o0317050014691142694逆転野球人生 / 1987(昭和62)年オフ、西武から中日へトレード移籍した小野和幸もそのひとりだ。金足農高では186センチの大型右腕とプロから注目されるも、甲子園経験はなく、同郷で投げ合った日本ハムの80年ドラフト1位指名を拒否してプリンスホテルへ進んだ高山郁夫(秋田商)と比較すると、全国的には無名の存在だった。水面下で近鉄、阪神、西武がマークしていた小野は日本鋼管への就職が内定していたが、最終的に「社会人で3年間やってプロ入りするなら、最初からプロのほうがいい」とドラフト外で西武ライオンズへの入団を決める。他の新人投手が50、60番台の中、13番という異例の背番号からも球団の期待を感じさせるが、これにはライバル高山も「プロなら西武だと思っていたのに、どうにもならなかった。そのときに小野がドラフト外で西武入り。大ショックですよ」と嘆いてみせた。当時、新興球団・西武は球界の新盟主を目指し邁進、なりふり構わず日本中の逸材を獲得し続ける。なお、小野と同期のドラフト外入団には、のちの “ミスターレオ” 秋山幸二(八代)もいた。ファームでタイトル獲得も……。「根性だけは誰にも負けない」といかにも昭和を感じさせる意気込みとは裏腹に、グラウンドを離れたら松田聖子のファンで漫画好きという普通の18歳・小野君。そんなヤングレオは81年のルーキーイヤーから快進撃をみせる。二軍では連戦連勝の快投で、ハーラーダービートップを独走。前半戦だけで12勝を挙げ、ジュニアオールスターにも選出されると、地元秋田は盛り上がりファームの選手では異例の後援会発足の準備も進められた。この逸材にマスコミも騒ぎ出し、当時大リーグのドジャースで旋風を起こしていたメキシコ人左腕にちなみ“和製バレンズエラ”と呼ばれるようになる。「嬉しいですね。そういわれるのは大好きですよ」なんて無邪気に喜ぶドラフト外の星。西武二軍のイースタン・リーグ初優勝を報じる『週刊ベースボール』81年10月19日号には、イースタン新記録の15勝を挙げた小野や、規格外の飛距離を誇る秋山らを見た他球団コーチ陣の「この連中が揃って一軍でやるようになったら、どんなチームができるか、空恐ろしい気がする」なんて80年代後半の黄金時代到来を予感させるコメントも掲載されている。期待のルーキー右腕はペナント最終戦の10月4日、ロッテ戦でプロ初先発をすると5回4安打3失点ながらも、プロ初勝利を挙げた。「投の小野、打の秋山」に多くのファンや関係者は未来を見たが、背番号13はここから伸び悩む。2年目は技巧派からパワータイプへのモデルチェンジを模索するが、イースタンでわずか1勝。二軍とはいえ、新人で簡単に結果が出たためプロを甘く見てしまった面もあったという。普段は心配するやさしい母親から「(結果を出すまで)もう、ウチに帰ってくるな!」なんて電話で喝を入れられると、アメリカの教育リーグへ飛んで、暑いアリゾナで32試合中17試合に投げまくった。すると復調して3年目はまたもファームで最多勝、4年目は最優秀防御率を獲得。しかし、皮肉にも “二軍のエース” として定着するうちに、工藤公康や渡辺久信といった後輩たちに先を越されていく。力で押すタイプではなく、かわす粘りの投球スタイルのため、「試合でのピッチングは合格点なんだけど、一軍でとなると、もうひとつタマの切れがないね」と首脳陣の評価は決して高くなく、本人も中継ぎで使われるなら一軍に上がりたくないと先発にこだわり回り道をする。ようやく5年目の85年にプロ初完封を含む33貴重な経験を積んだ。23歳の高卒投手としては着実に階段を上がっているようにも思えたが、『よみがえる1980年代のプロ野球』1985年編の西武OBインタビューによると、「2勝2敗となっての第5戦で、先発が(その3勝の)小野という選択にナインはガクッと来たと思います」なんて証言も残っている。
「急に来たんでビックリした」オフに結婚式をあげて「カアちゃんのために、今年は稼がなきゃなんないスから」と臨んだ86年、先輩・東尾修の投球術やスライダーを必死に学び、序盤は防御率1点台で一時トップに立つ活躍だ。青春が終わって人生が始まり、トレードマークとなる口ヒゲを蓄え、開幕5連勝でオールスター戦にも初めて監督推薦で出場する。第3戦で吉村禎章(巨人)からサヨナラ2ランを浴びるも、この年は6勝5敗、防御率4.53。117.1回を投げ、チームは日本一を勝ち取った。翌87年、4勝11敗と黒星が先行しながら、4完投を含む130.2回を投げて7年目にして初の規定投球回に到達。防御率3.86はリーグ12位だった。2年連続の日本一に輝く当時の西武投手陣には若手の柱に工藤や渡辺がいて、外国人の郭泰源、ベテランの東尾や松沼博久も健在だった。25歳の小野は、その12球団屈指の先発ローテの一枠を確保。ようやくプロの世界で生きていけるという手応えを感じるも、男の運命なんて一寸先はどうなるか分からない。そのオフに中日・平野謙とのトレードが成立するのである。「やっと先発に定着したところに、急に来たんでビックリした。頭に来たんで、相手は誰ですか、って聞いたんです。格は向こうが上。それなのに1対1と言うから、分かりました、って。交換相手も自分の価値ですからね」(週刊ベースボールONLINE『プロ野球1980年代の名選手』より)なんで俺が……と瞬間的に腹が立ったが、冷静に考えたら悪い話じゃない。何の仕事でも組織内の自分の立ち位置が見えてくると、同時に先も見えてしまう。えてしてそんなときは環境の変え時だ。球界屈指のスカウト網で若い逸材が集結した西武では、この先も良くてローテ4番手、5番手だろう。だが、先発が手薄な中日なら成り上がれるチャンスがある。週べ87年12月14日号「87'トレード中間決算報告」によると、当初は平野を狙い指名してきた西武に、中日はもうひとりの投手を加え強気に渡辺を要求。さすがに西武も近未来のエース渡辺は出せないと松沼兄弟を候補にあげたがいったんは破談する。中日が主力クラスの投手を狙いパ各球団に話を持ちかけるもまとまらず、諦めない西武は再び小野と立花義家で、平野と藤王康晴を指名。二転三転したトレード話は、平野と小野の1対1で成立した。中日選手会長も務め、盗塁王経験と3度のゴールデン・グラブ賞獲得歴があり年俸4400万円の32歳・平野に対して、通算15勝の25歳・小野は1600万円。実績だけを見れば格差トレードだが、西武は星野仙一監督とそりが合わずレギュラーを剥奪されたリードオフマンを再生可能と踏み、中日側は「(86年4勝11敗の)勝ち負けがひっくり返って当然のピッチャーだ」と “和製バレンズエラ” の才能と伸び代に懸けた。そして、結果的にこの移籍が小野和幸の野球人生を劇的に変えることになる――。(後編へ続く)