yjimage「14の項の前半部」5月9日の大洋戦(川崎)では佐々木吉郎さん(日本石油-秋田商)から左翼席へプロ1号本塁打を放った。[7の項の冒頭] 目を疑った。夏の甲子園を制した1961年(昭和36)の10月中旬、秋田国体から大阪へ帰る途中の東京駅で見たスポーツ紙の1面見出しである.。「尾崎、中退して東映入り」 、、、、、。 秋大球場近かったので国体観に行きたかったですね。【20117.06】7月6日付欄で登場する主審山本英一郎氏は、NHK高校野球解説でつとに有名、軟式球から硬式球への移行を円滑に行うための「Kボール」を考案したことでも有名。【2011.7.01】鹿児島県生まれ大阪育ちの高田繁氏(65)の連載が開始。浪商高→明治大で明治大島岡監督から一度も殴られなかった主将としても有名。TVの印象より小柄だったというのが第一印象だったが、受けるイメージと育ったところが関西大阪で、出身校も硬派のイメージの浪商高と明治大というミスマッチもおもしろいところ。「我が道」掲載欄がスポニチ紙の芸能欄というのもミスマッチ。以下 Wikipedia大学時代は、明治の「御大」こと監督の島岡吉郎にもっとも可愛がられた優等生であった。主将を務めていた時期も、鉄拳制裁を辞さないスパルタ教育で知られた島岡に、一度も殴られなかったという。一方、高田自身は、荒くれ者揃いで知られる浪商高出身であるからか、紳士的な外見からは想像できないほどの武闘派であった。大学の1年後輩であり乱闘で有名な星野仙一にとって、頭の上がらない人物の一人であり、ある番組で星野は「高田さんを温厚そうに見えるなんてとんでもない。本当の高田さんを知らないだけだよ」と笑いながら言った。 1976年には、巨人に移籍してきた張本勲に対して「巨人では俺の方が先輩」という理由で対等に口をきいた(張本は高田の出身校・浪商高の大先輩にあたり、また当時パ・リーグの暴れ者として知られた日本ハムの中でも、特に一目置かれる存在であった)。高田の芯の強さ、気の強さを示すエピソードの一つである。