arayhttps://www.tokyo-sports.co.jp/ 藤田太陽「ライジング・サン」(13) 自分の希望だった社会人野球への進路を選び、生まれ育った秋田を後に。無名の高校から名門・川崎製鉄千葉野球部での生活になじめず、精神的に参っていました。今なら冷静に耐えられる理不尽にも、分かりやすく反発してしまう若き日の僕でした。一時は退部も考えるほどに追い込まれていました。猛練習についていけず、さらに最年少ということで雑用地獄。早朝4時半に起きる生活で心が病んでいきました。ただ、そんな中でも支えになってくれた存在がいました。それは同期入社ですが大学出で4歳上の加藤友樹さんです。僕とは違い1年目から即戦力の投手でした。現在は兵庫・西宮で接骨院を経営され、野球少年たちを育成する活動も熱心にされています。当時病んでいた僕に加藤さんは「太陽な、今はきついだろうけど、お前は絶対にプロに行くんだから辞めるなよ」と言って支えてくれました。「何かあったら何でもいいから俺に言ってこい」と言って、先輩方の洗濯とか雑用とか手伝ってくれましたね。その当時、新入団では大卒選手が4人いました。1年目ということで雑用もあてがわれますが、担当するのは一人の選手のみでした。唯一の高卒だった僕はそれ以外すべてということになります。「あれ買ってこい、これ買ってこい」と言われても、僕には車もなかったですしどうしようもない。そういう時に加藤さんが助けてくれました。1年目は試合ではほぼ投げることもなく、そんな感じで過ぎていきました。自分では目立った成長を感じることもなく2年目を迎えます。しかし、春のキャンプでは1年目にしこたま走った成果でしょう。そのおかげで相当なバネが自分の知らないうちについていました。脚力が相当にアップしていました。劇的に球速もアップして、プロのスカウトも注目…かと思いきや、そうはなりません。サーキットトレーニングで開脚してジャンプを行い着地するメニューで、大けがをしてしまうんです。着地に失敗し右ヒザが外側に曲がる形になり、半月板を損傷。手術を受けることになりました。そこから何とか3か月後の5月くらいに復帰することができました。そのころは都市対抗予選の真っただ中でした。そんな状態では投げる機会もないだろうと思っていると登板が巡ってきました。投手のコマが足りなかったんでしょうね。どうだったのか、今となっては思い出せないのですが、何せ投げたんです。正直、何で自分が投げるの?と思いながらマウンドに向かいました。そうすると、直球がめちゃくちゃ速かったんです。そこからオール直球です。というか、ゲームで使えるボールが真っすぐしかなった。結果、直球のみで日本通運打線を抑えてしまった。当時、地区予選では本田や日通、新日鉄君津あたりに勝っていかないと都市対抗には出られない状況でした。そんな中で結果が出てしまったんです。その時くらいからでしょうか。日本代表のスタッフ関係者が「面白いぞ」というふうに評価していただいていたようです。雑用にランニング、トレーニングばかりの1年目で、おまけにけがまでしてしまいましたけど、そのタイミングですべてがかみ合って勝手に成長してしまいました。その社会人2年目のシーズンとなった1999年、ジャパンに選ばれてシドニーで行われたインターコンチで銅メダルを取りました。本当に自分でも怖いほどトントン拍子にいってしまいました。でも、そのままトントンいかないのが僕です。プロ入りが決まる翌年2000年にはシドニー五輪の合宿にも参加しますが、ここでもアクシデントが待っていました。