akitahttp://www.zakzak.co.jp/sports/baseball/news/20150718/bbl1507180830010-n1.htm 1915(大正4年)8月18日に第1回の 「全国中等学校優勝野球大会」 (現在の夏の甲子園大会) は開幕したが、主催の朝日新聞社が開催を紙面上で発表したのは、7月1日付。わずか1カ月半前だった。全国10地区の関係者は初の代表校を決めるのに、てんやわんやとなった。予選を行う期間が取れない地区は、その年の春の大会などを “予選” と位置づけて優勝校を代表として送り出した。例えば関東地区は、東京以外の全県の予選参加が不可能だったため、春の東京大会を制していた早実を代表校とした。東北地区は、確かに “予選” が行われた。だが秋田県以外の5県は出場していない。実は、その予選が行われることさえ知らされていなかった。全国大会の開催をいち早く知った秋田中 (現秋田) は、主催者側に 「単独での出場を認めてほしい」 と申し入れた。だが、さすがに無条件での出場は許可されず 「予選を行って勝つこと」 が条件となった。そこで秋田中は同じ県内の横手中 (現横手) と秋田農 (現大曲農) にだけ声をかけ、わずか3校で 「東北予選」 を実施。勝ち上がって “東北代表” に名乗りを上げたが…。この東北予選開催の連絡を受けていなかった他の5県関係者からは、秋田中への非難が集中した。中でも当時 「東北最強」 と全国で評価されていた盛岡中 (現盛岡一) などの強豪校が多かった岩手県関係者の怒りが一番大きかった、といわれる。全国大会に出場した秋田中の下馬評、戦力評価は低く、ノーマークの存在だった。だが早実など強豪を連破し快進撃。京都二中 (現鳥羽) との決勝でも延長13回の激戦を展開。1-2でサヨナラ負けしたが、この準優勝で数々の批判を封じ込めた。一方、悔し涙にくれた岩手県勢は、“実力” で翌年の第2回大会から6回連続で 「東北代表」 の座を独占。本大会でも上位に進出し、「東北最強」 として溜飲を下げた。