★ 備忘録 「熱球通信」 ・ 特定非営利活動法人秋田県野球フォーラム ★

「熱球通信」は特定非営利活動法人秋田県野球フォーラム会員有志による備忘録を兼ねた「秋田県野球」にこだわった私的ブログです。掲載している記録等については公式なものではありませんのでご注意願います。リンク等についてはオールフリーですので事前のメール等一切不要です。更新頻度は原則毎日の更新です。秋田県出身で県外に在住の方も念頭に更新していきますが、内容等一部については地元情報と時差が生じる場合があります。練習・親善試合の結果情報は原則掲載しません。また、コメント送信欄と掲示板については諸般の事情により対応していません。積極的な中学硬式野球・女子野球の紹介に努めています。

本雑誌DVD

「戦後野球マンガ史 手塚治虫のいない風景」(米沢嘉博、平凡社新書、平成14年)

410A4YCEV9L._SX286_BO1,204,203,200_漫画家の水島新司さんが1月10日、肺炎のため東京都内の病院で死去した。82歳だった。「ドカベン」「あぶさん」などで野球人気向上に貢献し、19年と20年は野球殿堂の特別表彰候補に挙がっていた。しかし、20年12月1日に漫画家引退を発表した際、21年以降の候補者入りの辞退も明かした。同博物館によると同氏から「心境の変化があった」と理由を説明されたという。<2012.3.19>今注目の野球漫画は、2011(平成23年)初めから講談社「モーニング」に掲載中の〝グラゼニ〟(原作:森高夕次、漫画:アダチケイジ)、主人公の凡田夏之介投手は高卒8年目の中継ぎ左腕投手で、変則のサイドスローが持ち味だが、実力的には1、2軍の当落線上。グラゼニは「グランドには銭が埋まっている」の略で凡田の座右の銘。全球団の1軍の選手の年俸を暗記している位に金のことが頭から離れない性格。http://morningmanga.com/lineup/142【2011.5.10】<内容紹介文より>戦後すぐから現在まで、少年たちを魅了し続けてきた野球マンガ。井上一雄の「バット君」を出発点として、「背番号0(ゼロ)」「スポーツマン金太郎」「ちかいの魔球」等。そして梶原・川崎コンビの「巨人の星」は日本中を熱狂させた。さらに「アストロ球団」、水島新司の作品群、「キャプテン」「タッチ」と多くの傑作を生み、今も読み継がれている。手塚治虫が手掛けなかった世界を、少女誌、青年誌まで目配りして書き上げた、日本初の野球マンガ史、野球マンガ略年譜を付す。・ 戦後と野球と民主主義、・ 野球マンガの本格的スタート、・ 少年野球狂時代、・ 梶原一騎のスポ根ブーム、・ 70年代の名作群、・ ギャグとアンチヒーローへの転換、・ 「タッチ」とスポーツマンガの多様化、・ 野球マンガは永遠に不滅です!。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E6%BE%A4%E5%98%89%E5%8D%9A

観察と分析で日本と世界を制した伝説のスコアラー 三井康浩著「ザ・スコアラー」

三井康浩「ザ・スコアラー」(角川新書) 韓国のエースを攻略した伝説のスコアラー
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韓国ドラマ / 野球経験ゼロのGMが最下位落ちこぼれ球団ドリームズをたてなおす

韓国で社会現象となったナムグン・ミン主演の話題作「ストーブリーグ」
ドラマ公式サイト
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2021 令和3年 第103回全国高校野球選手権大会公式記録集(朝日新聞出版)

関係者限定配布だった公式データを初めて一般販売

秋田県野球人名録 / プロ野球完全試合達成 佐々木吉郎 投手(日本石油-秋田商)

完全試合―15人の試合と人生 北原遼三郎 東京書籍
hidari

平成24年野球殿堂入り(競技者表彰)炎のストッパー 広島東洋 故津田恒美投手

7c884d001993年7月20日、広島で投手として活躍した津田恒実さん(旧名・恒美)が、脳腫瘍のために死去、享年32歳。【2017.6.19】1993年に脳腫瘍のため32歳の若さで亡くなった元広島の津田恒美投手の記念館が広島市内に作られることが6月18日、明らかになった。昨年から津田氏の長男大毅さん(28)が設立に向け奔走していた。当初は津田氏の故郷である山口県内に設立予定だったが、関係者らと話を進める中で 「ファンのみなさんが触れる機会が少ない」(大毅さん) と、マツダスタジアム近くに候補地を絞った。19日からFAAVOのクラウドファンディングで賛同者を募り、返礼品として金額に応じて津田氏の現役時代のレプリカユニホームや現在のレプリカユニホーム、そして漫画家による津田氏のイラストを送る。現在も賛同してくれる漫画家を受け付けているという。野球殿堂入りも果たした偉大な投手の記念館は 「来年の命日くらいには」 と18年7月20日を目標にオープンする。【2012.12.15】山口県周南市営野球場の愛称が2012 平成24年 12月14日、「 津田恒実メモリアルスタジアム (略称・津田スタ)」に。同市の県立南陽工高出身で今年1月に野球殿堂入りしたプロ野球広島の津田恒実投手 (故人) の功績をたたえての愛称公募により決定。【2012.01.12】炎のストッパー広島カープ 故津田恒美投手 平成24年野球殿堂入り。【2010.10.18】炎のストッパー広島カープ故津田恒美投手長男津田大毅投手 (東京国際大) がリーグ戦初登板。東京国際大古場竹識監督を慕って九州国際大から転入、故障が続きこの日の最終戦が初マウンド。卒業後は一般企業へ就職 (内定)。【2010.05.05】炎のストッパー広島カープ津田恒美投手。NHKライブラリーNO.46 「もう一度、投げたかった-炎のストッパー津田恒美・最後の闘い-」 (山根義明 、大古滋久 著、1996年11月1日発売)。どんな打者にも快速球で勝負を挑んだ広島カープの津田。その絶頂期に悪性の脳腫瘍に冒されてしまう。不治の病と闘う彼と、それを支える妻の闘病を彼の野球人生と共に綴ったヒューマン・ドキュメント。

松井優史「真実の一球」(竹書房)/ 詩人 サトウ八チロー「雨に散った江川投手」

57cd9f70<2016.11.20> 作新学院元監督で昭和37年に史上初の甲子園春夏連覇に導き、江川卓氏らを育てた山本理氏が11月19日午前2時頃、栃木県内の自宅で死去、83歳。<2015.2.10> 高校2年夏、栃木県予選2回戦でノーヒットノーラン達成、さらに3回戦の石橋戦では完全試合、準々決勝でもノーヒットノーランと、27回を投げて失点0、奪三振47記録。準決勝の小山戦も10回までノーヒットノーランだったが、11回にサヨナラスクイズを決められ、甲子園出場はならなかった<2011.1.10> 松井優史著 「真実の一球-怪物・江川はなぜ史上最高と呼ばれるのか-」(竹書房)、作新学院時代の江川は間違いなく160キロを投げていた!!作新学院江川卓、『怪物伝説』 の軌跡と真相!高校1年生秋、江川卓が最も速い球を投げた、10連続三振の前橋工業戦での新事実とは?江川に投げ勝った男、江川の影で耐えた男たちのエピソードを交え、作新学院・江川卓 「怪物伝説」 の軌跡と真相に迫るノンフィクション。<2009.10.10> サトウ八チロー 「雨に散った江川投手」雨のために江川投手は 敗戦投手となった 彼のことだから雨をうらんだりはしない 敗けましたと大きくうなづき深いためいきをもらした 晴天つづきだった今度の大会に 雨が落ちた それもものすごいどしゃぶりだった 普通なら中止だっただが延長戦になっていたのでつづけた 天を仰いで応援団は 嘆きと悲しみの底に沈み ナインの胸にはこの雨が 生涯忘れることの出来ないものとなったこんな雨は 又とない雨だ 甲子園の雨は ものすごい音がする わたしはそれをよく知っている すぎし日に わたしはそれを唄った 雨に散った江川投手の心に この日の雨はしみこんだにちがいない 心の底までぬらしたにちがいないわたしはその姿を目に浮かべまつ毛をびしょびしょにぬらしていた わたしは雨を愛した詩人だ だがわたしは江川投手を愛する故に この日から雨がきらいになった わたしは雨をたたえる詩に別れて雨の詩はもう作らないとこころにきめた。

2010 / 岩崎亨著 / 元国連職員が蒔いた一粒の種「ミャンマー裸足の球児たち」

185米国務省は10月31日の声明で、ミャンマーの治安部隊が各地で軍事作戦を強化していることに深い懸念を示し、治安部隊による重大な人権侵害を非難。<2019.4.15、ganas> 競技人口およそ100人。野球後進国のミャンマーで、野球の普及活動が活発になってきた。一役買うのは、ミャンマー在住の日本人で構成する野球チーム「ヤンゴン・サムライズ野球団」に所属する元高校球児らだ。サムライズが野球を教えるのは、ミャンマーの最大都市ヤンゴンにある養育施設「ドリームトレイン」の子どもたち。サムライズで監督を務める会社経営者の芳賀啓介さん(40)は「私はこれまで野球にお世話になってきた。目の前の子どもたちに野球を教えることで、野球に恩返しをしたい」と語る。■日本人相手に勝利!ドリームトレインの野球チームのメンバーは11~16歳の男女約20人。初陣は3月16日。相手はヤンゴンの日本人少年野球チームだ。試合はいきなり、ドリームトレインの先頭バッターがホームランを打って先制。攻撃陣の頑張りからそのままリードを保ち、8対3で勝利した。投手陣も踏ん張り、3人の少年の投手リレーが決まった。三振も奪った。選手のひとりは「試合は緊張したけど楽しかった。日本人の友だちとも会えて嬉しかった。またやりたい」と笑顔で話す。試合中は敵味方に関係なく、ファインプレーをした選手には大きな歓声と拍手が送られた。この試合でドリームトレイン の監督を務めたサムライズの中島洸潤さん(29)は「ドリームトレインにとっては初の対外試合。私自身も、試合前は楽しみと不安が入り混じって、不思議な緊張感があった。ところが見事に勝利。本当に嬉しかった。子どもたちの度胸とポテンシャルの高さに深く感心した」と振り返る。プレーボールの前には、両チームの選手がグラウンドのごみを拾った。芳賀さんは「グラウンドの神様に感謝。自分たちがきれいにしたって思うと、子どもたちも大切に使うでしょ」と日本の野球精神も教える。■ボールを打ったら一塁へ。ドリームトレインは、東南アジアを中心に医療活動を展開する認定NPO法人ジャパンハート(本部:東京・台東)が設立した養育施設だ。ドリームトレインに野球が持ち込まれたのは2016年。施設を支援する戸沢暢美財団から、グラブやバットなど、およそ30人分の野球用品が寄贈されたのだ。この年の12月、ドリームトレインのプロジェクトディレクターである那須田玲菜さん(32) の依頼を受け、ドリームトレインの子どもたちにサムライズが野球教室を開いた。子どもたちは当時、野球の存在すら知らなかった。野球を身近に感じてもらおうと、キャッチボールやバッティングをまずは一緒に楽しんだ。ドリームトレインは2018年12月、対戦相手を探していたヤンゴンの少年野球チームから試合を申し込まれた。だが実戦経験ゼロ。ルールもよくわからない。そこでサムライズがドリームトレインの指導を引き受けた。「ボールを打ったら一塁に走る」ということからストライクゾーンやファウルボールに至るまで、試合に必要なルールを一から子どもたちに教えた。練習は週に3回。火曜日と金曜日は施設の運動場を使って、1~2時間ほどバッティングや紅白戦をした。運動場が小さいため、打ったボールがフェンスを越えて、施設内にある建物の屋根まで飛ぶこともしばしば。土曜日はヤンゴンのチャイカサン球場で、サムライズと一緒に練習した。練習中は、サムライズのメンバーが積極的に声を出す。その姿を見た子どもたちも、チームメイトに「ドンマイ」「すごいね~」と声をかけるようになった。試合が近づくにつれ、子どもたちは自発的に毎日練習し始めた。練習ぶりを見てきたドリームトレインのボランティアスタッフ、山縣佳織さん(32)は「熱心に指導してくれるサムライズの思いに応えようという気持ちのあらわれだ」と話す。■ミャンマーで野球に恩返し。野球の指導は仕事ではない。だがなぜ、元高校球児たちはミャンマーの子どもに野球を教えるのか。芳賀さんは「サムライズのメンバーは野球というスポーツに育ててもらい、野球を通して、チーム一丸となって勝利を目指す素晴らしさなどを学んだ。だから今自分がいる土地(ミャンマー)で野球に恩返しをしたい」と話す。芳賀さんはまた、世界的に競技人口が少ないために、オリンピックの種目からたびたび外されてきた野球の現状にも危機感を募らせる。「野球人口を増やしたい。そのためにも野球を教えることに使命感がある。私たちがやらないとねって感じ」サッカーが大人気のミャンマーで、野球を広めることは、子どもの人生に選択肢を増やすことにつながる。「サッカーは得意でなくても、野球の才能をもつ子もいるはず。野球でミャンマー代表に選ばれたり、日本でプレーできたりすることも。私たちの取り組みは、ミャンマーの子どもの将来につながる小さな一歩」と中島さんは語る。野球の裾野を広げるには、点ではなく、線のような継続的な活動が大切だ。「今はまだ、ミャンマーで野球に触れる機会がある子どもはごく少数だ。今後はフェイスブックなどで多方面に呼びかけ、誰でも参加できる野球関連イベントを開催したい」(芳賀さん)。※ ganasは、途上国や国際協力・開発をテーマとする硬派のNPOメディア<2012.11> 2012(平成24年)11月9日(金)、テレビ東京 「世界ナゼそこに?日本人~知られざる波瀾万丈伝~」 アジア最後の秘境とも言われるミャンマー、サッカーが国民的人気の国に、日本の野球を伝えた日本人に密着。<2010.11.22> 本書「まえがき」より。[第1章]野球がやって来た!裸足で参上/知られざるスポーツ/初のベースボールゲーム/高野連からの贈り物/野球場が欲しい![第2章]野球人たちの心意気助っ人モモタロウ参上/5連勝達成/カントクの情熱と勘違い/ミャンマー野球連盟誕生/ウー君の存在/ミャンマー初の審判員。[第3章]夢を追い続けろ。白球と軍艦マーチ/単なる内輪もめ/オバさんのド迫力/コーマウンの決意/コートゥンの夢と現実/ナイトクラブ通い。[第4章]精霊宿るチャイカサン球場。不思議な出来事/遠い日の思い出/おばあちゃんのボランティア/手作りの球場建設/タマイン少年少女野球団。[第5章]悩めるキャラクター軍団。僕らのヒーロー/新入り/真面目とお調子もん/野球奨励金の支給/俺の金がね~んだよ。[第6章]夢の国際舞台へ。武者修行/茨城ゴールデンゴールズとの激闘/井の中の蛙/雨と土浦二高戦/シーゲーム・イン・マニラ/チーム宮崎誕生。[終章]終わりなき挑戦夢に向かって[付表]ミャンマー野球の歩み。http://www.atworx.co.jp/works/pub/66.html

中村計 / 甲子園が割れた日 松井秀喜5連続敬遠の真実(集英社、2021年9月)

333その敬遠は “是” か “非 ”か。「甲子園なんか来るんじゃなかった」という明徳選手のコメント。「力を思い切りぶつけ合うのが高校野球」と発表した高野連。「本当は勝負したかった」と言うように投手を誘導するメディア。世論を巻き起こした伝説の試合の真相を抉る傑作ノンフィクション。“ もうひとつの5敬遠 ”を追加した完全版。1992年、夏の甲子園2回戦で事件は起きた-。明徳義塾の投手・河野和洋が星稜の四番打者・松井秀喜を5打席連続で敬遠。結果、2対3で明徳義塾が勝利した。どよめく応援席、飛び交う野次、投げ込まれるメガフォン。そのとき渦中の選手と監督は何を考えどう思ったか。高校野球の意義とスポーツマンシップを巡り大きな議論を巻き起こした試合の真実とは。第18回ミズノスポーツライター賞受賞作。<2010.7.28>1992年夏の甲子園、星陵(石川県代表)VS 明徳義塾(高知県代表)。「怪物」松井秀喜との勝負を避け、敬遠を続け勝利した明徳義塾に、全国から非難の声があがった。「高校生らしくない」「卑怯もの」―。「あの試合」から始まったそれぞれの葛藤。その後、両チームの球児たちはどのような思いを胸に、どう人生を歩んでいったのか。大リーガーとなる松井を始め、彼らのその後の軌跡を丹念に追う。甲子園が割れた日―松井秀喜5連続敬遠の真実(新潮文庫)

単行本 / 雑草軍団の軌跡 「金足農業、燃ゆ 」中村計 著 文芸春秋 1,800円+税 。

羽城中時代から注目 淡路巽選手の動静を確認できたのが収穫
https://books.bunshun.jp/ud/book/num/9784163910581

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2019.7.9「Standard」/ 大館シニア 松田健大・柴田昌吾・阿部琥珀

東北高校 阿部琥珀内野手(2、#13、大館東)秋季県大会1回戦で代打特大2ラン
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左 / 阿部琥珀(3、大館東) 中 / 柴田昌吾(3、森吉) 右 / 松田健大(3、田代)

AAB秋田朝日放送 夢球場2021の軌跡第103回全国高校野球選手権秋田大会

第102回全国高校野球選手権秋田大会中止
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20172018
主催 / 朝日新聞社 ・ 秋田県高等学校野球連盟、監修 / 秋田県高等学校野球連盟
制作著作 / AAB秋田朝日放送
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都市対抗初優勝「負け組の奇跡」TDK 野球部 栄冠への321日(著/二宮清純)

51HrQFZp1AL__SX342_BO1,204,203,200_秋田県にかほ市という片田舎に本拠地を置くTDK硬式野球部。およそ半世紀の伝統を誇るチームだが、社会人野球の檜舞台である都市対抗野球大会に過去8回出場するも、初戦さえ突破したことがない弱小チームであった。2006年まで2年連続して本大会出場を逃し、その前年には長野県にある弟分の 「TDK千曲川」 が本大会へ出場。仕事優先で早番、遅番、夜勤の三交替制である千曲川に対し、仕事は午前中だけ、午後からは練習という恵まれた環境にもかかわらず、結果を残せない 「にかほ」 は、とうとう社内で 「負け組」 の烙印を押され、シーズンオフには廃部の危機に立たされてしまった。この背水の陣の状況で、監督を交代。法政大学時代、元読売巨人軍の江川卓投手とともに黄金期を支えた名投手・船木千代美を新監督に据えた。負け癖を克服させようと、親と子ほど年の差のある若い選手たちに「闘争心」「執念」「気迫」を植えつけ、毎晩夜中まで、それまでの倍の練習量を課し続けた。そして翌年、TDKは敗者復活ながら本大会出場の切符を獲得。悲願の一勝のみならず、誰も予想さえしなかった奇跡の全国制覇を成し遂げてしまった。この奇跡的な戦績と、その背景にあるヒューマニズムを、スポーツジャーナリストの二宮清純氏が綿密な現地取材に基づき描いた感動のノンフィクション。負け犬集団が全国一になるまでの軌跡を追った321日の全記録。・負け組の奇跡 / TDK野球部栄冠への321日(二宮清純著、ソフトバンククリエイティブ)。<内容紹介> 2006 (平成18年) 9月、都市対抗野球大会で過去1度も白星をあげられなかったTDK (秋田県にかほ市) が強豪を次々と撃破、強豪日産自動車に4-3で勝利し東北勢として初優勝。一時は廃部さえも噂された 「負け組」 チームは、どのように 「戦う集団」 へと変貌したのか。この奇跡の物語には敗者を勝者に変えるヒントが詰まっている。長い間 「負け組」 だった野球部を、一人の監督が改革し廃部の危機から救った奇跡の物語である。船木千代美監督の就任から奇跡の都市対抗優勝までの321日を綴った完全ノンフィクション、平成19年8月刊。(序章)廃部の危機、(第1章)戦う集団、(第2章)執念のサヨナラヒット、(第3章)新人の成長、(第4章)劇的な幕切れ、(第5章)補強選手たちとの結束、(第6章)一気に頂点へ、(終章)故郷の喝采。

第100回~ 週刊朝日 全国高等学校野球選手権甲子園大会臨時増刊号(朝日新聞)

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秋田野球人名録 / 今ではありえない伝説の酒豪 石戸四六(度胸 NO.1酒仙投手)

IMAGE0005imakawa 1デイリー新潮取材班編集、抜粋> 酒仙投手の呼称は、職業野球時代の大阪タイガースのエース・西村幸生が元祖だが、1960年代にこの名をほしいままにしたのが、石戸四六である。1961年9月、ヤクルトの前身・国鉄と契約した直後、「契約金がドカンと入ったので」と、なんと、有楽町の球団事務所から郷里の秋田県大館市までタクシーで帰った。タクシー代3万円に加え、温泉宿の宿泊代、飲食代なども合わせて、合計5万円以上。大卒初任給が1万5000円に届くかどうかという時代に、なんとも豪快な話だ。石戸は試合が終わると、ステテコ姿で日本酒を湯のみ茶碗で飲むのを常とした無類の酒好きで、「一升や二升はいけた」という。ロードで先発させようと先乗りさせると、これ幸いと飲み屋に直行してしまうため、石戸に限り先乗りはNGになった。しかし、ひとたびマウンドに上がると、横手からの重いシュートと度胸の良さを武器に、68年に金田正一以来球団史上2人目の20勝を記録するなど、9年間で70勝を挙げた。サンケイ時代の65年8月7日の大洋戦では、被安打1安打の無四球、打者27人の準完全試合。翌66年8月28日の巨人戦では、王貞治に3安打を許しただけの3安打完封で、“ 王以外ノーヒットノーラン ”の珍記録もつくっている。だが、過度の飲酒から肝機能障害と慢性胃炎を併発し、29歳の若さで引退となった。78年、ヤクルトが球団創設以来初の日本一を達成すると、石戸も祝賀会に招かれた。その日のうちに秋田に帰る予定だったのに、「列車が満席で取れない」とボヤくと、周囲から「タクシーで帰ればいいじゃないか」の声が上がった。すると、石戸は「いや、もうあんなバカな真似はできませんよ。もう無駄なお金は使う気になりませんよ」と照れながら答えたという。・巨人キラー石戸四六の全記録「白球の軌跡」(吉田一雄著、昭和56年発行)、猛牛千葉茂氏曰く 「度胸NO.1の酒仙投手」。酒仙投手と称された石戸四六投手の生涯と記録の集大成。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E6%88%B8%E5%9B%9B%E5%85%AD 吉田一雄氏は平成15年に「ノンフィクション 今川敬三の球歴 北国の球魂歌」出版。

2021 令和3年6月 / ボールパーク秋田 会報誌別冊 「A-Bonds」頒布中

手形山中町 クドウスポーツ 土崎港北1丁目 工藤スポーツにても頒布中
頒布価 1,000円(税込)詳細は <
BALL PARK KITA> にて

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奇跡のバックホーム(幻冬舎)/ 絶望に立ち向かう姿に誰もが涙した感動の実話

yokt22歳、プロ4年目で脳腫瘍の宣告。18時間に及ぶ大手術、2年間の闘病とリハビリ、回復しない視力、24歳での引退試合―絶望に立ち向かう姿に誰もが涙した、感動の実話。日々の積み重ねの姿勢とまっすぐな気持ちがみんなを動かした。阪神にとってかけがえのない選手。―矢野燿大(阪神タイガース監督)。横田、野球の神様って、本当にいるんだな。―鳥谷敬(千葉ロッテマリーンズ)。2019年に引退した元阪神タイガース・横田慎太郎が自身の半生を綴ったエッセイ。ドラフト2位で阪神に入団し、抜群の身体能力で将来を嘱望された横田は、22歳で脳腫瘍の診断を受ける。18時間の手術、2年におよぶ闘病とリハビリの末復帰するも、視力は回復しなかった。24歳、二軍での引退試合。プロ野球人生最後のプレーで見せた、ボールがほとんど見えないなかでの捕殺は「奇跡のバックホーム」とよばれ話題となり、多くの人に感動を与えた。引退試合のエピソードを軸に、脳腫瘍の手術と闘病、家族・球団への感謝、これからの人生、病気と闘う子どもたちへのエールなどを綴る。絶望と苦しみの日々の先に見えたものとは――。すべての人を勇気づける一冊。【本文より】「横田くん、言いにくいんだけど、大きな病気です」「野球のことは、いったん忘れてください」僕にとってそれは、死刑を宣告されたのに等しいといってもよかった。暗い気持ちになると同時に、腹が立ってきました。「なんでおれが……。どうしておれが野球を取り上げられなきゃならないんだ? 」野球ができなくなったら、これから何をすればいいんだろう―そんなことまで考えながら、ほとんど眠らずに朝を迎えました。打球は見えていませんでした。ボールが二重に見えるうえ、距離感がつかめない。「これが最後のプレーかよ……」それでも、気がつくと前に出ていた僕は、ボールをキャッチすると大きく右足を踏み出し、ダイレクトでキャッチャーに送球しました。【もくじ】序章 神様の演出第1章 野球のことは忘れてください。発端は原因不明の頭痛 / どうしておれが病気に…… / 神経には傷一本つけないでください / 手術は成功したものの…… / 18時間の大手術/何も見えない。第2章 遠かった甲子園野球人生の始まり / ソフトボール漬けの小学生時代 / 中学で全国大会に/小さな目標をひとつずつ/すべては野球のために「勉強しなさい」と言わなかった両親 /  憧れの鹿児島実業に入学 / はじめての寮生活 / ホームシックになる暇がないほどの練習 / 1年生で4番に抜擢 / 一度もやめたいとは思わなかった / 努力することが好きだった / 最後の夏、県大会決勝、9回裏 / すべてはプロに行くために / 指名してくれればどこでもよかった / まさかの阪神2位指名。第3章 一軍を目指して背番号は桧山さんの「24」/ 打球が前に飛ばない / 6本塁打でも実力不足を痛感 / 予想以上に長くハードな1年目 / 天然でいじられキャラ / 掛布さんのマンツーマン指導 / 雑になったこと。それが二軍落ちの原因 / 初の一軍キャンプ参加 / 開幕スタメン / 一軍失格。第4章 闘病病室で寝泊まりしながら看病してくれた母 / もう一度野球ができるかもしれない / ファンからの手紙 / リハビリは「幼稚園児」の身体から / 想像を絶する苦しさだった抗がん剤と放射線の治療 / 父の「意外な行動」に号泣「24番をあけて待ってる」/金本監督からの差し入れ / 寛解 / 家族なしでは耐えられなかった / 僕にはもう一度プレーする義務がある。第5章 復活を信じてもがいた2年間再び虎風荘へ / 育成契約で背番号「124」に / ランチ特打で突然流れた『栄光の架橋』/ 矢野監督の言葉 / 阪大病院を訪問 / 目の状態だけが回復しなかった / 今年でやめます。第6章 奇跡のバックホーム異例の引退試合 / プロ6年間のベストプレー / 僕と母だけに聞こえた音楽 / 想定外が重なって生まれた奇跡 / 神様が背中を押してくれた / 24番のユニフォームに涙 / とっさに言葉がわいてきた最後のあいさつ / タイガースに入団してよかった / やっと人の力になれた / ファンが後押ししてくれたバックホーム/最後に伝えたいこと。終章 新たなプレイボール。1995年、東京都生まれ。3歳で鹿児島県に引っ越す。横⽥真之(元ロッテオリオンズ)を⽗に持ち、⿅児島実業高校では中⼼選⼿として活躍。2013年、ドラフト2位で阪神タイガースに⼊団。1、2年⽬はファームで経験を積み、3年⽬の2016年は開幕からスタメン出場。しかし定着とはならず、翌2017年はさらなる⾶躍を⽬指したが、原因不明の頭痛が続いたため2⽉に精密検査を受けたところ、脳腫瘍と診断される。2018年からは育成契約に移⾏し、復帰を⽬指したがかなわず、2019年9⽉に現役引退を発表。引退試合で見せた「奇跡のバックホーム」が話題となる。現在は鹿児島を拠点に、講演、病院訪問、YouTube配信など幅広く活動している。

2019 / 山形県内すべての野球人にスポットを ベースボールマガジン5月創刊

2019.5.12 創刊  VOL.5まで発刊
http://baseball-yamagata.com/
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平成26年 秋田さきがけ紙 / シリーズ・時代を語る 無明舎出版 あんばいこう氏

18196921んだんだ通信 http://www.mumyosha.co.jp/topics/10/au/tmp4A.htm【2013.11.04】秋田市の無明舎(今年創立40周年)が出版専業となった記念の1冊。秋田で一番の有名人は尺八上手で人気者の中島のてっちゃ(工藤鉄治さん)。「中島のてっちゃ」(あんばいこう著、無明舎出版局、1976年)。尺八上手の人気者で昭和40年代当時知らない人はいなかった。地元はもちろん道川の方まで遠征していたと聞く。平成4年3月6日 肺炎のため死去、享年75歳。「中島のてっちゃ」の著者で出版業安倍甲氏は 「秋田の人たちが彼の存在をあのような形で許し、認めたのは彼特有の節度があったからだ。社会の底辺をはい回りながらも人間としての品格があったと思う。秋田のエンターテイナーとして、みんなの郷愁の中に生き続けるだろう」 と地元紙に寄稿。この書籍の最大の難点は、糊付が甘かったのか数年経過したら装丁がバラバラになったこと。<帯より> 街々を徘徊・遊芸した男の過酷な人生模様。市長の名を知らずともてっちゃを知らぬは秋田市民にあらず、とまで云われた男のさまざまな偏見と誤解、更には、そしりに晒され続けた60余の人生の相貌がいま明らかに!尺八を背負い這いずるように昭和史を歩んだ男のたくまざる生き様にスポットをあてた一冊。

2004~2019 / 秋田県高等学校野球大会記録集(秋田県高等学校野球連盟)

故 蔦文也元池田高校野球部の妻キミ子さん 平成27年2月3日死去(享年91歳)

bbm105127【2015.2.04】徳島池田高校野球部元監督故蔦文也氏の妻、キミ子さんが2015(平成27年)2月3日、死去(徳島市出身、91歳)。【2013.10.27】2013(平成25年)高校野球秋季四国大会準決勝(10月26日、坊っちゃん)で徳島第3代表池田が徳島第1代表生光学園に9-3で勝利し、1992年夏以来22年ぶりの甲子園出場に大きく前進。岡田康志監督は池田が79年夏の甲子園で準優勝したときの主将。池田はかつて蔦監督のもと、74年に11人のメンバーでセンバツに出場、準優勝を果たし「さわやかイレブン」旋風、また、82年夏の甲子園では「やまびこ打線」と呼ばれた圧倒的な攻撃力で初優勝。翌年のセンバツも制し夏春連覇達成。【2013.7.23】「攻めダルマ」 の異名をとり、徳島県立池田高を春夏3度甲子園優勝に導いた故蔦文也監督の実像に迫るドキュメンタリー映画 「蔦監督」(仮称)の制作が大詰め。メガホンをとったのは蔦監督の孫で、映画監督の哲一朗さん(29)。哲一朗さんは三好市池田町出身、県立池田高から東京工芸大で映像を学び大学卒業後は映画制作を行う一般社団法人を設立、代表に就任。自然と人との共存を描いた映画 「祖谷物語~おくのひと」 でも注目を集める。「蔦監督」(仮称)は今夏に撮影を終え完成する予定。 【2011.12.19】蔦文也と池田高校教え子たちが綴る〝攻めだるま〟野球の真実(ベースボールマガジン社)。(紹介文より)畠山準・水野雄仁・江上光治著、定価税込945円。〝池高〟空中野球が日本中を熱狂させた。<蔦文也>1923年8月28日生まれ、徳島県出身。徳島商時代には投手、一塁手として甲子園の土を三度踏む。その後、同志社大、社会人では全徳島で都市対抗に3度出場。1950年に東急フライヤーズに入団するが、1年で退団し、翌年、池田高校の教員となる。1952年から野球部監督を務め、指導20年目の1971年夏に甲子園初出場を果たす。2度目の出場となった1974年春センバツはわずか11人で準優勝に輝き、“さわやかイレブン”として全国に旋風を巻き起こした。ハイライトは1982年夏、1983年春の連覇。筋力トレーニングで鍛えられた打線の爆発力は、高校球界に大きな衝撃を与えた。1991年に勇退するまで、計14回の出場で優勝3回、準優勝2回。2001年4月28日、肺ガンのため逝去、享年77。

能代工業バスケットボール部 元監督 加藤廣志さん 瑞宝小綬賞、能代市民栄誉賞

wa秋田県山本郡三種町川尻出身の歌手、友川カズキさん(70)=本名・及位典司=が主演を務めるドキュメンタリー映画「どこへ出しても恥かしい人」は、1月29日から2月7日まで大館市御成町の映画館・オナリ座で上映、秋田県内での上映は初めて。<2020.5.18> 瑞宝小綬賞、秋田県文化功労者、能代市民栄誉賞<2018.3.05>秋田県立能代工業高校バスケットボール部を率いて33度の全国制覇を成し遂げた元監督の加藤廣志氏が3月4日午後1時20分、肺腺がんのため能代市の病院で死去した。80歳。粕毛村 (現藤里町) 生まれ。日体大を卒業した1960年に母校の能代工高に赴任して以降、30年間にわたりバスケットボール部監督を務めた。選抜、インターハイ、国体を各11度制覇し、このうち同じ年に各大会を制する 「3冠」 を5度遂げたほか、インターハイ7連覇を達成。展開の速いプレーで相手の高さに対抗するプレースタイルを磨き、黄金時代を築いた。<2007.8.12> 無敵の集団として名を馳せる秋田県能代市の県立能代工業高等学校バスケットボール部。著者は監督在任時の30年間に、インターハイ、国体などで同校を33回の日本一に導いた。現在、米プロバスケットボール (NBA) で初の日本人プレーヤーとなるべく挑戦中の天才・田臥勇太選手もまた、同校で指導を仰いだ1人だ。優秀な素材を全国から呼び寄せるといっても、未成熟な高校生であり、しかもメンバーは毎年代わる。それを常勝軍団に仕立て上げるべく、徹底的に個々の選手と向き合い、選手の欠点さえも強みに変えていく指導論が披露される。枠にはまらない異色の人材が持つ潜在能力を引き出して組織が強くなった事例など、多くの指導者が見過ごしがちな心得を示す。

2016 / 小さなエースが明かした投球技術 「石川雅規のピッチングバイブル」

Cg_3jmtU4AA2Scw<週刊ベースボール ON LINE> まだまだ、歩みを止める気はない。今月22日に41歳とな石川雅規、プロ20年目のシーズンを迎えた。チーム最年長として臨む今季も、若手のように必死にポジションをつかみにいく。昨季は自身9度目の開幕投手を務めたが、7月中旬から約1カ月間上半身のコンディション不良で離脱。10試合目でようやく初勝利を手にするなど、15試合の登板で2勝8敗、防御率4.48と苦しんだ。ただ「まだまだコンディショニングさえ整えれば、勝負できると思っている」との言葉どおり、衰え知らずの肉体と高い技術を持ち、先発陣が手薄な中、今季も先発ローテーションの一角として期待される。<2016.6.06> 球が遅くても抑えられる!小さな大投手、石川雅規の投球術。身長167cmながらプロ通算100勝を達成、小さなエースが初めて明かした 「勝つ投球技術」。ピッチングの奥義、全公開。 1980年1月22日、秋田県生まれ。秋田商‐青山学院大を経て、2002年に自由獲得枠でヤクルトスワローズに入団。秋田商時代には3年の夏に甲子園出場。青山学院大進学後は、2年の春に6勝を挙げMVPを獲得。2000年のシドニーオリンピック日本代表。プロ入り1年目は29試合に登板。12勝9敗、防御率3.33で新人王を受賞。その後もチームのエースとして活躍を続け、2008年には最優秀防御率のタイトルを獲得。<目次> 第1章 バッターをどう抑えるか---僕の投球哲学、第2章 キャッチボール---すべての基本はここにあり、第3章 全8球種 僕の持ち球、全部見せます、第4章 試合への準備---用具・トレーニング・栄養、第5章 石川雅規の”作り方”---小学校からプロまで。

「最弱球団 高橋ユニオンズ青春記」長谷川晶一著、平成23年9月刊、白夜書房

feb684331950年代に3年間しか存在しなかったプロ野球チームのエースを追ったノンフィクション「無名の開幕投手~高橋ユニオンズエース・滝良彦の軌跡」(桜山社)が刊行された。著者は中京テレビアナウンサーの佐藤啓さん(58)。根っからの野球好きと愛校心が、隠れた名選手の半生を浮かび上がらせた。【毎日新聞、太田敦子】滝投手は名古屋市の南山大(当時は南山外国語専門学校)出身の唯一のプロ野球選手。52年に「毎日オリオンズ」に入団し、54年に新球団「高橋ユニオンズ」に移籍、開幕投手を務めた。しかし球団は3年で解散し、30歳で現役を引退した。佐藤さんは愛知県出身で南山大を卒業。90年に中京テレビにアナウンサーとして入社した。デビューは巨人・中日戦の「ドラゴンズ応援放送」の副音声実況だったという。雑誌でたまたま滝投手の存在を知った佐藤さんが本人と対面したのは2017年、87歳で亡くなる3年前だった。体調を崩し話すのがままならなくなるまで、約20回にわたり話を聞き取った。球界関係者や同窓生、かつての同僚など80人以上にも取材を重ねた。スポーツの実況中継を数多く経験してきた佐藤さんが、プロ歴8年の滝投手に魅せられた理由の一つは出身大学の先輩だったこと。「南山大はスポーツのイメージが薄いが、こんなにたくましい先輩がいたことに本当に驚いた」と明かす。つかれたように資料を集め、電話をかけ、足を運んで情報を集める様子は本に登場する。滝投手の人生を丹念に追う中で、派手ではないが真面目に練習に打ち込み、堅実なプレーで信頼を集める選手像、謙虚だが強い自負を持った人柄が浮かび上がってきた。本では野球を取り巻く歴史もひもといている。戦時中の高校では敵国発祥のスポーツに圧力がかかり、野球部が廃止されたこと。戦後、粗悪なバットやボールに悩まされながらもプレーできる喜びに浸ったこと。それぞれの時代に活躍した他の選手も、実況中継さながらに生き生きと描かれている。佐藤さんは「滝さんを通した出会いで、より野球が好きになった。大きなプレゼントでした」と話している<2015.9.01>1954年から3年間でプロ野球界から姿を消した 「高橋ユニオンズ」 のオーナー、故高橋龍太郎氏の孫にあたる秋山哲夫さん(73)が、計600ページに及ぶ 「球団の歩み」 を自費出版。<2014.11.20> 2014(平成26年)11月19日、1954(昭和29年)からわずか3年間パ・リーグに所属しただけで、プロ野球界から姿を消した 「高橋ユニオンズ」 OB会が都内で開催。<2012.1.03>「最弱球団高橋ユニオンズ青春記」(長谷川晶一、平成23年9月刊、定価税込1,890円、白夜書房)。高橋ユニオンズは、戦後たった3年間(1954年~56年)だけ存在した幻の球団で日本プロ野球史上唯一の高橋龍太郎氏個人所有による球団。雑誌「野球小僧」の連載に大幅に加筆修正して単行本化、高橋ユニオンズ全所属選手/高橋ユニオンズ全試合結果収録。

「一期一会一球 デイリースポーツ編」(尾藤公著、神戸新聞総合出版センター刊)

fbc09820-s野球殿堂博物館は12月1日、2021年の野球殿堂入りの候補者(プレーヤー表彰・特別表彰)を発表。特別表彰では、京都少年野球研究会のメンバーとして軟式球の開発に貢献した有田辰三氏、第6代プロ野球コミッショナーでドラフト制度導入に尽力した金子鋭氏、箕島高校監督として甲子園春夏連覇を果たした尾藤公氏の3人が新候補者に(昨年の候補者で漫画家の水島新司氏は辞退)。<2018.8.06> 第100回全国高校野球選手権記念大会 第2日(8月6日・甲子園)、星稜OBで、第1試合 (山梨学院-高知商) の球審を務めた堅田外司昭さん (56) が、箕島OBの石井毅さん (57、現姓名は木村竹志さん) との 「甲子園レジェンド始球式」 を振り返った。2人は1979年の第61回大会3回戦で、延長18回を投げ合った。堅田さんは 「39年ぶりに一緒の舞台に立てて良かった。『いいボールがいってくれたら』 と思ってプレーボールをかけました。本来は始球式を投げた人と、球審が握手するなんてないんだけど 『お疲れさん』 という思いで、自然と握手していた。スタンドから拍手をもらえてうれしかった」 と笑顔で振り返った。<2012.2.16> 3月4日の一周忌法要を控え、追悼文集 「ありがとう とんちゃん」(非売品)完成。<2011.5.21> 尾藤公 「一期一会一球」 神戸新聞総合出版センター刊 (デイリースポーツ編) 四六判、308P、定価1,575円。箕島監督として、4度の全国優勝を飾った名将尾藤公氏。「のびの野球」 で甲子園に旋風を起こした氏の人生と野球への熱き思いが詰まった1冊。延長18回の激闘、箕島-星稜戦。夏の甲子園大会に輝く伝説のゲームだ。その試合を指揮し、箕島高を春夏計4度の全国一に導いた尾藤公氏が死去前に顧みた野球人生。大学中退後、銀行員になって組合活動に熱中。監督で全国制覇した後、レジャービルの支配人もした。経験豊富な人生は人を見る目を奪い、部員との深い絆をつくる。星稜の12回裏二死からの同点本塁打。選手との直前のやりとりが小気味いい。「ホームランを打ってきていいでしょうか?」「よし、狙え!!」(紹介文より)。<2011.3.09> 戒名 [顕球院釈公道]。[追悼特別番組]3月11日18:30~ 「笑顔の名将 箕島元監督・尾藤公を偲んで」 (CS放送スカイA)。<2011.3.06> 尾藤公氏が3月6日午前3時37分、ぼうこう移行上皮がんのため和歌山市内の病院で死去、68歳。葬儀は3月9日正午から有田市箕島 「フューネラル有浄会館」 で、喪主:長男 強氏。昭和54年に石井毅-嶋田宗彦のバッテリーで春夏連覇を果たす等 「記録・記憶」 は数え切れず。<2010.9.21> 箕島高校と星稜高校OB、聖地 「甲子園」 で3度目の記念再試合、結果は17-13で星稜の勝利。1度目は1994年に和歌山市で、2度目は2004年に金沢市で、そして3度目は今年2010年聖地甲子園で。

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