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秋田県内では「投手育てさせたら 赤根谷、総合的なチームづくりは 山谷」と評された。昭和27年、母校秋田商の監督に就任。昭和31年夏、秋田商は青森球場で春の東北大会で優勝。甲子園行きを決めたが、決めると同時に赤根谷は病に倒れた。監督を退き、あとを後輩に託したが、病が少しよくなると自宅の庭にブルペンを作り、後輩球児バッテリーをここで指導して鍛えた。打倒秋田中(高)の想いが燃えた。( 越智正典 / スポーツジャーナリスト )<2014.3.15>3月14日、明桜八木茂新監督が初指導。秋田県でプロ野球経験者が高校野球を指導するのは急映 (東急、現日本ハム) に投手として在籍後、1950年代に秋田商監督を務めた赤根谷飛雄太郎氏以来2人目。<2010.4.10> 大正5年1月5日 ~ 昭和44年8月22日、秋田県の高校野球はこの人抜きに語れないと言われています。元秋田商野球部監督。詳細 → 赤根谷飛雄太郎 「秋田県 赤根谷飛雄太郎 様」 で郵便物が届いた等の逸話多数。以下引用、現役はわずか2年だったが、引退後は母校秋田商などの監督として、秋田の球界で重きをなした。諸説あるが 「巨人の星」 の星飛雄馬は、赤根谷飛雄太郎からヒントを得た名前ともいわれている。記録マニアには 「赤根谷飛雄太郎」 は殿堂入り級の有名選手だ。