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米国務省は10月31日の声明で、ミャンマーの治安部隊が各地で軍事作戦を強化していることに深い懸念を示し、治安部隊による重大な人権侵害を非難。<2019.4.15、ganas> 競技人口およそ100人。野球後進国のミャンマーで、野球の普及活動が活発になってきた。一役買うのは、ミャンマー在住の日本人で構成する野球チーム「ヤンゴン・サムライズ野球団」に所属する元高校球児らだ。サムライズが野球を教えるのは、ミャンマーの最大都市ヤンゴンにある養育施設「ドリームトレイン」の子どもたち。サムライズで監督を務める会社経営者の芳賀啓介さん(40)は「私はこれまで野球にお世話になってきた。目の前の子どもたちに野球を教えることで、野球に恩返しをしたい」と語る。■日本人相手に勝利!ドリームトレインの野球チームのメンバーは11~16歳の男女約20人。初陣は3月16日。相手はヤンゴンの日本人少年野球チームだ。試合はいきなり、ドリームトレインの先頭バッターがホームランを打って先制。攻撃陣の頑張りからそのままリードを保ち、8対3で勝利した。投手陣も踏ん張り、3人の少年の投手リレーが決まった。三振も奪った。選手のひとりは「試合は緊張したけど楽しかった。日本人の友だちとも会えて嬉しかった。またやりたい」と笑顔で話す。試合中は敵味方に関係なく、ファインプレーをした選手には大きな歓声と拍手が送られた。この試合でドリームトレイン の監督を務めたサムライズの中島洸潤さん(29)は「ドリームトレインにとっては初の対外試合。私自身も、試合前は楽しみと不安が入り混じって、不思議な緊張感があった。ところが見事に勝利。本当に嬉しかった。子どもたちの度胸とポテンシャルの高さに深く感心した」と振り返る。プレーボールの前には、両チームの選手がグラウンドのごみを拾った。芳賀さんは「グラウンドの神様に感謝。自分たちがきれいにしたって思うと、子どもたちも大切に使うでしょ」と日本の野球精神も教える。■ボールを打ったら一塁へ。ドリームトレインは、東南アジアを中心に医療活動を展開する認定NPO法人ジャパンハート(本部:東京・台東)が設立した養育施設だ。ドリームトレインに野球が持ち込まれたのは2016年。施設を支援する戸沢暢美財団から、グラブやバットなど、およそ30人分の野球用品が寄贈されたのだ。この年の12月、ドリームトレインのプロジェクトディレクターである那須田玲菜さん(32) の依頼を受け、ドリームトレインの子どもたちにサムライズが野球教室を開いた。子どもたちは当時、野球の存在すら知らなかった。野球を身近に感じてもらおうと、キャッチボールやバッティングをまずは一緒に楽しんだ。ドリームトレインは2018年12月、対戦相手を探していたヤンゴンの少年野球チームから試合を申し込まれた。だが実戦経験ゼロ。ルールもよくわからない。そこでサムライズがドリームトレインの指導を引き受けた。「ボールを打ったら一塁に走る」ということからストライクゾーンやファウルボールに至るまで、試合に必要なルールを一から子どもたちに教えた。練習は週に3回。火曜日と金曜日は施設の運動場を使って、1~2時間ほどバッティングや紅白戦をした。運動場が小さいため、打ったボールがフェンスを越えて、施設内にある建物の屋根まで飛ぶこともしばしば。土曜日はヤンゴンのチャイカサン球場で、サムライズと一緒に練習した。練習中は、サムライズのメンバーが積極的に声を出す。その姿を見た子どもたちも、チームメイトに「ドンマイ」「すごいね~」と声をかけるようになった。試合が近づくにつれ、子どもたちは自発的に毎日練習し始めた。練習ぶりを見てきたドリームトレインのボランティアスタッフ、山縣佳織さん(32)は「熱心に指導してくれるサムライズの思いに応えようという気持ちのあらわれだ」と話す。■ミャンマーで野球に恩返し。野球の指導は仕事ではない。だがなぜ、元高校球児たちはミャンマーの子どもに野球を教えるのか。芳賀さんは「サムライズのメンバーは野球というスポーツに育ててもらい、野球を通して、チーム一丸となって勝利を目指す素晴らしさなどを学んだ。だから今自分がいる土地(ミャンマー)で野球に恩返しをしたい」と話す。芳賀さんはまた、世界的に競技人口が少ないために、オリンピックの種目からたびたび外されてきた野球の現状にも危機感を募らせる。「野球人口を増やしたい。そのためにも野球を教えることに使命感がある。私たちがやらないとねって感じ」サッカーが大人気のミャンマーで、野球を広めることは、子どもの人生に選択肢を増やすことにつながる。「サッカーは得意でなくても、野球の才能をもつ子もいるはず。野球でミャンマー代表に選ばれたり、日本でプレーできたりすることも。私たちの取り組みは、ミャンマーの子どもの将来につながる小さな一歩」と中島さんは語る。野球の裾野を広げるには、点ではなく、線のような継続的な活動が大切だ。「今はまだ、ミャンマーで野球に触れる機会がある子どもはごく少数だ。今後はフェイスブックなどで多方面に呼びかけ、誰でも参加できる野球関連イベントを開催したい」(芳賀さん)。※ ganasは、途上国や国際協力・開発をテーマとする硬派のNPOメディア<2012.11> 2012(平成24年)11月9日(金)、テレビ東京 「世界ナゼそこに?日本人~知られざる波瀾万丈伝~」 アジア最後の秘境とも言われるミャンマー、サッカーが国民的人気の国に、日本の野球を伝えた日本人に密着。<2010.11.22> 本書「まえがき」より。[第1章]野球がやって来た!裸足で参上/知られざるスポーツ/初のベースボールゲーム/高野連からの贈り物/野球場が欲しい![第2章]野球人たちの心意気助っ人モモタロウ参上/5連勝達成/カントクの情熱と勘違い/ミャンマー野球連盟誕生/ウー君の存在/ミャンマー初の審判員。[第3章]夢を追い続けろ。白球と軍艦マーチ/単なる内輪もめ/オバさんのド迫力/コーマウンの決意/コートゥンの夢と現実/ナイトクラブ通い。[第4章]精霊宿るチャイカサン球場。不思議な出来事/遠い日の思い出/おばあちゃんのボランティア/手作りの球場建設/タマイン少年少女野球団。[第5章]悩めるキャラクター軍団。僕らのヒーロー/新入り/真面目とお調子もん/野球奨励金の支給/俺の金がね~んだよ。[第6章]夢の国際舞台へ。武者修行/茨城ゴールデンゴールズとの激闘/井の中の蛙/雨と土浦二高戦/シーゲーム・イン・マニラ/チーム宮崎誕生。[終章]終わりなき挑戦夢に向かって[付表]ミャンマー野球の歩み。http://www.atworx.co.jp/works/pub/66.html
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163910581
左 / 阿部琥珀(3、大館東) 中 / 柴田昌吾(3、森吉) 右 / 松田健大(3、田代)
主催 / 朝日新聞社 ・ 秋田県高等学校野球連盟、監修 / 秋田県高等学校野球連盟
制作著作 / AAB秋田朝日放送
【2015.2.04】徳島池田高校野球部元監督故蔦文也氏の妻、キミ子さんが2015(平成27年)2月3日、死去(徳島市出身、91歳)。【2013.10.27】2013(平成25年)高校野球秋季四国大会準決勝(10月26日、坊っちゃん)で徳島第3代表池田が徳島第1代表生光学園に9-3で勝利し、1992年夏以来22年ぶりの甲子園出場に大きく前進。岡田康志監督は池田が79年夏の甲子園で準優勝したときの主将。池田はかつて蔦監督のもと、74年に11人のメンバーでセンバツに出場、準優勝を果たし「さわやかイレブン」旋風、また、82年夏の甲子園では「やまびこ打線」と呼ばれた圧倒的な攻撃力で初優勝。翌年のセンバツも制し夏春連覇達成。【2013.7.23】「攻めダルマ」 の異名をとり、徳島県立池田高を春夏3度甲子園優勝に導いた故蔦文也監督の実像に迫るドキュメンタリー映画 「蔦監督」(仮称)の制作が大詰め。メガホンをとったのは蔦監督の孫で、映画監督の哲一朗さん(29)。哲一朗さんは三好市池田町出身、県立池田高から東京工芸大で映像を学び大学卒業後は映画制作を行う一般社団法人を設立、代表に就任。自然と人との共存を描いた映画 「祖谷物語~おくのひと」 でも注目を集める。「蔦監督」(仮称)は今夏に撮影を終え完成する予定。 【2011.12.19】蔦文也と池田高校教え子たちが綴る〝攻めだるま〟野球の真実(ベースボールマガジン社)。(紹介文より)畠山準・水野雄仁・江上光治著、定価税込945円。〝池高〟空中野球が日本中を熱狂させた。<蔦文也>1923年8月28日生まれ、徳島県出身。徳島商時代には投手、一塁手として甲子園の土を三度踏む。その後、同志社大、社会人では全徳島で都市対抗に3度出場。1950年に東急フライヤーズに入団するが、1年で退団し、翌年、池田高校の教員となる。1952年から野球部監督を務め、指導20年目の1971年夏に甲子園初出場を果たす。2度目の出場となった1974年春センバツはわずか11人で準優勝に輝き、“さわやかイレブン”として全国に旋風を巻き起こした。ハイライトは1982年夏、1983年春の連覇。筋力トレーニングで鍛えられた打線の爆発力は、高校球界に大きな衝撃を与えた。1991年に勇退するまで、計14回の出場で優勝3回、準優勝2回。2001年4月28日、肺ガンのため逝去、享年77。
野球殿堂博物館は12月1日、2021年の野球殿堂入りの候補者(プレーヤー表彰・特別表彰)を発表。特別表彰では、京都少年野球研究会のメンバーとして軟式球の開発に貢献した有田辰三氏、第6代プロ野球コミッショナーでドラフト制度導入に尽力した金子鋭氏、箕島高校監督として甲子園春夏連覇を果たした尾藤公氏の3人が新候補者に(昨年の候補者で漫画家の水島新司氏は辞退)。<2018.8.06> 第100回全国高校野球選手権記念大会 第2日(8月6日・甲子園)、星稜OBで、第1試合 (山梨学院-高知商) の球審を務めた堅田外司昭さん (56) が、箕島OBの石井毅さん (57、現姓名は木村竹志さん) との 「甲子園レジェンド始球式」 を振り返った。2人は1979年の第61回大会3回戦で、延長18回を投げ合った。堅田さんは 「39年ぶりに一緒の舞台に立てて良かった。『いいボールがいってくれたら』 と思ってプレーボールをかけました。本来は始球式を投げた人と、球審が握手するなんてないんだけど 『お疲れさん』 という思いで、自然と握手していた。スタンドから拍手をもらえてうれしかった」 と笑顔で振り返った。<2012.2.16> 3月4日の一周忌法要を控え、追悼文集 「ありがとう とんちゃん」(非売品)完成。<2011.5.21> 尾藤公 「一期一会一球」 神戸新聞総合出版センター刊 (デイリースポーツ編) 四六判、308P、定価1,575円。箕島監督として、4度の全国優勝を飾った名将尾藤公氏。「のびの野球」 で甲子園に旋風を起こした氏の人生と野球への熱き思いが詰まった1冊。延長18回の激闘、箕島-星稜戦。夏の甲子園大会に輝く伝説のゲームだ。その試合を指揮し、箕島高を春夏計4度の全国一に導いた尾藤公氏が死去前に顧みた野球人生。大学中退後、銀行員になって組合活動に熱中。監督で全国制覇した後、レジャービルの支配人もした。経験豊富な人生は人を見る目を奪い、部員との深い絆をつくる。星稜の12回裏二死からの同点本塁打。選手との直前のやりとりが小気味いい。「ホームランを打ってきていいでしょうか?」「よし、狙え!!」(紹介文より)。<2011.3.09> 戒名 [顕球院釈公道]。[追悼特別番組]3月11日18:30~ 「笑顔の名将 箕島元監督・尾藤公を偲んで」 (CS放送スカイA)。<2011.3.06> 尾藤公氏が3月6日午前3時37分、ぼうこう移行上皮がんのため和歌山市内の病院で死去、68歳。葬儀は3月9日正午から有田市箕島 「フューネラル有浄会館」 で、喪主:長男 強氏。昭和54年に石井毅-嶋田宗彦のバッテリーで春夏連覇を果たす等 「記録・記憶」 は数え切れず。<2010.9.21> 箕島高校と星稜高校OB、聖地 「甲子園」 で3度目の記念再試合、結果は17-13で星稜の勝利。1度目は1994年に和歌山市で、2度目は2004年に金沢市で、そして3度目は今年2010年聖地甲子園で。