
払戸小野球スポーツ少年団、高円宮賜杯第39回全日本学童軟式野球大会出場。【2019.6.11】全国高校野球選手権大会の前身の 「全国中等学校優勝野球大会」 第1回大会の記録に、秋田中の名前がある。決勝は延長十三回、1-2で惜敗したが、全国に挑む秋田勢の歴史はここから始まった。103年前に刻んだ第一歩を、記録や証言からたどる。1915 (大正4) 年7月。秋田中に大阪朝日新聞から全国大会への 「招待状」 が届いた。都道府県の代表校を勝敗で決める、地方大会のシステムが確立していない頃だった。秋田中は横手中 (現横手)、秋田農 (現大曲農) に大勝した戦績を主催側に送り、出場が認められた。当時は球児を熱心に応援する空気は薄かった。前年の14年、秋田中は関東遠征で早稲田中などと試合をしたが、親の反対で行けない生徒もいた。「祖父に 『東京までタマ転がしに行くとは何事だ』 と言われ、父は遠征に行けなかったと聞いた」。秋田高野球部OB会の元会長、竹内陸郎 (86) はそう語る。秋田市の自宅には遠征前後の選手らの写真が残る。父長九郎も写っている。だが、遠征メンバーに父の名前はない。似た理由で、大阪での第1回大会に行けない選手がいた。急ごしらえで人数をそろえたというのが実情だった。当時のコーチは、同校出身で慶応大に進んだ
石川真良。石川は投手で、大きく曲がるカーブを武器にしていた。「秋田高野球史」 によると、酷暑の中、猛練習で鍛えたという。石川と野球は縁が濃かった。卒業後は阪神電鉄に勤め、甲子園球場の土を配合する仕事をした。のちに故郷の男鹿市に戻り、中学で教師をしながら子どもたちに野球を教えた。小松一夫 (82) は中学時代、石川から野球の基礎を教わった。「選手を怒らない人だった。無駄なエラーすると、皆に聞こえないように 『バカッ』 と小声でつぶやいていた」。石川を知る人は県内でも少なくなった。有志による 「石川先生をたたえる会」 の会長だった小松は19年前、男鹿市にある野球場前に記念碑を建立した。「晩年は釣りばかりしていた。手先が器用だった」 と懐かしそうに話す。大阪へ乗り込んだ秋田中は快進撃をみせる。初戦は三重四中 (通称山田中、現宇治山田)に9-1。エースの長崎広が12三振を奪った。準決勝は優勝候補と目された早稲田実に3-1で競り勝った。当時の思い出を、主将で捕手だった渡部純司が語ったテープが残る。無明舎出版代表の安倍甲が86年にインタビューしたものだ。「長崎君は球が速いうえに、(対角線上に) クロスファイアで来る。僕らは慣れていたけど、相手は打つのが難しかったんじゃないかな」 と渡部。安倍は振り返る。「インタビュー時、渡部さんは90歳近かった。でも、頭が切れて、とてもよく当時のことを覚えていた」。決勝の相手は京都二中 (現鳥羽) だった。8月23日、豊中グラウンド。中盤までゼロが並ぶ接戦は七回、6番丹市郎が適時打を放って秋田中が1点を先取し、均衡を破る。八回表を終えて1-0。99回を数える大会の歴史の中で、秋田の学校が、最も大優勝旗に近づいた瞬間でもある。=敬称略 (山田佳毅)