昭和59年4月14日の秋田商-秋田高定期戦(OB戦)で兄弟選手が活躍、兄の秋田商菅原一夫選手(山王)と弟の秋田高菅原文夫選手(山王)。一夫選手は昭和54年、主将、三塁手として甲子園出場し、対広島商戦で三塁打、今春駒澤大学を卒業して母校秋田商のコーチ ※ 就任。秋田市役所野球部※ に籍を置く弟の文夫選手は、定期戦でも中前打放つ活躍。興味深いのは、兄 / 秋田商田口淳選手(下浜)と弟 / 田口康(下浜)選手も菅原兄弟と同じパターン。※ 肩書は当時
<昭和54年春 秋田商登録選手> [投]籾山詩男(3、船川)、[捕]佐藤文信(3、山王)、[一]熊谷和秋(2、秋田南)、[二]佐藤義己(3、船川)、[三]○菅原一夫(3、山王)、[遊]横山幸悦(3、秋田西)、[左]畠山哲人(2、二ツ井)、[中]佐藤康二(2、外旭川)、[右]近藤幸彦(2、鷹巣)、安保浩幸(2、八幡平)、高山郁夫(2、花岡)、薄田勝也(2、五里合)、森川順一(2、秋田西)、鎌田義幸(2、男鹿東)、高橋徳之(2、土崎)、三浦英美(2、船川)、七尾光昭(2、二ツ井)、小山大(3、羽城)、田口淳(3、下浜)、近藤博(3、琴丘)、[責]登利谷重郎、[監]三浦第三、[記]湊雅彦。<昭和56年春 秋田高登録選手> [投]石井浩郎(2、八郎潟)、[捕]鈴木彰(3、秋田北)、[一]伊保谷徹(1、山王)、[二]高橋誠(2、秋田西)、[三]三浦純也(2、秋田西)、[遊]○猿田和三(3、豊岩)、[左]住吉浩鹿(2、秋田西)、[中]稲垣寿(3、秋田西)、
[右]菅原謙二(2、羽城)、天野清美(3、秋田東)、石井浩次(3、雄和)、佐々木誠(2、羽城)、立花俊幸(1、城東)、小野武紀(3、土崎)、伊藤元(2、秋田南)、浅野英樹(3、五城目一)、菅原文夫(3、山王)、[責]竹内一朔、[監]大久保正樹、[記]沢田石辰美(3、五城目一)。<昭和59年春 秋田高登録選手> [投]菅野淳(3、秋田西)、[捕]栗山英(3、五城目一)、[一]中田善英(3、潟西)、[二]鷲谷衛(3、井川)、[三]加賀谷隆之(3、天王)、[遊]○鈴木亮(3、羽城)、[左]中島一人(3、秋田西)、[中]工藤衛(2、大正寺)、[右]佐々木真樹(3、秋田西)、田口康(3、下浜)、太田政直(2、城東)、米谷友(2、天王)、高砂明(2、秋田北)、小林勇人(1、城東)、加藤明(1、五城目一)、渡部純(3、秋田北)、高田環樹(1、土崎)、[責]竹内一朔、[監]大久保正樹、[記]金谷仁(3、外旭川)。



1992平成4年11月21日 プロ野球ドラフト会議で阪神が竹内昌也投手を2位指名。・竹内昌也投手は2002

登録選手>
(3、角館
私はショート田中に田中を見た!田中淳一(経法大付) vs 田中亮(経法大付)。平成8年夏の甲子園秋田経法大付の田中淳一選手を観ていて、同じ守備位置だった先輩田中亮と共通点が多いことに気づいた。田中淳一は下北手中初の甲子園レギュラーだが
2人はエースで4番で左のスラッガー 後藤光尊(秋田-八郎潟、右左、176/73) -佐藤力(秋田南主将-五城目一、左左、176/75)。以下平成11年1月発行 「熱球通信」 からの再掲、去年のアジア大会、日本は韓国に惨敗したが、その中でキラリと光る一撃があった。後藤光尊がドジャースのエースでもあるパク投手から打った左中間二塁打である (予選リーグの対台湾戦でも本塁打)。東京六大学法政大進学も直ぐに退学し、もう活躍できないのではと周囲を心配させたが、高校の先輩でもある齋藤正直監督の社会人野球川崎製鉄千葉に入社し、1年目からサードのレギュラーとして都市対抗準優勝に貢献した(そして全日本入り)。一方の佐藤力は、高1春のリーグ戦から投手兼任で一塁を守っていたが (中学の1年先輩石井智之投手とどちらが先輩かと見紛う位の堂々さ)、彼のバッティングのセンスは際立っていた。その後、体も出来て名前通りの力強いバッティングで常に秋田南の中軸として活躍、さらに2年の秋からはサウスポーエースとしてチームの投打の大黒柱となる。後藤は中学時代に野球で全県大会に出場しただけでなくラグビーでもSOとして活躍し全国大会に出場、究極の選択で野球を選択し、高1の秋から投手としてまた打者として活躍。高2秋の東北大会で優勝投手となり、続く明治神宮大会では場外ホームランを放ち松山商 (翌年夏全国優勝) に勝利している。中学時代から野球の盛んな南秋田郡区でライバルであった2人。球歴では佐藤がいつも後藤の後塵を拝していたが、ついに平成8年夏の県大会3回戦で秋田後藤投手と対戦し、今まで苦手としていた後藤から本塁打のおまけ付きで快勝。秋田南はベスト4ま進んだが悲願の甲子園には届かなかった。エースで4番で主将の佐藤力の高校野球は終わった。両者共にエースで4番としてチームを引っ張ったが共通しているのは投手としてより左のスラッガーとしての印象が強いことである。身長は共に175cm前後と大きくないが(体重差もあまりないが外見は対照的)、リストの効いたバッティングが持ち味だった(通算本塁打後藤40本以上、佐藤もそれに劣らない数字)。


【2011.2.01】スポーツ紙でセンバツ大会出場大館鳳鳴の主な卒業生として阿部政文投手を紹介、この年代も甲子園出場が目前だった。【2009.11.17】左のDr.K 村田辰美 (近鉄-三菱自動車川崎-六郷-金沢)-右のDr.K 阿部政文 (大昭和製紙-早稲田大-大館鳳鳴-花岡)。昭和43年から昭和46年にかけて秋田県内には左右のDr.Kがいた。夏の県高校野球記録である1試合18奪三振を達成している左の村田投手と右の阿部投 手(学年は村田が1年上) である。村田は1年時 (第50回) の対能代農戦で記録しているが、試合は逆に能代農の成田投手が無安打無得点を記録し、一度に2つの大記録が生まれた珍しい試合であった。一方の阿部は高2年時 (第52回) の3回戦対湯沢戦で記録 (結果4-1) している。高校時代は共に甲子園とは残念ながら縁がなかったが、その後の活躍はご存知の通り。村田は社会人経由でプロへ進み変則的サウスポーとして活躍。阿部は早稲田大のエースとして東京六大学で活躍し卒業後は社会人へ。(敬称略) 平成8年10月発行 「熱球通信」 からの再掲。
ありません、敬称略。昭和40年夏甲子園大会、秋田高校ベスト4の背番号1は左の鐙文行が付けていたが、2年生大久保正樹がは1回戦大鉄、2回戦日大二戦でロングリリーフ好投。昭和46年秋田市立高校、高橋 (範) がエースナンバーだが船木千代美がロングのリリーフ。昭和48年秋田高校、ファースト小野巧 (八郎潟) がエース高原宏 (八郎潟) をリリーフして好投。昭和49年秋田市立、エースは石崎透 (高清水) だが、控えの鷲谷亘 (秋田北) は他チームではエースだったろう。昭和61年秋田商、エースは山岡政志 (下浜)、藤原博直 (羽城) も好投手だった。昭和55年秋田商、エースは高山郁夫 (花岡)、控えは背番号1で主将の安保 (八幡平)、他にも今野、山本英樹 (秋田南) と多彩だった。平成5年経法大付、2年小野仁 (泉)がエース格、控えには左の小島英人 (泉) と右の小倉克芳 (勝平) がいた。また捕手の西山純 (西部) と外野手多田勝 (左近山)は元レギュラー。平成6年秋田高校、エースは今利浩 (協和) で控えの下手 / 池田智 (大正寺)と上手 / 松田真拓 (八郎潟)の両右腕は完投能力十分だった。新チーム秋のレギュラー大和田平 (城南)もスーパーサブ。平成7年金足農、ベスト8進出のエースナンバーは千葉純 (勝平) だったが、故障のため一塁 / 佐藤慶和 (合川) がエース格で右の外野手佐藤直人 (勝平) と加藤優貴 (大潟) もマウンドに上がった。平成8年春秋田高校、後藤光尊 (八郎潟) がエースで本格派の神谷了 (協和) と技巧派の森康隆 (秋田南) が後ろに控えた。三塁には控えながら2年の伊藤元志 (男鹿南)が先発で出場した。同年夏、経法大付エース左腕金沢博和 (花輪二) の他にも右の鎌田祐哉(秋田北)。野手組では前の4番の三浦怜也 (神代) もいた。平成9年秋田商、エースは石川雅規 (秋田北)、サブで信田道輝 (西仙北東)、根元喬 (稲川) それに1年の伊藤大吾 (城東)。平成10年金足農、田口正也 (河辺) はエース左腕佐藤佑 (城東) に劣らないサウスポーだった。

<平成2年夏
夏には勝てなかった2人のエース、小林直樹 (秋田南-五城目一)-大山幸喜 (能代-能代二)。昭和57年春、秋田南小林と能代大山は全県大会決勝で投げ合っていた。結果は、大山の能代が6-5で優勝したが、両者共に夏本番の大会決勝でも再戦するものと確信していた。小林と大山は、昭和56年夏の秋田県大会3回戦でも投げ合っており、この時は秋田南が延長の末1-0で勝利、かくして決着をつけるべく夏本番に3度目の対戦が期待されたが、ついに実現することはなかった。小林は高校1年の夏からマウンドに立ち、速球と大きなカーブで秋田南投手陣を支えていた。とりわけ経大付松本豊との投げ合いは2度とも延長にもつれ込む熱戦で秋田県高校野球史に残る投手戦だった。(高校1年秋の中央地区初戦で経大付が延長10回1-0で勝利したが、もし経大付が敗れていればその後の東北大会優勝も翌春センバツベスト8も幻に終わっていた)。小林は高校1年からひたすら投げ続けたが、最も甲子園に近づいたのが高校2年の秋、主戦として主将としてまた中心打者として初の全県制覇を果たし、臨んだ地元開催の東北大会。初戦で強豪仙台育英に勝利し、周囲の期待が大きく膨らみセンバツ王手のかかった準決勝の日大山形戦、結果はまさかの不調で4-10で敗戦、それまでの練習試合では日大山形を圧倒していたのに、、、、、。(平成9年10月発行「熱球通信」より再掲)<


秋田の牛若丸対決 (昭和57年第64回大会)、杉山信哉 (秋田商-二ツ井)-佐々木直行 (経大付-城東)。秋田県大会決勝、経大付が秋田商に接戦の末10-7で勝利し、2年連続の甲子園出場を決めた。その瞬間、秋田商杉山遊撃手は3年前の悪夢を思い出していた。それは二ツ井中時代に東北を制し、全国大会準々決勝で対戦した奈良五条中戦での延長の末のまさかのジャンケン負け (その当時はまだスペシャルルールはなかった)。杉山は内野の他にも投手と大車輪の活躍で本塁打も打てた。