2022年01月




秋田エスポワールガールズSUN 伊藤采奈見・松田夏姫・乳井千夏選手
1月10日、数多くの野球漫画を世に送り出した漫画家の水島新司さんが、肺炎のため822歳で亡くなった。代表作は挙げればキリがないが、やはり1972年に『週刊少年チャンピオン』(秋田書店)で連載が開始され『ドカベン』だろう。“ 主人公 ”4番・キャッチャーの山田太郎や “ 悪球打ち ” の1番・サード岩鬼正美、“ 秘打男 ” の2番・セカンド殿馬一人、そして “ 小さな巨人 ” 右サブマリンのエース里中智ら “ 明訓四天王 ” の活躍を軸に、常勝・明訓高校(神奈川)の熱い戦いを描いた高校野球漫画である。全国のライバルたちも個性豊かで魅力的なキャラクター揃い。数々の激闘や死闘が繰り広げられ、読者を熱狂させてきた。そこで今回は改めて『ドカベン』の魅力に迫るべく、5つのトリビアを紹介したい。まず最初は “ 連載開始当初は柔道マンガだった ” 。物語は山田太郎が中学2年生のときに鷹丘中学に転校してくるところから始まるのだが、野球部ではなくまったく未経験の柔道部に入部してしまう。この柔道編は1年以上続き、コミックス版の第7巻目でようやく野球漫画へと方向転換することとなった。なぜこうなったのかというと、当時、水島新司はライバル誌だった『週刊少年サンデー』(小学館)に『男どアホウ甲子園』を連載していたため、同じ野球漫画被りを避けたからとされている。しかし、山田が野球をやっていたらしいというエピソードは随所で語られており(野球部主将でエースの長島徹がその才能を見抜き、勝負を挑むなどして野球部への誘いをかけていた)、野球をやることへの伏線は最初から張られていた。ちなみに “ なぜ野球から遠ざかったのか ” の理由ものちに明らかにされている。実写映画化されていた 2つ目は “ 実は実写映画化されている ”。リアルタイムで『ドカベン』を読んでいた世代なら、フジテレビ系でテレビアニメ化(76年10月~79年12月)されたことは広く知られていよう。だが、実写映画もある。77年公開の東映製作で、『トラック野郎』シリーズの鈴木則文監督がメガホンを取った。舞台は明訓高校だが、ストーリーは先の柔道編から始まり、主人公の山田太郎が野球部に転部、頭角を現すまでが描かれている(そのため里中は登場しない)。 出演者のうち、山田役の橋本三智弘、岩鬼役の高品正広、長島役の永島敏行(当時は専修大学の準硬式野球部に所属していた学生だった)は全国オーディションで選ばれたのだが、驚くべきは殿馬役である。なんと、当時36歳だった個性派俳優の川谷拓三が起用されたのだ。水島さんも自ら野球部の監督・徳川家康役で出演。野球編はラスト10分くらいから始まるため駆け足感は否めないが、原作再現度は正直かなり高い。DVD化もされているので気になった人はチェックしてみてはいかがだろうか。里中智の由来 3つ目は “ 明訓高校のエース・里中智の名前は漫画家の里中満智子がその由来である ” 。里中満智子といえば『アリエスの乙女たち』など代表作多数の大御所女流漫画家。一見、水島とは接点がなさそうだが、『週刊少年マガジン』(講談社)で水島が連載していた『野球狂の詩』の特別版として里中が女性キャラクターを描いたエピソード “ ウォッス10番 ” などで共作している。水島が尊敬する漫画家のひとりが里中だったこと、里中が描くような爽やかな容姿と端正な顔立ちの美形キャラだったため、“ 里中満智子”から “ 満 ” と “ 子 ” を抜いて“里中智 ”と命名されたのである。 ほかに実在の人物が『ドカベン』の登場キャラクターの名前の由来となった例として、ライバルのひとり江川学院(栃木)のエースである中二美夫(あたる・ふみお)などが挙げられる。栃木県で江川とくれば、実在する強豪校・作新学院のエースで “ 昭和の怪物 ” 江川卓(元・読売)が思い浮かぶはず。その江川の弟・江川中の “ 中 ” が名字、江川の父親・江川二美夫の “ 二美夫 ” が下の名前の由来なのである。敗北の相手は…… 4つ目のトリビアは “ 明訓高校は3年間で1回しか負けていないが、その相手は当初、弁慶高校ではなかった ”。明訓高校は山田たちの活躍で、1年夏の選手権と2年春の選抜で優勝。続く2年夏の選手権を制覇すれば、史上初となる甲子園3季連続優勝を達成することになっていた。だが2回戦で岩手県代表の弁慶高校に惜敗し、3季連続優勝を逃した。どうも作者の水島新司は、この2年夏で明訓に黒星をつけると決めていたそうだ。コミックス版のカバー裏に書かれていた解説で、開会式直後の第1試合で、実は最大のライバルだった土佐丸高校(高知)相手に痛恨の敗北を喫する予定だったと明かしている。しかし、実際の相手は弁慶高校だったわけだ。この変更には以下のような理由がある。当時、本作は子供たちの間でブームとなっていたが、そこに突如 “ ブルートレインブーム ” が巻き起こった。これに危機感を感じた水島は「ブルートレインだけは倒しておかねばならない!」ということで、鉄道員養成高校・ブルートレイン学園(東東京)を急遽生み出し、初戦で対戦させたのである。1番・ピッチャーの隼走(はやぶさ・はしる)を中心とした機動力が売りのチームで、寝台特急よろしく夜に強いのが特徴だった。試合開始時間が夕方だったことを利用し、ナイターに持ち込んで明訓を翻弄、あと一歩というところまで追い詰めるも、5-6で逆転負けを喫している。 一方、当初予定していた土佐丸高校は初戦で弁慶高校と対戦し、0-1で惜敗。こうして2回戦で明訓高校と弁慶高校が顔を合わせることとなったのだ。この弁慶高校の中心選手が、3番・エースの義経光と4番・ライトの武蔵坊数馬だった。コミックス版のカバー裏では〈明訓が敗れるのは、山田太郎を上回るキャラクターが表れた時(※ 原文ママ)と考えている。それが出てきた気がする。弁慶高校の義経光と武蔵坊数馬だ。(中略)ぼくは対戦の日が来るのが恐ろしくて仕方がない〉と記していた。明訓と弁慶の対戦はこの1回のみ。まさにこの2人は、明訓を倒すためだけに生み出されたキャラクターなのだった。作画が良すぎたため 最後のトリビアも明訓が破れた弁慶戦に関するものである。この試合は2-2の同点で迎えた9回裏。弁慶高校が1死一、二塁のチャンスから、一塁走者だった武蔵坊の身体を張った “ 弁慶の立ち往生 ” と二塁走者だった義経の大ジャンプ “ 八艘飛び ” により弁慶高校が劇的なサヨナラ勝ちを収める……という展開だった。しかし、当初の水島さんの構想によると “ 0-0の同点で延長18回に突入し、明訓がサヨナラ負けする ” という結末だったそうだ。 変更された理由は、この試合の明訓の打順にある。試合の数日前、義経はテレビのインタビューを通じて、明訓戦での「初球ど真ん中ストレート」を予告。これを受けて明訓の監督・土井垣将は、悪球打ちの1番・岩鬼と4番・山田の打順を入れ替えた。土井垣の目論見どおり山田はプレーボール・ホームランを放つのだが、当初の予定ではピッチャーゴロに倒れるハズだった(投手・義経の凄さを描こうとしたものと思われる)。だが、この際に描いた山田のスイングが予想以上の出来栄えだったため、急遽、ホームランにしてしまったというのだ。水島は描いたスイングやピッチングフォームによって打球の行方を変えるクセがあったというが、この試合がまさにそれである。こうして0-0のまま延長18回に突入する……という展開はボツになったという。 のちにプロ野球を舞台とした『プロ野球編』が生まれるが、そのきっかけとなったのが西武ライオンズや読売ジャイアンツで活躍した清原和博の一言だったそうだ。いわく「ドカベンたちは今、どうしているんですか。プロで一緒にやりたいですよ」。また、元メジャーリーガーのイチローも「僕は殿馬と1・2番コンビを組みたい」と劇中での共演を希望している。『ドカベン』に憧れてプロを目指した選手は数え切れないほどだ。今、改めて不朽の名作を読み返してみたい。 上杉純也



令和4年第94回センバツ大会初出場和歌山県立和歌山東高校に中川大士外野手在籍。父は、1989年の夏の甲子園大会で1年生左腕として経法大付を4強入りに導いた元阪神の中川申也さん。<2018.12.22>平成最後の夏の甲子園で秋田県勢は第1回大会以来、103年ぶりとなる決勝に駒を進めた。吉田輝星 (日本ハムドラフト1位) 擁する金足農の快進撃に日本中が沸いた。その秋田代表として今から30年前の平成元年、甲子園に旋風を巻き起こした1年生エースがいた。1年夏の4強から3季連続で聖地の土を踏み、その後阪神に進んだ “ 元祖・秋田の星 ” 中川申也氏が、フィーバーに振り回された野球人生と秋田の高校野球への思いを明かした。「秋田の人はあんまり僕のことを好きじゃないと思いますよ。生意気だったし、調子に乗ってやりたい放題で評判も悪かった。早い話がてんぐになっていたってことです」 中学時代の実績を買われて鳴り物入りで秋田経法大付属 (現明桜) に進学した中川氏は、背番号11ながら1年生エースとしてチームを甲子園に導く。初戦の出雲商戦で完封勝利、3回戦の星稜戦では名門の意表を突く本盗で接戦を制し、瞬く間に4強へ駆け上がった。「印象深いのはやはり初戦。甲子園はスタンドが広くて、そのぶん打者までの距離が短く感じた。1人目を打ち取ったら、もう緊張はなかった。星稜戦はね、俺が 『(相手の) 左ピッチャーなんか打てん』 と言ったら、前夜に監督とコーチが風呂場で 『もうホームスチールしかないやろ』 と。走者も最初はサインの意味がわかっていなくて、3球目でようやくスタートを切ったんです」 準決勝で吉岡雄二擁する帝京に敗れたものの、甘いマスクの1年生エースは “ 東北のバンビ ”として一躍アイドルに。それまで田舎の高校生にすぎなかった生活は一変したという。「喫茶店もタクシーも全部タダ。『うちの娘が大ファンだから、サインくれたらタダでいいよ』 って。悪いやつにもよく絡まれたな。あるとき地元で有名な暴走族の総長がずっと練習を見に来よって 『あちゃ~、俺なんかしたかなあ』 と思ってたら 『お前のファンや、何かあったら俺に言え』 って。それから絡まれることはパタッとなくなりましたね (笑い) 」その後も2年春、夏と聖地の土を踏んだが、3年の夏は県大会決勝で敗退。ドラフト5位で阪神に入団するも1年時からの投げ過ぎがたたり、一軍の舞台で投げることなくユニホームを脱いだ。「確かに俺はてんぐになっていた。でも、そうさせたのはマスコミも一緒。『何でそんなに体大きくなったの?』 って聞かれて、冗談で 『メシやないです、女いっぱい食ったんすよ』 って言ったのを、本当に書くかと (笑い)。まあ、今となっては笑い話ですけどね」退団後は建設会社に入社。子供が野球を始めたのを機に、今では野球教室で少年たちに指導を続ける。「秋田にもユニホームで勝てるチームが出てきてほしい。帝京、横浜、星稜、大阪桐蔭。どこも整列しただけで威圧感があるでしょ。『秋田と当たってラッキー』 と思われるようじゃ、その時点で負けも同然。せっかく金足農があそこまで行ってくれたんだから、金足農でも明桜でも秋田商でもいい、常連チームが出るようになってくれれば。そうすれば打倒○○!って、県全体のレベルも上がりますから」 金足農が思い起こさせた30年前の秋田の躍進。“ 元祖秋田の星 ” は、フィーバーのその先を願ってやまない。1973年6月30日生まれ。秋田県横手市出身。山内小4年時に同校のクラブで野球を始める。山内中では軟式野球部。秋田経法大付進学後、1年夏、2年春、2年夏と3季連続で甲子園に出場し、1年夏は4強。91年ドラフト5位で阪神入団。95年の引退後は建設会社に勤めるかたわら野球教室を開き、少年野球の指導にあたる。176センチ、78キロ。左投げ左打ち。


- 2019年現在 下記5団体 -

レインボーリーグ(西日本中学硬式野球連盟)


大館桂桜 部員の不祥事を理由に推薦辞退





<新聞報道> 日本高野連は1月26日、定例の審議委員会を開催し、日本文理における部員の部内暴力とSNSの不適切使用問題について審議。日本学生野球協会へ処分申請することを発表した。同校では18日、2年生部員1名が、1年生部員2名に対して暴力行為を行いを行い、別の2年生部員1名が被害部員2人のうち1名に対する暴力行為の様子を動画撮影。その動画は部内で拡散され、別の1年生部員2名がSNSへ投稿したことで発覚した。同校からは25日付けで今春センバツの一般推薦を辞退する旨、新潟県高野連に届け出があり、大会主催者である毎日新聞社と日本高野連は、辞退を了承した。日本文理は春夏通算16度の甲子園出場を誇り、昨秋は新潟大会で準優勝。同北信越大会準々決勝で星稜(石川)に敗れ、今春センバツ出場は絶望的となっていた。<2022.1.21> 日本文理高校(私、新潟市)は1月20日、寮内で野球部員による暴力行為があったとホームページ上で公表した。外部から「いじめの様子が写った動画が拡散されている」との指摘を受け、調査していた。同校は甲子園に数多く出場している強豪校で、新潟県高野連や県に報告した。同校から報告を受けた県大学・私学振興課によると、部員による暴力行為を写した動画がSNS(会員制交流サイト)で投稿され、インターネット上で拡散した。同校は関係する部員に指導したという。同校の田中利夫校長はホームページ上で「期待を裏切る行為を行ったことに対し、深く謝罪します」とコメントした。


