
元行政マン、県高野連会長。そして今は、秋田市内のビジネス系専門学校の校長を務める。県内の指導者の中でも、ひときわ多彩な経歴を持つ。母校・秋田の教諭となり、監督として春の選抜大会4回、夏の選手権大会に3回出場。東北大会は春秋で計11回出場し、1995年の秋は頂点に立った。96年にはフィリピンで開かれた高校生によるAAAアジア野球選手権にコーチで参加し、銅メダルを獲得。監督は箕島 (和歌山 )の尾藤公さん (故人)、コーチは星稜 (石川) の山下智茂さん。高校野球の大物監督と身近に接した。「日の丸の重圧をすごく感じた」。海外の雰囲気に浮かれ気分に見えた選手らを部屋に集め、山下さんと大声で気合を入れ直したのもいい思い出だ。2002年に県教育庁の保健体育課に異動しても、高校野球に関わり続けた。一度、教育現場に戻り、課長として同課に戻った10年。秋田勢は13年連続で夏の甲子園での初戦負けを喫した。大会史上ワーストに並ぶ、不名誉な記録だ。「議会の一般質問で 『なんで勝てないの』 とただされましてね」。11年1月、5年以内に甲子園ベスト4入りをめざす強化プロジェクト委員会が発足し、委員を務めた。「ベスト4入りは達成できなかったけれど、ワースト記録の更新は防げた。報われたと思う」 と話す。秋田の監督時代、歓喜と失意の両方を味わった夏がある。1989年の第71回大会、秋田大会の準決勝と決勝だ。準決勝。前年夏に甲子園に出場した本荘との一戦は 「事実上の決勝」 と思って臨んだ。1点を追って迎えた九回、走者を1人置き、小塚晃央選手が左中間へ本塁打。まさに土壇場での逆転勝ちだった。「これが決勝なら、記録にも記憶にも残る最高のゲームだ」。控室でうれし涙を流した。決勝では、秋田経法大付 (今の明桜) の中川申也投手を序盤から攻め立てた。だが、走塁と守備のミスが試合の流れを大きく変えた。四回に8点を奪われ、大差で敗れた。雪辱戦は2年後の夏、再び決勝の舞台だった。(山田佳毅)