<朝日新聞バーチャル高校野球> 1991年の第73回大会に秋田県代表で出場したのは、古豪秋田高校だった。当時、甲子園でベンチ入りできる選手は15人。スコアラー枠はなかったが、初戦の京都北嵯峨戦で、背番号 「14」 をつけたスコアラーがいた。3年生だったマネジャー 佐々木修宏さん(46)だ。「秋田から関西の宿舎へやって来たあと、小野巧監督が選手を車座に座らせ、ベンチ入りメンバー一人ひとりに背番号を配ります。『14番、佐々木修宏』 と呼ばれて手渡された時は、震えて泣きました」2年生の夏前、選手からマネジャーに転身した。ノッカーや打撃投手のほか、データ集めや分析などグラウンド内外でチーム強化に努めた。貴重な選手枠を削ってベンチ入りさせた理由を、小野監督は 「お前がいないと困るからだ」 と佐々木さんに伝えた。試合は一進一退の展開となった。北嵯峨の投手は、後にプロ入りし、横浜などで活躍した細見和史選手。京都大会では防御率ゼロという速球派投手だったが、先行したのは秋田だった。5回裏、主将の佐藤幸彦選手の適時打などで2点を奪う。「直球を右へ打て」という小野監督の狙いが当たった。だが、北嵯峨も食い下がる。直後の六回表に失策絡みで追いつかれた。秋田は七回裏、暴投の間に勝ち越したが、勝利目前の九回表、四球から好機を作られて同点とされた。土壇場で追いつかれても、ベンチに悲壮感はなかった。「エラーは出るものだし、エースの菅原朗仁だって0点で抑え続ける投手じゃない。むしろ、いつもの力通りに投げていた。色々自分で考え工夫しながら投げるタイプで、その良さが試合で出ていた」「これで、勝つなら必ずサヨナラ勝ちになったなあ」。9回裏の攻撃前、ベンチでは選手たちがそんな言葉を発していた。余計な重圧を感じることなく、秋田の選手は勝利を引き寄せた。一死から佐藤選手の安打と二盗で走者を得点圏に。代打の小玉義幸選手の内野安打と悪送球の間に佐藤選手が滑り込んで生還--。サヨナラ勝ちの瞬間、ベンチから選手全員が飛び出した。もちろん佐々木さんも、書きかけのスコアブックを放り出して飛び出した。整列とあいさつ。そして、毎日の練習後グラウンドで円陣になって歌う校歌を、この日は一列になってやや上を見ながら歌った。「僕はベンチに近い位置に立って歌ったと思う。やっぱり、甲子園で歌う校歌は格別でした」。この一戦は、前身の秋田中が第1回大会で京都二中に敗れて以来、初めて県勢が京都勢に勝った試合だった。また秋田にとっては夏の甲子園で挙げた26年ぶりの勝利だった。あれからさらに27年。「北嵯峨戦が、秋田にとって甲子園での最後の勝利。大舞台で勝った後の校歌をまた聞きたいですね」。後輩たちに思いを託す。(山田佳毅) ※ささき・のぶひろ 秋田市生まれ。秋田高を卒業後、秋田市役所職員に。現在は市観光振興課主席主査。同市役所の野球チームで野手としてプレーする。家族は妻と長男。朝日新聞バーチャル高校野球
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