ochiai(文・久保田龍雄)入学するやいなや、その傑出した実力を買われ、いきなり4番レフト。1年夏の県大会では、2回戦の大館鳳鳴戦で “技あり” の右前安打を2本放つなど、11打数4安打2打点と主砲の責任をはたし、2試合にリリーフ登板する投打二刀流で8強入りに貢献した。だが、もとから「甲子園に出たい」とか「母校のために頑張る」といった世間一般の高校球児のような考えはさらさらなく、「高校野球とはこんなもんか。これなら練習なんかしなくていいや」(自著『なんと言われようとオレ流さ』講談社)と割り切ると、練習に出なくなり、映画ばかり見ていたという。2年夏の県大会では、新聞のチーム紹介記事で、補欠の最後に落合の名前が載り、そのまま試合に出場することなく、チームは初戦敗退。おそらく、この時期は実質幽霊部員に近い存在だったと思われる。部員数の多い強豪校なら、とっくに退部になっていてもおかしくないところだが、当時の秋田工はそれほど強いチームではなく、たとえ “休部状態” でも、チームきっての実力者の力がどうしても必要だった。かくして、試合の直前になると、監督やチームメイトが呼び戻しに来る、の繰り返し。この話に尾ひれがついて「野球部を8回退部した」という伝説まで生まれた。そんなオレ流にもかかわらず、落合は試合に出ると、きちんと結果を出した。3年春の県の中央地区(秋田市)大会では、2試合連続本塁打を放ち、チームを全県選抜大会に導いている。そして、最後の夏も4番サードとして1回戦の角館戦で二塁打を記録したが、2対2の延長10回に1点を勝ち越されてしまう。その裏、秋田工は1死一塁で3番打者がレフトに痛烈な打球を放つが、超美技でキャッチされ、飛び出した一塁走者もアウトになった結果、落合に打席が回ることなく、無念のゲームセット……。しかし、高校時代に全国的に無名で終わったことは、野球人生において、必ずしもマイナスではなかった。落合はその後も、大学の体育会系雰囲気になじめず中退→プロボウラー挑戦→東芝府中に臨時工で入社して野球再開と、オレ流を貫き通し、20代後半に “打撃の職人” として遅咲きの花を咲かせている。<2021.2.12>1985(昭和60)年10月21日 プロ野球・ロッテの落合博満内野手(若美町、現男鹿市)が82年に次ぐ2度目の三冠王を達成。史上2人目の快挙。【2015.2.14】中日落合博満ゼネラルマネジャーの父長蔵さんが平成27年2月12日死去、98歳。葬儀告別式は16日午前11時から秋田県男鹿市船越字内子104の1、レゼール男鹿で行われる。喪主は長男一男氏。<昭和44年度春季秋田市内高等学校野球リーグ戦 秋田工登録選手> [投]渡辺強(2、下浜)、[捕]門間正武(3、潟西)、[一]南波清二(3、秋田西)、[二]伊藤直喜(3、城南)、[三]鈴木直久(3、秋田西)、[遊]古城忠二(3、高清水)、[左]武田清一(2、高清水)、[中]○佐藤武男(3、川添)、[右]仲川貴雄(2、秋田西)、高橋徹(2、高清水)、佐々木和郎(3、土崎)、小熊光弘(1、秋田北)、落合博満(1、潟西)、高橋宏(2、湯沢)、斎藤隆三(2、由利)、水戸瀬貢(2、土崎)、佐藤敏雄(3、湯沢)、長沢隆(3、高清水)、進藤高成(3、朝日)、小野孝(2、高清水)、[記]千田博(2、五城目)、[責]安藤晃、[監]伊藤俊穂。・平成23年時事通信社選定 / 秋田県プロ野球選手夢のベストナイン[中]佐藤純一(大曲、大曲市)、[遊]後藤光尊(秋田、八郎潟町)、[三]石井浩郎(秋田、八郎潟町)、[二]落合博満(秋田工、若美町)、[左]滝田政治(秋田中、秋田市)、[捕]中嶋聡(鷹巣農林、鷹巣町)、[右]武藤一邦(秋田商、大曲市)、[DH]三浦正行(秋田市立、秋田市)、[一]大沢勉(能代、能代市)、[投]山田久志(能代、能代市)。