★ 備忘録 「熱球通信」 ・ 特定非営利活動法人秋田県野球フォーラム ★

「熱球通信」は特定非営利活動法人秋田県野球フォーラム会員有志による備忘録を兼ねた「秋田県野球」にこだわった私的ブログです。掲載している記録等については公式なものではありませんのでご注意願います。リンク等についてはオールフリーですので事前のメール等一切不要です。更新頻度は原則毎日の更新です。秋田県出身で県外に在住の方も念頭に更新していきますが、内容等一部については地元情報と時差が生じる場合があります。練習・親善試合の結果情報は原則掲載しません。また、コメント送信欄と掲示板については諸般の事情により対応していません。積極的な中学硬式野球・女子野球の紹介に努めています。

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2010.4.7|巨人 木村拓也コーチ シートノック中にくも膜下出血で倒れ死去

004142kimutakimutaku<スポーツ紙> 37歳でこの世を去った元巨人のコーチの命日に、ファンらが花を捧げ在りし日を思い返した。2010年4月2日にくも膜下出血で倒れ、5日後に帰らぬ人となったのは木村拓也さん。当時、1軍内野守備走塁コーチを担当しており、マツダスタジアムでの広島戦を前に行われたシートノック中に倒れ込み、緊急搬送された。現役時代もユーティリティープレイヤーとして活躍し、ファンから愛された木村さん。2軍施設のジャイアンツ球場近くにある木村さんの手形プレートの前には花が供えられた。この様子を球団公式X(旧ツイッター)が公開。ファンからは「天国にてジャイアンツの事を見守っていてください」「心の中で生き続けています」「勝利の報告ができて本当に良かった」などの声が寄せられている。<2023.4.8> 球団公式ツイッター「ここ広島の地で、木村さんがかつて所属した読売ジャイアンツと広島東洋カープ両チームの健闘を祈ります」。<2020.4.8> スポーツ報知|現役最終年の09年に緊急捕手として10年ぶりにマスクをかぶったキムタクさんの自己犠牲、全力プレーの精神は着実にチームに受け継がれている。(略) 木村さんが広島の病院で亡くなった10年4月7日、阪神戦(甲子園)で中堅手でダイビングキャッチで勝利に貢献したのが現在の松本哲也2軍外野守備走塁コーチ。「タクさんのような全力プレーを」と継承し「木村コーチ」と同じ背番号「84」で若手に経験を伝えている。<2011.2.15> 巨人木村卓也コーチ(享年37)の記念レリーフ母校宮崎県立宮崎南高校に設置、2月15日除幕式。顕彰レリーフ序幕式には、清武巨人軍球団代表・内海、谷選手が出席。レリーフに刻まれている「 一生懸命 」の文字は巨人軍清武代表の揮毫。<2010.10.09> 日本テレビ系「ドキュメント’10 木村卓也が愛された理由」(30分枠)10月10日深夜放送。2010年4月にくも膜下出血で読売巨人軍の木村卓也コーチが亡くなってから約半年、悲しみを乗り越えて生きる家族の姿を描く。<2010.7.31>「一生懸命 木村拓也 決してあなたを忘れない」木村由美子著(中央公論新社)。急逝した夫・木村拓也との短かった結婚生活、誰からも愛された人柄の秘密、彼が遺したメッセージ・・・・・・。読んだ後、思わず家族を抱きしめたくなる一冊、続々重版。「究極のスーパーサブ」といわれた木村拓也選手との短かった生活、誰からも愛された人柄の秘密、彼が遺したメッセージ……彼を見守り、支え続けた妻が、夫・木村拓也の半生を語る、定価1,260円(税込) 。

無明舎出版「中島のてっちゃ」工藤鉄治さん 平成4年3月6日 肺炎のため死去

092f3691-s<2023.1.15> 令和5年1月15日付秋田魁紙で詳細紹介。<2022.9.13> 昭和47年9月「古本・企画・出版」の看板を掲げて創業、令和4年創業50年。・んだんだ通信 http://www.mumyosha.co.jp/topics/10/au/tmp4A.htm <2013.11.04> 秋田市の無明舎が出版専業となった記念の1冊。秋田で一番の有名人は尺八上手で人気者の中島のてっちゃ(工藤鉄治さん)。「中島のてっちゃ」(あんばいこう著、無明舎出版局、1976年)。尺八上手の人気者で昭和40年代当時知らない人はいなかった。地元はもちろん道川の方まで遠征していたと聞く。平成4年3月6日 肺炎のため死去、享年75歳。「中島のてっちゃ」の著者で出版業安倍甲氏は 「秋田の人たちが彼の存在をあのような形で許し、認めたのは彼特有の節度があったからだ。社会の底辺をはい回りながらも人間としての品格があったと思う。秋田のエンターテイナーとして、みんなの郷愁の中に生き続けるだろう」 と地元紙に寄稿。この書籍の最大の難点は、糊付が甘かったのか数年経過したら装丁がバラバラになったこと。<帯より> 街々を徘徊・遊芸した男の過酷な人生模様。市長の名を知らずともてっちゃを知らぬは秋田市民にあらず、とまで云われた男のさまざまな偏見と誤解、更には、そしりに晒され続けた60余の人生の相貌がいま明らかに!尺八を背負い這いずるように昭和史を歩んだ男のたくまざる生き様にスポットをあてた一冊。

野球太郎No50プロ野球選手名鑑+ドラフト候補名鑑2024(バンブームック)

坂本耀・松橋裕治郎・佐藤善・高瀬心碧・熊谷颯太・藤原翔太・藤井慧澄
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1931 昭和6年嘉義農林学校で甲子園準優勝 近藤兵太郎監督 台湾野球殿堂入り

kano台南州立嘉義農林学校の実話基に描く感動作 KANO1931海の向こうの甲子園。2023年台湾野球殿堂に近藤兵太郎監督。<2019.11.23> 台湾・旧嘉義農林100周年式典に嶋崎久美金足農野球部元監督、中山英悦金足農野球部OB会会長、吉田裕幸仙北市国際交流協会会長、佐藤和志田沢湖・角館観光協会会長出席。【2018.10.03】佐々木律成氏、秋田さきがけ紙に 「KANOとKANANO 時空をまたぐ農業高校の大いなる実り」 寄稿。【2018.8.21】俳優の永瀬正敏さんは、第100回全国高校野球選手権大会で準優勝した秋田県立金足農業高校について、自身が出演した台湾映画「KANO 1931海の向こうの甲子園」の物語との「不思議な縁」を感じるとつづった。 同映画は日本統治時代の1931(昭和6)年、台湾代表として夏の甲子園に初出場し、準優勝を果たした 「嘉義農林学校」(嘉農、現・国立嘉義大学) 野球部の実話を基にした作品。永瀬さんは漢人や日本人、先住民からなる野球部メンバーを指導する日本人監督、近藤兵太郎役を演じた。 金足農の決勝進出が農業系高校としては嘉農以来83大会ぶり▽決勝戦の日付が同じ8月21日▽嘉農と決勝を戦った中京商業学校のエースと金農のエースの苗字が同じ「吉田」――であることを紹介した。 【2015.2.01】http://kano1931.com/ 日本統治下の1931年に台湾代表として見事甲子園出場を果たし、決勝まで進出した台南州立嘉義農林学校の実話を基に描く感動作。『セデック・バレ』 2部作などを手掛けたヒットメーカーのウェイ・ダーションが製作総指揮を務め、野球を通して友情と強い絆を育む監督と部員たちの熱いドラマを活写する。永瀬正敏が鬼監督を熱演し、彼の妻を坂井真紀が好演。民族の壁を越え、一丸となって戦う球児たちのひたむきさと純真さに心打たれる。第51回金馬奨、<最優秀作品賞><主演男優賞(永瀬正敏)><新人賞(ツァオ・ヨウニン)><新人監督賞(マー・ジーシアン)><衣裳デザイン賞><オリジナル楽曲賞>ノミネート。<観客賞>と<国際映画批評家連盟賞>受賞。

2023令和5年11月刊行|秋田市立秋田商業高等学校硬式野球部100年史

A4判 314ページ 税込み5千円(送料別)問い合わせ ヨコヤマコーポレーション(018-889-8377)
秋田商100年の軌跡「硬式野球部百年史」

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秋田商出身プロ野球選手
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弱小10年連続県大会初戦敗退 一番対戦したくない荒れた高校がまさかの甲子園

2023.12.17 最終回
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菊地高弘 下剋上球児 三重県立白山高校 甲子園までのミラクル 株式会社カンゼン

怪童|西鉄ライオンズの黄金期を支えた中西太氏(享年90歳) お別れの会開催

8371cb1e-slions西鉄ライオンズの黄金期を支え、今年5月11日に死去した中西太氏(享年90歳)のお別れの会が11月3日、出身地である香川・高松市内のホテルで開催された。270人が集まった。お別れの言葉を送った侍ジャパン前監督の栗山英樹氏(62)は怪童と称された中西氏の遺影に「おやっさん」と語り掛けながら、義父・三原脩氏が残した「三原ノート」を参考に戦ったことを披露。<2023.5.12> 西鉄ライオンズの黄金期を支えた中西太氏が、5月11日午前3時38分、東京都内の自宅で心不全のため死去していたことが18日、分かった。90歳。現役時代は “怪童” と称されたスラッガーで、本塁打王5回、首位打者2回、打点王3回のタイトルを獲得。西鉄、日本ハム、阪神で監督を務めるなど、計8球団を渡り歩き、指導者として若松勉、イチローら名選手を育てた名伯楽だった。<2018.2.12> プロ野球・西鉄ライオンズの黄金期に1番打者として活躍した高倉照幸さんが2月12日、福岡市内の病院で死去、83歳だった。<2015.9.01> プロ野球西鉄ライオンズの後を受け、1973年から78年まで福岡を本拠地にした太平洋クラブ、クラウンライターライオンズにスポットが当たっている。6年間の軌跡を追った本がこの夏、相次いで出版。<2011.1.16> 西鉄ライオンズが売却されて40年弱、ファンの有志が選手の遺品や写真を収集し 「野武士軍団」 を語り継いでいくため近々NPO法人西鉄ライオンズ研究会を立ち上げるとのこと。<2010.10.25> プロ野球史上最強和製打線と言えば、、、ある人によれば、西鉄 監督/三原脩。 1中堅/高倉照幸、2遊撃/豊田泰光、3三塁/中西太、4右翼/大下弘、5左翼/関口清治、6一塁/河野昭修、7二塁/仰木彬、8捕手/和田博実、9投手/稲尾和久。(名づけて流線形打線)。極貧球団波瀾の福岡ライオンズ(長谷川晶一、日刊スポーツ出版社、1600円)

2023令和5年全国高等学校野球選手権秋田大会 金足農-秋田中央(能代球場)

2023.7.10 金足農-秋田中央 収集保存用に購入
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全軟連推薦|伊藤博一著「スポーツ医・科学の立場から考える野球技術の大原則」

伊藤博一 帝京平成大教授  日本体育大-秋田南(二塁手、熊谷隆益監督)-秋田北
スポーツ医・科学の立場から考える野球技術の大原則
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第100回~第105回|週刊朝日全国高等学校野球選手権甲子園大会臨時増刊号

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第89回~第99回 「週刊朝日」 全国高校野球甲子園大会臨時増刊(朝日新聞社)。

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大館市在住吉田一雄さん収集野球関連資料 タクミアリーナ(大館市上代野)で展示

秋田さきがけ紙で紹介 令和4年夏大館市スポーツ協会に寄贈
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令和4年末で吉田時計店閉店

秋田県野球史 (とりわけ大館地区) に精通の大館市在住 吉田時計店 吉田一雄氏

72409beb-s3129867d-s583adb39-s令和4年末で吉田時計店閉店。吉田一雄さん収集の野球関連資料が タクミアリーナ( 大館市上代野字八幡岱29番4号、大館地域スポーツ公園施設内 )で展示。<2016.10.17> 秋田さきがけ紙  「シリーズ 時代を語る 吉田一雄」 連載開始。<2012.1.25> 地元紙のみならず秋田さきがけ紙でも幾度となく紹介。昭和50年代後半に氏経営大館市内の時計店を訪問、著書 「 巨人キラー・石戸四六の全記録集-白球の軌跡 」 (昭和56年10月刊) 頂戴、続著 「 ノンフィクション今川敬三の球歴-北國の球魂歌 」 (平成15年10月刊)。ポスターは秋田県大館市ゼロダテ事前周知用 <吉田時計店バージョン>。この街に生まれ、この店を構えてから、もうずいぶん時がたった。街は少しずつ変わってゆき、いいときもあればわるいときもあった。店から見る風景はそんなに変わらない。だけど、私にとっては特別な風景だ。何十年も、ここから見つめてきたからこそ、見える風景がある。それが私にとっての、もうひとつの大館。そろそろ暑い夏がやってくる、今年もゼロダテが始まる。吉田時計店/吉田一雄。

秋田野球人名録 / 今ではありえない伝説の酒豪 石戸四六(度胸 NO.1酒仙投手)

IMAGE0005imakawa 1秋田さきがけ|シリーズ時代を語る2023.3.3 成田光弘さん(秋田商-鷹巣)2年生のエース石戸四六さんは、私にとって面倒見のいい先輩でした。大館第一中学校の出身で下宿生活をしていて、「おらほ(県北出身者)も頑張るべ」と気さくに声をかけてくれました。の記述あり。デイリー新潮取材班編集、抜粋> 酒仙投手の呼称は、職業野球時代の大阪タイガースのエース・西村幸生が元祖だが、1960年代にこの名をほしいままにしたのが、石戸四六である。1961年9月、ヤクルトの前身・国鉄と契約した直後、「契約金がドカンと入ったので」と、なんと、有楽町の球団事務所から郷里の秋田県大館市までタクシーで帰った。タクシー代3万円に加え、温泉宿の宿泊代、飲食代なども合わせて、合計5万円以上。大卒初任給が1万5000円に届くかどうかという時代に、なんとも豪快な話だ。石戸は試合が終わると、ステテコ姿で日本酒を湯のみ茶碗で飲むのを常とした無類の酒好きで、「一升や二升はいけた」という。ロードで先発させようと先乗りさせると、これ幸いと飲み屋に直行してしまうため、石戸に限り先乗りはNGになった。しかし、ひとたびマウンドに上がると、横手からの重いシュートと度胸の良さを武器に、68年に金田正一以来球団史上2人目の20勝を記録するなど、9年間で70勝を挙げた。サンケイ時代の65年8月7日の大洋戦では、被安打1安打の無四球、打者27人の準完全試合。翌66年8月28日の巨人戦では、王貞治に3安打を許しただけの3安打完封で、“ 王以外ノーヒットノーラン ”の珍記録もつくっている。だが、過度の飲酒から肝機能障害と慢性胃炎を併発し、29歳の若さで引退となった。78年、ヤクルトが球団創設以来初の日本一を達成すると、石戸も祝賀会に招かれた。その日のうちに秋田に帰る予定だったのに、「列車が満席で取れない」とボヤくと、周囲から「タクシーで帰ればいいじゃないか」の声が上がった。すると、石戸は「いや、もうあんなバカな真似はできませんよ。もう無駄なお金は使う気になりませんよ」と照れながら答えたという。・巨人キラー石戸四六の全記録「白球の軌跡」(吉田一雄著、昭和56年発行)、猛牛千葉茂氏曰く 「度胸NO.1の酒仙投手」。酒仙投手と称された石戸四六投手の生涯と記録の集大成。石戸四六  吉田一雄氏は平成15年に「ノンフィクション 今川敬三の球歴 北国の球魂歌」出版。

2023 令和5年第95回記念センバツ高校野球大会 出場36校全選手紹介雑誌

ベースボールマガジン社 | ミライカナイ | 報知新聞社
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日本一の元球児が野球界へ恩返し 地元 福岡でアマチュア専門誌を発行する理由は

Full-Count
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アマチュア野球専門誌 フリーペーパー「FBスカウト」

「スローカーブをもう一球」(山際淳司著 角川書店発行)高崎高校 川端俊介投手

739f2ed1-sキタトシオ氏、山際淳司の『スローカープを、もう一球』で、群馬県屈指の進学校である高崎高校の野球部が予想外の「怪進撃」を続けた結果、監督が校長に電話で「もう旅費がありません」と泣きつくシーンは面白かった。<2019.10.29> 1981年春の選抜高校野球大会に群馬県立高崎高の主戦投手として出場し、10月22日に56歳で亡くなった川端俊介さんの告別式が26日、同市内で営まれた。告別式では、当時バッテリーを組み、社会人になってからも球を受けてきた宮下洋之さんが弔辞。<2012.3.26> 32年前の秋季関東大会、「山なりの球」 で高崎旋風 (準優勝) を巻き起こし、山際淳司 「スローカーブをもう一球」 でも紹介された右腕川端俊介氏 (48) が高崎-近江戦を観戦 (試合はノーゲーム)。現役当時はマスコミの取材依頼が相次ぎ、センバツ大会では、星稜高校に被安打13、1-11で敗退した。<2011.11.26> 西本幸雄監督と江夏豊投手と言えばやはり山際淳司 「スローカーブをもう一球」 。1979年日本シリーズ近鉄-広島戦で西本幸雄監督と対戦し、第7戦で伝説の 「江夏の21球」 を演じた江夏豊氏 (63) は、西本氏の訃報に接し 「西本さんと言えばあの日本シリーズがすぐに頭に浮かぶ。寂しいよね」  としみじみ。【2011.4.05】 もう古典の範疇に入りましたか、山際淳司 「スローカーブをもう一球」。<紹介文より> 高校野球に題材を取った 「八月のカクテル光線」、プロ野球屈指の投手江夏豊の勝負を描いた 「江夏の21球」、自分一人でも出場の機会があると思った津田真男のボート (シングルスカル) での闘い 「たった一人のオリンピック」、ふとしたきっかけから高校野球からプロ野球に入った 「背番号94」、シティ・ボーイのボクサーの物語 「ザ・シティ・ボクサー」、バドミントンからスカッシュに鞍替えした 「ジムナジウムのスーパーマン」、弱小高校野球部の投手と監督を描いた 「スローカーブを、もう一球」(第8回日本ノンフィクション賞受賞)、そして棒高跳選手の 「ポール・ヴォルダー」 の8篇収録

「巨人キラー ・ 石戸四六の全記録集-白球の軌跡」( 吉田一雄著 昭和56年刊 )

明治期に創業 大館市 吉田時計店(4代目 吉田一雄さん、89)令和4年 年内で閉店
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こせきこうじ作「県立海空高校野球部員山下たろーくん」「やまだたいちの奇蹟」

松井優史「真実の一球」(竹書房)/ 詩人 サトウ八チロー「雨に散った江川投手」

57cd9f70元プロ野球選手 江川卓氏が11月11日、テレビ朝日系「羽鳥慎一モーニングショー」に生出演。<2016.11.20> 作新学院元監督で昭和37年に史上初の甲子園春夏連覇に導き、江川卓氏らを育てた山本理氏が11月19日午前2時頃、栃木県内の自宅で死去、83歳。<2015.2.10> 高校2年夏、栃木県予選2回戦でノーヒットノーラン達成、さらに3回戦の石橋戦では完全試合、準々決勝でもノーヒットノーランと、27回を投げて失点0、奪三振47記録。準決勝の小山戦も10回までノーヒットノーランだったが、11回にサヨナラスクイズを決められ、甲子園出場はならなかった<2011.1.10> 松井優史著 「真実の一球-怪物・江川はなぜ史上最高と呼ばれるのか-」(竹書房)、作新学院時代の江川は間違いなく160キロを投げていた!!作新学院江川卓、『怪物伝説』 の軌跡と真相!高校1年生秋、江川卓が最も速い球を投げた、10連続三振の前橋工業戦での新事実とは?江川に投げ勝った男、江川の影で耐えた男たちのエピソードを交え、作新学院・江川卓 「怪物伝説」 の軌跡と真相に迫るノンフィクション。<2009.10.10> サトウ八チロー 「雨に散った江川投手」雨のために江川投手は 敗戦投手となった 彼のことだから雨をうらんだりはしない 敗けましたと大きくうなづき深いためいきをもらした 晴天つづきだった今度の大会に 雨が落ちた それもものすごいどしゃぶりだった 普通なら中止だっただが延長戦になっていたのでつづけた 天を仰いで応援団は 嘆きと悲しみの底に沈み ナインの胸にはこの雨が 生涯忘れることの出来ないものとなったこんな雨は 又とない雨だ 甲子園の雨は ものすごい音がする わたしはそれをよく知っている すぎし日に わたしはそれを唄った 雨に散った江川投手の心に この日の雨はしみこんだにちがいない 心の底までぬらしたにちがいないわたしはその姿を目に浮かべまつ毛をびしょびしょにぬらしていた わたしは雨を愛した詩人だ だがわたしは江川投手を愛する故に この日から雨がきらいになった わたしは雨をたたえる詩に別れて雨の詩はもう作らないとこころにきめた。

2016 / 小さなエースが明かした投球技術 「石川雅規のピッチングバイブル」

Cg_3jmtU4AA2Scw聖光学院 佐山未来投手(3年)の座右の銘は、尊敬するヤクルト 石川雅規投手(42)から授かった「初志貫徹」。父 正和さん(44、宇都宮学園)が石川投手と青学大の先輩後輩だった縁で、小学生の時「迷わず自分の決めたことを貫き通せ」とこの言葉を教わった。<2021.1.18、週刊ベースボール ON LINE> まだまだ、歩みを止める気はない。今月22日に41歳とな石川雅規、プロ20年目のシーズンを迎えた。チーム最年長として臨む今季も、若手のように必死にポジションをつかみにいく。昨季は自身9度目の開幕投手を務めたが、7月中旬から約1カ月間上半身のコンディション不良で離脱。10試合目でようやく初勝利を手にするなど、15試合の登板で2勝8敗、防御率4.48と苦しんだ。ただ「まだまだコンディショニングさえ整えれば、勝負できると思っている」との言葉どおり、衰え知らずの肉体と高い技術を持ち、先発陣が手薄な中、今季も先発ローテーションの一角として期待される。<2016.6.06> 球が遅くても抑えられる!小さな大投手、石川雅規の投球術。身長167cmながらプロ通算100勝を達成、小さなエースが初めて明かした 「勝つ投球技術」。ピッチングの奥義、全公開。 1980年1月22日、秋田県生まれ。秋田商‐青山学院大を経て、2002年に自由獲得枠でヤクルトスワローズに入団。秋田商時代には3年の夏に甲子園出場。青山学院大進学後は、2年の春に6勝を挙げMVPを獲得。2000年のシドニーオリンピック日本代表。プロ入り1年目は29試合に登板。12勝9敗、防御率3.33で新人王を受賞。その後もチームのエースとして活躍を続け、2008年には最優秀防御率のタイトルを獲得。<目次> 第1章 バッターをどう抑えるか---僕の投球哲学、第2章 キャッチボール---すべての基本はここにあり、第3章 全8球種 僕の持ち球、全部見せます、第4章 試合への準備---用具・トレーニング・栄養、第5章 石川雅規の”作り方”---小学校からプロまで。

秋田県野球人名録 / プロ野球完全試合達成 佐々木吉郎 投手(日本石油-秋田商)

完全試合―15人の試合と人生 北原遼三郎 東京書籍
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奇跡のバックホーム(幻冬舎)/ 絶望に立ち向かう姿に誰もが涙した感動の実話

yoktドキュメンタリードラマ「奇跡のバックホーム」ABCテレビ。<2021.6.04>22歳、プロ4年目で脳腫瘍の宣告。18時間に及ぶ大手術、2年間の闘病とリハビリ、回復しない視力、24歳での引退試合―絶望に立ち向かう姿に誰もが涙した、感動の実話。日々の積み重ねの姿勢とまっすぐな気持ちがみんなを動かした。阪神にとってかけがえのない選手。―矢野燿大(阪神タイガース監督)。横田、野球の神様って、本当にいるんだな。―鳥谷敬(千葉ロッテマリーンズ)。2019年に引退した元阪神タイガース・横田慎太郎が自身の半生を綴ったエッセイ。ドラフト2位で阪神に入団し、抜群の身体能力で将来を嘱望された横田は、22歳で脳腫瘍の診断を受ける。18時間の手術、2年におよぶ闘病とリハビリの末復帰するも、視力は回復しなかった。24歳、二軍での引退試合。プロ野球人生最後のプレーで見せた、ボールがほとんど見えないなかでの捕殺は「奇跡のバックホーム」とよばれ話題となり、多くの人に感動を与えた。引退試合のエピソードを軸に、脳腫瘍の手術と闘病、家族・球団への感謝、これからの人生、病気と闘う子どもたちへのエールなどを綴る。絶望と苦しみの日々の先に見えたものとは――。すべての人を勇気づける一冊。【本文より】「横田くん、言いにくいんだけど、大きな病気です」「野球のことは、いったん忘れてください」僕にとってそれは、死刑を宣告されたのに等しいといってもよかった。暗い気持ちになると同時に、腹が立ってきました。「なんでおれが……。どうしておれが野球を取り上げられなきゃならないんだ? 」野球ができなくなったら、これから何をすればいいんだろう―そんなことまで考えながら、ほとんど眠らずに朝を迎えました。打球は見えていませんでした。ボールが二重に見えるうえ、距離感がつかめない。「これが最後のプレーかよ……」それでも、気がつくと前に出ていた僕は、ボールをキャッチすると大きく右足を踏み出し、ダイレクトでキャッチャーに送球しました。【もくじ】序章 神様の演出第1章 野球のことは忘れてください。発端は原因不明の頭痛 / どうしておれが病気に…… / 神経には傷一本つけないでください / 手術は成功したものの…… / 18時間の大手術/何も見えない。第2章 遠かった甲子園野球人生の始まり / ソフトボール漬けの小学生時代 / 中学で全国大会に/小さな目標をひとつずつ/すべては野球のために「勉強しなさい」と言わなかった両親 /  憧れの鹿児島実業に入学 / はじめての寮生活 / ホームシックになる暇がないほどの練習 / 1年生で4番に抜擢 / 一度もやめたいとは思わなかった / 努力することが好きだった / 最後の夏、県大会決勝、9回裏 / すべてはプロに行くために / 指名してくれればどこでもよかった / まさかの阪神2位指名。第3章 一軍を目指して背番号は桧山さんの「24」/ 打球が前に飛ばない / 6本塁打でも実力不足を痛感 / 予想以上に長くハードな1年目 / 天然でいじられキャラ / 掛布さんのマンツーマン指導 / 雑になったこと。それが二軍落ちの原因 / 初の一軍キャンプ参加 / 開幕スタメン / 一軍失格。第4章 闘病病室で寝泊まりしながら看病してくれた母 / もう一度野球ができるかもしれない / ファンからの手紙 / リハビリは「幼稚園児」の身体から / 想像を絶する苦しさだった抗がん剤と放射線の治療 / 父の「意外な行動」に号泣「24番をあけて待ってる」/金本監督からの差し入れ / 寛解 / 家族なしでは耐えられなかった / 僕にはもう一度プレーする義務がある。第5章 復活を信じてもがいた2年間再び虎風荘へ / 育成契約で背番号「124」に / ランチ特打で突然流れた『栄光の架橋』/ 矢野監督の言葉 / 阪大病院を訪問 / 目の状態だけが回復しなかった / 今年でやめます。第6章 奇跡のバックホーム異例の引退試合 / プロ6年間のベストプレー / 僕と母だけに聞こえた音楽 / 想定外が重なって生まれた奇跡 / 神様が背中を押してくれた / 24番のユニフォームに涙 / とっさに言葉がわいてきた最後のあいさつ / タイガースに入団してよかった / やっと人の力になれた / ファンが後押ししてくれたバックホーム/最後に伝えたいこと。終章 新たなプレイボール。1995年、東京都生まれ。3歳で鹿児島県に引っ越す。横⽥真之(元ロッテオリオンズ)を⽗に持ち、⿅児島実業高校では中⼼選⼿として活躍。2013年、ドラフト2位で阪神タイガースに⼊団。1、2年⽬はファームで経験を積み、3年⽬の2016年は開幕からスタメン出場。しかし定着とはならず、翌2017年はさらなる⾶躍を⽬指したが、原因不明の頭痛が続いたため2⽉に精密検査を受けたところ、脳腫瘍と診断される。2018年からは育成契約に移⾏し、復帰を⽬指したがかなわず、2019年9⽉に現役引退を発表。引退試合で見せた「奇跡のバックホーム」が話題となる。現在は鹿児島を拠点に、講演、病院訪問、YouTube配信など幅広く活動している。

デイリー新潮 / 水島新司「ドカベン」1回しか負けなかった明訓高校(上杉純也)

souka1月10日、数多くの野球漫画を世に送り出した漫画家の水島新司さんが、肺炎のため822歳で亡くなった。代表作は挙げればキリがないが、やはり1972年に『週刊少年チャンピオン』(秋田書店)で連載が開始され『ドカベン』だろう。“ 主人公 ”4番・キャッチャーの山田太郎や “ 悪球打ち ” の1番・サード岩鬼正美、“ 秘打男 ” の2番・セカンド殿馬一人、そして “ 小さな巨人 ” 右サブマリンのエース里中智ら “ 明訓四天王 ” の活躍を軸に、常勝・明訓高校(神奈川)の熱い戦いを描いた高校野球漫画である。全国のライバルたちも個性豊かで魅力的なキャラクター揃い。数々の激闘や死闘が繰り広げられ、読者を熱狂させてきた。そこで今回は改めて『ドカベン』の魅力に迫るべく、5つのトリビアを紹介したい。まず最初は “ 連載開始当初は柔道マンガだった ” 。物語は山田太郎が中学2年生のときに鷹丘中学に転校してくるところから始まるのだが、野球部ではなくまったく未経験の柔道部に入部してしまう。この柔道編は1年以上続き、コミックス版の第7巻目でようやく野球漫画へと方向転換することとなった。なぜこうなったのかというと、当時、水島新司はライバル誌だった『週刊少年サンデー』(小学館)に『男どアホウ甲子園』を連載していたため、同じ野球漫画被りを避けたからとされている。しかし、山田が野球をやっていたらしいというエピソードは随所で語られており(野球部主将でエースの長島徹がその才能を見抜き、勝負を挑むなどして野球部への誘いをかけていた)、野球をやることへの伏線は最初から張られていた。ちなみに “ なぜ野球から遠ざかったのか ” の理由ものちに明らかにされている。実写映画化されていた 2つ目は “ 実は実写映画化されている ”。リアルタイムで『ドカベン』を読んでいた世代なら、フジテレビ系でテレビアニメ化(76年10月~79年12月)されたことは広く知られていよう。だが、実写映画もある。77年公開の東映製作で、『トラック野郎』シリーズの鈴木則文監督がメガホンを取った。舞台は明訓高校だが、ストーリーは先の柔道編から始まり、主人公の山田太郎が野球部に転部、頭角を現すまでが描かれている(そのため里中は登場しない)。  出演者のうち、山田役の橋本三智弘、岩鬼役の高品正広、長島役の永島敏行(当時は専修大学の準硬式野球部に所属していた学生だった)は全国オーディションで選ばれたのだが、驚くべきは殿馬役である。なんと、当時36歳だった個性派俳優の川谷拓三が起用されたのだ。水島さんも自ら野球部の監督・徳川家康役で出演。野球編はラスト10分くらいから始まるため駆け足感は否めないが、原作再現度は正直かなり高い。DVD化もされているので気になった人はチェックしてみてはいかがだろうか。里中智の由来 3つ目は “ 明訓高校のエース・里中智の名前は漫画家の里中満智子がその由来である ” 。里中満智子といえば『アリエスの乙女たち』など代表作多数の大御所女流漫画家。一見、水島とは接点がなさそうだが、『週刊少年マガジン』(講談社)で水島が連載していた『野球狂の詩』の特別版として里中が女性キャラクターを描いたエピソード “ ウォッス10番 ” などで共作している。水島が尊敬する漫画家のひとりが里中だったこと、里中が描くような爽やかな容姿と端正な顔立ちの美形キャラだったため、“ 里中満智子”から “ 満 ” と “ 子 ” を抜いて“里中智 ”と命名されたのである。  ほかに実在の人物が『ドカベン』の登場キャラクターの名前の由来となった例として、ライバルのひとり江川学院(栃木)のエースである中二美夫(あたる・ふみお)などが挙げられる。栃木県で江川とくれば、実在する強豪校・作新学院のエースで “ 昭和の怪物 ” 江川卓(元・読売)が思い浮かぶはず。その江川の弟・江川中の “ 中 ” が名字、江川の父親・江川二美夫の “ 二美夫 ” が下の名前の由来なのである。敗北の相手は…… 4つ目のトリビアは “ 明訓高校は3年間で1回しか負けていないが、その相手は当初、弁慶高校ではなかった ”。明訓高校は山田たちの活躍で、1年夏の選手権と2年春の選抜で優勝。続く2年夏の選手権を制覇すれば、史上初となる甲子園3季連続優勝を達成することになっていた。だが2回戦で岩手県代表の弁慶高校に惜敗し、3季連続優勝を逃した。どうも作者の水島新司は、この2年夏で明訓に黒星をつけると決めていたそうだ。コミックス版のカバー裏に書かれていた解説で、開会式直後の第1試合で、実は最大のライバルだった土佐丸高校(高知)相手に痛恨の敗北を喫する予定だったと明かしている。しかし、実際の相手は弁慶高校だったわけだ。この変更には以下のような理由がある。当時、本作は子供たちの間でブームとなっていたが、そこに突如 “ ブルートレインブーム ” が巻き起こった。これに危機感を感じた水島は「ブルートレインだけは倒しておかねばならない!」ということで、鉄道員養成高校・ブルートレイン学園(東東京)を急遽生み出し、初戦で対戦させたのである。1番・ピッチャーの隼走(はやぶさ・はしる)を中心とした機動力が売りのチームで、寝台特急よろしく夜に強いのが特徴だった。試合開始時間が夕方だったことを利用し、ナイターに持ち込んで明訓を翻弄、あと一歩というところまで追い詰めるも、5-6で逆転負けを喫している。  一方、当初予定していた土佐丸高校は初戦で弁慶高校と対戦し、0-1で惜敗。こうして2回戦で明訓高校と弁慶高校が顔を合わせることとなったのだ。この弁慶高校の中心選手が、3番・エースの義経光と4番・ライトの武蔵坊数馬だった。コミックス版のカバー裏では〈明訓が敗れるのは、山田太郎を上回るキャラクターが表れた時(※ 原文ママ)と考えている。それが出てきた気がする。弁慶高校の義経光と武蔵坊数馬だ。(中略)ぼくは対戦の日が来るのが恐ろしくて仕方がない〉と記していた。明訓と弁慶の対戦はこの1回のみ。まさにこの2人は、明訓を倒すためだけに生み出されたキャラクターなのだった。作画が良すぎたため 最後のトリビアも明訓が破れた弁慶戦に関するものである。この試合は2-2の同点で迎えた9回裏。弁慶高校が1死一、二塁のチャンスから、一塁走者だった武蔵坊の身体を張った “ 弁慶の立ち往生 ” と二塁走者だった義経の大ジャンプ “ 八艘飛び ” により弁慶高校が劇的なサヨナラ勝ちを収める……という展開だった。しかし、当初の水島さんの構想によると “ 0-0の同点で延長18回に突入し、明訓がサヨナラ負けする ” という結末だったそうだ。 変更された理由は、この試合の明訓の打順にある。試合の数日前、義経はテレビのインタビューを通じて、明訓戦での「初球ど真ん中ストレート」を予告。これを受けて明訓の監督・土井垣将は、悪球打ちの1番・岩鬼と4番・山田の打順を入れ替えた。土井垣の目論見どおり山田はプレーボール・ホームランを放つのだが、当初の予定ではピッチャーゴロに倒れるハズだった(投手・義経の凄さを描こうとしたものと思われる)。だが、この際に描いた山田のスイングが予想以上の出来栄えだったため、急遽、ホームランにしてしまったというのだ。水島は描いたスイングやピッチングフォームによって打球の行方を変えるクセがあったというが、この試合がまさにそれである。こうして0-0のまま延長18回に突入する……という展開はボツになったという。 のちにプロ野球を舞台とした『プロ野球編』が生まれるが、そのきっかけとなったのが西武ライオンズや読売ジャイアンツで活躍した清原和博の一言だったそうだ。いわく「ドカベンたちは今、どうしているんですか。プロで一緒にやりたいですよ」。また、元メジャーリーガーのイチローも「僕は殿馬と1・2番コンビを組みたい」と劇中での共演を希望している。『ドカベン』に憧れてプロを目指した選手は数え切れないほどだ。今、改めて不朽の名作を読み返してみたい。 上杉純也

「戦後野球マンガ史 手塚治虫のいない風景」(米沢嘉博、平凡社新書、平成14年)

410A4YCEV9L._SX286_BO1,204,203,200_漫画家の水島新司さんが1月10日、肺炎のため東京都内の病院で死去した。82歳だった。「ドカベン」「あぶさん」などで野球人気向上に貢献し、19年と20年は野球殿堂の特別表彰候補に挙がっていた。しかし、20年12月1日に漫画家引退を発表した際、21年以降の候補者入りの辞退も明かした。同博物館によると同氏から「心境の変化があった」と理由を説明されたという。<2012.3.19>今注目の野球漫画は、2011(平成23年)初めから講談社「モーニング」に掲載中の〝グラゼニ〟(原作:森高夕次、漫画:アダチケイジ)、主人公の凡田夏之介投手は高卒8年目の中継ぎ左腕投手で、変則のサイドスローが持ち味だが、実力的には1、2軍の当落線上。グラゼニは「グランドには銭が埋まっている」の略で凡田の座右の銘。全球団の1軍の選手の年俸を暗記している位に金のことが頭から離れない性格。http://morningmanga.com/lineup/142【2011.5.10】<内容紹介文より>戦後すぐから現在まで、少年たちを魅了し続けてきた野球マンガ。井上一雄の「バット君」を出発点として、「背番号0(ゼロ)」「スポーツマン金太郎」「ちかいの魔球」等。そして梶原・川崎コンビの「巨人の星」は日本中を熱狂させた。さらに「アストロ球団」、水島新司の作品群、「キャプテン」「タッチ」と多くの傑作を生み、今も読み継がれている。手塚治虫が手掛けなかった世界を、少女誌、青年誌まで目配りして書き上げた、日本初の野球マンガ史、野球マンガ略年譜を付す。・ 戦後と野球と民主主義、・ 野球マンガの本格的スタート、・ 少年野球狂時代、・ 梶原一騎のスポ根ブーム、・ 70年代の名作群、・ ギャグとアンチヒーローへの転換、・ 「タッチ」とスポーツマンガの多様化、・ 野球マンガは永遠に不滅です!。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E6%BE%A4%E5%98%89%E5%8D%9A

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