2月5日は「ふたごの日」。・弟公三内野手も経法大付野球部OB。秋田経法大付 (現明桜) の黄金期を、杉本ツインズが支えた。双子の杉本宗人捕手、正人内野手はレギュラー入りした2年夏から3季連続で甲子園に出場。夏通算4勝を挙げ、初出場の1989年 (平元) 夏には県勢6度目の4強入りに貢献した。2人は男鹿半島の小さな町 (男鹿市内) に生まれ育った。ともに五里合小4年から野球を始め、一緒に秋田経法大付に入学。宗人は捕手、正人は三塁手として2年夏からレギュラー入り。3季連続で、甲子園の土を踏んだ。宗人:田舎だったので、子供のころは野球が遊びだった。近くの農協の壁にボールを投げ合って兄弟でよく遊んでいましたね。僕はプロテクターを着けたくて捕手になった。母子家庭で経済的に苦しく、高校は特待生で入れてもらった。1学年下にはエース左腕中川伸也がいた。当時25歳の鈴木寿監督 (現寿宝=秋田修英監督) の下で、甲子園でも快進撃した。宗人:中川は1年生とは思えない球を投げた。スピードとキレがあって (入学後の) 1球目は捕れなかったぐらい。監督から「それでは先輩として後輩を指導できない」と厳しい言葉をかけられ、(捕手として) 一生懸命頑張りました。89年夏の甲子園初戦 (2回戦) は5-0で出雲商に快勝した。試合ごとに宿舎の荷物をまとめ、あれよあれよと準決勝進出。優勝した帝京に0-4で敗れたが秋田経法大付として初の1大会3勝を挙げ4強に輝いた。正人:やはり中川が一番注目されましたが、私たちも双子ということで注目されましたね。小さい時は何かと比較されて嫌でしたが、高校ではポジションも違うし、逆に心強く、いい刺激になりました。翌90年春のセンバツ初戦は鹿児島実に逆転負け。4-2の9回表、相手の代打攻勢で3点を失い、その裏に宗人が最終打者になった。宗人: (最後の打席は) 悔しすぎて覚えていない。最終回の代打攻勢は、相手が諦めたと勝手に思ってしまったんです。それがガンガン打たれ、勝ちを落としてしまった。一方、正人は89年夏の秋田県大会 (5試合) で全国5位の打率6割1分5厘をマークしたほどの強打者だった。90年夏の甲子園、2回戦の育英では延長13回裏2死一、三塁から中堅越えサヨナラ打を放った。正人:アウトコースの高めの真っすぐです。5番打者でチャンスは何回もあった。すべて凡退で6回目のチャンスに絶対決めてやるという気持ちだった。全力でスイングしてバットに当たったんです。だが続く3回戦で横浜商に延長12回2-3と惜敗。それぞれ守備、打線の要としてチームに貢献してきた杉本兄弟の甲子園は終わった。卒業後は別々の道を歩んだ。正人は秋田市役所に就職し、軟式野球部で38歳までプレーした。宗人は秋田経法大 (現ノースアジア大) に進み、全日本大学選手権に出場。その後、教員として秋田経法大付コーチやノースアジア大監督を歴任。現在は地元企業に勤務しながら、NPO法人スポーツコミュニケーションで地元の子供たちを指導する。宗人 :子どもたちの気持ちに寄り添いながら、具体的に技術指導をしています。巣立っていた子が高校や大学、社会人で活躍したり、プロ野球選手になったら楽しいですね。(敬称略)
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