2021年01月
https://www.tokyo-sports.co.jp/ 藤田太陽「ライジング・サン」(8) 高校に入学してからも1年生の時は控え選手でした。投手としては本当にたまに投げるくらいでした。ダブルヘッダーの2試合目に少し投げろとか、少し守れとかその程度でした。県内では甲子園とは無縁の高校とはいえ、やっぱり当時の3年生にはかなわなかったです。対抗できるものはというと、肩の強さだけでしたね。でも当然、野球ってそれだけじゃないですよね。あと、そんなことよりも星一徹のように豹変した父との鬼のトレーニングが苦しかったです。「何なんだよ、これは」とは思いながらも耐えてました。すると、2年生になって打球がいきなり段違いに飛ぶようになっていました。僕たちのチームでは練習試合で強いチームとはあまり対戦していませんが、2年生だった1年間でホームランを30本以上打てたんです。そうするともう、バッティングが楽しくなってしまいました。実は2年生の秋くらいには広島カープがドラフトにかけるという話もあったそうです。高校時代は日本ハムと広島から野手としてスカウトの調査が入っていました。事前に書き込んだ調査書では、投手と野手のどちらでプロでは勝負したいかを問われました。一応、チームとしては野手で考えているが、本人の希望は聞いておきますと。でも、入団してからはこちらで判断させてもらいますという話でした。とはいえ、当時の僕は高校生です。自分で判断もできないですし、監督のところで止まっていた話もあったそうです。中日やヤクルトからも調査があったようです。3年生で投手としてデビューした後には普通に145キロとか、投げていましたからね。当時の高校生としてはかなり速かった方だと思います。小中学校時代には投手をしていないので、使い減りしていないというのもプロ受けしたんだと思われます。ヒジのしなり、柔らかさがいいと、とにかくそこがいいと言われましたね。高校から野手としてプロ入りしていたらどうなっていたんでしょうね。その時点でそこそこ守れて、足が速くて、体が大きく頑丈なら、一から作ることができますよね。指名順も4位くらいで隠し玉として狙える。でも、当時の僕は本当にプロになんてなれるのか?という感覚でした。僕なんて誰も知らないのに。そんな気持ちでした。エグいなと自覚していたのは肩だけです。いわゆる、投手として投げるボールがすごいなとは思ってはいませんでした。外野からバックホームで投げているボールを、マウンドからズドンと投げているだけでしたから。何となくそのへんに真っすぐを投げて、意外にうまく習得できたスライダーを投げていたら、勝手に三振を取れるという感覚でした。3年生が引退し、新チームとなって2年生秋から投手として本格始動しましたが、秋にはまだ僕はエースではなかった。それで冬を越してやっと、ストライクが入るようになった。そんな初心者の投手でしたからね。ちゃんと投手にもなれていませんし、野手としてドラフト候補と言われても本当にピンときませんでした。そんな僕の内心とは裏腹に、3年生春からは投手としてどんどん結果が残ってしまう。1、2年生で土台を作ってきた成果も出ていると思われましたが、野球はそんなに甘くはなかったんです。
https://www.tokyo-sports.co.jp/ 藤田太陽「ライジング・サン」(6) 遊撃守備で強肩をひけらかす、という快感を覚えた中学3年の僕なのですが、相手校が強豪校の時などはアピールに必死でした。たくさん高校のスカウトの方々が見に来ますからね。なので、普段よりさらに深く守って見せ場をつくることにいそしんでいました。実際にその後、複数の高校からスカウトをしていただいたのですが、僕はあの肩で決めてもらったんだと、アピールは成功だったなと思っています。仙台育英、東北高、秋田経法大付、金足農業にそれぞれ推薦を出してもらいました。その何日か後に校内でケンカをしてしまって。理由は、その当時にお付き合いしていた彼女に、消しゴムを投げつけられた程度のちょっかいを出されて、もめ事になったレベルなのですが…。進学の支障にはならず幸いでした。ヤクルトの石川雅規が進学した秋田商も考えていましたが、僕にはスカウトは来てくれてなかったですね。条件として特待生とのお話をいただいたのは3校でした。その中で親は秋田経法大付、僕は仙台育英に気持ちが傾いていました。でも、もしけがをしてしまったらとか、僕の性格が判断を変えていきました。これは阪神を選ぶ時にもこういう気質が働いたと思うんです。実家は秋田で仙台だと親が試合を普段から見られないし、練習風景だって頻繁には見ることができない。それじゃあ、両親には楽しんでもらえないなと。じゃあ、何が一番いいだろうかと考えたんです。で、その当時、最も熱心に誘ってくれていたのが新屋高の鎌田監督だったんです。本当に熱意のある人で「君の手で甲子園に連れて行ってくれ。君のことが必要なんだ。君のために秋田県の中から、3年生になって甲子園を目指せるメンバーを血眼になって探し、スカウトしているから」と言われ心に響きました。他の選手にも同じこと、みんなに言っていたかもしれませんけどね(笑い)。強豪校のスカウトは「藤田くんさえ良ければ来てくれればいいですよ」というスタンス。もちろん環境も整っているし、素晴らしいなと思いました。でも、新屋高は「ウチのグラウンドは石ころだらけだけど、先生がちゃんと整備して何とか君たちに野球をやらせてやるから」という鎌田先生のスタイルでした。僕にとっては、こっちの方が信用できる先生だなというふうに感じました。違う判断をすれば未来は変わったかもしれません。でも、それはもう分からない話です。僕は新屋高の鎌田監督の下で野球をやりたいと思いました。本当に普通の公立高校でした。吹奏楽部が強くて全国大会にも出ているくらい。野球では無名です。学力も普通で5教科500点満点で300点弱取れれば合格のレベルでした。当時は公立高校でも運動部を優遇して獲れるシステムがあったそうで、僕は私立の強豪校ではなく新屋高を選んで進学しました。強豪校の環境やブランドより、誘ってくれた監督の人柄で進路を選んだ。それは、阪神に入団した時とどこか似ているような気がします。
平成29年秋田県500歳野球大会/若美OB会(男鹿市)で4強進出
2021年の野球殿堂入りが1月14日発表され、特別表彰で1996年アトランタ五輪日本代表監督の川島勝司氏(77)とノンフィクション作家の佐山和夫氏(84)が選出。・佐山和夫著「野球、この美しきもの。アメリカン・ベースボールと秋田野球」(水曜社)でも紹介。平成10年7月26日 第80回全国高校野球秋田大会決勝 金足農-秋田商は、金足農が9回二死から驚異の粘りで5点を奪い、逆転勝ちして甲子園切符を手中に。試合時間3時間28分、金農18安打、秋商21安打、延長ではなく9回のスコアで17-16の両チーム29人出場総力戦。<審判団>主審:堀内、塁審:庄司、佐川、小玉。<ラ本>中川(金)、<三>畠山(金)、菅(秋)、<二>菅原、柴田、吉田(金)、菅、川守田、鎌田、佐々木雄、荻原、佐藤一(秋)、<金足農投手交代>畠山(4 1/3)-田口(0/3)-北嶋(3 2/3)-佐藤佑(1)、<秋田商投手交代>伊藤大悟(2)-信田道輝(2/3)-荻原雄介(6)-佐々木雄志(0/3)-小松一行(1/3)。<金足農業高校先発>[中]柴田千諭(2、仁賀保)、[二]矢嶋賢吾(3、男鹿北)、[捕]○吉田朋広(3、将軍野)、[左]佐藤佑(3、城東)、[右]奥善行(3、男鹿東)、[三]中川大輔(2、天王南)、[一]菅原義人(3、協和)、[投]畠山雄大(3、男鹿中)、[遊]腰丸亮太(2、八竜)、小松宏行(2、城東)、金田一浩(合川)、田口正也(3、河辺)、佐藤光栄(2、上新城)、吉山悟哲(3、大館一)、高橋東建(2、川内)、千田伸(3、八郎潟)、安田善八(3、男鹿北)、北嶋尚之(2、八郎潟)、藤原茂樹(3、角館)、安田一哲(3、山本)、[部]浅利吉晴、[監]嶋崎久美、[記]小林成光(3、天王南)。<秋田商業高校先発>[中]豊嶋雄樹(3、協和)、[二]鎌田信幸(3、城東)、[遊]○佐々木雄志(3、勝平)、[一]田村彰啓(1、西仙北東)、[三]船木直人(3、飯島)、[右]川守田寛(3、土崎)、[左]佐藤一弘(3、八郎潟)、[捕]菅哲哉(3、雄勝)、[投]伊藤大悟(2、城東)、信田道輝(3、西仙北東)、荻原雄介(3、秋田東)、佐藤卓生(2、天王)、佐藤素啓(3、城東)、佐々木偉幸(3、城東)、佐々木嘉晃(2、河辺)、佐々木隆太(2、泉)、薄田健(2、五里合)、小松一行(3、城南)、那須一巳(3、大正寺)、坂本敦(3、勝平)、[部]上杉清博、[監]小野平、[記]佐藤記一(3、土崎)。
日刊スポーツ / 埼玉の空は、曇りがち。故郷・秋田の空は、どうだろうか。長谷川監督は、天を見つめた。「天国から見守ってくれていると思います」。18年8月11日、母校・秋田商の外山純元監督が亡くなった。69歳だった。葬式には行くことはかなわなかった。お別れ会で最後のあいさつ。同校は教員として、初めて赴任した学校でもあった。いろんな思いが交差した。「先生は(85年度第64回大会の)4位が最高成績。何とか超えられて良かったと思います」。天国により近い頂点から、優勝の報告を果たした。信条は「やらないミスより、やってミスする方がいい」。青森山田は「10回戦って、1、2回勝てればいい相手」。勝利の奇跡はビルドアップの心臓部、相手DF藤原へのマンツーマン。神奈川大の監督時代、強豪早大との試合で用いたアイデア。「(相手は)思いつかないんじゃないかと。10対10にしようと」。大舞台で、奇策に乗り出した。フィールドでは誰も思いつかない絵を描き、選手のためには0からイベントを作り上げた。コロナ禍で全国高校総体は中止。「選手権もできないと思っていた」。昨年7月。自ら発起人となり、山梨、長野、静岡の計6チームでの独自大会を開催。「監督の熱い思いに共感して」と味の素、キリンビバレッジが協賛についた。大会名はU-18甲信静 FOOTBALL LEAGUE 2020「From Now On」とし、英語で「これから」の意味を添えた。未曽有のコロナ禍。先行き不透明の中で「失敗することを考えない」と前を見続けたシーズン。心のケアにも、行動力で向き合った。自粛期間中には、感染対策を取り、選手1人1人と3~4回の面談を行った。全寮制の選手たち。保護者には、約2週間かけて全員に電話した。自身も2人の子を持つ親。選手の様子を事細かに伝え、不安を取り除いた。教員になった理由は「選手権で優勝したかったから」。秋田から始まった指導者人生。ようやく夢をかなえたが、まだまだ「これから」だ。【栗田尚樹】
日本体育大学硬式野球部@ntblabo【新入生紹介】
2020/08/31 20:32:07
74人目は、、
与良 大志
(#能代高校/秋田県)
です⚾︎
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<新聞報道> 神奈川県藤沢市の私立藤嶺藤沢高校で、硬式野球部員に素手でノックを捕球させてけがをさせたとして、県警は1月5日、監督の男性教諭(47)を傷害容疑で書類送検した。藤沢署への取材でわかった。監督は「技術の向上のためだった。けがをさせるつもりはなかった。申し訳ない」と話したという。署によると、監督は昨年9月26日午後にシートノックをした際、1年生の男子部員(16)に素手でノックを3球受けさせ、左手に挫傷による3週間のけがを負わせた疑いがある。学校の説明では、監督は部員に「グラブを外してみろ」と指示し、約35メートルの距離からノックした。生徒が翌日、監督に「昨日のノックで手を痛めた」と報告。監督はその場で保護者に連絡し謝罪したという。同校は「指導は適切ではなかった」として10月10日付で監督を戒告とした。監督は日本学生野球協会から謹慎3カ月の処分を受け、現在は指導をしていないという。<2020.11.19> 日本高野連は11月18日、定例の審議委員会を開き、日本学生野球協会審査室に上申することを決めた。<2020.11.08、毎日新聞> 神奈川県藤沢市の私立藤嶺藤沢高校硬式野球部で9月、男性監督(47)が練習中に1年の男子部員に素手でノックを受けさせ、全治3週間のけがをさせたことが、同校への取材で判明した。同校は「不適切な指導だった」として部員の父親に謝罪し、監督を1カ月指導停止などの処分としたうえで、県高校野球連盟に報告した。同校によると、監督は9月26日のノック中、捕球ミスをした部員に対し、「グラブを外しなさい」と指示し、ノックバットで計3球を打って素手の左手で捕球させた。部員は翌27日の練習前、監督に手のひらが腫れたことを伝え、同28日に病院で3週間の挫傷と診断されたという。同校は事実関係を調査し、校長と部長が10月7日、部員の父親に謝罪した。監督を同10日付で戒告とし、さらに同12日から1カ月の指導停止処分としたうえで、同29日に県高野連に経緯を報告している。日本学生野球協会は日本高野連から処分案の上申を受け、17日にも処分を公表する方針。監督は同校の調査に、素手でノックを受けさせたことについて「手のひらで捕球する感覚をつかんでもらいたかった」と説明したという。佐野健校長は取材に「不適切な指導だった。部員らには申し訳ないという気持ちだ」と話している。同校は1985年、夏の甲子園に出場している。【洪玟香】