364b6253<新聞報道> 売却目的でスーパーのウイスキー7本を盗んだとして、窃盗罪に問われた元プロ野球巨人投手の無職小野仁被告(47)に横浜地裁は11月1日、懲役1年4月(求刑懲役2年)の判決を言い渡した。裁判官は、小野被告が2022年、今回と同様に酒の万引で有罪判決を受け、執行猶予中に再犯に至ったとして「常習性は明らかで、責任は軽視できない」と指摘した。判決によると、横浜市のスーパーで今年5月、ウイスキー7本(販売価格計約3万5千円)を盗んだ。21~22年にも酒を盗んだとして、秋田地裁が22年5月、懲役3年、保護観察付き執行猶予5年の判決を言い渡していた。<2023.6.29> 神奈川県警瀬谷署は6月28日午後8時すぎ、元プロ野球選手の職業不詳・小野仁容疑者(46)を窃盗容疑で横浜市の自宅付近で逮捕した。逮捕容疑は5月8日午後4時15分ごろ、横浜市瀬谷区の店舗でウイスキー7点(約3万5000円相当)を盗んだ疑い。「酒を売って生活費にしたかった」と容疑を認めているという。同署は余罪を調べている。小野容疑者は秋田経法大付高時代「超高校級の逸材左腕」と注目された。3年生で、世界選手権に高校生で史上初めて日本代表に選出され、キューバとの親善試合で快投を見せ、ドラフトの目玉とされたが、プロ入りを見送り、日本石油へ入社。1996年のアトランタ五輪へ出場。同年のドラフト2位で逆指名で巨人に入団した。02年には近鉄に移籍。その後、ツインズとマイナー契約。05年に12球団合同トライアウトを受けたが、獲得する球団はなかった。結局、プロ入り後は結果を残せず、36試合、3勝8敗0セーブ、防御率5.77に終わり、「高校卒業後、すぐにプロ入りしていたら結果を残せたかもしれない」と惜しんだプロ野球関係者は多かった。<2022.2.8> 千葉市の量販店でウイスキー8本を盗んだとして、2月7日に窃盗容疑で再逮捕された横浜市港北区、元プロ野球選手の無職小野仁被告(45)(窃盗罪で起訴済み)が、調べに対し、「売却目的だった」という内容の供述をしていることが、秋田県警幹部への取材で分かった。小野被告の自宅からは、盗品とみられるウイスキーやシャンパンなど約400本が見つかっており、県警は盗品を売却していた可能性があるとみて、裏付けを進めている。小野被告は秋田市出身で、同市の量販店でシャンパンを盗んだとして1月15日にも窃盗容疑で逮捕され、2月4日に同罪で起訴されている。<2022.2.05> スーパーマーケットでシャンパンを盗んだとして、秋田地検は2月4日、窃盗罪でプロ野球元巨人投手の無職・小野仁容疑者(45)=横浜市=を起訴した。起訴状によると、小野被告は昨年11月25日、秋田市内のスーパーでシャンパン11本(販売価格合計8万1620円)を盗んだとしている。先月15日の逮捕時の容疑はシャンパン2本(同1万7500円)を盗んだ疑いだった。<2022.1.16> 秋田県警は1月15日、量販店でシャンパンを盗んだとして、窃盗の疑いで元プロ野球選手で職業不詳の小野仁容疑者(45)=横浜市=を逮捕した。容疑を認めている。逮捕容疑は昨年11月25日、秋田市の量販店でシャンパン2本(販売価格計約1万7500円)を盗んだ疑い。県警は小野容疑者を横浜市港北区の店舗内で逮捕した。<2020.5.23> 毎日新聞 / 夏の甲子園中止に「野球に感謝できる時が来る」元巨人の小野 仁さん。秋田経法大付(現ノースアジア大明桜)高時代から野球の日本代表に選ばれた大型左腕は、プロで挫折を経験し、引退後は職を何度も変えた。元巨人投手の小野仁さん(43)だ。新型コロナウイルスの感染拡大の影響で、春のセンバツに続いて夏の甲子園も中止になり、小野さんは、自らの人生を振り返ったうえで「どんな状況でも目標と夢を持ち続けていれば、将来、野球に感謝できる時が来る。良い縁が巡ってくる」と球児たちに呼びかけている。現在、横浜市に住む小野さんは2017年、東京都内の健康機器会社に入社した。「コロナ前までは、ほぼ毎日、大学野球の監督や選手とグラウンドで会い、自分の経験を伝えてました」と話す声は明るい。学生の就職支援や採用を担当しているといい、「数人の内定が決まりました。来春入社してもらえるよう、日々フォローしています」。◆春夏連続出場、五輪、プロ入りも果たしたが。190センチ近い長身から投げ下ろす140キロ台後半の速球が魅力のサウスポーだった。2年生エースとして1993年に春のセンバツと夏の甲子園に連続出場を果たした。高校生で日本代表に選ばれ、当時、世界最強だったキューバの主力打者から三振を奪って注目された。「親にもらった恵まれた体だけで勝負し、深く考えていなかった」と振り返る。五輪を目指すため、社会人の日本石油(現JX-ENEOS)に進んだ。96年アトランタ五輪に出場し、銀メダルを獲得した。自身は予選のキューバ戦に先発して打ち込まれるなど、活躍できなかっただけに「メダルは秋田の実家にあるかな。過去は過去」と語った。巨人を逆指名してドラフト2位で入団したプロでは壁にぶつかった。1年目の97年に巨人の新人投手では66年の堀内恒夫以来となる初先発初勝利を挙げたものの、その後は制球難に苦しんだ。02年11月にトレードで移籍した近鉄では1軍で投げることなく、03年に戦力外通告を受けた。プロ通算3勝8敗だった。現役引退後は、「給料を得ることの大変さ」を痛感した。魚市場や宅配業者で働いたり、飲食店の「黒服」を務めたりと、いろいろな職に就いた。私生活では離婚を経験した。◆地元での再会「野球の縁戻った」。そんな小野さんに地元とのつながりが戻ったのは、父勉さんが心筋梗塞のため72歳で急死した18年夏だった。葬儀を済ませた後、高校野球関係者にあいさつしようと、秋田大会の開会式を訪れたところ、93年夏の秋田大会決勝で対戦した金足農の菅原天城コーチと再会した。「声をかけてもらって、野球の縁が戻った感じでした」。金足農は18年夏の全国選手権で秋田勢103年ぶりに決勝に進んで準優勝した。母校の輿石重弘監督とも連絡を取り合うようになり、小野さんは「母が一人なので、よく帰るようになった。全国で旋風を巻き起こしてほしい」と秋田勢の動向を気に掛けている。採用活動の一環で大学生に投球を披露することもあり、草野球の登板日には万全の準備をして臨んでいるという小野さんは「今でも130キロは出るかな」。自身の反省も踏まえ「大学生の大半は4年春、高校生は3年夏で選手生活を終える。すべてを打ち込んだ野球で学んだことも多いはず。光をつかみに行くために、準備して研さんして」と話している。【上鵜瀬浄】