4ef24b89平成23年11月1日午前5時30分、肝細胞がんのため神奈川県鎌倉市内の病院で死去、74歳。嵯峨健四郎投手は秋田市上北手中(城南中)から秋田商、日鉱日立を経て昭和35年東映入団、昭和39年に21勝を記録し、昭和41年にオールスター出場。昭和43年に巨人に移籍、昭和44年に東映に戻り現役引退。通算53勝42敗。秋田商時代は厳しい指導で有名な赤根谷飛雄太郎門下生の第1号。その投球フォームが師とそっくりだったとは関係者の証言。とにかく映画スターを思わせる風貌が印象的でした。中学時代の全県出場と高校時代の甲子園出場共になし。秋田さきがけ紙「八橋球場の50年-第1部 球史を彩った男たち」 登場。嵯峨健四郎  <週刊ベースボール> 悲劇の主役は嵯峨健四郎。20勝の大台を突破も、話題は・・・・60年に東映へ入団したプロ5年目の右腕だ。63年にプロ初勝利を含む6勝を挙げて一軍に定着すると、迎えた64年に21勝を挙げてブレーク。ただ、近年では20勝を超えれば大騒ぎだが、当時も投手の勲章ではあったものの、それほど珍しくなかった時代だ。注目を浴びたのは勝ち星ではなく、その打席だった。とにかく打てない。最終的には77打席連続無安打というシーズンのプロ野球新記録で閉幕。悪夢は終わらない。翌65年も嵯峨は自身の記録を更新し続ける。対戦する投手たちも、嵯峨が打席に入ると、ほかの投手に投げるのとは明らかに違っていた。あまり例のないことなので表現が難しいのだが、嵯峨と対戦した投手たちは皆、不名誉な連続記録を阻止する安打を献上した投手として球史に名を残したくなかったはずだ。打席にいるのが投手なら力を抜いたピッチングをすることも少なくないが、嵯峨が打席に入ると、容赦なく攻め立てる。権藤が胃を壊したことも紹介したが、これは嵯峨も同様だった。バットの不振は胃腸だけでなく、ピッチングにも影を落としていく。64年は21勝9敗と貯金を稼いだ男が、65年は2勝8敗と急失速。最終的に連続シーズンのプロ野球記録としては90打席連続無安打でストップしたが、64年のシーズン77打席とともに、現在もプロ野球記録として残る。権藤は3年にわたったが、2年で終わったのは不幸中の幸いだろうか。その翌66年、嵯峨は17勝9敗と復活を果たしている。