★ 備忘録 「熱球通信」 ・ 特定非営利活動法人秋田県野球フォーラム ★

「熱球通信」は特定非営利活動法人秋田県野球フォーラム会員有志による備忘録を兼ねた「秋田県野球」にこだわった私的ブログです。掲載している記録等については公式なものではありませんのでご注意願います。リンク等についてはオールフリーですので事前のメール等一切不要です。更新頻度は原則毎日の更新です。秋田県出身で県外に在住の方も念頭に更新していきますが、内容等一部については地元情報と時差が生じる場合があります。練習・親善試合の結果情報は原則掲載しません。また、コメント送信欄と掲示板については諸般の事情により対応していません。積極的な中学硬式野球・女子野球の紹介に努めています。

プロ野球

プロ野球選手 個人名が付いた国内野球場( 山田久志サブマリンスタジアムほか )

nosiroe米大リーグパイレーツの筒香嘉智外野手(30)が、故郷の和歌山県橋本市に大型野球施設「TSUTSUGO SPORTS ACADEMY 筒香スポーツアカデミー」を建設中であることが1月17日、分かった。自費で約2億円の総工費を負担。現役選手としては異例の両翼100メートル、内外野が天然芝の球場とサブグラウンド、室内練習場を建設している。将来的には同所を拠点とした少年野球チームも創設し、野球界の裾野を広げていく。<2019.9.26>「さきがけと八橋」、「山田久志サブマリンと能代」 今だ呼称混在。【2014.12.15】千葉県柏市営少年野球場 「大津ケ丘中央公園野球場」 が来年4月からヤクルト田中浩康内野手(32)の名前を冠した 「田中浩康スタジアム」 に。【2013.12.22】2014(平成26年)から人工芝に生まれ変わる東京学芸大グラウンドに「栗山英樹球場」構想。【2013.12.02】塩釜市唯一の野球場の改築工事が12月から予定されている塩釜市佐藤昭市長は新球場名を「田中将大スタジアム」としたい意向を表明。【2013.7.13】千葉県佐倉市出身巨人長嶋茂雄終身名誉監督(77)が2013(平成25年)7月12日、佐倉市の岩名球場で行われた佐倉市民栄誉賞表彰式に出席し、地元の観客から祝福された。同球場はこの日から「長嶋茂雄記念岩名球場」に名称を変更。<山田久志サブマリンスタジアム> 秋田県能代市にある能代球場の愛称。2008年に、同市出身で通算284勝を挙げた元阪急(現オリックス)の山田久志氏にちなんで命名長嶋茂雄球場> 熊本県天草市の広瀬公園野球場の愛称。長嶋氏が85年から日本トライアスロン連盟の会長を務め、天草でのトライアスロン国際に駆けつけた縁で命名。<川上哲治記念球場 打撃の神様と呼ばれ、巨人の監督としてもV9を達成した川上氏の生誕地である熊本県人吉市に99年3月に造成。<王貞治記念グラウンド> 2004年7月に完成した東京都八王子市にある早実グラウンド。功績と名誉を称え、同校OBである王氏の名を付けた。<旭川スタルヒン球場> 北海道旭川市花咲スポーツ公園硬式野球場の愛称。旧旭川中出身の元巨人ビクトル・スタルヒン投手の功績を称えて命名。<津田恒実メモリアルスタジアム> 山口県周南市の周南市野球場の愛称。故津田恒実氏の出身地で、「炎のストッパー」と呼ばれた功績を称え2012年12月に命名。

近鉄 石井-巨人 石毛・吉岡 / 放出決定後6球団が手を挙げ前代未聞公開トレード

pku<スポーツ誌> 放出決定後、6球団が手を挙げ、前代未聞の公開トレードになったのが、97年1月15日に発表された近鉄・石井浩郎と巨人・石毛博史、吉岡佑弐(※ 吉岡雄二の当時の登録名)の1対2トレードだ。前年、左手首の骨折で出場わずか2試合に終わった石井は11月15日、球団との下交渉で60パーセントダウンの年俸5000万円プラス出来高(推定)の提示に、「25パーセントを超えるダウンは辞めろと言っているようなもの」と激怒。その後、2度にわたる交渉で50パーセントダウンまで修正されたが、石井は納得せず、事実上放出が決まる。あくまで自由契約を希望する石井に対し、主砲をタダ獲りされたくない球団側は12月16日、トレードによる放出を通告した。ヤクルト、西武、横浜、ロッテ、ダイエー、巨人が参戦を表明したが、交換相手をめぐり、交渉は難航。先発投手と二遊間を守れる内野手が欲しい近鉄は、石毛と吉岡の名を挙げた巨人に「話にならない」と難色を示し、石井丈裕と橋本武広の両獲りを希望した西武には「1対1で」と突っぱねられた。その後、横浜の三浦大輔、進藤達哉との交換がまとまりかけたが、最終的に横浜側が「編成上、あの世代(20代前半)の投手は出せない」と拒否し、これまたご破算に。これらのやり取りが、新聞などを通じて毎日公開されるのだから、俎上に載せられた選手は、さぞかしやきもきさせられたことだろう。そして、前述のとおり、石毛、吉岡との交換で巨人移籍が決定。北九州で自主トレ中だった石井は「2カ月は長かった。ようやく決まり、スッキリした。(巨人では)自分の能力を出すだけ」と新天地での復活を誓った。だが、移籍後も故障に悩まされ、近鉄時代の輝きを取り戻すことができないまま、3年後にロッテへ。これに対し、巨人時代に1軍でほとんど実績のなかった吉岡は、近鉄で2年連続26本塁打を記録するなど主砲に成長。トレードによって大きく花開いた。

観察と分析で日本と世界を制した伝説のスコアラー 三井康浩著「ザ・スコアラー」

三井康浩「ザ・スコアラー」(角川新書) 韓国のエースを攻略した伝説のスコアラー
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毎日新聞 / 夏の甲子園中止に「野球に感謝できる時が来る」元巨人の小野 仁さん

987b5196-s<新聞報道> 秋田県警は1月15日、量販店でシャンパンを盗んだとして、窃盗の疑いで元プロ野球選手で職業不詳の小野仁容疑者(45)=横浜市=を逮捕した。容疑を認めている。逮捕容疑は昨年11月25日、秋田市の量販店でシャンパン2本(販売価格計約1万7500円)を盗んだ疑い。県警は小野容疑者を横浜市港北区の店舗内で逮捕した。<2020.5.23> 秋田経法大付(現ノースアジア大明桜)高時代から野球の日本代表に選ばれた大型左腕は、プロで挫折を経験し、引退後は職を何度も変えた。元巨人投手の小野仁さん(43)だ。新型コロナウイルスの感染拡大の影響で、春のセンバツに続いて夏の甲子園も中止になり、小野さんは、自らの人生を振り返ったうえで「どんな状況でも目標と夢を持ち続けていれば、将来、野球に感謝できる時が来る。良い縁が巡ってくる」と球児たちに呼びかけている。現在、横浜市に住む小野さんは2017年、東京都内の健康機器会社に入社した。「コロナ前までは、ほぼ毎日、大学野球の監督や選手とグラウンドで会い、自分の経験を伝えてました」と話す声は明るい。学生の就職支援や採用を担当しているといい、「数人の内定が決まりました。来春入社してもらえるよう、日々フォローしています」。◆春夏連続出場、五輪、プロ入りも果たしたが。190センチ近い長身から投げ下ろす140キロ台後半の速球が魅力のサウスポーだった。2年生エースとして1993年に春のセンバツと夏の甲子園に連続出場を果たした。高校生で日本代表に選ばれ、当時、世界最強だったキューバの主力打者から三振を奪って注目された。「親にもらった恵まれた体だけで勝負し、深く考えていなかった」と振り返る。五輪を目指すため、社会人の日本石油(現JX-ENEOS)に進んだ。96年アトランタ五輪に出場し、銀メダルを獲得した。自身は予選のキューバ戦に先発して打ち込まれるなど、活躍できなかっただけに「メダルは秋田の実家にあるかな。過去は過去」と語った。巨人を逆指名してドラフト2位で入団したプロでは壁にぶつかった。1年目の97年に巨人の新人投手では66年の堀内恒夫以来となる初先発初勝利を挙げたものの、その後は制球難に苦しんだ。02年11月にトレードで移籍した近鉄では1軍で投げることなく、03年に戦力外通告を受けた。プロ通算3勝8敗だった。現役引退後は、「給料を得ることの大変さ」を痛感した。魚市場や宅配業者で働いたり、飲食店の「黒服」を務めたりと、いろいろな職に就いた。私生活では離婚を経験した。◆地元での再会「野球の縁戻った」。そんな小野さんに地元とのつながりが戻ったのは、父勉さんが心筋梗塞のため72歳で急死した18年夏だった。葬儀を済ませた後、高校野球関係者にあいさつしようと、秋田大会の開会式を訪れたところ、93年夏の秋田大会決勝で対戦した金足農の菅原天城コーチと再会した。「声をかけてもらって、野球の縁が戻った感じでした」。金足農は18年夏の全国選手権で秋田勢103年ぶりに決勝に進んで準優勝した。母校の輿石重弘監督とも連絡を取り合うようになり、小野さんは「母が一人なので、よく帰るようになった。全国で旋風を巻き起こしてほしい」と秋田勢の動向を気に掛けている。採用活動の一環で大学生に投球を披露することもあり、草野球の登板日には万全の準備をして臨んでいるという小野さんは「今でも130キロは出るかな」。自身の反省も踏まえ「大学生の大半は4年春、高校生は3年夏で選手生活を終える。すべてを打ち込んだ野球で学んだことも多いはず。光をつかみに行くために、準備して研さんして」と話している。【上鵜瀬浄】

秋田県野球ライバル物語 高校時代は無名の両選手 プロで対戦 山田久志-落合博満

競技者野球殿堂入り 山田久志投手2006年 落合博満選手2011年

落合博満選手 昭和28年12月9日生

ベースボールマガジン社 / 週刊ベースボール 2022.1.24 / 新加入選手名鑑

2023

日刊スポーツ / 特殊なバットでティー打撃を行う清宮幸太郎選手(撮影 岩下翔太)

シークエンスバット
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● 秋田高-立教大 / 元プロ野球 国鉄、東京 小西秀朗さん1月13日 82歳で死去

令和2年3月17日付 秋田さきがけ
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後藤光尊 元オリックスコーチ(秋田-八郎潟)石川ミリオンスターズ 新監督就任

goto1石川ミリオンスターズ新監督に、1月14日監督就任記者会見。<2021.9.02> 石川ミリオンスターズが、現在加盟してる「ルートインBCリーグ」を脱退し、来季以降新リーグを結成することが明らかになった。コロナ過以降、リーグを3地区に分けて運営していたが、来季は石川・富山・福井・滋賀の4球団で地域特性を生かした新リーグを結成する。新リーグの詳細は9月16日に発表される予定。<2021.1.15> プロ野球独立リーグ・ルートインBCリーグ 石川ミリオンスターズ野手コーチ就任チ(#94)。<2016.12.04> 01年ドラフト10位でオリックスに入団。05年に105試合に出場すると、08年には115試合に出場して打率.285、14本塁打57打点の成績を残し、球団初のCS進出に貢献。10年に自己最多となる16本塁打、73打点をマークすれば、翌11年には自身初となる打率3割を記録した。14年からトレードで楽天に移籍すると、15年に117試合に出場。今季はルーキーの茂木栄五郎がショートのレギュラーに定着し出場機会が減少し、戦力外通告を受けた。トライアウトに参加し、4打数1安打とアピールしたが来季の所属先チームがどこになるか報道されていない。【2016.9.28】9月27日、プロ15年目の後藤光尊内野手(38)を来季の構想から外す方針であることが分かった。オリックスから移籍3年目の今年は50試合に出場し、打率・250、2本塁打、10打点。今季は6000万円減の年俸9000万円で契約を結んでいた。【2014.11.29】楽天後藤光尊内野手(36)が平成26年11月29日、仙台市内の球団事務所で契約交渉を行い、オリックス時代に結んだ複数年契約が残っているため、現状維持の年俸1億5000万円でサイン。今季は54試合138打数28安打11打点、203。来年7月28日のソフトバンクとの試合(こまち)で 「元気なところを見せたい」。【2014.1.08】オリックスからトレードで楽天に入団した後藤光尊内野手(35)が平成26年1月7日、仙台市内の球団事務所で会見。「東北の地でもう一度輝きを取り戻せるように頑張っていきたい」 と決意。5月17日には、秋田で西武戦が予定されているが、「プロに入ってから地元で試合をしたことがないので、今まで育てていただいた人たちに恩返しをするチャンス」、「シーズンを通して試合に出たい」、「秋田はそれほど(東北ろっけん活動が)認知されていないと聞いた。貢献できることがあれば惜しみなくやりたい」。【2013.12.19】オリックス後藤光尊内野手(35)と楽天鉄平外野手(30)の1対1の交換トレードが合意に (19日にも両球団から発表される予定)。オリックス後藤選手は来季で13年目を迎える生え抜きのチームリーダーで、楽天鉄平選手も09年シーズンにリーグ首位打者を獲得して今季は選手会長。両球団の 「チームの顔」 を放出しての電撃トレード。

「熱球通信」 リレートーク <平成7年高校生編> 後藤光尊選手 (秋田-八郎潟)

後藤光尊元オリックスコーチ 石川ミリオンスターズ監督就任
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楽天恒例シャトルラン 育成柳沢大空選手最多117本 過去新人最高記録137本

run楽天の新人合同自主トレが1月10日、仙台市内の楽天生命パークでスタート。恒例の20メートルシャトルランでは、育成2位の柳沢大空外野手(18、日大藤沢)が117回でトップ。長距離走は得意ではない(50メートル走6秒0)が、前日に同期たちとシャトルランの練習して111回記録。<2018.1.11> 新人合同自主トレ恒例のシャトルランで、西巻賢二内野手 (18、仙台育英) が新人トップの121本をマーク。2013年に森雄大投手 (23) の新人記録137本には及ばなかったが、潜在能力の高さを改めて証明。【2016.1.14】楽天は2016(平成28年)1月13日、コボスタ宮城の室内練習場で行われている新人合同自主トレで、毎年恒例で持久力を競うシャトルランを実施。参加した8選手 (ドラフト2位吉持は体調不良で不参加) でドラフト3位茂木栄五郎内野手(21)が最も多い132本をマークし、同1位オコエ瑠偉外野手(18)は100本だった。【2915.1.16】2015(平成27年)1月12日、コボスタ宮城で楽天新人合同自主トレがスタートし、毎年恒例のシャトルランが行われた。安楽智大投手(18、済美)は、ヤンキース田中将大投手が07年に記録した97本を抜き104本を走りきり、新人9選手中6位タイの成績だった。<シャトルランとは> 専用CDの電子音が流れ始めると同時にパイロンの置かれたAからBの2地点の間、20メートルの距離を走り始める。電子音が流れ終わる前に20メートル先の地点Bに到着するように走り、再び電子音が流れ始めるのと同時に、もといた20メートル先のA地点に走り始め、音が流れ終わる前に戻る。20メートル超の距離の往復を繰り返していく。初めは一定のリズムで音が流れ、徐々に電子音の間隔が縮まり、選手の走る速度も増していく。音に合わせて20メートルを走れなくなった時点で脱落となるもの。

スポーツニッポン / 阪神 石井大智投手(秋田高専) 昨年末に高知県へ “ 里帰り ”

485<スポニチ> 阪神の石井大智は、鳴尾浜にこの日から登場。筋トレや、年明け初めてのキャッチボールで2月のキャンプインへ準備を進めた。昨年末には3年間所属した高知ファイティングドッグスに “里帰り” していたと明かし、阪神や近鉄などでプレーした吉田豊彦監督に投球フォームのチェックをしてもらった上で「いい経験しているな。頑張れ」とアドバイスされたという。新人だった昨シーズンは18試合の登板に終わり悔しさを経験。スアレスの退団で競争が始まる7回以降の必勝継投の1枠を奪い取りにいくつもりだ。<2021.12.8> 阪神・石井大智投手(24)のルーキーイヤーは、ほろ苦い1年だった。2月の春季キャンプやオープン戦で好投を続けてアピールに成功。開幕を1軍で迎え、幸先のいいスタートを切ったが、シーズンに入ると結果を残すことができず、3度の2軍降格を経験した。8月26日に登録を抹消されてからは、チャンスは訪れることはなく、ファームでの生活が続いた。最終的に18試合の登板で0勝1敗、防御率6・23。同期の佐藤輝や伊藤将、中野らが1軍で結果を残すなか、思い通りの投球ができずに苦しい時間を過ごした。「(佐藤)輝とか中野さん、(伊藤)将司さんもルーキーであれだけ活躍している中で(自分は)活躍できなかったので、その悔しさがあった」2年目の来季を飛躍の年にするために、このオフは原点に立ち返る。年末は前所属の四国IL・高知の恩師・吉田豊彦監督に指導を仰ぐ。「技術的というより、メンタル面でいろいろ聞きたいことがある。特別やることは変わらないけど、会って話がしたい」。詳しくは語らなかったが、自分がもう一つ上のレベルに行くために聞きたいことがあるという。実際、阪神入団前の2020年は、四国ILで17試合に登板し、6勝7敗、防御率1・69、129奪三振を記録。好成績を残したが、NPBでは大きな壁にぶち当たり自問自答する日々だった。「楽しい時間はすぐに過ぎるじゃないですか。でも今年は楽しい時間がほとんどなくて。どうしたらもっと抑えられるんだろうとか、野球のことや自分のことをずっと考えていた」。1年前のあの時の自信を取り戻し、すべての面で成長するために、もう一度自分自身を見つめ直し、汗を流す。地元の秋田ではなく、高知で過ごしたい理由はもう一つある。四国IL・高知の練習場の近くには、右腕の行きつけだった汁なし担々麺のお店がある。「その店の味がめちゃくちゃ好きなんですよ。当時は練習終わりとかによく食べていました。行きたくて、もうその(担々麺の)舌になっています。本当においしいんですよ」。野球と同じくらい⁉の〝熱量〟で語り、思い出の味への愛が言葉からあふれ出ていた。NPBへの道を切り開くきっかけとなった原点の高知で、この冬は鍛錬を積む。大好物の担々麺で胃袋も満たして英気を養い、2年目の来季はマウンドで〝淡々〟と打者を抑えていく。(織原祥平)

ベースボールマガジン社 / 週刊ベースボール 2022.1.17 若虎物語 2022

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日刊スポーツ プロ野球通算先発登板数10傑 ヤクルト石川雅規投手 単独7位間近

2022シーズン 6位 中日 山本昌投手514に近づきたい
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オリックス 中嶋聡監督 日本シリーズお疲れさまでした 鷹巣農林高等学校同窓会

昭和62年秋田県立鷹巣農林高校林業科卒業
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中溝 康隆 / 週刊ベースボールマガジン / 小野和幸 投手(59、金足農-秋田北)

o0317050014691142694逆転野球人生 / 1987(昭和62)年オフ、西武から中日へトレード移籍した小野和幸もそのひとりだ。金足農高では186センチの大型右腕とプロから注目されるも、甲子園経験はなく、同郷で投げ合った日本ハムの80年ドラフト1位指名を拒否してプリンスホテルへ進んだ高山郁夫(秋田商)と比較すると、全国的には無名の存在だった。水面下で近鉄、阪神、西武がマークしていた小野は日本鋼管への就職が内定していたが、最終的に「社会人で3年間やってプロ入りするなら、最初からプロのほうがいい」とドラフト外で西武ライオンズへの入団を決める。他の新人投手が50、60番台の中、13番という異例の背番号からも球団の期待を感じさせるが、これにはライバル高山も「プロなら西武だと思っていたのに、どうにもならなかった。そのときに小野がドラフト外で西武入り。大ショックですよ」と嘆いてみせた。当時、新興球団・西武は球界の新盟主を目指し邁進、なりふり構わず日本中の逸材を獲得し続ける。なお、小野と同期のドラフト外入団には、のちの “ミスターレオ” 秋山幸二(八代)もいた。ファームでタイトル獲得も……。「根性だけは誰にも負けない」といかにも昭和を感じさせる意気込みとは裏腹に、グラウンドを離れたら松田聖子のファンで漫画好きという普通の18歳・小野君。そんなヤングレオは81年のルーキーイヤーから快進撃をみせる。二軍では連戦連勝の快投で、ハーラーダービートップを独走。前半戦だけで12勝を挙げ、ジュニアオールスターにも選出されると、地元秋田は盛り上がりファームの選手では異例の後援会発足の準備も進められた。この逸材にマスコミも騒ぎ出し、当時大リーグのドジャースで旋風を起こしていたメキシコ人左腕にちなみ“和製バレンズエラ”と呼ばれるようになる。「嬉しいですね。そういわれるのは大好きですよ」なんて無邪気に喜ぶドラフト外の星。西武二軍のイースタン・リーグ初優勝を報じる『週刊ベースボール』81年10月19日号には、イースタン新記録の15勝を挙げた小野や、規格外の飛距離を誇る秋山らを見た他球団コーチ陣の「この連中が揃って一軍でやるようになったら、どんなチームができるか、空恐ろしい気がする」なんて80年代後半の黄金時代到来を予感させるコメントも掲載されている。期待のルーキー右腕はペナント最終戦の10月4日、ロッテ戦でプロ初先発をすると5回4安打3失点ながらも、プロ初勝利を挙げた。「投の小野、打の秋山」に多くのファンや関係者は未来を見たが、背番号13はここから伸び悩む。2年目は技巧派からパワータイプへのモデルチェンジを模索するが、イースタンでわずか1勝。二軍とはいえ、新人で簡単に結果が出たためプロを甘く見てしまった面もあったという。普段は心配するやさしい母親から「(結果を出すまで)もう、ウチに帰ってくるな!」なんて電話で喝を入れられると、アメリカの教育リーグへ飛んで、暑いアリゾナで32試合中17試合に投げまくった。すると復調して3年目はまたもファームで最多勝、4年目は最優秀防御率を獲得。しかし、皮肉にも “二軍のエース” として定着するうちに、工藤公康や渡辺久信といった後輩たちに先を越されていく。力で押すタイプではなく、かわす粘りの投球スタイルのため、「試合でのピッチングは合格点なんだけど、一軍でとなると、もうひとつタマの切れがないね」と首脳陣の評価は決して高くなく、本人も中継ぎで使われるなら一軍に上がりたくないと先発にこだわり回り道をする。ようやく5年目の85年にプロ初完封を含む33貴重な経験を積んだ。23歳の高卒投手としては着実に階段を上がっているようにも思えたが、『よみがえる1980年代のプロ野球』1985年編の西武OBインタビューによると、「2勝2敗となっての第5戦で、先発が(その3勝の)小野という選択にナインはガクッと来たと思います」なんて証言も残っている。
「急に来たんでビックリした」オフに結婚式をあげて「カアちゃんのために、今年は稼がなきゃなんないスから」と臨んだ86年、先輩・東尾修の投球術やスライダーを必死に学び、序盤は防御率1点台で一時トップに立つ活躍だ。青春が終わって人生が始まり、トレードマークとなる口ヒゲを蓄え、開幕5連勝でオールスター戦にも初めて監督推薦で出場する。第3戦で吉村禎章(巨人)からサヨナラ2ランを浴びるも、この年は6勝5敗、防御率4.53。117.1回を投げ、チームは日本一を勝ち取った。翌87年、4勝11敗と黒星が先行しながら、4完投を含む130.2回を投げて7年目にして初の規定投球回に到達。防御率3.86はリーグ12位だった。2年連続の日本一に輝く当時の西武投手陣には若手の柱に工藤や渡辺がいて、外国人の郭泰源、ベテランの東尾や松沼博久も健在だった。25歳の小野は、その12球団屈指の先発ローテの一枠を確保。ようやくプロの世界で生きていけるという手応えを感じるも、男の運命なんて一寸先はどうなるか分からない。そのオフに中日・平野謙とのトレードが成立するのである。「やっと先発に定着したところに、急に来たんでビックリした。頭に来たんで、相手は誰ですか、って聞いたんです。格は向こうが上。それなのに1対1と言うから、分かりました、って。交換相手も自分の価値ですからね」(週刊ベースボールONLINE『プロ野球1980年代の名選手』より)なんで俺が……と瞬間的に腹が立ったが、冷静に考えたら悪い話じゃない。何の仕事でも組織内の自分の立ち位置が見えてくると、同時に先も見えてしまう。えてしてそんなときは環境の変え時だ。球界屈指のスカウト網で若い逸材が集結した西武では、この先も良くてローテ4番手、5番手だろう。だが、先発が手薄な中日なら成り上がれるチャンスがある。週べ87年12月14日号「87'トレード中間決算報告」によると、当初は平野を狙い指名してきた西武に、中日はもうひとりの投手を加え強気に渡辺を要求。さすがに西武も近未来のエース渡辺は出せないと松沼兄弟を候補にあげたがいったんは破談する。中日が主力クラスの投手を狙いパ各球団に話を持ちかけるもまとまらず、諦めない西武は再び小野と立花義家で、平野と藤王康晴を指名。二転三転したトレード話は、平野と小野の1対1で成立した。中日選手会長も務め、盗塁王経験と3度のゴールデン・グラブ賞獲得歴があり年俸4400万円の32歳・平野に対して、通算15勝の25歳・小野は1600万円。実績だけを見れば格差トレードだが、西武は星野仙一監督とそりが合わずレギュラーを剥奪されたリードオフマンを再生可能と踏み、中日側は「(86年4勝11敗の)勝ち負けがひっくり返って当然のピッチャーだ」と “和製バレンズエラ” の才能と伸び代に懸けた。そして、結果的にこの移籍が小野和幸の野球人生を劇的に変えることになる――。(後編へ続く)

ベースボールマガジン / 週刊ベースボール 2022.1.3+10 / プロ野球記録

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2021.12.20 石川雅規投手 現状維持9000万円でサイン 200勝目指す

通算177勝(176敗) 200勝まで23勝 200勝目指して「もっと勝ちたい」
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元横浜DeNA 小杉陽太さん 2022シーズン 横浜DeNAファーム投手コーチ

kosugi四国学院大コーチ歴任小杉陽太さんが2022シーズン~ 横浜DeNAファーム投手コーチ就任。<2015.4.05>「先発がこれだけ早く降りるゲームが続くとしんどくなる」 と中畑監督も厳しいブルペン事情を考慮。「投手を1人入れ替える。小杉を上げたい。ロングリリーフができるからね」。【2012.4.21】先発の4年目右腕小杉陽太が今季初登板ながら5回6安打2失点の粘投で勝利投手。【2012.3.24】1985(昭和60年)秋田県生まれ、その後は東京都江東区で育つ。二松学舎大付卒。亜細亜大を3年生直前に中退、母校で練習を再開したところ、堀井哲也JR東日本監督と出会い、2007(平成19年)JR東日本東日本入社。入社1年目から都市対抗で先発を務めるなど活躍。翌2008年のドラフト会議で横浜ベイスターズから5位で指名を受け入団。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E6%9D%89%E9%99%BD%E5%A4%AA

ベースボールマガジン社 / 週刊ベースボール 2021.12.27 /12球団大展望

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土井麻由実 NPB最後の青波戦士後藤光尊 独立リーグでの指導者1年目振り返る

515245土井麻由実 Mayumi Doi😊さん ■プロ野球15年間の活躍。オリックス・バファローズが25年ぶりにリーグ優勝した。そしてクライマックスシリーズを勝ち抜き、日本シリーズ進出も決めた。その怒涛の快進撃を遠く離れた金沢の地で見守っていた人がいる。オリックス・ブルーウェーブ、オリックス・バファローズ、そして東北楽天ゴールデンイーグルスで15年間にわたって活躍したあと、バファローズでコーチを2年務めた後藤光尊氏だ。今季からは独立リーグ・石川ミリオンスターズ(BCリーグ→日本海オセアンリーグ)で野手コーチに就いている。「僕のころは暗黒期だった」と淋しげに振り返る後藤コーチは、稀有なプロ野球記録を持つ。2005年の「1シーズン全打順先発出場」だ。「猫の目打線」と称された毎日ころころ変わる打順は“仰木マジック”の一つだったが、それでも当時、実際に達成したのはチームでただ1人だ。長いプロ野球の歴史においても7人しかいない。「珍記録じゃないですか。チームが一番低迷していているときの象徴なんですよ。弱くてチームがフラフラしていたってこと」。自嘲気味にとらえるが、チャンスメイクの上位からポイントゲッターの主軸、そしてまた上位に繋げる下位まですべての打順を任される選手なんて、そうそういない。小技にパンチ力、脚、そして使われ続けるには守れなくてはならない。つまり走攻守に優れた万能選手ということだ。そのほか「全打順本塁打」も記録し(プロ野球史上13人)、7度のサヨナラ安打を放つなど勝負強さも光った。26試合連続安打(リーグ歴代5位タイ、球団歴代4位)、四球を挟んで43試合連続出塁を達成した2011年9月は、44安打で月間打率.436をマークし、月間MVPにも輝いている。「連続安打中は怖くてしょうがなかった。同じルーティンで過ごして『これで合ってるかな?』っていう連続だった。ヒットが出る出ないっていうより、『感覚間違ってないよな、今日は』『大丈夫だよな』っていう戦いだった」。打撃だけではない。高い身体能力を生かした守備力も光った。内野全ポジションを守れるユーティリティープレーヤーで、その華麗な、ときにアクロバティック守備はファンを魅了した。■練習は一人で。攻守に華のある選手だったが、「僕、地味なんですよ」と笑う。「派手なプレーが多いって言われるけど、冗談じゃねぇよって。基本の徹底しかないと思っている。基本を積み重ねていったら、人が驚くようなプレーもできる」。基本の徹底と、さらには練習だ。水面下で必死に足を掻く白鳥のごとく、見えないところでコツコツやる練習量はハンパなかった。2月の宮古島キャンプ中、全体練習のあと一人黙々と打ち込んでいるとき、室内練習場で気を失って倒れたこともあった。脱水症状だったんだろうというが、「とにかくガムシャラだった」と、どれほど集中していたかわかる。今でこそ笑い話になるが、想像するとヒヤッとする。後藤選手にとって練習は、「一人でやる」というのが鉄則だ。「練習できない選手って誰かに手伝ってもらわないとできない、一人ではできない。僕は逆に誰かがいると、そこに意識を奪われるというか、今1スイングしたこの感覚はどうだったかという自問自答ができない。誰かいると『どう?』って訊いちゃうから」。 この “ 自問自答 ” が大事なのだ。「何人かでマシン回して打ったりするのとかが大嫌いだった。遊ぶじゃないですか。誰かのモノマネしてみたりとか…そういうのが嫌だった」。 集中して自分自身と向き合いたいということだ。■イチローさんとの自主トレ。ただ、イチロー氏との自主トレだけは別だった。ドラフト同期入団の藤本博史氏がイチロー氏の自主トレパートナーであることから、一緒にさせてほしいと志願し、「全然ええで」と快諾してもらった。「初めてバッティング練習見たとき、見惚れました。きれいだなと思って。スイングも打球もそうだし、バットってこんな使い方できるんやってビックリした。バットを振ることに関しては到底及ばないけど、考え方だったり取り組む姿勢だったり、そういう部分ではすごく影響を受けた」。年に何日間かだが、それが何年も続いた。ほんとうに貴重な、かけがえのない時間だった。このように向上するチャンスを掴もうと自ら行動を起こせるところも、アスリートとしての“能力”の一つではないだろうか。「だって、もったいなくないですか?世界一のバッターですよ」と事もなげに笑うが、誰でもができるわけではない。実際、どれほどの選手が行動を起こせるのか。「うまくなりたい」「レギュラーを獲りたい」と口にすることは簡単だが、ではそのために何ができるのか、どこまで取り組めるのか。後藤選手はとことんやる選手だった。■衝き動かしたのは反骨心。その根底には「反骨心」があるという。「まず、プロに入るのに(高卒から)5年かかっている」と述懐する。秋田高校から法政大学に進むも、入学間もない5月には辞めてしまった。野球だけは絶対に続けると心に決め、自宅周辺で練習しているとき、社会人の強豪チームからいくつも誘いが来た。その中の一つである川崎製鉄千葉(現JFE東日本)の齋藤正直監督は秋田高の先輩で、春先のオープン戦で一度顔を合わせていた。「頑張れ」と励ましてくれたそのときから、「おまえは辞めると思って、アンテナを張ってたよ」とずっと気にかけてくれていたと聞き、入社を決意した。背番号のない練習生として入り、翌年から公式戦に出場した。そして2001年、オリックス・ブルーウェーブからドラフト10位で指名された。「入るときに『順位は関係ない』って、強がりじゃなくてほんとにそう思っていたし、『おまえが俺より上なのか?』っていうのは常に持ってやっていた。まずチーム内で勝たなきゃいけないっていうのが一番にあった」。その気持ちが原動力となってルーキーながら開幕1軍メンバーに入り、スタメンに名を連ねた。そして人一倍練習し続けた。「練習してナンボの世界なんで。『結果出してナンボ』と練習せんでも結果出すヤツも稀にいるけど、それは続かない。一回出した結果で満足して、それで生きてるヤツもいる。そうは絶対なりたくないと思っていた」。見た目の華やかさとは裏腹の、血のにじむような努力。それを結果につなげて12年。さらに2013年12月、鉄平選手とのトレードで東北楽天ゴールデンイーグルスに移籍しても、その姿勢はもちろん変わらない。どこまでも己と、己の野球と向き合い続けた。そして2016年、ユニフォームを脱がねばならないときが訪れた。「40歳まではやりたい」とトライアウトを受け、その力はまだまだ健在であることは示せたし、自信もあった。が、どの球団も若返りを図っており、望みは叶わなかった。NPBにおいてブルーウェーブ在籍経験のある選手の最後の引退となった。■親に引退試合を見せたかった。その後、イーグルスアカデミーのコーチに就任することとなり、球団事務所で引退会見を開いた。しかし後藤選手には心残りがあった。「引退会見して引退試合してっていうのが頭にあったんで、終わるときって『あぁ、アッサリ終わるんだな』って。自分がやってほしいとかじゃなくて、親や家族を呼んで、最後にそういう姿で終わりたかったなと思う。親に申し訳なかったなって。昔から言われているけど、自分から辞められる選手は数えるくらいしかいない。それが一流選手。だから僕は一流選手じゃない。辞めざるを得なくて辞めてるから。たぶん、現役の区切りはできていない」。トライアウトを受けずにそのまま引退していれば、引退試合も開催されただろう。しかし、まだやれると思ったからこその決断であったし、それが間違っていたわけじゃない。それでも、できることなら完全燃焼して、セレモニーで送り出されたかったという思いは、今後もずっと抱き続けていく。そしてそれは、ずっと応援してきたファンにとってもそうだろう。しかしその心には、後藤選手のプレーも存在もしっかりと刻まれていることには変わりない。■初めての独立リーグ。アカデミーでは幼稚園児から中学3年までを教え、楽天球団が業務提携しているクラーク記念国際高校・女子硬式野球部、同球団が下部組織として設立した東北楽天リトルシニアも同時に指導した。その後、2019年には古巣に戻り、コーチとして1軍とファームのどちらも経験した。そして今年からは独立リーグでの指導をし、1シーズンを終えた。「NPBを目指す選手がたくさんいるということで、教え甲斐があると感じていた。ただ思っていたのと違ったのは、意外と本気で目指しているヤツは少ないなと。辞められずにダラダラ続けてしまっていたり、社会に出るのが怖くて野球にしがみついているとか、そういう子も中にはいるんだなと」。どこのチームにもどこのリーグにもいる、独立リーグあるあるだ。チーム内でそのような温度差はあるが、コーチとしては区別はしないという。本気でNPBを目指している選手が基準で、そちらが優先にはなるが、そうではない選手にも前向きに野球に取り組んでほしいという思いで接している。■基本の徹底と練習。現役時代の自身がそうであったように、指導においてもブレないのは「基本の徹底と練習」だ。ただ、やるかやらないかは個人の責任である。「自分がNPBに行きたいと思えばやらないといけないし、流されて『今日はいいや』っていう日が一日ずつ積み重なってしまうと、当然、目標も遠ざかっていく。個人の成績の責任は自分で取らないといけない。そのために『教えてください』という選手には教える。『お願いします』って言われたら、いくらでも投げるし、いくらでも打つ」。常にウェルカムの状態で、広く門戸を開いている。選手のやる気次第なのだ。ただ、「練習場所が確保できないというのが一番ビックリした」と明かすように、環境面がまだまだ整っていない。専用グラウンドがなく、一般市民も使う市の施設を借りる。とくに北陸地方という土地柄、雨が多い。「雨が降って『場所が取れないから今日は練習ナシ』という日だけは作っちゃいけないと思っていたんで、スタッフが頑張ってくれて、そういう日は一日もなかった」と感謝している。そうした中、今季をこう振り返る。「NPBに行けそうな選手がチラホラいて、そういう選手たちがチームを引っ張る存在になってくれているのはよかった。一つのチームとして頑張ろうという姿も見られた」。だが、いいときはいいが、「一気にダメになる瞬間がある」とも語る。「NPBの選手と比べると、精神的な体力がない、持続しないというのがある」と課題を挙げる。「僕とここの選手の違いって、NPBに行ったか行ってないかっていうところだけ。場所は違っても野球は同じで、同じプレーをしてるはずなんで。じゃあそこで何が違うのかといったら、お客さんの数だったりプレッシャーだったりとか、それだけ」。しかしその感覚を、言葉で伝えるのは至難である。「いつも言っているのは練習での1球とか1スイングとか1投とか、その重さ。これは言い続けないと伝わらない。1回言ったくらいじゃダメで、同じところで同じタイミングで言わないと。それでも『ここが大事なんだな』と気づける選手と気づけない選手がいる」。気づけるか気づけないか、そこが大きな違いになるが、それがつまり「1球の重み」がわかるかどうかということだという。「一番わかりやすいのはゲーム。致命的なミスをして初めて気づく。『練習でずっと言ってたよね?』と。それでもわかるのは数人。伝わる選手には伝わるけど、響かない選手には響かない。でも、だからといって区別はしない。全員、同じようにやります」。強力な手助けのある「夢を目指せる場所」なのに、貪欲に吸収しようとしないのは、なんとももったいない話である。■日々の献立に頭を悩ませる。シーズン中は “単身赴任” だった。「洗濯なんかは放り込んでボタン押しゃいいけど、食事が困った。コロナで外食ができないから自炊するしかなくて…でも、できるものは限られる。カレーなら2日3日食べられるし、めんどくさいなと思ったら鍋。グラウンド出た瞬間、『今日何を買いに行こうな…』って(笑)」と日々の献立に悩まされたそうだ。だから「嫁さんに『今日、何食べる?』って訊かれて『なんでもいいよ』って言わなくなった(笑)。いや、ほんと主婦はすごいな」と、奥さんの偉大さを痛感するとともに感謝していると笑顔を見せる。■NPBに返り咲くための経験と勉強。さて、来季も石川で指導にあたることになるが、新リーグになって試合の形式も変わる。4球団が一致団結し、しっかり選手を育成していく方向だ。「すべての選手をすべての球団の首脳陣が見ていくという形になると思う。いろんな意見や技術、考え方がる。ほかのチームの指導者にも見てもらうことで可能性も広がる。いろんな角度から育成ができればという思いのリーグなので」。チームとしてはもちろん勝ちを求めていくが、より多くの選手をNPBに輩出することにも注力する。「大事なのは、情報共有ができているということ。『この話、知らない』っていう状態が一番よくない。それで選手を潰してしまわないようにしなければいけない。さまざまな意見を出し合って、知恵を絞って、選手のレベルが上がっていけば、価値の高いリーグになる。もちろん、戦うところはしっかり戦いながら」。初めての独立リーグの世界でさまざまなことを得た。選手には自身のプロとしての経験を伝えてきた。「こうしていろんなカテゴリーの野球を知るということは、自分の経験を積むという意味ですごくいい1年だった」。そして「やっぱりもう一度、NPBにと思っている。選手がNPBに行きたいのと同じで、僕も指導者としてまた戻りたい気持ちでいる。そのための経験とか勉強とか、そういうのを惜しまずやっていきたい」とさらなる研鑽を積むことを誓っていた。

2020.2.11 / 南海(兼任)・ヤクルト・阪神・楽天で指揮 野村克也さん死去

昭10年6月29日生まれ、峰山高からテスト生として南海入団
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古田敦也氏 恩師へ弔辞「時に厳しく、時に厳しく、そしてずっと厳しい指導だった」

goziプロ野球ヤクルトを3度の日本一に導いた名将で、昨年2月に84歳で死去した野村克也さんをしのぶ会が11日、神宮球場で行われ、親交があった多くの球界関係者や教え子たちが参列した。弔辞 監督、監督が亡くなられてから結構な時間が経ちます。もうすぐ2年になります。ここに来て監督の映像や写真を見ると、心の整理はつけてきたつもりですけど、やはり寂しい気持ちになります。本当に残念です。僕は1990年から9年間ご一緒させていただき、ご指導いただきました。その指導というものは、時に厳しく、時に厳しく、そしてずっと厳しい指導でした。ただ、選手たちは監督に認められたい、監督が求められる選手になりたい一心で必死についていき、成長することができ、そしてスワローズが強くなったと思います。本当にありがとうございました。監督とはいろんなお話をして、たくさん思い出があるんですけど、印象に残ったのは、人の人生は短いと。一生というのはあっという間なんだから価値あるものにしないといけない。そういうことをおっしゃられていました。先ほど映像でもありましたが、その価値、人生の価値はやはり人を残すことだと、何度か我々にも説いていただきました。奇しくも今年その教え子でもあります高津監督率いるスワローズと、矢野監督率いるタイガースが優勝争い。セントラルリーグの最後まで盛り上がりました。そしてスワローズは日本シリーズでも勝ち、日本一をとりました。また、東京オリンピック金メダルを獲得した侍ジャパンの稲葉監督も野村監督の教え子です。彼らに代表するように、プロアマ問わずたくさんの、監督から薫陶を受けたそのときの選手たちが今指導者として多く残っています。我々残った者は、その監督の思いをしっかり引き継ぎ、これからも球界発展のため尽力していきたいと思っております。監督、本当にありがとうございました。 令和3年12月11日、古田敦也。

ベースボールマガジン社 / 週刊ベースボール 2021.12.20 ” 絶対大丈夫 ”

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報知 / ロッテ 山口航輝外野手(21、明桜)840万増 推定1400万でサイン

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