山谷監督の一番の思い出は、バント練習で、投手が全力投球するボールをバッターボックスで手づかみにする荒業にはドギモを抜かれた。選手全員が深く感激し、この監督のもとならばの意を強くしたものだった。また山谷監督は、人柄もおおらかで当時多くの周囲の人々の支援を得たのもそのせいであったと思う(秋田高校同窓会HPより)。秋田商赤根谷飛雄太郎選手・監督と常に対比される。旧秋田中で選手、秋田高で監督として輝かしい球歴誇る。旧秋田中では1年から正選手で昭和6年から4年連続甲子園出場、内野以外にも捕・投・外もこなす俊足強肩ファイト溢れるオールラウンドプレーヤー。法政大に進学し、卒業後は社会人函館オーシャンズにも一時籍を置く。秋田高監督在任中12年間で3度母校を甲子園に導く。「投手育てさせたら 赤根谷、総合的なチームづくりは 山谷」 と評された。昭和48年秋田高校100周年記念式典で特別表彰。山谷勝志選手も昭和48年に秋田高校で甲子園出場。平成4年1月9日逝去。昭和29年卒業 本多秀男氏: 昭和28年は、秋田高校にとっても、我が野球部にとっても記念すべき年であった。秋田南高校から秋田高校になり、創立80周年にあたる節目の年であり、昭和26年、27年とあと一歩まで迫りながら手にすることが出来なかった奥羽3県の代表の座と紫紺の優勝旗を握ることが出来たのである。県営手形球場で宿敵八戸高校を破り、16年ぶり9度目の甲子園の切符を手に入れることが出来た。試合終了のサイレンと同時になだれ込んで山谷監督を胴上げする先輩や感涙にむせびながら凱歌を高唱する職員、在校生の姿が今も鮮明に蘇ってくる。秋田高校硬式野球部|校史資料|秋田県立秋田高等学校同窓会
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