その他
経法大付 板倉史也選手(グレコローマン)青山学院大進学。◇ 栄光賞(国体や全国高校総体などの全国大会で3位以上の成績)■体操=大友康平(城東中)・畠山繁博監督(秋田アスレティッククラブ)■レスリング=菊地憲・門間順輝・鈴木信行監督(秋田商)、板倉史也・安田伊織・佐藤俊大監督(経法大付)、横山秀和(秋田商)■ウエイトリフティング=佐藤英人・大嶋学監督(秋田工)、田中裕人・斉藤博史監督(金足農)■水泳=加賀谷英俊(秋田高専)・鈴木孝行監督(ジャパンスイミングスクール秋田)■バドミントン=伊藤広明・田畑季章監督(秋田高専)、秋田高専バドミントン部 ■カヌー=佐々木翼(秋田経法大) ■柔道=坂本周作・遠藤純男監督(秋田経法大)■陸上競技=茂木智子(秋田ゼロックス)■パワーリフティング=高橋光紀(東北架設工業)■登山=秋田高登山部 ■バスケットボール=国体成年男子チーム、国体成年女子チーム ■相撲=国体成年男子Bチーム。◇ 優秀賞(栄光賞以外の全国大会で3位以上の成績)■レスリング=宮原尚子(秋田南中)・杉田秀夫監督(杉田道場)、大山礼佳(勝平中)・佐藤勉監督(山二建設資材)、太平洋石油販売秋田支店レスリング部 ■体操=大友康平(城東中)・畠山繁博監督(秋田アスレティッククラブ)■水泳=近藤啓太(秋田魁新報社)・飛田一志・豊嶋浩一監督(秋田ビューホテル)■柔道=秋田大柔道部 ■バスケットボール=JR東日本秋田バスケットボールチーム。

- 鶴形地区 常盤地区 0人 -



秋田県中学校総合体育大会(中学総体)や地区中学総体への民間クラブ出場は、拠点地区の生徒に限定。対象となるのはスポーツ少年団や道場、総合型地域スポーツクラブ、民間企業などが運営するクラブのほか、保護者や地域住民が独自に立ち上げたスポーツ団体も含む。ブラウブリッツU-15は中体連大会に参加しない方針。<2020.12.2> 秋田県中学校体育連盟(長沼優会長、佐原賢一理事長)が来年度からの県中学校総合体育大会(県中総体)について、総合型地域スポーツクラブなど民間団体所属の選手が出場できるよう、大会の参加資格を緩和する方針を固めたことが12月1日、分かった。11月29日に県中体連の臨時代議員会を開き参加資格の緩和を承認。※ 全国中学校体育大会参加資格の緩和に伴う令和5年度秋田県予選会に関する説明会は令和4年12月21日に秋田市内で開催予定。



満月の時刻は午後6時59分 中秋の名月と満月は必ずしも重ならない




漫画家の水島新司さんが1月10日、肺炎のため東京都内の病院で死去した。82歳だった。「ドカベン」「あぶさん」などで野球人気向上に貢献し、19年と20年は野球殿堂の特別表彰候補に挙がっていた。しかし、20年12月1日に漫画家引退を発表した際、21年以降の候補者入りの辞退も明かした。同博物館によると同氏から「心境の変化があった」と理由を説明されたという。<2012.3.19>今注目の野球漫画は、2011(平成23年)初めから講談社「モーニング」に掲載中の〝グラゼニ〟(原作:森高夕次、漫画:アダチケイジ)、主人公の凡田夏之介投手は高卒8年目の中継ぎ左腕投手で、変則のサイドスローが持ち味だが、実力的には1、2軍の当落線上。グラゼニは「グランドには銭が埋まっている」の略で凡田の座右の銘。全球団の1軍の選手の年俸を暗記している位に金のことが頭から離れない性格。http://morningmanga.com/lineup/142【2011.5.10】<内容紹介文より>戦後すぐから現在まで、少年たちを魅了し続けてきた野球マンガ。井上一雄の「バット君」を出発点として、「背番号0(ゼロ)」「スポーツマン金太郎」「ちかいの魔球」等。そして梶原・川崎コンビの「巨人の星」は日本中を熱狂させた。さらに「アストロ球団」、水島新司の作品群、「キャプテン」「タッチ」と多くの傑作を生み、今も読み継がれている。手塚治虫が手掛けなかった世界を、少女誌、青年誌まで目配りして書き上げた、日本初の野球マンガ史、野球マンガ略年譜を付す。・ 戦後と野球と民主主義、・ 野球マンガの本格的スタート、・ 少年野球狂時代、・ 梶原一騎のスポ根ブーム、・ 70年代の名作群、・ ギャグとアンチヒーローへの転換、・ 「タッチ」とスポーツマンガの多様化、・ 野球マンガは永遠に不滅です!。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E6%BE%A4%E5%98%89%E5%8D%9A

日刊スポーツ / グランプリ王者でダービー王の(51=秋田)が、32年間の現役生活に終止符を打つ。引退の意思を固めたことが13日、分かった。近年は腰痛や膝痛に悩まされ、今期も7月に2場所走っただけで、来期のチャレンジ降格は確定的。「最近は人のレースを見ていても怖さを感じるようになり、潮時かなと思った。女房は『肩書がなくなっちゃうね』と少し寂しそうだったな。名残惜しいけど悔いはありません」と自らに言い聞かせるように語った。高校時代はインターハイや国体で優勝し、鳴り物入りで競輪界に飛び込んだ。89年にデビューし、高木隆弘、三宅伸と「64期3羽がらす」と注目された。だが、花開いたのは、追い込みに転向した30代の半ば。当時の北日本は若手自力型の宝庫で山崎芳仁、佐藤友和、渡辺一成、菊地圭尚、新田祐大と、G1では目標に事欠かなかった。「運が良かったと思う。強い選手がどんどん出てきて、その波に乗せてもらえました」。ターニングポイントは、05年の第1回G2サマーナイトフェスティバルの優勝だ。開催中、ある解説者にささやかれた言葉が今でも忘れられない。「有坂君、ここで取れなきゃ、一生大きいレースは取れない。今後の選手人生が決まるよ」。当時35歳。発奮して初タイトルを獲得。選手人生はガラリと変わった。大一番になると勝負強さを発揮し、翌06年のKEIRINグランプリを初出場で制すると、07年にはダービー王の称号も手に入れた。奔放な発言と豪快な遊びっぷりから「番長」の愛称で親しまれた。「開催中のサウナや、開催後の飲み会が楽しみだった。コロナ禍で全部駄目になっちゃったからね」。選手仲間に会えなくなることが、唯一の未練だ。今後は飲食店や不動産取引などのプロデュースや経営の傍ら、オファーがあれば競輪の仕事にも携わっていく。◆有坂直樹 1969年(昭44)12月13日、秋田県生まれ。大曲農高卒。競輪学校(現選手養成所)64期を在校2位で卒業。89年8月西武園でデビュー。05年サマーナイトフェスティバル、06年KEIRINグランプリ、07年日本選手権優勝。通算2650走524勝。通算獲得賞金は12億1637万4444円。171センチ。