の場合は、それが著しく行動に現れます。スムーズな足の運びが出来ないんですね。何気ない事でも理由があるのが、審判としての行動なのですね。プロ審判のスムーズな動きは、すべてこれです。これ。参考になりましたでしょうか。実践すれば、必ず結果はついてきます。しなければ、良い結果が出た理由を知ることはないでしょう。理由を知る必要があるのです。まして上に立って後輩を指導する立場の審判はね。<深い意味があります>では、打球の方向にステップして、次はどうするのかという事は、次回のこっそり審判で解説したいと思います。野球もシーズン終了となり、来年度に向けて色々と考えたりされている事と思います。今の時期にゆっくりしてしまうと、来年度の出足が遅れますよ。既に来年は始まっていると思うのが、出来る審判の考え方です。私の制作したレポートをお持ちの方は、再度すべてに目を通して頂くだけで、審判としての気持ちが盛り上がるのではないかと思いますので、ぜひ通読されてください。

ベースボールマガジン / 週刊ベースボール2021.1.4+11 / プロ記録集計号

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2019.6 / 秋田県出身投手初登板 / 小野・吉田投手高卒ルーキー初登板初勝利

初登板先発完封勝利 / 菅原勝矢投手
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ユニークキャラで記録ホルダー / 菅原勝矢投手(巨人-東京農大中退-鷹巣農林)

bc87349b-s<週刊ベースボール> 巨人・菅原勝矢の記事からいく。秋田県出身。67年に11勝を挙げたが、しばらく伸び悩んでいた右腕だ。独特の担ぎ投げから投じる重い速球が武器だが、気が弱く、藤田元司コーチからは「びびんちょ」と呼ばれていた。この男、いろいろな記録を持つ。たとえば、66年8月21日、初登板のサンケイ戦(神宮)で初登板初先発初完封。67年5月18日の阪神戦(甲子園)での2勝目は、1安打完封勝利、さらに、この年の8月15日、同じく阪神戦(甲子園)で1球勝利、1日置いた同カードで5回雨天コールドの完封勝利。71年9月6日のヤクルト戦(神宮)では6回までの降雨コールドでのノーヒットノーラン。そして、この72年途中まで続いた11連勝。71年まで通算20勝とは思えぬ勝ち運がある、いや、そこまでしないと勝てないと考えると、勝ち運がなかった男、とも言えるか。<スポーツ紙紹介、一部略> 長い巨人の番記者生活で、この男ほど波瀾万丈の道を歩んだ選手を知らない。菅原勝矢投手、秋田県立鷹巣農林高から東京農大を経て、昭和41年に巨人に入団、現役8年間で33勝8敗、防御率2.98という成績を残している。秋田県大館市の農家に10人兄弟の9番目として生まれた。兄弟で高校へ進学したのは彼ひとりという極貧の環境だったが、「どうしても野球がしたい」 と東京農大へ。ところが、1年目の春のリーグ戦に3勝をあげ、素質を見抜いた巨人の青木宥明スカウトにくどかれると、家計を助けたいと大学をスパッと退学、プロの水に飛び込んだ。ずんぐりむっくりの体形、赤い頬、ズーズー弁、まるで砲丸投げのようなぎこちない投法・・・・。チームメートだけでなく、番記者からも好かれるキャラクターだった。ニックネームは 「ガービー君」 。東北なまりが消えず、「カーブ」 が 「ガービー」 に聞こえるからだった。入団当時は速球だけだったが、カーブ、スライダーと球種を増やすにつれて成績も上昇し、41年に初勝利、42年には11勝4敗という好成績をマークしている。この間、なぜか菅原には珍記録がついて回った。まず、プロ入り初登板だった41年8月21日のサンケイ戦で、初勝利が完封勝ち。神宮球場が初めてなら、ナイターも初体験だった。2勝目となった42年5月15日の阪神戦は、ノーヒットノーラン目前の1安打(1四球)完封という離れ業だった。さらに意外だったのは5年がかりの11連勝。これだけ間隔をあけながらの記録だと、うっかり見過ごされかねないほど、珍しい記録といえる。巨人投手の連勝記録は松田清の19連勝、初登板から無傷の連勝としては41年の堀内恒夫の13連勝だが、いずれも短期間でマークしたもの。菅原のような例はあまりない。理由は簡単。活躍→抜擢→故障→空白→活躍→このサイクルの繰り返し。さまざまな故障に泣かされ、ブランクは長かったが、久々に登板となってもなぜか負け投手だけにはならなかった。ついているのかいないのか? まったく不思議な男だった。その11連勝は43年から始まった。6月30日の大洋戦完封勝ち(後楽園)が華々しい? スタート。ところが2連勝目が9月21日の中日戦(中日)。なんと84日ぶりの白星だった。この間、菅原は原因不明の故障に悩まされていた。背中の筋肉が硬くなり、投げているうちに「背中がつる」(筋肉の収縮現象)のである。「人には説明できないですね。いくら話しても実感してはもらえないでしょう」 と、菅原は童顔を曇らせるだけだった。それでも体調がよくなった秋には、阪神戦(9月28日)、広島戦(10月10日)と連勝を伸ばしてみせる。「もう大丈夫。ローテーションの一角をまかせる」 と、川上監督を喜ばせた44年と45年には勝ち星なしの2軍生活。理由は前回と同じ背中の筋肉がつる奇病だった。大学時代から交際していた美代子さんは44年、結婚したとたんに近所のお地蔵さんに通うのが日課になってしまった。そして46年後半に4連勝すると、47年は開幕からエンジン全開で4月22日の3勝目で、延べ11連勝をマークした次第。もうひとつの珍記録がある。これは42年8月15日の阪神戦(後楽園)だった。8回2死から金田正一投手が負傷降板し、菅原がリリーフ。藤田平を1球で左飛に打ち取った。その裏、巨人は2点を取って逆転。打順が回ってきた菅原には代打が送られ、9回は中村稔が抑えた。これにより38年8月21日の近鉄・ミケンズ、41年8月26日の中日・坂東英二に次いでの 「1球で勝利投手」 に。

ユニークキャラで記録ホルダー / 菅原勝矢投手(巨人-東京農大中退-鷹巣農林)

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Full-Count / 場内騒然「双方ルール違反」冷静に裁いた 森健次郎球審 “神球審”

fullcount<Full-Count 編集部>9月23日のソフトバンク-オリックス戦(PayPayドーム)。5回2死一、二塁で、オリックスの左腕・田嶋が4球目を投げようとした際に、打席のグラシアルが突然タイムを要求。その様子を見た田嶋は投球動作に入っていたが、ボールを投げずに動きを中断した。塁審からのボーク宣告で走者は進塁しかけたが、森球審は審判団を集めて協議。場内も騒然とする中「打者が打撃姿勢をやめたことにより、投手も投球を中断した。双方がルール違反を犯している。元に戻し、試合を再開します」と説明したのだった。思わぬ事態を冷静に裁いた森球審に対し、当時ファンからも「ほんま森球審最高」「審判がルールちゃんと頭に入ってたことがすごい」などと称賛の声が相次いだ。今回の動画を見たファンからも「バッターが打撃姿勢をやめたせいでピッチャーが投球を途中でやめた場合は何もなかったことにするというのはホント勉強になった」とのコメントが寄せられていた。

鷲谷亘元プロ野球審判員(秋田市立ー秋田北)こっそり覚える野球審判1061号

2c68f28ehttp://www.go-stop-call.com/4umpire.html  打球に対して「スタート」するというのは、当然大事だという事は、皆さんご理解されていると思います。しかし、「スタート」はポイントになる人がいるんですよね。そうです。打球を追う審判ですね。打球を追うのは、打球の判定をする審判が一人なのです。実際には、2人で追ってみたり、3人(爆)で追ってみたりするわけです。何故そうなるのかと言えば、事前に打ち合わせをしていないからなのです。誰が追うのかは、打球が打たれた瞬間に既に決まっているのです。しかし、打球が打たれてからでないと、誰がスタートするか分りません。ですから「審判相互のサイン」が必要になるのですね。ところが現実には、スタートしてから「サイン」等で「私が打球を追う」だとか、「貴方が打球を追え」だとか、そのような行動をしていては、打球は遥か彼方に行ってしまいます。「審判相互のサイン」は、打球が打たれる前に交わすのが、サイン交換の正しいやり方ではないでしょうか。ですから、打球が打たれたら「打球を追う審判」は打たれる前に決まっているという事になります。しかし、現実には「顔を見合わせ」したりするのですから、「サイン交換」は無駄なサイン交換をしていると言わざるを得ない状況ではないかと想像するわけですね。打球が打たれてから「サイン交換」をしているとすれば、それはフォーメーションのためのサイン交換ではなく、お互いの親睦のための(爆)サイン交換ではないでしょうか。事前「サイン交換」していても、「顔を見合わせ」していたのでは、事前のサイン交換の意味がありませんね。貴方はまだ「顔を見合わせ」していますか?
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