★ 備忘録 「熱球通信」 ・ 特定非営利活動法人秋田県野球フォーラム ★

「熱球通信」は特定非営利活動法人秋田県野球フォーラム会員有志による備忘録を兼ねた「秋田県野球」にこだわった私的ブログです。掲載している記録等については公式なものではありませんのでご注意願います。リンク等についてはオールフリーですので事前のメール等一切不要です。更新頻度は原則毎日の更新です。秋田県出身で県外に在住の方も念頭に更新していきますが、内容等一部については地元情報と時差が生じる場合があります。練習・親善試合の結果情報は原則掲載しません。また、コメント送信欄と掲示板については諸般の事情により対応していません。積極的な中学硬式野球・女子野球の紹介に努めています。

2022年08月

2022令和4年AKITA ZERO LEAGUE(8/28若美中央公園球場)

大仙ヤングブルー6-5Neo Glitters
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好救援で今季2勝目 / 日本ハム 吉田輝星 魅せたストレート1回を3人でピシャリ

関甲新学生野球連盟 / 新潟医療福祉大学硬式野球部 長内大伍選手(能代-能代東)

新潟医療福祉大学硬式野球部 長内大伍選手(1、能代-能代東-能山オールスターズ)
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2019 令和元年 第17回東北少年軟式野球新人大会(10/19~、新庄市民)

山形中央 富澤力凰選手(2、角館) 令和4年秋季山形県大会#7登録
- 大曲仙北クラブ -
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安達優馬・佐藤魁希・田口天太・富澤力凰・野村将臣・武藤大翔 仙北市体協スポーツ賞

2022 令和4年 第104回全国高校野球大会 秋田県関係東北地区登録判明選手

山形・宮城・福島 判明選手のみ掲載 東北高校 進藤愛輝(1,協和)
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2019.10.6 不滅400勝投手 金田正一さん逝去 弱小球団14年連続20勝

日刊スポーツ配信1991.5.19 満員の秋田市営八橋球場
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2022令和4年第46回全日本クラブ野球選手権大会(8/27~ 等々力 大和)

決勝 / 大和高田クラブ8-7全足利クラブ GR1ー19千曲川硬式野球ク GR4ー0ショウワコーポレーション
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2022令和4年第67回全国高校軟式野球選手権( 8/24~ 明石トーカロ他)

北海道・東北地区代表3校 初戦敗退
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選手宣誓  明石> 野手洸吾(早大学院) 姫路> 田村鳳史(報徳学園)

野球で、生きるスイッチをオンにする / BALL PARK AKITA VOL.26

ボールパーク秋田 秋田の誇り500歳野球を全国へ
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大曲ファイヤードリームズ 清水川玲奈選手

2022 第74回 秋季東北地区高等学校野球秋田県大会シード決定トーナメント

新屋3-2秋田南(若美中央公園野球場)
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2022令和4年第46回全日本クラブ野球選手権大会(8/27~ 等々力 大和)

ゴールデンリバース1ー19千曲川硬式野球クラブ(等々力球場)
<ぶるっく>さん
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プロ野球フェンス際のありえんプレー 伝説3選手 赤松真人・飯田哲也・山森雅文

2022(令和4年)第53回秋田県おはよう野球大会秋田地区(秋田支部)予選

決勝 / フロックス2-1 秋田信用金庫(雄和花の森)
秋田市軟式野球連盟連絡板
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- 備忘用で正規のものとは違いますので主催者発表と照合確認願います -

2022令和4年第46回全日本クラブ野球選手権大会(8/27~ 等々力 大和)

ゴールデンリバース4ー0ショウワコーポレーション(大和スタジアム)
 <まめ>さん
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「こんな軟式みたいな変化初めて見た」内野手困惑 ロッテ山口航輝選手「魔打球」

2022 第74回 秋季東北地区高等学校野球秋田県大会シード決定トーナメント

秋田中央5-0増田・平成(若美中央公園野球場)
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2022令和4年第67回全国高校軟式野球選手権( 8/24~ 明石トーカロ他)

8/24 能代1ー3大阪あべの翔学(ウィング姫路)
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2022 第74回 秋季東北地区高等学校野球秋田県大会シード決定トーナメント

明桜5-0大曲工(太田球場)
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2017 成29年 第63回北鹿中学校新人野球大会(9/23~、ハチ公ドーム)

筑波大硬式野球部 奥村健斗投手(体1、大館鳳鳴-大館東)
最優秀 / 青柳和(大館一)優秀 / 髙橋丞太(大館一)中嶋翔希(大館一)奥村健斗(大館東)
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平成30年6月12日 県立横手高校創立120周年記念招待試合 横手-作新学院

横手高校 旧校舎Gに鉄筋コンクリート4階新校舎完成(旧校舎今秋解体予定)
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2018.6.12 横手-作新学院 (グリーンスタジアムよこて)

2022令和4年第67回全国高校軟式野球選手権( 8/24~ 明石トーカロ他)

8/24 能代1ー3大阪あべの翔学(ウィング姫路) ネギオさん
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2022令和4年第104回全国高校校野球選手権大会出場秋田県立能代松陽高校

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’22プロ野球 吉田輝星・石川雅規・石山泰稚・小木田敦也・山口航輝・砂田毅樹

令和4年8月23日 石川雅規投手 史上7人目 通算500試合先発達成(大卒史上初)
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往時の能代市立能代商業高校野球部ユニフォーム( 懐かしい縦縞ユニフォーム )

日刊スポーツ東北版 / 「甲子園」100年物語 輝いた東北の男たち 信太貞一塁手。

Ceremonial_First_Pitch_191513度目の挑戦で成し遂げられた東北勢初優勝。秋田市内の自宅でテレビ観戦した信太聡一さん(88)は「やったよと伝えたい」と、父親への思いを口にした。父の貞(さだか)さんは1915年(大4)の第1回大会に出場した秋田中(現秋田高)の一塁手だった。<2018.6.24> 信太貞選手の孫 信太誠一さん(54)が第100会大会開会式後の始球式で投手を担当。・<決勝延長13回悲劇のサヨナラ / 信太貞一塁手> 1915年(大4)に夏の甲子園の前身である 「第1回全国中等学校優勝野球大会」 が始まってから今年で100年。このコーナーでは 「甲子園100年物語~輝いた東北の男たち~」 と題し、「甲子園」 を舞台に生まれたみちのく球児たちのドラマ、秘話などをお届けしていきます。第1弾は大旗にあと1歩まで近づいた準優勝編。その初回は、延長にもつれこんだ第1回大会決勝でサヨナラ失策をした秋田中・信太貞(しだ・さだか)内野手の物語を、息子の信太聡一さん(81)と孫の誠一さん(51)に語ってもらいます。秋田中は、おやじのエラーで負けた−。息子聡一は、中学2年の時に学校で聞かされるまで、その事実を知らなかった。[聡一] 先生が教えてくれるわけです。こういう試合があって、最後はファーストのエラーで負けたと。席の後ろから 「信太のおやじだ! 」 と声が上がった。帰って家で報告したら、おやじは何も言わなかった。1915年8月23日。東北勢最初の優勝のチャンスは “エラー” で逃げていった。1-1で迎えた延長13回裏、京都二中1死二塁。二塁へ飛んだ小フライを斎藤長治がワンバウンドで処理し、一塁へ投げる。一塁の信太が 「お手玉」 し、その後すぐにホームへ転送するも、二塁走者のホームインには間に合わなかった。この決勝点を許す失策は、一塁手の信太に記録された。信太は、秋田に帰り、校誌 「羽城」 にこう寄稿している。悪戦苦闘十三合、刀折れ矢尽きて我軍万事休して戦の終った瞬間、余は忘れんとして忘れ能はざる光景である。かの燦然たる優勝旗八百円の優勝旗は、彼れ京都二中の手に授けられたのである。吾れらは帰途の電車の内、宿舎に入っても只出づるものは涙のみであった(原文ママ)本来は捕手で、大会直前の練習試合でケガをし、一塁手に転向。それでも守備中に 「さぁ、こい。さぁ、こい」 と球を呼ぶ自信はあった。攻守に活躍したとし、主催の朝日新聞から現在でいうベストナインとして表彰された。亡くなるまで言い訳はしなかった。1948年(昭23)2月22日、貞は自分の野球人生の多くを語らないまま、大腸がんでこの世を去った。その代わり、妻礼(ひろ)が、息子聡一へ、孫の誠一へ、夫から聞いた話を聞かせた。[聡一] おやじから聞いた野球の話はほとんどないの。[誠一] 子どもには話さないけど、多分、祖母には話していたんだよ。私は (礼さんから) 「おじいさんが、(エラー)やったと言われているけど、お前も野球やれ 」と、ずっと言われてきた。聡一は、後に地元紙 「秋田魁新報」 の運動記者として、1960年(昭35)から春夏通じ9度甲子園を取材。誠一は、「じいちゃんの敵を取りたい」 と、秋田高野球部で同期で元プロの石井浩郎らとともに甲子園を目指したが届かず。50歳を過ぎた今も、草野球で外野手としてプレーし続ける。野球と深く関わる2人の元には 「信太貞」 のエピソードが集まっていった。貞の野球への熱い思いは、一生続いた。秋田中を卒業後、青山学院大予科に進学したが、すぐに父成六が病気で入院したため、中退して東京で就職。休みに秋田へ帰省した際には、仲間と作った 「朝日クラブ」 という草野球チームでプレーし、少年野球大会も立ち上げた。その大会は、秋田魁新報に開催権が渡り今でも続く。その後、成六が亡くなると秋田に帰郷した。[聡一] 秋田に帰ると男鹿半島、仏戸(ふっと)の小学校で代用教員をしていた。その頃の教え子に聞いたこともあるけど、野球ばっかり教えていたそうだ。野球愛が高じて自ら 「運動の秋田社」 というスポーツ新聞社を立ちあげ、茨島(ばらじま)球場という今はなきグラウンドの管理人も務めた。甲子園予選の試合中に、熱くなってグラウンドに乱入。試合を中断させ、ヤジを受けたこともあった。妻子とともに球場近くに住む野球漬けの生活。だが、戦争の影が迫る。[聡一] 戦時中に、スポーツ新聞が作れなくなった。うちのおやじは野球以外何もできなかった。召集はされず、国策のパルプ工場で働き、終戦の半年前からは、プロペラを作る軍需工場に単身赴任した。もともと料理が出来ないため、そこで胃腸を崩し、終戦から2年半後、51歳でこの世を去った。秋田中・信太貞一塁手は、最後に失策した選手として記録に残る。ただ、こんな説もある。二塁手の斎藤は大会前に連れてきた急造の選手。ワンバウンドで捕った後、あわてて一塁へ投げたその送球が悪かった、と。[聡一] セカンドが悪いと言ってくれる人もいる。そうかもしれないが、そちらにも家族がいるんだからと思ってしまう。誰が悪い、ということは反対です。[誠一]だからうちが、エラーして負けました、と。それをずっとリベンジしようと思っているんだよ。今年12月19、20日には、100周年を記念し、甲子園球場で第1回出場10校のOB戦が行われる。誠一は、秋田高OBとしてメンバー入りを熱望する。秋田中が優勝を逃したあの日から100年。東北勢の優勝はまだない(敬称略)【高場泉穂】。◆第1回大会と秋田中 1914年、朝日新聞が全国中等学校優勝野球大会(現全国高校野球選手権大会)の開催を決定。全国各地区から10校が参加し、翌15年8月18日から23日にかけ、大阪・豊中球場で行われた。秋田中は県内の秋田農(現大曲農)、横手中(現横手高)と3校で臨時の東北大会を開催。2校に勝ち東北代表として参加した。

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