
2021年01月




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藤田太陽「ライジング・サン」(15) 社会人最後のシーズンを故障のため棒に振り、確固たる自信を持てないままにプロの門を叩きました。虎のドラ1として過ごした喧騒は、今でもあいまいな記憶の中にあります。それでも時間は待ってくれません。入団会見、新人合同自主トレを経て高知・安芸での初めてのキャンプが始まりました。「初日からブルペンに入るのか? そのための準備はしてきたか?」。どんどんそんな質問も飛びます。自分なりの答えを返すのが普通なのでしょうが、正直なところ自分では決められなかったというのが事実です。投手コーチから「初日はこうです」と言われたそのまま実行する感じです。確か、初日にブルペン入ったんじゃないですかね。立ち投げで、そんなに球数は投げてないですけど、予想以上にめっちゃ疲れたのを覚えてます。これは今でも覚えてます。見られるってことはどういうことか、しっかり実感しました。新人ということで練習も最後まで残っていました。球場から宿舎の土佐ロイヤルホテルの正面玄関にタクシーで帰ると、ファンの方々にグワッと一瞬で囲まれたのを覚えています。今とは違って球団も交通整理をしてくれないし、疲れた体のまま逃げるわけにもいかず延々サインを書き続けました。初日だけではなく、サインはなるべく断らず書きました。1時間なんてゆうに超えていたと思います。夜間練習もあるし、夜食の時間もあるにはありましたが、体以上に気持ちが疲れてましたね。何かに追われる感じに心が疲弊していきました。アマ時代は本当の意味でトップではやってきていない自分。それなのに分不相応な注目を浴びてしまうことに慣れなかったです。状態が良くないのなら、マイペースで焦らずやらせてくださいという言葉も言えなかった。第1クールの期間中、記者から「開幕までどう調整しますか?」と質問されました。「焦らず、周りの先輩たちはハイペースでつくられているんですが、僕は自分のペースをきっちり守ってつくってやっていきます」と答えました。そうすると翌日には「太陽、マイペース宣言」とどデカい見出しで書かれたんです。なんでそんな書き方をされないといけないんだろ。もう、話す気がうせました。そのころ、アマ時代にようやくたどり着いた二段モーションで投球していたのですが、キャンプに入るなり矯正されていました。そうしろと言われれば、チャレンジしてしまいますよね。「えっ、なんでいきなり」とは思いましたが、プロのコーチが言うんだから、自分を伸ばすために意図があるんだろうと思って従いました。ただ、やってみてもダメでした。全然バランスは悪いし、しっくりこなかった。そこで、相談したんです。まずはこの二段モーションのままでやらせてくださいと。しかし、答えは「そんなのダメに決まってんだろ」のひと言でした。「何が決まってるんだ」と僕も思ってしまいましたが、ちゃんとコーチにも理論があったんでしょう。野村監督から、二段モーションをやめさせろと言われていた背景もあると思います。ただ、これは当時の八木沢投手コーチを非難したいんじゃないということは理解してください。その意図はありません。どんな事情があったにせよ、僕自身がしっかり対処して結果を残せていれば何も問題はない。自分の実力不足と自覚しています。ただ、当時の僕にはそんな余裕がなかった。そこからもうまく歯車がかみ合わないプロ生活が続いていきます。


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藤田太陽「ライジング・サン」(14) 社会人2年目に日本代表メンバーに選出され、インターコンチに出場しました。個人としては最優秀防御率として表彰され、チームも銅メダルを獲得。その翌年は2000年シドニー五輪となる予定でした。自分の夢でもあった五輪の表彰台で金メダルを首にかける姿。しかし、それは実現せぬまま終わります。五輪の合宿には招集されましたが、僕は期間中に背中の肉離れを起こしてしまいます。投球時に後ろから叩かれたような感覚に襲われ、何が起こったか分かりませんでした。僧帽筋の下に入っていて背骨から肩甲骨につながる菱形筋を痛めてしまいました。そのまま五輪メンバーからも外れて、社会人最後となるシーズンは、そのままほぼ投げずに終えてしまいました。担当スカウトの阪神・佐野さんには「大きなけがだけはするなよ」と言われていました。背中の肉離れは幸いにも後遺症の残るようなけがではありませんでした。とはいえ、大事な時期に故障してしまったわけですが佐野さんは「いい時も悪い時もある。大事なのは地道に練習することだよ」と変わらぬ姿勢で接し続けてくれました。社会人野球に入って1年目は体づくり。2年目は爆発的に飛躍して、3年目はけがして、そのまま迎えたドラフトでした。在籍最終年の3年目に僕がしっかり活躍して、都市対抗で優勝でもしていれば「よし巨人にいくぞ」となっていたかもしれません。でも、なかなかうまく野球選手として波に乗り切れない自分を評価してくれ、なおかつ長い目で見てくれたのは阪神でした。当時は最下位だった阪神ですが、そういうチームに入って自分の成長とともに強くなっていければいいなという気持ちが、うまくパズルのピースとしてハマったような心中でした。まあ、そうはいっても当時は怖さしかなかったですね。楽しい、楽しいというのは全くなく、怖さしかなかったです。取材陣にぐるりと囲まれても、どこか人ごとな状態でした。取材してもらって紙面やテレビニュースになっている自分は、自分ではなくただやらされているような感覚です。しっかりアマ球界で活躍もできてないのに、こんなのでドラフト1位が決まってしまうのかという気持ちでしたね。もちろん、プロには行きたくて人には言えないくらい練習した自負はありました。でも、練習すればすればするほど不安になる。理想と現実のギャップで。こうやって投げているイメージなのに、結果的に抑えてはいても何かが違う。自分は完璧主義なところがあり、プロ入り後にもそれが邪魔になったことも多くありました。結果、抑えられればいいじゃないか、とはなれなかった。インターコンチではヤクルト・岩村明憲さんや、のちにチームメートとなる阪神・浜中治さんらとプレーしました。投手では広島・黒田博樹さんもメンバーに入っていました。ただ当時の自分は、そこと客観的に比較してという状況ではありませんでした。阪神を逆指名という道を選ぶわけですが、各紙虎番記者の取材攻勢がすごかったことも、圧倒されすぎてて覚えてないですね。入団会見の前に母親がホテルの部屋のカーテンを閉めようとしたら電動で「えーーーっ」ってなってたのが印象強すぎて会見はあんまりですね。フラッシュや照明でまぶしかったし暑かったし。緊張しすぎて野村監督を「あっ、本物や」と思ったことを覚えてるくらいですね。新人王取るとか、優勝しますとか記者の皆さんに言わされましたね。会見場から中継でイヤホンつけて関西の情報番組にも出ました。関西ではすごく有名なベテランアナとやりとりしたのですが、当時の僕は番組もアナウンサーも知らない状態で誰だろうと思いながら、こなしたのも覚えてます。ドラフト後もそんな毎日でしたね。広報の方に言われるがままですよ。手応えのないまま阪神のドラ1としてのプロ入り。そしてとうとうキャンプ初日がやってきました。各社マスコミが注目していることはもちろんわかりました。常に誰かの目にさらされながら僕は早速、プロの洗礼を浴びることになります。


日本ハムファイターズJr.-東北楽天ゴールデンイーグルスJr.


2018.1.26 由利工 第90回センバツ大会出場決定


平成 県南地区覇者角館に善戦 松本春輝投手好投


<横手南野球スポーツ少年団 / 決勝戦先発> [遊]細川皓介(6)、[三]神原陸(6)、[投]○佐藤駿(6)、[捕]伊
藤理玖(6)、[一]松本春輝(6)、[左]齋藤達基(6)、[右]江上将夢(6)、[中]藤原翔矢(6)、[二]大和頌(6)、日野綾太(6)、堀川哲平(6)、細川活(5)、藤井エル(5)、若松亮祐(5)、塚本竜史(5)、高橋佑輔(5)、山影浩夢(4)、藤原訽一朗(4)、佐々木悠希(4)、高橋大地(4)、[責、監]木村茂、[コ]大和康範、江上善一、[マ]川越皓介、[記]齋藤篤。<角間川ブレーブスJr. / 決勝戦先発> [遊]榊健汰(5)、[二]小野寺聖真(5)、[投]川本哲平(6)、[捕]○佐藤
大悟(6)、[一]佐々木凌真(5)、[三]相馬稜(6)、[中]畠中皓人(6)、[左]打川海斗(6)、[右]照井優星(6)、八木偉哲(5)、齊藤温人(5)、吉田光汰(4)、佐々木美菜(3)、高橋成哉(3)、照井大愛(3)、[責]照井高志、[監]佐藤弘樹、[コ]高橋彦雄、藤田正典、[マ]川本仁、[記]榊昭浩。


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藤田太陽「ライジング・サン」(12) 地元・秋田の公立校から社会人の名門・川崎製鉄千葉に入社しました。野球どころか練習のレベルにもついていけず、環境の変化も相まってメンタルも相当やられていました。入社からしばらく経過した5月くらいのことだったでしょうか。大阪の強豪・日本生命と練習試合に行った時、事件は起こりました。当時のヘッドコーチに「おい太陽、ちょっとボールペン買ってこんかい」と言われたんです。ダッシュでコンビニに走り、ボールペンを買って戻ると「アホか、ノートも買ってこんかい」と言われるわけです。当時の僕とすれば「なぜ、ボールペンを買ってこいと言われ、その通りにしているのに…」と理不尽な思いをした感覚です。ノートを買いには行きましたが、いつものダッシュではなく普通に歩いて帰りました。「最初からノートとボールペン」って言ってくれよ。当時の僕の心には余裕はありませんでした。器用に生きられる人であれば、またダッシュして「行ってきますっ、すいません」ってやるんでしょうけど、僕にはできなくて…。その夜、僕は監督の部屋に行き「僕はこんなことをやるためにここへ来たわけではないので、辞めます」と告げました。そうすると当然、ちょっと、待て待てとなります。くだんのヘッドコーチには謝罪してもらったんですが、それは恐らく監督から促されてのものだったと思います。昔ながらの野球界というのか、理不尽が横行していた時代です。こういうのを人にやるのは、野球界だけではなく、普段でも絶対にダメだと思うんです。今は理不尽が通用しない時代になってきましたけどね。そんなこんながありながら、僕の社会人野球1年目は過ぎていきます。1年目は試合ではほぼ投げていません。1試合だけ、3イニングだけ投げた記憶があります。それまでピッチングすらさせてもらえず、ただひたすらに走っていた記憶が強いです。練習中、ずっと左右両翼のポール間を走るだとか、20キロのランニングだとか。でも、それはまだいいんです。それではなくその後がしんどかった。最年少ですから何から何まで雑用は自分の仕事です。グラウンド整備はもちろん、マウンドの整備や備品の準備など多岐にわたります。クーラーボックスのドリンクも朝4時に起きて作って、バスの前にセット。先輩の洗濯物も全部で十何人分やってました。社会人とあって、そういった雑用を自分でやる先輩方もいました。ですが、お前やっとけという人が多数派でした。そうこうするうちに7時過ぎには出社するので、逆算すると4時半には起きないと回らない。当時の感覚としては洗濯屋さんをやりながら陸上部をやっている、そんな感じ。改めて振り返るとそのころ、ちょっと僕は精神的にきてましたね。近ごろ、よく話題にもなるウツのような状態でした。当時、医師の診察を受ければそう診断されたかもしれません。環境としては良くなかったですね。当時の自分にはどうすることもできなかったですが。でも、それでも、後に僕はプロにスカウトしていただけたんです。理不尽ばかりではない。そこには支えてくれる人の存在がありました。



チーム初実戦となる2月7日の紅白戦登板に意欲


優勝決定戦、最後は魁(芝田山)が芝(木瀬)を寄り切りで下し優勝








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