G20110623001074840_view2001 平成13年4月16日、東洋大相撲部で主将を務めた村田武志さんが大相撲東関部屋入りを決め、母校の大曲農を訪れ報告。<2022.6.2> 昨年春場所限りで現役を引退した元十両華王錦の村田武志さん(43、元東関部屋)大相撲名古屋場所から田子ノ浦部屋のコーチに就任。現役時代に所属した部屋や一門ではない、異例の転身。<2021.4.1、日刊スポーツ> -引退が発表され、今の心境は。「まだ落ち着いてはいません。東関部屋は3月31日までで、4月3日に八角部屋へ引っ越します。その前には出て行かなくてはいけないので、荷物をまとめたり、役所に行って転出届を出したりしています」-引退のきっかけは。「場所前にヘルニアを悪化させてしまいました。一時は、歩くのもしんどかった。そんな中、部屋がなくなるのもあるんで…。20年間、東関でやってきて、東関で終わりたいので」-春場所は、最後の1番だけ出場しました。「(部屋を)移ってやるなら、しっかり治した方がいい。でも、自分は東関部屋として最後なので『1番出させてください』と言って出させてもらいました」-決まり手は逆とったりでした。「たまたまあんな感じになっちゃって…。いろんな人に、『そんな業師だった?』とか『最後だからって必死になりすぎ』って言われました。土俵に立つ以上は一生懸命ですから。2番前に首から落ちた力士(響龍)がいて、ちょうど土俵下にいたんです。中途半端な気持ちで土俵に上がりたくないなというのがあったんで、自然と体が動きました」-角界での一番の思い出は。「やっぱり、初めて化粧まわしをつけて土俵に上がったときはうれしかったですね。緊張もしました。初めての(土俵入りの)時はどっちに回るんだっけとか、手の上げ方とか、塩まきとか、緊張しましたね。これが関取なんだと、いい経験をさせてもらいました」-十両2場所目で膝をケガして苦しみました。「ケガして休場してから、再出場しました。もうちょっと様子を見た方がよかったですね。とにかく出なきゃと思ったんで。当時、医師に『どうにか土俵に立ちたいので何とかお願いします』と無理を言っていろいろしてもらった。本来はよくない。焦っていた部分もあります。しっかり治さないといけなかった」-丸20年、現役でした。「いろんな人から『20年、長かった』と言われるんですけど、力士でいられることは楽しかったですね。いろんな人から声をかけてもらったり、応援してもらうのがすごくうれしかったので、続けることができました」-一時は協会に残るという話も聞きました。「若者頭として申請を出していたのですが、かないませんでした」-断髪は。「東関部屋がなくなるので、部屋でできなかったんですよ。そうしたら先々代の高見山さんが『最後の弟子だから、私が責任を持って(まげを)切るよ』と言ってくれました。前の東関部屋はまだ稽古場があるので、そこでやります。本当によかったです。その言葉に、本当にこの部屋で良かったと…。高見山さんにスカウトされて、定年後もずっとかわいがってくれた。力士としてのスタートがあそこだったんで、まだ土俵があるのもありがたいです」-いつごろになりますか。「コロナの様子を見ながら、あくまで予定なんですが、5月30日に。まだ正式に決まっていないけど、そういう方向で話が進んでいます」-今後はどうされますか。「まだ決まっていないんです。部屋があればその間探せるけど、部屋がなくなるし、コロナの状況もあるので…。相撲が好きなので、相撲に携わる仕事があればなと思っています」※ 華王錦武志 本名・村田武志。1978年(昭53)9月14日、秋田県生まれ。東洋大から元関脇高見山の東関部屋に入り、2001年夏場所初土俵。2011年名古屋場所新十両。最高位は西十両6枚目。通算403勝383敗49休。<2021.3.28> 日本相撲協会は3月28日、元十両の東三段目75枚目・華王錦(42)=東関=の引退を発表した。華王錦は、東洋大を卒業後2001年夏場所で初土俵。2011年名古屋場所で新十両に昇進し、最高位は同場所の西十両6枚目だった。今場所は13日目に土俵に上がり、白星を挙げた。これが最後の一番となった。東関部屋は、今場所を最後に閉鎖され、八角部屋への転属が決まっている。<2011.9.20> 大相撲の西十両9枚目の華王錦(33)=本名村田武志、秋田県出身、東関部屋=が秋場所10日目の20日、日本相撲協会に「右膝外側半月板損傷で安静と療養が必要」との診断書を提出し、休場した。<2011.5.19> “もみあげ” がトレードマークの西幕下3枚目・華王錦が十両・佐田の富士を突き落として勝ち越し、ブルガリア出身の東幕下筆頭・碧山、チェコ出身の東幕下2枚目・隆の山とともに来場所での新十両昇進を決めた。