★ 備忘録 「 熱球通信 」 特定非営利活動法人秋田県野球フォーラム ★

「 熱球通信 」は特定非営利活動法人秋田県野球フォーラム会員有志による備忘録を兼ねた「 秋田県野球 」にこだわった私的ブログです。掲載している記録等については公式なものではありませんのでご注意願います。リンク等についてはオールフリーですので事前のメール等一切不要です。更新頻度は原則毎日の更新です。秋田県出身で県外に在住の方も念頭に更新していきますが、内容等一部については地元情報と時差が生じる場合があります。練習試合・親善試合の結果情報は原則掲載しません。また、コメント送信欄と掲示板については諸般の事情により対応していません。積極的な中学硬式野球と女子野球の紹介にも努めていきます。

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wa<2025.1.11> 「 秋田さきがけ 時代を語る 」 友川カズキ 能代工バスケ部時代の恩師加藤廣志監督について語る。<2021.1.27> 秋田県山本郡三種町川尻出身の歌手、友川カズキさん(70)= 本名・及位典司 =が主演を務めるドキュメンタリー映画「どこへ出しても恥かしい人」は、1月29日から2月7日まで大館市御成町の映画館・オナリ座で上映、秋田県内での上映は初めて。<2020.5.18> 瑞宝小綬賞、秋田県文化功労者、能代市民栄誉賞<2018.3.05> 秋田県立能代工業高校バスケットボール部を率いて33度の全国制覇を成し遂げた元監督の加藤廣志氏が3月4日午後1時20分、肺腺がんのため能代市の病院で死去した。80歳。粕毛村 (現藤里町) 生まれ。日体大を卒業した1960年に母校の能代工高に赴任して以降、30年間にわたりバスケットボール部監督を務めた。選抜、インターハイ、国体を各11度制覇し、このうち同じ年に各大会を制する 「3冠」 を5度遂げたほか、インターハイ7連覇を達成。展開の速いプレーで相手の高さに対抗するプレースタイルを磨き、黄金時代を築いた。<2007.8.12> 無敵の集団として名を馳せる秋田県能代市の県立能代工業高等学校バスケットボール部。著者は監督在任時の30年間に、インターハイ、国体などで同校を33回の日本一に導いた。現在、米プロバスケットボール (NBA) で初の日本人プレーヤーとなるべく挑戦中の天才・田臥勇太選手もまた、同校で指導を仰いだ1人だ。優秀な素材を全国から呼び寄せるといっても、未成熟な高校生であり、しかもメンバーは毎年代わる。それを常勝軍団に仕立て上げるべく、徹底的に個々の選手と向き合い、選手の欠点さえも強みに変えていく指導論が披露される。枠にはまらない異色の人材が持つ潜在能力を引き出して組織が強くなった事例など、多くの指導者が見過ごしがちな心得を示す。

Cg_3jmtU4AA2Scwプロ入り1年目29試合に登板、12勝9敗、防御率3.33。<2022.8.21> 聖光学院 佐山未来投手(3年 )の座右の銘は、尊敬するヤクルト石川雅規投手(42)から授かった「 初志貫徹 」。父 正和さん(44 宇都宮学園 )が石川投手と青学大の先輩後輩だった縁で、小学生の時「 迷わず自分の決めたことを貫き通せ 」とこの言葉を教わった。<2021.1.18 週刊ベースボール ON LINE > まだまだ、歩みを止める気はない。今月22日に41歳となる石川雅規が、プロ20年目のシーズンを迎えた。チーム最年長として臨む今季も、若手のように必死にポジションをつかみにいく。昨季は自身9度目の開幕投手を務めたが、7月中旬から約1カ月間上半身のコンディション不良で離脱。10試合目でようやく初勝利を手にするなど、15試合の登板で2勝8敗、防御率4.48と苦しんだ。ただ「 まだまだコンディショニングさえ整えれば、勝負できると思っている 」との言葉どおり、衰え知らずの肉体と高い技術を持ち、先発陣が手薄な中、今季も先発ローテーションの一角として期待される 。<2016.6.06> 小さなエースが明かした投球技術 石川雅規のピッチングバイブル 」球が遅くても抑えられる!身長167cmながらプロ通算100勝を達成、小さなエースが初めて明かした 「 勝つ投球技術 」 ピッチングの奥義、全公開。 ※1980年1月22日、秋田県生まれ。秋田商‐青山学院大を経て、2002年に自由獲得枠でヤクルトスワローズに入団。秋田商時代には3年の夏に甲子園出場。青山学院大進学後は、2年の春に6勝を挙げMVPを獲得。2000年のシドニーオリンピック日本代表。2008年最優秀防御率のタイトルを獲得。< 目次 > 第1章 バッターをどう抑えるか---僕の投球哲学、第2章 キャッチボール---すべての基本はここにあり、第3章 全8球種 僕の持ち球、全部見せます、第4章 試合への準備---用具・トレーニング・栄養、第5章 石川雅規の”作り方”---小学校からプロまで 。

250幻冬舎刊。著者紹介|1977年青森県北津軽郡生まれ。弘前工業高校野球部出身。介護専門学校卒業後、介護職に従事。96年に母校・弘前工のコーチに就任。2001年4月に、弘前学院聖愛高校野球部の創部と共に監督に就任し、現在まで25年間監督を務める。コーチ職、監督職の傍ら、日本大学通信教育部で学び、卒業。聖愛野球部は、これまで、夏に2度、甲子園に出場。常に革新的な取り組みを行い、各地の指導者から一目置かれる人物。 幻冬舎 < 2025.10.11 新聞報道 > 弘前学院聖愛野球部3年生3人 飲酒補導 すでに再発防止と全部員への指導を徹底。令和7年夏全国高校野球選手権大会出場の弘前学院聖愛( 学校法人弘前学院 )高校野球部の3年生3人が飲酒し、警察に補導されていたことが、10月10日分かった。学校側が同日、事実関係を認めた。同校によると3人は野球部ではない同校の生徒2人と計5人で3日夜弘前市内の居酒屋で飲酒。その後、歩いているところを警察に補導された。学校側の聞き取りに対し、全員が酒を飲んだことを認め、一部の部員は喫煙していたという。同校は3人を自宅謹慎にして青森県高野連に報告したとしている。弘前学院聖愛高校野球部インスタグラムより原田一範監督の謝罪( 一部抜粋 )「 皆様へのお詫びとSNS再開のお知らせ 監督の原田です。日頃より、温かいご声援を賜り、心より感謝申し上げます。この度、3年生の一部部員の不祥事により、応援してくださる皆様の期待と信頼を裏切る事態を招きました。誠に申し訳ございませんでした 。」

51HrQFZp1AL__SX342_BO1,204,203,200_秋田県にかほ市という片田舎に本拠地を置くTDK硬式野球部。およそ半世紀の伝統を誇るチームだが、社会人野球の檜舞台である都市対抗野球大会に過去8回出場するも、初戦さえ突破したことがない弱小チームであった。2006年まで2年連続して本大会出場を逃し、その前年には長野県にある弟分の 「TDK千曲川」 が本大会へ出場。仕事優先で早番、遅番、夜勤の三交替制である千曲川に対し、仕事は午前中だけ、午後からは練習という恵まれた環境にもかかわらず、結果を残せない 「にかほ」 は、とうとう社内で 「負け組」 の烙印を押され、シーズンオフには廃部の危機に立たされてしまった。この背水の陣の状況で、監督を交代。法政大学時代、元読売巨人軍の江川卓投手とともに黄金期を支えた名投手・船木千代美を新監督に据えた。負け癖を克服させようと、親と子ほど年の差のある若い選手たちに「闘争心」「執念」「気迫」を植えつけ、毎晩夜中まで、それまでの倍の練習量を課し続けた。そして翌年、TDKは敗者復活ながら本大会出場の切符を獲得。悲願の一勝のみならず、誰も予想さえしなかった奇跡の全国制覇を成し遂げてしまった。この奇跡的な戦績と、その背景にあるヒューマニズムを、スポーツジャーナリストの二宮清純氏が綿密な現地取材に基づき描いた感動のノンフィクション。負け犬集団が全国一になるまでの軌跡を追った321日の全記録。・負け組の奇跡 / TDK野球部栄冠への321日(二宮清純著、ソフトバンククリエイティブ)。<内容紹介> 2006 (平成18年) 9月、都市対抗野球大会で過去1度も白星をあげられなかったTDK (秋田県にかほ市) が強豪を次々と撃破、強豪日産自動車に4-3で勝利し東北勢として初優勝。一時は廃部さえも噂された 「負け組」 チームは、どのように 「戦う集団」 へと変貌したのか。この奇跡の物語には敗者を勝者に変えるヒントが詰まっている。長い間 「負け組」 だった野球部を、一人の監督が改革し廃部の危機から救った奇跡の物語である。船木千代美監督の就任から奇跡の都市対抗優勝までの321日を綴った完全ノンフィクション、平成19年8月刊。(序章)廃部の危機、(第1章)戦う集団、(第2章)執念のサヨナラヒット、(第3章)新人の成長、(第4章)劇的な幕切れ、(第5章)補強選手たちとの結束、(第6章)一気に頂点へ、(終章)故郷の喝采。

yoktドキュメンタリードラマ「奇跡のバックホーム」ABCテレビ。<2021.6.04>22歳、プロ4年目で脳腫瘍の宣告。18時間に及ぶ大手術、2年間の闘病とリハビリ、回復しない視力、24歳での引退試合―絶望に立ち向かう姿に誰もが涙した、感動の実話。日々の積み重ねの姿勢とまっすぐな気持ちがみんなを動かした。阪神にとってかけがえのない選手。―矢野燿大(阪神タイガース監督)。横田、野球の神様って、本当にいるんだな。―鳥谷敬(千葉ロッテマリーンズ)。2019年に引退した元阪神タイガース・横田慎太郎が自身の半生を綴ったエッセイ。ドラフト2位で阪神に入団し、抜群の身体能力で将来を嘱望された横田は、22歳で脳腫瘍の診断を受ける。18時間の手術、2年におよぶ闘病とリハビリの末復帰するも、視力は回復しなかった。24歳、二軍での引退試合。プロ野球人生最後のプレーで見せた、ボールがほとんど見えないなかでの捕殺は「奇跡のバックホーム」とよばれ話題となり、多くの人に感動を与えた。引退試合のエピソードを軸に、脳腫瘍の手術と闘病、家族・球団への感謝、これからの人生、病気と闘う子どもたちへのエールなどを綴る。絶望と苦しみの日々の先に見えたものとは――。すべての人を勇気づける一冊。【本文より】「横田くん、言いにくいんだけど、大きな病気です」「野球のことは、いったん忘れてください」僕にとってそれは、死刑を宣告されたのに等しいといってもよかった。暗い気持ちになると同時に、腹が立ってきました。「なんでおれが……。どうしておれが野球を取り上げられなきゃならないんだ? 」野球ができなくなったら、これから何をすればいいんだろう―そんなことまで考えながら、ほとんど眠らずに朝を迎えました。打球は見えていませんでした。ボールが二重に見えるうえ、距離感がつかめない。「これが最後のプレーかよ……」それでも、気がつくと前に出ていた僕は、ボールをキャッチすると大きく右足を踏み出し、ダイレクトでキャッチャーに送球しました。【もくじ】序章 神様の演出第1章 野球のことは忘れてください。発端は原因不明の頭痛 / どうしておれが病気に…… / 神経には傷一本つけないでください / 手術は成功したものの…… / 18時間の大手術/何も見えない。第2章 遠かった甲子園野球人生の始まり / ソフトボール漬けの小学生時代 / 中学で全国大会に/小さな目標をひとつずつ/すべては野球のために「勉強しなさい」と言わなかった両親 /  憧れの鹿児島実業に入学 / はじめての寮生活 / ホームシックになる暇がないほどの練習 / 1年生で4番に抜擢 / 一度もやめたいとは思わなかった / 努力することが好きだった / 最後の夏、県大会決勝、9回裏 / すべてはプロに行くために / 指名してくれればどこでもよかった / まさかの阪神2位指名。第3章 一軍を目指して背番号は桧山さんの「24」/ 打球が前に飛ばない / 6本塁打でも実力不足を痛感 / 予想以上に長くハードな1年目 / 天然でいじられキャラ / 掛布さんのマンツーマン指導 / 雑になったこと。それが二軍落ちの原因 / 初の一軍キャンプ参加 / 開幕スタメン / 一軍失格。第4章 闘病病室で寝泊まりしながら看病してくれた母 / もう一度野球ができるかもしれない / ファンからの手紙 / リハビリは「幼稚園児」の身体から / 想像を絶する苦しさだった抗がん剤と放射線の治療 / 父の「意外な行動」に号泣「24番をあけて待ってる」/金本監督からの差し入れ / 寛解 / 家族なしでは耐えられなかった / 僕にはもう一度プレーする義務がある。第5章 復活を信じてもがいた2年間再び虎風荘へ / 育成契約で背番号「124」に / ランチ特打で突然流れた『栄光の架橋』/ 矢野監督の言葉 / 阪大病院を訪問 / 目の状態だけが回復しなかった / 今年でやめます。第6章 奇跡のバックホーム異例の引退試合 / プロ6年間のベストプレー / 僕と母だけに聞こえた音楽 / 想定外が重なって生まれた奇跡 / 神様が背中を押してくれた / 24番のユニフォームに涙 / とっさに言葉がわいてきた最後のあいさつ / タイガースに入団してよかった / やっと人の力になれた / ファンが後押ししてくれたバックホーム/最後に伝えたいこと。終章 新たなプレイボール。1995年、東京都生まれ。3歳で鹿児島県に引っ越す。横⽥真之(元ロッテオリオンズ)を⽗に持ち、⿅児島実業高校では中⼼選⼿として活躍。2013年、ドラフト2位で阪神タイガースに⼊団。1、2年⽬はファームで経験を積み、3年⽬の2016年は開幕からスタメン出場。しかし定着とはならず、翌2017年はさらなる⾶躍を⽬指したが、原因不明の頭痛が続いたため2⽉に精密検査を受けたところ、脳腫瘍と診断される。2018年からは育成契約に移⾏し、復帰を⽬指したがかなわず、2019年9⽉に現役引退を発表。引退試合で見せた「奇跡のバックホーム」が話題となる。現在は鹿児島を拠点に、講演、病院訪問、YouTube配信など幅広く活動している。

ba<2024.12.6> 令和6年12月6日 秋田さきがけ紙13面「14歳の君へ」で近況紹介。<2020.9.30> 自らの職業を「バッタ退治」と称する昆虫学者の前野ウルド浩太郎さん(40)が9月29日、母校の秋田中央高校でオンライン講演をした。学者を志した経緯、サハラ砂漠での野宿生活、30歳過ぎてからの無収入時代……。「『好き』で飯食う、バッタの博士」をテーマにしたユニークな先輩の熱い語りに、全校生徒約620人が聴き入った。<2018.3.04>2018新書大賞 大賞受賞。昆虫学者を夢見て、単身アフリカ・モーリタニアに渡った著者だが、そこには想像を超える難題が・・・・。小学校高学年から楽しめる1冊。定価920円+税。バッタの群れは海岸沿いを飛翔し続けていた。夕方、日の光に赤みが増した頃、風向きが変わり、大群が進路を変え、低空飛行で真正面から我々に向かって飛んできた。大群の渦の中に車もろとも巻き込まれる。翅音は悲鳴のように重苦しく大気を振るわせ、耳元を不気味な轟音がかすめていく。このときを待っていた。群れの暴走を食い止めるため、今こそ秘密兵器を繰り出すときだ。さっそうと作業着を脱ぎ捨て、緑色の全身タイツに着替え、大群の前に躍り出る。昆虫学者(通称:バッタ博士)。1980年秋田県生まれ。国立研究開発法人国際農林水産業研究センター研究員。神戸大学大学院自然科学研究科博士課程修了。博士(農学)。京都大学白眉センター特定助教を経て、現職。アフリカで大発生し、農作物を食い荒らすサバクトビバッタの防除技術の開発に従事。モーリタニアでの研究活動が認められ、現地のミドルネーム 「ウルド(○○の子孫の意)」 を授かる。著書に、第4回いける本大賞を受賞した 『孤独なバッタが群れるとき--サバクトビバッタの相変異と大発生』 (東海大学出版部)。

hen週刊ベースボール |1949年11月19日、二日酔いで球がたくさん見えたから?東急・大下弘、7打数7安打、2つの驚きがある。1つは1試合7打席7安打という日本最多記録に対し、もう1つは11月19日まで試合があったことだ。1リーグ制最後の1949年、日本シリーズがないとはいえ、ペナントレース最終戦は11月29日だった。終戦後、“青バット” でのホームラン量産で人気者となっていた東急・大下弘が記録達成者である。この年は無冠ながら打率.305、38本塁打、102打点、27盗塁をマークしている。大記録の舞台は甲子園、相手は大陽ロビンスだった (「太陽」ではない)。快晴ながら強風の日だったという。試合は一方的な東急ペースとなり、21安打を放ち、22対2で大勝。結果的には、だからこそ打席が多く回り、歩かされることはなかったとも言える。三番に入った大下は、第1打席は一、二塁間を抜く単打、第2打席は右翼線二塁打、第3打席は一塁強襲安打、以後二塁打2本、内野安打1本で、まず6打席6安打とした。7打席目は9回に訪れる。このとき幸運もあった。3球目の一塁方向へのファウルフライを強風に流された一塁手が捕球できず、仕切り直し。フルカウントにしてから三遊間深くにゴロ。間一髪、一塁セーフで大記録が生まれた。内野安打3本と、大下の足の勝利でもあった。その後であるが、大下は遊郭からそのまま球場にやって来て、グテングテンの二日酔いであった。ボールがたくさんに見え 「どれかを打てばいい」 と打った大記録という話もあったが、それはすべて後付け。実際に遊び人で遊郭から球場に通ったことはあったようだが、さほど酒が飲めず、宴席でも飲まずに騒ぐタイプだったという。【2012.3.15】辺見じゅん著 「大下弘 虹の生涯」 (文芸春秋刊)。天性の柔軟な身体と華麗なフォーム。その打球が廃虚の空に描く、虹のような放物線。西鉄黄金時代を築いた天才打者の破天荒な人生。戦後の廃墟に彗星の如くデビューし、虹のようなホームランを放って、復活草々のプロ野球を隆盛にみちびく牽引車になった〝青バット〟の男。知将・三原脩監督のもとで、豊田・中西・稲尾ら若獅子たちを率いて西鉄ライオンズの黄金期を築いた男-大下弘。不世出の天才打者の破天荒な生涯をプロ野球復興史と重ねて描く、解説・阿久悠。

739f2ed1-s公益財団法人日本少年野球連盟(ボーイズリーグ)令和6年安中市長杯群馬県支部秋季大会、今年から安中市長杯となり、高崎高で1981年センバツに出場した岩井均市長(60)が始球式。<2023.1.30> キタトシオ氏、山際淳司の『スローカープを、もう一球』で、群馬県屈指の進学校である高崎高校の野球部が予想外の「怪進撃」を続けた結果、監督が校長に電話で「もう旅費がありません」と泣きつくシーンは面白かった。<2019.10.29> 1981年春の選抜高校野球大会に群馬県立高崎高の主戦投手として出場し、10月22日に56歳で亡くなった川端俊介さんの告別式が26日、同市内で営まれた。告別式では、当時バッテリーを組み、社会人になってからも球を受けてきた宮下洋之さんが弔辞。<2012.3.26> 32年前の秋季関東大会、「山なりの球」 で高崎旋風 (準優勝) を巻き起こし、山際淳司 「スローカーブをもう一球」 でも紹介された右腕川端俊介氏 (48) が高崎-近江戦を観戦 (試合はノーゲーム)。現役当時はマスコミの取材依頼が相次ぎ、センバツ大会では、星稜高校に被安打13、1-11で敗退した。川端俊介/宮下洋之/菅原慶成/植原均/佐藤誠司/原田禎忠/岩井均/境原尚樹/桜井英一/田丸幸一。<2011.11.26> 西本幸雄監督と江夏豊投手と言えばやはり山際淳司 「スローカーブをもう一球」 。1979年日本シリーズ近鉄-広島戦で西本幸雄監督と対戦し、第7戦で伝説の 「江夏の21球」 を演じた江夏豊氏 (63) は、西本氏の訃報に接し 「西本さんと言えばあの日本シリーズがすぐに頭に浮かぶ。寂しいよね」  としみじみ。【2011.4.05】 もう古典の範疇に入りましたか、山際淳司 「スローカーブをもう一球」。<紹介文より> 高校野球に題材を取った 「八月のカクテル光線」、プロ野球屈指の投手江夏豊の勝負を描いた 「江夏の21球」、自分一人でも出場の機会があると思った津田真男のボート (シングルスカル) での闘い 「たった一人のオリンピック」、ふとしたきっかけから高校野球からプロ野球に入った 「背番号94」、シティ・ボーイのボクサーの物語 「ザ・シティ・ボクサー」、バドミントンからスカッシュに鞍替えした 「ジムナジウムのスーパーマン」、弱小高校野球部の投手と監督を描いた 「スローカーブを、もう一球」(第8回日本ノンフィクション賞受賞)、そして棒高跳選手の 「ポール・ヴォルダー」 の8篇収録

004142kimutakimutaku<スポーツ紙> 37歳でこの世を去った元巨人のコーチの命日に、ファンらが花を捧げ在りし日を思い返した。2010年4月2日にくも膜下出血で倒れ、5日後に帰らぬ人となったのは木村拓也さん。当時、1軍内野守備走塁コーチを担当しており、マツダスタジアムでの広島戦を前に行われたシートノック中に倒れ込み、緊急搬送された。現役時代もユーティリティープレイヤーとして活躍し、ファンから愛された木村さん。2軍施設のジャイアンツ球場近くにある木村さんの手形プレートの前には花が供えられた。この様子を球団公式X(旧ツイッター)が公開。ファンからは「天国にてジャイアンツの事を見守っていてください」「心の中で生き続けています」「勝利の報告ができて本当に良かった」などの声が寄せられている。<2023.4.8> 球団公式ツイッター「ここ広島の地で、木村さんがかつて所属した読売ジャイアンツと広島東洋カープ両チームの健闘を祈ります」。<2020.4.8> スポーツ報知|現役最終年の09年に緊急捕手として10年ぶりにマスクをかぶったキムタクさんの自己犠牲、全力プレーの精神は着実にチームに受け継がれている。(略) 木村さんが広島の病院で亡くなった10年4月7日、阪神戦(甲子園)で中堅手でダイビングキャッチで勝利に貢献したのが現在の松本哲也2軍外野守備走塁コーチ。「タクさんのような全力プレーを」と継承し「木村コーチ」と同じ背番号「84」で若手に経験を伝えている。<2011.2.15> 巨人木村卓也コーチ(享年37)の記念レリーフ母校宮崎県立宮崎南高校に設置、2月15日除幕式。顕彰レリーフ序幕式には、清武巨人軍球団代表・内海、谷選手が出席。レリーフに刻まれている「 一生懸命 」の文字は巨人軍清武代表の揮毫。<2010.10.09> 日本テレビ系「ドキュメント’10 木村卓也が愛された理由」(30分枠)10月10日深夜放送。2010年4月にくも膜下出血で読売巨人軍の木村卓也コーチが亡くなってから約半年、悲しみを乗り越えて生きる家族の姿を描く。<2010.7.31>「一生懸命 木村拓也 決してあなたを忘れない」木村由美子著(中央公論新社)。急逝した夫・木村拓也との短かった結婚生活、誰からも愛された人柄の秘密、彼が遺したメッセージ・・・・・・。読んだ後、思わず家族を抱きしめたくなる一冊、続々重版。「究極のスーパーサブ」といわれた木村拓也選手との短かった生活、誰からも愛された人柄の秘密、彼が遺したメッセージ……彼を見守り、支え続けた妻が、夫・木村拓也の半生を語る、定価1,260円(税込) 。

092f3691-s<2023.1.15> 令和5年1月15日付秋田魁紙で詳細紹介。<2022.9.13> 昭和47年9月「古本・企画・出版」の看板を掲げて創業、令和4年創業50年。・んだんだ通信 http://www.mumyosha.co.jp/topics/10/au/tmp4A.htm <2013.11.04> 秋田市の無明舎が出版専業となった記念の1冊。秋田で一番の有名人は尺八上手で人気者の中島のてっちゃ(工藤鉄治さん)。「中島のてっちゃ」(あんばいこう著、無明舎出版局、1976年)。尺八上手の人気者で昭和40年代当時知らない人はいなかった。地元はもちろん道川の方まで遠征していたと聞く。平成4年3月6日 肺炎のため死去、享年75歳。「中島のてっちゃ」の著者で出版業安倍甲氏は 「秋田の人たちが彼の存在をあのような形で許し、認めたのは彼特有の節度があったからだ。社会の底辺をはい回りながらも人間としての品格があったと思う。秋田のエンターテイナーとして、みんなの郷愁の中に生き続けるだろう」 と地元紙に寄稿。この書籍の最大の難点は、糊付が甘かったのか数年経過したら装丁がバラバラになったこと。<帯より> 街々を徘徊・遊芸した男の過酷な人生模様。市長の名を知らずともてっちゃを知らぬは秋田市民にあらず、とまで云われた男のさまざまな偏見と誤解、更には、そしりに晒され続けた60余の人生の相貌がいま明らかに!尺八を背負い這いずるように昭和史を歩んだ男のたくまざる生き様にスポットをあてた一冊。

kano台南州立嘉義農林学校の実話基に描く感動作 KANO1931海の向こうの甲子園。2023年台湾野球殿堂に近藤兵太郎監督。<2019.11.23> 台湾・旧嘉義農林100周年式典に嶋崎久美金足農野球部元監督、中山英悦金足農野球部OB会会長、吉田裕幸仙北市国際交流協会会長、佐藤和志田沢湖・角館観光協会会長出席。【2018.10.03】佐々木律成氏、秋田さきがけ紙に 「KANOとKANANO 時空をまたぐ農業高校の大いなる実り」 寄稿。【2018.8.21】俳優の永瀬正敏さんは、第100回全国高校野球選手権大会で準優勝した秋田県立金足農業高校について、自身が出演した台湾映画「KANO 1931海の向こうの甲子園」の物語との「不思議な縁」を感じるとつづった。 同映画は日本統治時代の1931(昭和6)年、台湾代表として夏の甲子園に初出場し、準優勝を果たした 「嘉義農林学校」(嘉農、現・国立嘉義大学) 野球部の実話を基にした作品。永瀬さんは漢人や日本人、先住民からなる野球部メンバーを指導する日本人監督、近藤兵太郎役を演じた。 金足農の決勝進出が農業系高校としては嘉農以来83大会ぶり▽決勝戦の日付が同じ8月21日▽嘉農と決勝を戦った中京商業学校のエースと金農のエースの苗字が同じ「吉田」――であることを紹介した。 【2015.2.01】http://kano1931.com/ 日本統治下の1931年に台湾代表として見事甲子園出場を果たし、決勝まで進出した台南州立嘉義農林学校の実話を基に描く感動作。『セデック・バレ』 2部作などを手掛けたヒットメーカーのウェイ・ダーションが製作総指揮を務め、野球を通して友情と強い絆を育む監督と部員たちの熱いドラマを活写する。永瀬正敏が鬼監督を熱演し、彼の妻を坂井真紀が好演。民族の壁を越え、一丸となって戦う球児たちのひたむきさと純真さに心打たれる。第51回金馬奨、<最優秀作品賞><主演男優賞(永瀬正敏)><新人賞(ツァオ・ヨウニン)><新人監督賞(マー・ジーシアン)><衣裳デザイン賞><オリジナル楽曲賞>ノミネート。<観客賞>と<国際映画批評家連盟賞>受賞。

8371cb1e-slions西鉄ライオンズの黄金期を支え、今年5月11日に死去した中西太氏(享年90歳)のお別れの会が11月3日、出身地である香川・高松市内のホテルで開催された。270人が集まった。お別れの言葉を送った侍ジャパン前監督の栗山英樹氏(62)は怪童と称された中西氏の遺影に「おやっさん」と語り掛けながら、義父・三原脩氏が残した「三原ノート」を参考に戦ったことを披露。<2023.5.12> 西鉄ライオンズの黄金期を支えた中西太氏が、5月11日午前3時38分、東京都内の自宅で心不全のため死去していたことが18日、分かった。90歳。現役時代は “怪童” と称されたスラッガーで、本塁打王5回、首位打者2回、打点王3回のタイトルを獲得。西鉄、日本ハム、阪神で監督を務めるなど、計8球団を渡り歩き、指導者として若松勉、イチローら名選手を育てた名伯楽だった。<2018.2.12> プロ野球・西鉄ライオンズの黄金期に1番打者として活躍した高倉照幸さんが2月12日、福岡市内の病院で死去、83歳だった。<2015.9.01> プロ野球西鉄ライオンズの後を受け、1973年から78年まで福岡を本拠地にした太平洋クラブ、クラウンライターライオンズにスポットが当たっている。6年間の軌跡を追った本がこの夏、相次いで出版。<2011.1.16> 西鉄ライオンズが売却されて40年弱、ファンの有志が選手の遺品や写真を収集し 「野武士軍団」 を語り継いでいくため近々NPO法人西鉄ライオンズ研究会を立ち上げるとのこと。<2010.10.25> プロ野球史上最強和製打線と言えば、、、ある人によれば、西鉄 監督/三原脩。 1中堅/高倉照幸、2遊撃/豊田泰光、3三塁/中西太、4右翼/大下弘、5左翼/関口清治、6一塁/河野昭修、7二塁/仰木彬、8捕手/和田博実、9投手/稲尾和久。(名づけて流線形打線)。極貧球団波瀾の福岡ライオンズ(長谷川晶一、日刊スポーツ出版社、1600円)

72409beb-s3129867d-s583adb39-s令和4年末で吉田時計店閉店。吉田一雄さん収集の野球関連資料が タクミアリーナ( 大館市上代野字八幡岱29番4号、大館地域スポーツ公園施設内 )で展示。<2016.10.17> 秋田さきがけ紙  「シリーズ 時代を語る 吉田一雄」 連載開始。<2012.1.25> 地元紙のみならず秋田さきがけ紙でも幾度となく紹介。昭和50年代後半に氏経営大館市内の時計店を訪問、著書 「 巨人キラー・石戸四六の全記録集-白球の軌跡 」 (昭和56年10月刊) 頂戴、続著 「 ノンフィクション今川敬三の球歴-北國の球魂歌 」 (平成15年10月刊)。ポスターは秋田県大館市ゼロダテ事前周知用 <吉田時計店バージョン>。この街に生まれ、この店を構えてから、もうずいぶん時がたった。街は少しずつ変わってゆき、いいときもあればわるいときもあった。店から見る風景はそんなに変わらない。だけど、私にとっては特別な風景だ。何十年も、ここから見つめてきたからこそ、見える風景がある。それが私にとっての、もうひとつの大館。そろそろ暑い夏がやってくる、今年もゼロダテが始まる。吉田時計店/吉田一雄。

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