2021年02月
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昭和59年4月14日の秋田商-秋田高定期戦(OB戦)で兄弟選手が活躍、兄の秋田商菅原一夫選手(山王)と弟の秋田高菅原文夫選手(山王)。一夫選手は昭和54年、主将、三塁手として甲子園出場し、対広島商戦で三塁打、今春駒澤大学を卒業して母校秋田商のコーチ ※ 就任。秋田市役所野球部※ に籍を置く弟の文夫選手は、定期戦でも中前打放つ活躍。興味深いのは、兄 / 秋田商田口淳選手(下浜)と弟 / 田口康(下浜)選手も菅原兄弟と同じパターン。※ 肩書は当時
<昭和54年春 秋田商登録選手> [投]籾山詩男(3、船川)、[捕]佐藤文信(3、山王)、[一]熊谷和秋(2、秋田南)、[二]佐藤義己(3、船川)、[三]○菅原一夫(3、山王)、[遊]横山幸悦(3、秋田西)、[左]畠山哲人(2、二ツ井)、[中]佐藤康二(2、外旭川)、[右]近藤幸彦(2、鷹巣)、安保浩幸(2、八幡平)、高山郁夫(2、花岡)、薄田勝也(2、五里合)、森川順一(2、秋田西)、鎌田義幸(2、男鹿東)、高橋徳之(2、土崎)、三浦英美(2、船川)、七尾光昭(2、二ツ井)、小山大(3、羽城)、田口淳(3、下浜)、近藤博(3、琴丘)、[責]登利谷重郎、[監]三浦第三、[記]湊雅彦。<昭和56年春 秋田高登録選手> [投]石井浩郎(2、八郎潟)、[捕]鈴木彰(3、秋田北)、[一]伊保谷徹(1、山王)、[二]高橋誠(2、秋田西)、[三]三浦純也(2、秋田西)、[遊]○猿田和三(3、豊岩)、[左]住吉浩鹿(2、秋田西)、[中]稲垣寿(3、秋田西)、[右]菅原謙二(2、羽城)、天野清美(3、秋田東)、石井浩次(3、雄和)、佐々木誠(2、羽城)、立花俊幸(1、城東)、小野武紀(3、土崎)、伊藤元(2、秋田南)、浅野英樹(3、五城目一)、菅原文夫(3、山王)、[責]竹内一朔、[監]大久保正樹、[記]沢田石辰美(3、五城目一)。<昭和59年春 秋田高登録選手> [投]菅野淳(3、秋田西)、[捕]栗山英(3、五城目一)、[一]中田善英(3、潟西)、[二]鷲谷衛(3、井川)、[三]加賀谷隆之(3、天王)、[遊]○鈴木亮(3、羽城)、[左]中島一人(3、秋田西)、[中]工藤衛(2、大正寺)、[右]佐々木真樹(3、秋田西)、田口康(3、下浜)、太田政直(2、城東)、米谷友(2、天王)、高砂明(2、秋田北)、小林勇人(1、城東)、加藤明(1、五城目一)、渡部純(3、秋田北)、高田環樹(1、土崎)、[責]竹内一朔、[監]大久保正樹、[記]金谷仁(3、外旭川)。
足が速く備範囲が広い https://twitter.com/Golden_Rebirth
令和2年4月 能代市立第五小 → 秋田市立泉小
宮城教育大時代 仙台六大学リーグ 外野手部門(右投左打)ベストナイン
能代山本4-1男鹿潟上南秋 https://ballpark-akita.com/
能代山本 全日本少年軟式野球大会(静岡)男鹿潟南秋選抜 東北選抜大会(宮城)出場
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-決勝トーナメント-
能代リトルシニア新監督に米村洋志コーチ就任。<2016.10.08> 小野仁投手とライバル左腕だった西武嶋重宣外野手(37)2013シーズン限りで現役引退。試合時間が4時間を超える4時間15分の大激戦 (山形県野球場)、延長16回二死3塁からの右前安打で経法大付0-1Xのサヨナラ負け。小野、嶋両左腕投手の奪った三振は計45 (小野26、嶋19)。経法大付は嶋投手から7安打(三塁打鈴木、二塁打高橋)6四死球も球速とコンビネーションにもかわされて力負けの感は否めなかったが、もし、この試合に勝利していたら平成2年以来の秋田県勢2校センバツ出場も現実味を帯びていた。<秋田経法大付先発メンバー> [二]米村洋志(1、山王)、[三]佐々木由紀(2、雄和)、[左]鈴木敦則(2、土崎)、[一]田口潤(2、豊成)、[捕]高橋敬史(2、秋田東)、[投]○小野仁(2、泉)、[中]古田岳大(2、馬込)、[遊]佐藤信行(2、潟西)、[右]佐々木貴幸(1、中仙)、藤田主史(2、藤里)、工藤裕次郎(1、秋田東)、斎藤敬悦(2、刈和野)、武藤雅人(1、平和)、袴田悦章(1、能代南)、児玉泰司(2、花輪二)、最上新悟(2、岩岡)、木村博文(2、花輪二)、[部]古谷孝男、[監]鈴木寿、[記]出雲大輔。
【2015.2.04】徳島池田高校野球部元監督故蔦文也氏の妻、キミ子さんが2015(平成27年)2月3日、死去(徳島市出身、91歳)。【2013.10.27】2013(平成25年)高校野球秋季四国大会準決勝(10月26日、坊っちゃん)で徳島第3代表池田が徳島第1代表生光学園に9-3で勝利し、1992年夏以来22年ぶりの甲子園出場に大きく前進。岡田康志監督は池田が79年夏の甲子園で準優勝したときの主将。池田はかつて蔦監督のもと、74年に11人のメンバーでセンバツに出場、準優勝を果たし「さわやかイレブン」旋風、また、82年夏の甲子園では「やまびこ打線」と呼ばれた圧倒的な攻撃力で初優勝。翌年のセンバツも制し夏春連覇達成。【2013.7.23】「攻めダルマ」 の異名をとり、徳島県立池田高を春夏3度甲子園優勝に導いた故蔦文也監督の実像に迫るドキュメンタリー映画 「蔦監督」(仮称)の制作が大詰め。メガホンをとったのは蔦監督の孫で、映画監督の哲一朗さん(29)。哲一朗さんは三好市池田町出身、県立池田高から東京工芸大で映像を学び大学卒業後は映画制作を行う一般社団法人を設立、代表に就任。自然と人との共存を描いた映画 「祖谷物語~おくのひと」 でも注目を集める。「蔦監督」(仮称)は今夏に撮影を終え完成する予定。 【2011.12.19】蔦文也と池田高校教え子たちが綴る〝攻めだるま〟野球の真実(ベースボールマガジン社)。(紹介文より)畠山準・水野雄仁・江上光治著、定価税込945円。〝池高〟空中野球が日本中を熱狂させた。<蔦文也>1923年8月28日生まれ、徳島県出身。徳島商時代には投手、一塁手として甲子園の土を三度踏む。その後、同志社大、社会人では全徳島で都市対抗に3度出場。1950年に東急フライヤーズに入団するが、1年で退団し、翌年、池田高校の教員となる。1952年から野球部監督を務め、指導20年目の1971年夏に甲子園初出場を果たす。2度目の出場となった1974年春センバツはわずか11人で準優勝に輝き、“さわやかイレブン”として全国に旋風を巻き起こした。ハイライトは1982年夏、1983年春の連覇。筋力トレーニングで鍛えられた打線の爆発力は、高校球界に大きな衝撃を与えた。1991年に勇退するまで、計14回の出場で優勝3回、準優勝2回。2001年4月28日、肺ガンのため逝去、享年77。