yuta第104回大会で勇退が決まっている雄物川・仁賀保・羽後3校連合 尾留川徹監督(62、仁賀保)は初戦の2回戦で教え子の藤盛憲二監督(41)が指揮する本荘に2-9で敗退(画像は秋田魁新報社ツイッターより引用)<朝日新聞バーチャル高校野球> 本荘が最後に夏の甲子園に出場したのは、2008年の第90回記念大会。常連校の天理 (奈良) を最後まで苦しめた06年の大会から2年後のことだ。1回戦の相手は鳴門工 (徳島)。「知り合いから特徴は聞いていた。強いが、粒は小さい印象。チャンスはあるかなと」 2年前は独特の雰囲気の中ですべての力を出せなかった。だが、経験を積んだことで自信がついた。試合は土壇場の九回に本荘が2点を挙げ、3-2と逆転。だがその裏、相手の先頭打者を安打で出してしまう。内野手がマウンドに集まるのを見て、ベンチから三船翔選手を伝令に出した。「ここは犠打で送ってくる。次の打者は本塁打を打っているが、そこで勝負しよう」 ところが、伝令はうまく伝わらなかった。犠打の後、1死二塁で、選手たちは勝負をせずに敬遠を選択。その後、連続適時打を浴びてサヨナラ負けした。甲子園初勝利は、あと一歩でスルリと逃げた。「もう一人走者を出すと逆転につながる。あそこは勝負してほしかった。でも、選手たちが話し合って決めたのなら仕方がないと思った」。試合後、報道陣に 「敬遠は私の指示」 と話して選手をかばった。その年の秋、3年生を送り出す恒例の 「球納会」 が開かれた。その席で三船選手は明かした。「心残りがあります。それは、甲子園で尾留川先生の伝令を伝えられなかったことです」 会場はどよめいた。「おいおい待てよ、そうだったの、と。もう笑い話だけど、勉強になった」 この大会の後から、伝令がチームの強化メニューに入った。伝令を送るタイミングや的確な指示の伝え方を、練習試合で何度も試した。大舞台では、こんなことも試合の流れを左右しかねないことがよくわかったからだ。いま教鞭を執る明徳館高に硬式野球部はない。「選手に伝えられることはまだあると思う。秋田の野球をもっと全国で知ってもらいたい」。チャンスがあれば、またあの舞台に立ちたいと思っている。(山田佳毅)