★ 備忘録 「熱球通信」 ・ 特定非営利活動法人秋田県野球フォーラム ★

「熱球通信」は特定非営利活動法人秋田県野球フォーラム会員有志による備忘録を兼ねた「秋田県野球」にこだわった私的ブログです。掲載している記録等については公式なものではありませんのでご注意願います。リンク等についてはオールフリーですので事前のメール等一切不要です。更新頻度は原則毎日の更新です。秋田県出身で県外に在住の方も念頭に更新していきますが、内容等一部については地元情報と時差が生じる場合があります。練習・親善試合の結果情報は原則掲載しません。また、コメント送信欄と掲示板については諸般の事情により対応していません。積極的な中学硬式野球・女子野球の紹介に努めています。

2021年02月

秋田県の野球場紹介 潟上市内3野球場 長沼球場・元木山球場・飯田川南公園球場

NorthSouth>さん https://twitter.com/NorthSouth_BB

2019年秋季関東大会出場 花咲徳栄高校 / 髙森陽生、須田新太選手 (象潟中)。

須田新太投手 (象潟中)関甲新学生野球連盟 上武大進学
<チョコパン>さん https://twitter.com/smalto19
kisa

第25回ふるさとイベント大賞 優秀賞 / 全国500歳野球大会(秋田県大仙市)

全国の自治体などでつくる地域活性化センター主催 / 秋田県内イベントの受賞は初
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週刊ベースボール / 2021 / プロ野球 12球団秋田県関係選手・指導者 <1>

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週刊ベースボール / 2021 / プロ野球 12球団秋田県関係選手・指導者 <2>

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2006年春東北連盟加盟 / 感謝・謙虚・素直 / リトルシニア秋田OB選手情報

1154増山裕太選手 東北大学学友会硬式野球部。https://ameblo.jp/tohokubbt/entry-12648466233.html <2020.4.02> 田澤諒選手 自治医科大準硬式野球部http://www.just.st/index.php?tn=index&in=307350&pan=3042&pc=off  ・ 田澤諒(秋田-秋大付)、増山裕太(秋田-秋大付)、藤原惇二郎(秋田南-雄和)、藤原龍之介(秋田南-城東)、石井元(秋田南-泉)、河野泰治(秋田中央-山王)、 岩谷剛志(秋田商-土崎)、 渡邊浩伸(秋田商-桜)、 工藤大輝(明桜-八郎潟)、 柴田大雅(明桜-外旭川)、 田村慶太(能代松陽 / 主将-城南)、 深堀堅心(能代松陽-城東)、 下村凜太郎(横手清陵-横手清陵)、 鎌田攻(秋田修英-城南)、 西岡海斗(秋田修英-城南)、 工藤音弥(秋田修英-桜)、 古川原将真(東北-厨川、盛岡北)、 工藤竜馬(東北-山王)、 池田悠(仙台育英-勝平)。

ベースボールマガジン / 週刊ベースボール2021.2.23 / プロ全選手写真名鑑

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記録 / 高校野球ドットコム / センバツ大会でまだ優勝を達成していない19道県

〇 第93回大会出場校あり    ※ 夏選手権大会優勝なし
https://www.hb-nippon.com/
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秋田野球人名録 / 伊藤勝三(秋田県野球界功労・日本プロ野球界初選手兼任監督)

katuzou60秋田県軟式野球連盟六十年史(平成18年12月1日発行)でも詳しく紹介。明治40年5月14日、現在の秋田市千秋矢留町生まれ。秋田中(甲子園出場)から慶応義塾大学→ノンプロ東京クラブと進み、昭和7年の都市対抗で優勝。ポジションは主に捕手。昭和11年プロ野球草創期の大東京軍に入団し、永井武雄監督解任を受け選手兼任監督1号に、戦績は2勝27敗3分。戦後秋田に帰郷し、県内実業野球の育成や母校秋田高の指導にあたる。創業した妻の実家の家業を助けるべく再上京し、秋田高校野球部OB会「東京矢留会」を設立。昭和57年2月10日、74歳で逝去。没後も「伊藤勝三基金」「伊藤勝三スポーツ振興基金」を通して秋田県スポーツ界を支援。・時事通信社 「時空甲子園」 秋田高校 秋田中時代からの伝統を誇る名門。1915年、夏の第1回大会に出場し準優勝。決勝で延長13回の熱戦の末にサヨナラ負けした。投の大久保、打の成田で65年にもベスト4。後藤、石井、滝田と並ぶ中軸打線は強力。プロで162本塁打放った 「男・石井」 の長打力に期待したい。猿田は慶大で主将。同じ慶大成田の打撃も勝負強い。投手陣の層が薄いのはやや気がかり。捕手の人材が豊富。伊藤も本職は捕手、戦前の大東京で監督を務めた。 [遊] 猿田和三、[中] 成田憲明、[二] ★後藤光尊、[三] ★石井浩郎、[左] ★滝田政治、[右] ★小西秀朗、[一] ★伊藤勝三、[捕] ★阿部茂樹、[投] 大久保正樹、齋藤新、太田政直、菅原朗仁、★永井洋二郎、高田環樹、菅原勇輝、佐藤翔、石井勇悦、小野巧。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E8%97%A4%E5%8B%9D%E4%B8%89

東スポWeb / 初めてのキャンプは本当に訳の分からないまま終わっていきました

https://www.tokyo-sports.co.jp/aray 藤田太陽「ライジング・サン」(17) 2001年、僕にとって初めてのキャンプは本当に訳の分からないまま終わっていきました。初日に二段モーションの矯正を指令され、適応できずに右太ももの肉離れ、右ヒジ痛を抱えながら乗り切った印象です。そこから先のほうがもっと大切なのに。この時点で心も体も疲れ切っていました。その後もオープン戦に入っていきますが、しっくりこない一段モーションも、訳が分からないままに、ちょっとずつ結果が残ってしまうのです。今思えば、他球団も探りを入れていたのでしょう。状態の良くないまま結果を残させて本番で叩きのめそうと考えていたのかもしれません。プロの世界とは、そういうものです。僕の中でも、こんなので一軍に残っていていいのか。そう思うんですけど、残ってしまうんです。外されない。そりゃ、阪神のドラフト1位となれば話題性もあるし、そういうことだったんでしょう。でも、心も体も限界でした。開幕の時なんてワクワクも何もありません。僕の野球人生の中で、あの入団から開幕戦までの4か月くらい、その期間が野球だけに限らず今までの人生の中で一番苦しかったと言っても間違いないですね。期待に応えられない。開幕戦では打ち込まれて、すぐに二軍行き。ヒジも痛い。すべてがダメで。新聞に書かれている見出しが、自分が殺人犯? 犯罪者みたいな責められ方です。何となく自分の身体能力だけでドラフトしてもらい、プロの舞台にまできてしまった。だから自分自身の内面の未熟さを自覚できていませんでした。あのときは立ち直れなかったですね。自分自身のプロの投手としての能力を客観的に知っていてというなら、修正したり困ったら戻ってくる地点というのもあるんですがね。確固たるものもないので、先輩に相談するにしても、何をどう質問していいかも分からないんです。なんか結局そういう時って、僕はおはらいに行ったりとか、そっちのほうに行ってしまった。神社に行って、じっくり考えてみるとか。もちろん、信仰心を否定する意図はないですよ。でも、当時の僕の頭の中では神様に頼ってみても「無理」という言葉しか出てこなかった。周囲から見れば才能にあふれ、希望しかない若き虎戦士と思われていたのでしょう。でも、当時の僕は外出すれば人目につきたくないから、隠れていました。こんなに体が大きいのにね。「頑張らんかい。応援してるで」。そう言われても、自分としては「もう頑張ってるわ」というのがすべてなんですよ。でも、それを口に出して反論するわけにもいかない。ファンの方々は僕に期待して応援してくれているわけですから。力のない自分が悪い。それがすべて。プロなんですから。プロだから力のあるやつが勝つし、要領のいいやつが残っていくんです。ルーキーイヤーのこの半年の出来事は、その後、5年くらいは引きずっていました。こんな状態で2年目に一気に変身できるのか。もちろん、できませんでした。期待されながらも思ったような活躍ができない。仕方ないことですが、虎のドラ1という色眼鏡で見られることも避けられない。若き日の僕には苦悩が続きました。

秋田県高校野球ライバル物語/昭和59年 秋商-秋高 定期戦 菅原一夫-菅原文夫

昭和59年4月14日の秋田商-秋田高定期戦(OB戦)で兄弟選手が活躍、兄の秋田商菅原一夫選手(山王)と弟の秋田高菅原文夫選手(山王)。一夫選手は昭和54年、主将、三塁手として甲子園出場し、対広島商戦で三塁打、今春駒澤大学を卒業して母校秋田商のコーチ ※ 就任。秋田市役所野球部※ に籍を置く弟の文夫選手は、定期戦でも中前打放つ活躍。興味深いのは、兄 / 秋田商田口淳選手(下浜)と弟 / 田口康(下浜)選手も菅原兄弟と同じパターン。※ 肩書は当時

mark<昭和54年春 秋田商登録選手> [投]籾山詩男(3、船川)、[捕]佐藤文信(3、山王)、[一]熊谷和秋(2、秋田南)、[二]佐藤義己(3、船川)、[三]○菅原一夫(3、山王)、[遊]横山幸悦(3、秋田西)、[左]畠山哲人(2、二ツ井)、[中]佐藤康二(2、外旭川)、[右]近藤幸彦(2、鷹巣)、安保浩幸(2、八幡平)、高山郁夫(2、花岡)、薄田勝也(2、五里合)、森川順一(2、秋田西)、鎌田義幸(2、男鹿東)、高橋徳之(2、土崎)、三浦英美(2、船川)、七尾光昭(2、二ツ井)、小山大(3、羽城)、田口淳(3、下浜)、近藤博(3、琴丘)、[責]登利谷重郎、[監]三浦第三、[記]湊雅彦。<昭和56年春 秋田高登録選手> [投]石井浩郎(2、八郎潟)、[捕]鈴木彰(3、秋田北)、[一]伊保谷徹(1、山王)、[二]高橋誠(2、秋田西)、[三]三浦純也(2、秋田西)、[遊]○猿田和三(3、豊岩)、[左]住吉浩鹿(2、秋田西)、[中]稲垣寿(3、秋田西)、453684a7-s[右]菅原謙二(2、羽城)、天野清美(3、秋田東)、石井浩次(3、雄和)、佐々木誠(2、羽城)、立花俊幸(1、城東)、小野武紀(3、土崎)、伊藤元(2、秋田南)、浅野英樹(3、五城目一)、菅原文夫(3、山王)、[責]竹内一朔、[監]大久保正樹、[記]沢田石辰美(3、五城目一)。<昭和59年春 秋田高登録選手> [投]菅野淳(3、秋田西)、[捕]栗山英(3、五城目一)、[一]中田善英(3、潟西)、[二]鷲谷衛(3、井川)、[三]加賀谷隆之(3、天王)、[遊]○鈴木亮(3、羽城)、[左]中島一人(3、秋田西)、[中]工藤衛(2、大正寺)、[右]佐々木真樹(3、秋田西)、田口康(3、下浜)、太田政直(2、城東)、米谷友(2、天王)、高砂明(2、秋田北)、小林勇人(1、城東)、加藤明(1、五城目一)、渡部純(3、秋田北)、高田環樹(1、土崎)、[責]竹内一朔、[監]大久保正樹、[記]金谷仁(3、外旭川)。

東スポWeb / 初日からフォーム変更余儀なくされマスコミの洗礼も受けました

https://www.tokyo-sports.co.jp/aray 藤田太陽「ライジング・サン」(16) アマ時代に確固たる自信を持つことができないままプロ入り。社会人の3年間でもしっかり活躍できず、こんなのでドラフト1位が決まっていいのかという思いのまま、注目される立場となってしまいました。キャンプでは初日からフォーム変更を余儀なくされ、マスコミの洗礼も受けました。体にも増して精神的にも疲労を蓄積させていく毎日でした。もう、自分の中では完全に分からなくなっていました。本当に試行錯誤の末、アマ時代に二段モーションでのフォームを定着させ日本代表にまでなった。そしてやっとプロに入ってきて、今度は二段モーションを矯正しないと使わないぞと言われたら、21歳の若者はどうするでしょう。自分のフォームのバランスもしっくりこず、タイミングも取れなくて悩みました。もともと、一段モーションというか、一般的に普通の投げ方が合わずに二段モーションにしてきたわけです。でも、プロ野球の世界に人生賭けてきていますから、首脳陣に強制されればチャレンジしてしまいますよね。でも、当時の僕はここで柔軟にはなれなかった。しっかり話を聞いているフリでもして、それでもダメだから、やっぱり二段モーションに戻してみるかと言わせるように持っていくとか、そんな柔軟な対応はできませんでした。結果を残せる人はそこで結果残せたと思うんです。僕は頭も体も柔らかくなかったから、モヤモヤが反発になってしまった。「なんでや! ふざけんなよ!」としか思えなかったんです。マスコミの方々から取材をされても、心の中では「こんなに状態も悪いのに、調子もクソもないわ」と思っていました。さらに悪いことに、このころは右太もも裏も肉離れしていて、足は痛いわヒジも痛いし、フォームもワケわかんないしでどうしようもない状態になっていました。それこそ悪循環なのですが、痛みには強い方で、練習も実戦もやれない範囲ではなかったのでキャンプを離脱するほどではなかった。太もももテーピングでグルグル巻きにすれば、多少走れなくても普通のプレーはできちゃいました。でも、あれはよくなかったです。ちゃんと別メニュー調整しなきゃいけないでしょ。そんなのが1年目のキャンプでした。ただ、こういう話は結果を出していない人が言うと言い訳でしかないんです。だから、当時は言えなかった。でも、そのときに自分が持っていた感情とか、あんときもっとこうしておけば、もうちょっとうまくできたんじゃないかなとか。正解かは分からないけど、何かもっとやるべきことがあったんじゃないかと考えてしまいますね。今なら分かるんです。当時は真っすぐな気持ち、阪神のエースになるんだという純粋な思いしかなかった。フォームの矯正で悩んでいること、ヒジの痛みがあること、太ももの肉離れを隠して練習を続けてしまったこと。これは僕を見守って獲得してくれた佐野さんにしか言えなかったです。僕が入団したときの監督は野村克也監督です。球界のレジェンドです。阪神は球団の歴史でもほとんどなかった外様の監督を招聘しました。そういう事情は少なからず、チーム内の風通しにも影響をもたらすと思います。担当スカウトの口から、野村克也監督に「太陽はこういう状態だから、ちょっと様子を見てやってください」と言うのも言いづらかっただろうなと想像がつきます。少しずつの歯車の狂いを、圧倒的な実力で解決できない自分の力のなさ。もやもやしたまま、僕はキャンプからオープン戦、そして開幕を迎えることになってしまいます。

社会人野球 / ゴールデンリバース#28 佐藤海斗 外野手(能代松陽-勝平-勝平)

GR 佐藤海斗選手社会人野球勇退へ
足が速く備範囲が広い https://twitter.com/Golden_Rebirth

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社会人野球 / ゴールデンリバース #6 鈴木潤内野手(右/左、秋田商主将-角館)

GR 鈴木潤選手社会人野球勇退へ

湯沢市社協 除雪ボランティア隊登録 / 湯沢翔北高校野球部員 体力生かして除排雪

統合前の湯沢商工時代からボランティア登録
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2019.1.1 / 独立リーグ在籍経験 千葉雄太教諭(宮城教育大-秋田南-城南)

近年注目を集めている独立L 四国アイランドリーグplus 高知ファイティングドッグス
令和2年4月 能代市立第五小 → 秋田市立泉小

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宮城教育大時代 仙台六大学リーグ 外野手部門(右投左打)ベストナイン

平成23年 第2回東北地区3連盟大学野球対抗戦(7/9.10、大館樹海ドーム)

8ea039db平成23年第2回東北地区3連盟大学野球対抗戦が7/9.10の両日大館樹海ドームで開催。北東北、南東北、仙台六大学の3連盟から選抜された選手が総当り戦で対戦。秋田県関係出場選手、[仙台六大学]千葉雄太選手(宮城教育大-秋田南)、[北東北]佐藤弘典選手(富士大-金足農)。<平成19年夏秋田南登録選手>[投]榎本靖彦(3、男鹿東)、[捕]加藤慶一郎(2、秋田南)、[一]〇 伊藤大樹(3、五城目一)、[二]諸井翔(2、勝平)、[三]伊藤卓也(2、羽城)、[遊]鈴木直隆(3、協和)、[左]鈴木康平(3、太平)、[中]中川拓(3、土崎)、[右]青羽駿(3、常盤)、佐藤亮(3、勝平)、高谷習(2、外旭川)、小松研吾(3、城南)、嵯峨裕己(3、五里合)、安宅佑太(3、下浜)、伊藤流馬(2、城東)、藤原慎太郎(2、雄和)、水原丈(2、御野場)、中村洋平(1、城東)、千葉雄太(3、城南)、佐々木孝太(3、城東)、[部]伊藤剛、[監]野中仁史、[記]木村弘之(3、将軍野)。

2020 文部科学大臣杯第12回全日本軟式野球大会 兼 秋田県郡市選抜強化大会

文部科学大臣杯第12回全日本軟式野球大会 9/18~に延期
能代山本4-1男鹿潟上南秋  
https://ballpark-akita.com/

EkKE6hZUcAE-m3r
能代山本 全日本少年軟式野球大会(静岡)男鹿潟南秋選抜 東北選抜大会(宮城)出場
https://ballpark-akita.com/gakusei/2020senbatsu-k.html
-決勝トーナメント-

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予選リーグ 大曲仙北出場辞退
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ベースボールマガジン/週刊ベースボール2021.2.15&22/12球団戦力図

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ゼンカさんツイッター投稿 / 秋田市立秋田東中学校野球部 成田 翔 投手(保戸野)

<ゼンカ>さん   https://twitter.com/chun2_lovelive
27e057a2

1993(平成5年) 秋季東北高校野球大会 準決勝 東北-秋田経法大付(山形)

bbb89d87能代リトルシニア新監督に米村洋志コーチ就任。<2016.10.08> 小野仁投手とライバル左腕だった西武嶋重宣外野手(37)2013シーズン限りで現役引退。試合時間が4時間を超える4時間15分の大激戦 (山形県野球場)、延長16回二死3塁からの右前安打で経法大付0-1Xのサヨナラ負け。小野、嶋両左腕投手の奪った三振は計45 (小野26、嶋19)。経法大付は嶋投手から7安打(三塁打鈴木、二塁打高橋)6四死球も球速とコンビネーションにもかわされて力負けの感は否めなかったが、もし、この試合に勝利していたら平成2年以来の秋田県勢2校センバツ出場も現実味を帯びていた。<秋田経法大付先発メンバー> [二]米村洋志(1、山王)、[三]佐々木由紀(2、雄和)、[左]鈴木敦則(2、土崎)、[一]田口潤(2、豊成)、[捕]高橋敬史(2、秋田東)、[投]○小野仁(2、泉)、[中]古田岳大(2、馬込)、[遊]佐藤信行(2、潟西)、[右]佐々木貴幸(1、中仙)、藤田主史(2、藤里)、工藤裕次郎(1、秋田東)、斎藤敬悦(2、刈和野)、武藤雅人(1、平和)、袴田悦章(1、能代南)、児玉泰司(2、花輪二)、最上新悟(2、岩岡)、木村博文(2、花輪二)、[部]古谷孝男、[監]鈴木寿、[記]出雲大輔。

故 蔦文也元池田高校野球部の妻キミ子さん 平成27年2月3日死去(享年91歳)

bbm105127【2015.2.04】徳島池田高校野球部元監督故蔦文也氏の妻、キミ子さんが2015(平成27年)2月3日、死去(徳島市出身、91歳)。【2013.10.27】2013(平成25年)高校野球秋季四国大会準決勝(10月26日、坊っちゃん)で徳島第3代表池田が徳島第1代表生光学園に9-3で勝利し、1992年夏以来22年ぶりの甲子園出場に大きく前進。岡田康志監督は池田が79年夏の甲子園で準優勝したときの主将。池田はかつて蔦監督のもと、74年に11人のメンバーでセンバツに出場、準優勝を果たし「さわやかイレブン」旋風、また、82年夏の甲子園では「やまびこ打線」と呼ばれた圧倒的な攻撃力で初優勝。翌年のセンバツも制し夏春連覇達成。【2013.7.23】「攻めダルマ」 の異名をとり、徳島県立池田高を春夏3度甲子園優勝に導いた故蔦文也監督の実像に迫るドキュメンタリー映画 「蔦監督」(仮称)の制作が大詰め。メガホンをとったのは蔦監督の孫で、映画監督の哲一朗さん(29)。哲一朗さんは三好市池田町出身、県立池田高から東京工芸大で映像を学び大学卒業後は映画制作を行う一般社団法人を設立、代表に就任。自然と人との共存を描いた映画 「祖谷物語~おくのひと」 でも注目を集める。「蔦監督」(仮称)は今夏に撮影を終え完成する予定。 【2011.12.19】蔦文也と池田高校教え子たちが綴る〝攻めだるま〟野球の真実(ベースボールマガジン社)。(紹介文より)畠山準・水野雄仁・江上光治著、定価税込945円。〝池高〟空中野球が日本中を熱狂させた。<蔦文也>1923年8月28日生まれ、徳島県出身。徳島商時代には投手、一塁手として甲子園の土を三度踏む。その後、同志社大、社会人では全徳島で都市対抗に3度出場。1950年に東急フライヤーズに入団するが、1年で退団し、翌年、池田高校の教員となる。1952年から野球部監督を務め、指導20年目の1971年夏に甲子園初出場を果たす。2度目の出場となった1974年春センバツはわずか11人で準優勝に輝き、“さわやかイレブン”として全国に旋風を巻き起こした。ハイライトは1982年夏、1983年春の連覇。筋力トレーニングで鍛えられた打線の爆発力は、高校球界に大きな衝撃を与えた。1991年に勇退するまで、計14回の出場で優勝3回、準優勝2回。2001年4月28日、肺ガンのため逝去、享年77。

2012(平成24年)4月横手明峰中へ 雄物川中で閉校式(50年の歴史に幕)

NPOロゴメールouyou横手市総体 駅伝 で男子A優勝。<2012.2.06> 平成24年2月5日、横手市立雄物川中(生徒数255人)の閉校式が同中体育館で。雄物川中は、1961(昭和36年)に沼館、里見、福地、大沢、舘合の5校が統合して開校。2012.2.04>平成24年2月3日、大森中、雄物川中と統合して4月に開校する「横手明峰中」として新たな一歩を踏み出す大雄中(生徒数132人)体育館で閉校式。<2011.9.07> 平成23年9月5日、平成24年春に大雄中、大森中と統合する雄物川中学校閉校記念講演会が同校体育館で開かれ、OBの長谷川誠選手(40、秋田NH)と宇佐美大輔選手(32、パナソニック)は、「目標に向かって努力することの大切さ」を訴えた。<2011.2.07> 横手市立大森中学野球部(部員15人)が独居高齢者宅除雪ボランティアで地域奉仕。大森中は、平成24年度に雄物川中と大雄中との3校統合により「横手明峰」に。

NPB12球団ジュニアトーナメント2020(12/29~、明治神宮・横浜)

埼玉西武Jr.-東北楽天ゴールデンイーグルスJr.
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