
ライバル物語


昭和59年夏第66回甲子園大会、この大会で秋田県民は久しぶりにヒートアップした。金足農が初出場ながら4勝してベスト4に進出したからである。しかも準決勝では優勝候補筆頭PL学園に一時はリードするなど大善戦。この快進撃のMVPは水沢投手でも長谷川主将でもなくトップバッターの工藤浩孝であった。工藤は劣勢と言われた初戦の古豪広島商で本塁打を放ち波に乗り、大会17打数11安打の.647の秋田県選手最高打率をマーク(うち2安打は桑田投手から、大会後水沢と共に全日本チームに選抜)。171cm69kgと小柄ながら鋭い打球を飛ばし、大技小技の出来るトップバッターで、そのプレーぶりとは対照的に人なつっこいさわやかなマスクで金農=工藤というほどの人気者になった。甲子園で大ブレークした工藤ではあったが、高2の夏は6番打者で、翌春のセンバツでも目立った活躍はなかった。が、高3夏の大ブレークの兆候は、夏の秋田大会決勝に表れていた。能代にリードされた9回表、アウトと勘違いしベンチに戻りかけたこの 「迷走」 が相手野手陣の思わぬミス誘発し同点に。ミスを幸運につなげたのである。(敬称略、※平成10年5月発行熱球通信からの再掲) 。・昭和59年夏金足農登録選手、[投]水沢博文(3、秋田北)、[捕]○長谷川寿(3、五城目一)、[一]鈴木善久(3、五城目一)、[二]佐藤俊樹(3、船川)、[三]大山等(3、琴丘)、[遊]工藤浩孝(3、八郎潟)、[左]原田好二(2、船川)、[中]斎藤一広(3、雄和)、[右]柏谷安彦(3、秋田北)、半田英生(3、井川)、佐藤学(3、天王)、加賀谷宏基(3、男鹿東)、安田徹(2、男鹿東)、伊藤仁(3、船川)、山崎里史(3、下浜)、浅野和幸(3、井川)、小玉勇樹(2、五城目一)、[責]豊島君男、[監]嶋崎久美。
金足農の夏甲子園ベスト4から5年後の平成元年夏、今度は経法大付が快進撃をする。1年生エース中川旋風の時である。そのチームのトップバッターが高橋誠一で、174cm65kgの俊足強肩巧打の中堅手で文字通り野球センスに恵まれた理想的なトップバッターだった。得点力の少なかった同チームにあって、甲子園での彼の出塁が着実に得点に結びついたケースが多く、(準決勝吉岡の帝京戦を除く3試合で毎試合安打、全4試合16打数6安打0打点1三振1四球.375の成績で大会後に高校全日本選抜。秋田西中時代はエースで中軸を打っていたが高校入学後に野手に転向、不動のトップバッターとなり、甲子園では経法大付攻守の要であった。工藤浩孝、高橋誠一2人のトップバッターの活躍を見るにつけ、甲子園で勝ち進むにはトップバッターの存在がいかに大事か改めて認識させられた(昭和40年秋田高夏甲子園ベスト4時には成田憲明外野手)。彼らに続く秋田県高校野球史に残るトップバッターの出現が待たれる。(敬称略、平成10年5月発行「熱球通信」からの再掲)。▲平成元年夏秋田経法大付登録選手、 [投]川尻英保(3、東能代)、[捕]佐井雅幸(3、六郷)、[一]安保勲(3、花輪一)、[二]桜庭裕也(2、鷹巣)、[三]沼田満秋(3、城東)、[遊]○松岡勇樹(3、二ツ井)、[左]佐藤征市郎(3、本荘北)、[中]高橋誠一(3、秋田西)、[右]京極直人(3、秋田南)、高橋浩一(3、六郷)、原田賢弥(3、能代一)、半田貴志(2、井川)、杉本正人(2、五里合)、堀井正二(3、平和)、佐藤和世(2、秋田南)、中川申也(1、山内)、齋藤幸治(1、城南)、[責]古谷孝男、[監]鈴木寿。
剛腕 松本豊 (秋田経大付-角館)-スラッガー 石井浩郎 (秋田-八郎潟)。「甲子園で勝つより秋田で勝つ抜く方が難しい」 と秋田経大付古城敏雄監督 (当時) が語ったように昭和55年からの数年間、秋田県野球のレベルは高く黄金時代であった。この時期には多くのプロ野球選手を輩出している。秋田商の国体準優勝、春センバツベスト8、軟式能代の国体優勝、翌年の秋田経法付センバツベスト8、夏3回戦進出、東北大会優勝、金足農準優勝等秋田県勢は数々の栄光の足跡を残している。そんな燃えるような空気の中、特に忘れられないのは、昭和55年9月21日の秋季秋田県大会決勝、古豪秋田-新鋭秋田経大付の試合である。秋田の1年生4番石井が2回に剛腕松本から本塁打 (4打数2安打1本塁打)、延長11回には今度は松本が左翼席に本塁打を放ち、試合は6-1で秋田経大付が優勝。松本は中学時代に完全試合を達成しており、高校でも県内の公式戦で本塁打を打たれたのは石井と翌年の伊藤博 (内、大曲-平和、右右、182/67) ぐらいのものである。1年生石井は 「将来の大器」 と関係者に評された。その後の2人のプロ入りは周知のとおりである。(敬称略、平成9年5月発行、紙媒体 「熱球通信」 からの再掲)。

元日本ハム投手の工藤幹夫さんが2016(平成28年)5月13日、肝不全のため秋田市内の病院で死去、55歳。告別式は18日午後1時から、秋田典礼会館セレモで、喪主は長男工藤壮史さん(秋田商硬式野球部OB、城東中時代Akita中クに選抜)。工藤さんは78年ドラフト2位で本荘から日本ハムに入団。4年目の82年には先発として20勝4敗、防御率2・10の好成績を残して最多勝、最高勝率、ベストナインを受賞。その後、右肩を痛めて88年には野手へ転向も、その年限りで現役を引退。通算成績は78試合に登板して30勝22敗、防御率3・74。東北の星飛雄馬高松直志(NTT東北-能代-山本)と大型サブマリン工藤幹夫(日本ハム-本荘-本荘南)。昭和53年第60回大会(PL学園優勝)の秋田大会決勝は秋田県高校野球史に残る好ゲームとなった。プロも注目する2人の投げ合いは6回に波乱があり、接戦の末3-2で能代高松に軍配。高松直志と工藤幹夫は中学時代からサウスポーの本格派とアンダーハンドの好投手として期待されていたが、工藤は本荘南中時代に東北中学大会の優勝投手(3試合連続完封)に。高松の劇画の星飛雄馬バリのの右足を高く上げるダイナミックなフォームと工藤のしなやかな体と長い手から繰り出される華麗なフォームは全国的に注目を集めた(高松は甲子園大会終了後日本選抜チームの一員として訪韓)。今思えばこの両チームに打撃力があれば甲子園でも上位に勝ち進めたと思う。(敬称略) ※平成8年9月発行「熱球通信」から再掲。


東都大学リーグを沸かせた2人、石崎透(東洋大-秋田市立-高清水中)vs小山広美(専修大-秋田商-土崎中)。
本文中、石崎投手が全県優勝投手とありますが、小山投手が土崎中時代の優勝投手です。【冬将軍野】
2人は昭和31年の生まれで、中学時代から好投手として注目されていた。
石崎は全県少年野球優勝の本格派投手として秋田市立へ、小山は貴重な左腕として捕手の橋村と一緒に秋田商へ進む。
高校進学後の小山は、俊足好守好打の外野手として活躍。中学時代の実績は小山の方が上だったが、高校では石崎が1年と3年の2度甲子園出場を果たしている。
小山は3年夏の奥羽大会で弘前実に苦杯を喫したが、秋田市立はその弘前実を破り甲子園に進んでいる。当時、秋田市立は秋田商を苦手としていただけに、もし決勝に秋田商が勝ち残っていたらと思うと興味は尽きない。
高校卒業後2人ともに東都リーグの大学に進み、小山は東都の韋駄天の盗塁王として、石崎もクリーンナップの一角を担った。
大学卒業後もまたともに日本石油と秋田相互銀行の社会人に進んだ。(敬称略)
※平成8年8月発行の「熱球通信」よりの再掲です。