https://www.tokyo-sports.co.jp/aray 藤田太陽「ライジング・サン」(17) 2001年、僕にとって初めてのキャンプは本当に訳の分からないまま終わっていきました。初日に二段モーションの矯正を指令され、適応できずに右太ももの肉離れ、右ヒジ痛を抱えながら乗り切った印象です。そこから先のほうがもっと大切なのに。この時点で心も体も疲れ切っていました。その後もオープン戦に入っていきますが、しっくりこない一段モーションも、訳が分からないままに、ちょっとずつ結果が残ってしまうのです。今思えば、他球団も探りを入れていたのでしょう。状態の良くないまま結果を残させて本番で叩きのめそうと考えていたのかもしれません。プロの世界とは、そういうものです。僕の中でも、こんなので一軍に残っていていいのか。そう思うんですけど、残ってしまうんです。外されない。そりゃ、阪神のドラフト1位となれば話題性もあるし、そういうことだったんでしょう。でも、心も体も限界でした。開幕の時なんてワクワクも何もありません。僕の野球人生の中で、あの入団から開幕戦までの4か月くらい、その期間が野球だけに限らず今までの人生の中で一番苦しかったと言っても間違いないですね。期待に応えられない。開幕戦では打ち込まれて、すぐに二軍行き。ヒジも痛い。すべてがダメで。新聞に書かれている見出しが、自分が殺人犯? 犯罪者みたいな責められ方です。何となく自分の身体能力だけでドラフトしてもらい、プロの舞台にまできてしまった。だから自分自身の内面の未熟さを自覚できていませんでした。あのときは立ち直れなかったですね。自分自身のプロの投手としての能力を客観的に知っていてというなら、修正したり困ったら戻ってくる地点というのもあるんですがね。確固たるものもないので、先輩に相談するにしても、何をどう質問していいかも分からないんです。なんか結局そういう時って、僕はおはらいに行ったりとか、そっちのほうに行ってしまった。神社に行って、じっくり考えてみるとか。もちろん、信仰心を否定する意図はないですよ。でも、当時の僕の頭の中では神様に頼ってみても「無理」という言葉しか出てこなかった。周囲から見れば才能にあふれ、希望しかない若き虎戦士と思われていたのでしょう。でも、当時の僕は外出すれば人目につきたくないから、隠れていました。こんなに体が大きいのにね。「頑張らんかい。応援してるで」。そう言われても、自分としては「もう頑張ってるわ」というのがすべてなんですよ。でも、それを口に出して反論するわけにもいかない。ファンの方々は僕に期待して応援してくれているわけですから。力のない自分が悪い。それがすべて。プロなんですから。プロだから力のあるやつが勝つし、要領のいいやつが残っていくんです。ルーキーイヤーのこの半年の出来事は、その後、5年くらいは引きずっていました。こんな状態で2年目に一気に変身できるのか。もちろん、できませんでした。期待されながらも思ったような活躍ができない。仕方ないことですが、虎のドラ1という色眼鏡で見られることも避けられない。若き日の僕には苦悩が続きました。