★ 備忘録 「 熱球通信 」 特定非営利活動法人秋田県野球フォーラム ★

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カテゴリ: プロ野球

narita< 週刊ベースボール > ロッテ初優勝の70年は制球力を誇る2人の右腕が20勝をクリア。25勝で最多勝に輝いたのが6年目の成田文男で、21勝で続いた5年目の木樽正明が防御率で成田を上回り、MVPに選ばれた。東京スタジアムの近くで育ち  “ 下町のエース ”  と呼ばれた成田は高速で曲がるスライダーが武器で、69年にノーヒットノーランを達成。一方の木樽も、打者の内角へ鋭く食い込むシュートと成田に教わったスライダーを武器に、69年に防御率1.72で最優秀防御率に輝くなど、ともに絶頂期だった。木樽は翌71年に24勝で成田に続いて最多勝となっている。<2011.4.25> 元東京オリオンズーロッテオリオンズの成田文男投手、東京都足立区出身ですが、父親は秋田県鷹巣町出身、幼少期を秋田県で過ごす、修徳からプロ入りしエースとして活躍する、ちなみにビートたけしと同じ中学の野球部出身でいっしょにプレーしていた。<2011.4.25> 平成23年4月21日午後6時36分、肝不全のため岐阜市内の病院で死去、64歳。1965年東京修徳高校から東京オリオンズ入団。1969年阪急戦でノーヒットノーラン達成。東京オリンピック翌年の入団でした、合掌。・大相撲ですが幕内の北太樹は東京都町田市出身ですが、父親は横手市( 大森町 )出身、本名は讃岐明義、お父さんはちなみに私の叔父の同級生です【北の富士っこ】。・現 新日本石油ENEOS野球部副将の山岡剛捕手( 日大高から早稲田大 ) 父親は山岡長英氏(下浜中-秋田高-早稲田大-日本鋼管)です。下浜中時代は秋田商で活躍した山岡政志氏とバッテリーを組んでいました。早稲田に進み岡田オリックス監督の次に主将を務め三塁手として活躍しました。・東海大相模で1番打者として活躍し主将も務めた佐藤功選手。原巨人監督の1つ上です。お父さんが秋田市出身で、よく帰省してはバットを振っていたそうです、甲子園では先頭打者本塁打の記録も持つ、記憶に残る選手でした、早稲田大に進み活躍しました。・元近鉄、巨人の阿波野秀幸投手。父親は能代市出身。八橋の試合に親戚来てました。ちなみに、当時父親の勤務先は津軽商事となってました!能代って津軽?・母方の祖父母が秋田出身のイチロー選手、旧大雄村には益子さんと言う親戚も住んでいるとか。

koset前日死球を受けて途中交代した杉澤龍選手は 右尺骨遠位端骨折 。<2026.4.14> パ・リーグ オリックス ― 西武(4月14日・京セラドーム大阪 )オリックス・杉沢龍外野手が「 2番・中堅 」で先発し、3回の第2打席に西武先発・隅田から右手首付近に死球を受けた。その場でうずくまり苦悶の表情。トレーナーに付き添われる形で、ベンチに退いたが、場内にはオリックスファンの怒号が鳴り響いた。杉沢にとっては無念の負傷交代となった。プロ4年目を迎えた25歳は今季打撃好調でこの日の第1打席を終えて13打数5安打打率.385だった。

32026年は横浜DeNA2軍チーフ投手戦術・育成コーチ。<2024.2.10> 兄貴が居なくなって1年... 今日も頑張るか ... <2023.2.11> 近鉄、巨人などで投手として活躍し、NPB通算35勝をマークした入来智さんが2月10日に交通事故のため死去したことが2月11日、分かった。宮崎県都城市出身。55歳だった。NPBで最後に所属したヤクルトが発表した。入来さんは10日午後9時50分ごろ、軽自動車を運転して都城市野々美谷町の市道を走行中に普通乗用車と衝突。病院に搬送されたが、約2時間後に死亡が確認された。1967年6月3日生まれ。鹿児島実、三菱自動車水島を経て89年ドラフト6位で近鉄入りした。96年のシーズン途中に交換トレードで広島に移籍したが、同年オフに近鉄へ復帰し、98年オフには巨人へ移籍。当時巨人には実弟の入来祐作投手が在籍しており、球団史上初となる兄弟現役選手同時在籍として話題を呼んだ。※ 長男:入来智選手( 鹿児島実-三菱自動車水島 )次男:祐作選手( PL学園-亜細亜大-本田技研、オリックスコーチ )三男:博之選手( PL学園-TDK )。

katuzou60秋田県軟式野球連盟六十年史(平成18年12月1日発行)でも詳しく紹介。明治40年5月14日、現在の秋田市千秋矢留町生まれ。秋田中(甲子園出場)から慶応義塾大学→ノンプロ東京クラブと進み、昭和7年の都市対抗で優勝。ポジションは主に捕手。昭和11年プロ野球草創期の大東京軍に入団し、永井武雄監督解任を受け選手兼任監督1号に、戦績は2勝27敗3分。戦後秋田に帰郷し、県内実業野球の育成や母校秋田高の指導にあたる。創業した妻の実家の家業を助けるべく再上京し、秋田高校野球部OB会「東京矢留会」を設立。昭和57年2月10日、74歳で逝去。没後も「伊藤勝三基金」「伊藤勝三スポーツ振興基金」を通して秋田県スポーツ界を支援。・時事通信社 「時空甲子園」 秋田高校 秋田中時代からの伝統を誇る名門。1915年、夏の第1回大会に出場し準優勝。決勝で延長13回の熱戦の末にサヨナラ負けした。投の大久保、打の成田で65年にもベスト4。後藤、石井、滝田と並ぶ中軸打線は強力。プロで162本塁打放った 「男・石井」 の長打力に期待したい。猿田は慶大で主将。同じ慶大成田の打撃も勝負強い。投手陣の層が薄いのはやや気がかり。捕手の人材が豊富。伊藤も本職は捕手、戦前の大東京で監督を務めた。 [遊] 猿田和三、[中] 成田憲明、[二] ★後藤光尊、[三] ★石井浩郎、[左] ★滝田政治、[右] ★小西秀朗、[一] ★ 藤勝三、[捕] ★阿部茂樹、[投] 大久保正樹、齋藤新、太田政直、菅原朗仁、★永井洋二郎、高田環樹、菅原勇輝、佐藤翔、石井勇悦、小野巧。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%8B%9D%E4%B8%89

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