★ 備忘録 「熱球通信」 ・ 特定非営利活動法人秋田県野球フォーラム ★

「熱球通信」は特定非営利活動法人秋田県野球フォーラム会員有志による備忘録を兼ねた「秋田県野球」にこだわった私的ブログです。掲載している記録等については公式なものではありませんのでご注意願います。リンク等についてはオールフリーですので事前のメール等一切不要です。更新頻度は原則毎日の更新です。秋田県出身で県外に在住の方も念頭に更新していきますが、内容等一部については地元情報と時差が生じる場合があります。練習・親善試合の結果情報は原則掲載しません。また、コメント送信欄と掲示板については諸般の事情により対応していません。積極的な中学硬式野球・女子野球の紹介に努めています。

2021年01月

東スポ 越智正典 ネット裏/角界から巨人投手に転向した高崎山と多摩川寮友会の宴

hun大相撲初場所が終わった。巨人多摩川寮友会の男たちは、場所が始まると昔仲間の服部貞夫投手に敬意を表していた。多摩川寮友会は昭和51年、29年入団の投手堀内庄(松商学園)、27年逗子開成高校から入団の捕手棟居進(平野)が、JR東中野駅のすぐそばの居酒屋でイッパイやったのに始まっている。29年、秋田船川水産から入団した投手山田幸造(近藤)がよろこんだ。「みんなで集まろう」。世話役を引き受ける。会のナマエは、はじめは「丸子橋大学同窓会」。ご存知のように巨人軍寮は丸子橋のたもとにあった(当時)。が、これだと一橋大学に悪いや…。それなら「多摩川大学同窓会」がいい。みんな進学したかったのだ。しかしこれだと、今度は玉川大学に申し訳ない…と「多摩川寮友会」に落ち着いた。会は回を重ねるたびに出席者が増え盛大になった。「27年の明石キャンプの初日は吹雪さ。二軍監督の内堀(保、沢村栄治のキャッチャー)さんは凄かったなあー。先頭を走ってボクらを引っぱってくれたなあー」彼らはだれもが一軍の先輩の話をした。「隊長(樋笠一夫、31年3月25日後楽園球場での中日戦で代打満塁サヨナラホームラン)は貫禄があるなあー。この前新宿の職場で働いていたら、おお、ご苦労! と、挙手の敬礼をしてくれたよ」「30年の一軍優勝の神田のサロンでの祝賀に二軍も呼んでもらったなあー。川上(哲治)さんがダンスをしていたのに、びっくりしたあー」話ははじめに戻ります。服部投手は実は野球が大好きになって大相撲からプロ野球にやって来たのである。大分県出身、鶴崎中学を出ると郷土の先輩、二代目玉乃海、片男波親方に見込まれて入門。29年の正月場所に初土俵。とんとん出世して17歳で幕下。関取は目の前。シコ名は高崎山。部屋に郷土大分の英雄、別府星野組の火の玉投手、毎日オリオンズの荒巻淳が折々にやってくる。荒巻の立ち振る舞いを見てプロ野球に挑戦したくなった。荒巻に打ち明ける。荒巻が親方の許可をもらって毎日のテストを受けられるようにしてくれた。が、落ちた。話を聞き込んだ巨人が二軍投手で獲った。情熱と足腰の強さを評価した。34年正式に巨人入団。公式戦が始まると、一軍から彼に毎日のようにホームラン賞の副賞のウイスキーがとどけられた。一軍の先輩たちも激励していたのだ。昭和56年、自由が丘の中華料理の店で開かれた多摩川寮友会で、会友たちは高崎山投手に呆れ、感嘆、感心していた。16年巨人入団の投手、大先輩多田文久三(高松商業)のとなりに座り「外角低目にいい球を投げるのにはどうしたらいいですか」と、ボールの握り方から習っていた。もう、もちろん巨人を退いている。ほかの仕事に就いて立派に成功しているのに、まだ、野球をやっていた。幹事棟居が多くの投手の球を受けて来たキャッチャーらしく「きょうもいい会になったあー」 =敬称略= ※ 投手、東北肥料→巨人(54年~58年)#55

巨人軍 馬場正平投手も登板 / 旧秋田県営手形野球場(秋田大学野球場、秋大球場)

4574717MKIbRtjL__AC_UL320_ML3_1999年1月31日午後4時4分、肝不全のため、東京都新宿区の病院で死去、61歳。<2018.12.14> 西武育成2位 大窪士夢投手(18、北海)が12月13日、埼玉・所沢で新入団選手発表会に出席。身長198センチで、阪神藤浪晋太郎投手(197センチ)を抜き、現役日本人最長選手となる。【2012.8.11】1959 (昭和34年) 8月21日、プロ野球2軍公式戦 阪神2-1巨人(秋田県手形)、敗戦投手馬場正平。<2015年8月29日>  旅とメシと鉄と酒と温泉と…あと何だ?? で紹介。 正式名称 「秋田大学野球場」、秋田大学手形地区の隣にある、当時も今も、いつ使われているのか外部の者にはさっぱりわからないこの球場で、この夏ワンシーズンのみ、少年野球地区大会 「秋田1~3区」 いずれかの1回戦が開催されたのでした。今も昔も、秋田市の中学校が参加する 「秋田1~3(4)区」 は八橋球場 (八橋硬式野球場) と県立球場 (2003年よりこまちスタジアムへ移行) で開催されているのですが、この写真を撮影した1990年だけは八橋球場が改修工事で閉鎖されていたため、代わりに、公式戦の基準を満たしていた (と思われる) この秋大球場に白羽の矢が立ったのでした。同じ理由で、通常は八橋で行われていたプロ野球が、この年のロッテ-近鉄2連戦のみ県立で行われたそうです.とはいえ、八橋や県立にはあった椅子席はなく全面芝生…いや半分ドロンコ席、写真をよく見ると、フェンスが欠けているところもあります。そしてこの25年前すでにオンボロ野球場だったこの球場では、なんとかつて・・・巨人戦が開かれたことがあるそうです。WIKIPEDIA によりますとこの球場はかつて県営球場だったそうで、1951年( 昭和26年) 8月3日に、読売ジャイアンツ-大洋ホエールズの試合が行われたということです。この野球場はその前年にオープンしているということなので、オープン記念試合の意味合いもあったかもしれませんね。なお、この野球場は現在も秋田大学が管理・使用しているということです。当時に比べて幾分は改修が行われているということです。

東スポWeb / ドラ1として過ごした喧騒は今でもあいまいな記憶の中にあります

https://www.tokyo-sports.co.jp/aray 藤田太陽「ライジング・サン」(15) 社会人最後のシーズンを故障のため棒に振り、確固たる自信を持てないままにプロの門を叩きました。虎のドラ1として過ごした喧騒は、今でもあいまいな記憶の中にあります。それでも時間は待ってくれません。入団会見、新人合同自主トレを経て高知・安芸での初めてのキャンプが始まりました。「初日からブルペンに入るのか? そのための準備はしてきたか?」。どんどんそんな質問も飛びます。自分なりの答えを返すのが普通なのでしょうが、正直なところ自分では決められなかったというのが事実です。投手コーチから「初日はこうです」と言われたそのまま実行する感じです。確か、初日にブルペン入ったんじゃないですかね。立ち投げで、そんなに球数は投げてないですけど、予想以上にめっちゃ疲れたのを覚えてます。これは今でも覚えてます。見られるってことはどういうことか、しっかり実感しました。新人ということで練習も最後まで残っていました。球場から宿舎の土佐ロイヤルホテルの正面玄関にタクシーで帰ると、ファンの方々にグワッと一瞬で囲まれたのを覚えています。今とは違って球団も交通整理をしてくれないし、疲れた体のまま逃げるわけにもいかず延々サインを書き続けました。初日だけではなく、サインはなるべく断らず書きました。1時間なんてゆうに超えていたと思います。夜間練習もあるし、夜食の時間もあるにはありましたが、体以上に気持ちが疲れてましたね。何かに追われる感じに心が疲弊していきました。アマ時代は本当の意味でトップではやってきていない自分。それなのに分不相応な注目を浴びてしまうことに慣れなかったです。状態が良くないのなら、マイペースで焦らずやらせてくださいという言葉も言えなかった。第1クールの期間中、記者から「開幕までどう調整しますか?」と質問されました。「焦らず、周りの先輩たちはハイペースでつくられているんですが、僕は自分のペースをきっちり守ってつくってやっていきます」と答えました。そうすると翌日には「太陽、マイペース宣言」とどデカい見出しで書かれたんです。なんでそんな書き方をされないといけないんだろ。もう、話す気がうせました。そのころ、アマ時代にようやくたどり着いた二段モーションで投球していたのですが、キャンプに入るなり矯正されていました。そうしろと言われれば、チャレンジしてしまいますよね。「えっ、なんでいきなり」とは思いましたが、プロのコーチが言うんだから、自分を伸ばすために意図があるんだろうと思って従いました。ただ、やってみてもダメでした。全然バランスは悪いし、しっくりこなかった。そこで、相談したんです。まずはこの二段モーションのままでやらせてくださいと。しかし、答えは「そんなのダメに決まってんだろ」のひと言でした。「何が決まってるんだ」と僕も思ってしまいましたが、ちゃんとコーチにも理論があったんでしょう。野村監督から、二段モーションをやめさせろと言われていた背景もあると思います。ただ、これは当時の八木沢投手コーチを非難したいんじゃないということは理解してください。その意図はありません。どんな事情があったにせよ、僕自身がしっかり対処して結果を残せていれば何も問題はない。自分の実力不足と自覚しています。ただ、当時の僕にはそんな余裕がなかった。そこからもうまく歯車がかみ合わないプロ生活が続いていきます。

ベースボールマガジン社 / 週刊ベースボール2021.2.8 / 球界年棒ランキング

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東スポWeb / 波に乗り切れない自分を評価し長い目で見てくれたのは阪神でした

https://www.tokyo-sports.co.jp/aray 藤田太陽「ライジング・サン」(14) 社会人2年目に日本代表メンバーに選出され、インターコンチに出場しました。個人としては最優秀防御率として表彰され、チームも銅メダルを獲得。その翌年は2000年シドニー五輪となる予定でした。自分の夢でもあった五輪の表彰台で金メダルを首にかける姿。しかし、それは実現せぬまま終わります。五輪の合宿には招集されましたが、僕は期間中に背中の肉離れを起こしてしまいます。投球時に後ろから叩かれたような感覚に襲われ、何が起こったか分かりませんでした。僧帽筋の下に入っていて背骨から肩甲骨につながる菱形筋を痛めてしまいました。そのまま五輪メンバーからも外れて、社会人最後となるシーズンは、そのままほぼ投げずに終えてしまいました。担当スカウトの阪神・佐野さんには「大きなけがだけはするなよ」と言われていました。背中の肉離れは幸いにも後遺症の残るようなけがではありませんでした。とはいえ、大事な時期に故障してしまったわけですが佐野さんは「いい時も悪い時もある。大事なのは地道に練習することだよ」と変わらぬ姿勢で接し続けてくれました。社会人野球に入って1年目は体づくり。2年目は爆発的に飛躍して、3年目はけがして、そのまま迎えたドラフトでした。在籍最終年の3年目に僕がしっかり活躍して、都市対抗で優勝でもしていれば「よし巨人にいくぞ」となっていたかもしれません。でも、なかなかうまく野球選手として波に乗り切れない自分を評価してくれ、なおかつ長い目で見てくれたのは阪神でした。当時は最下位だった阪神ですが、そういうチームに入って自分の成長とともに強くなっていければいいなという気持ちが、うまくパズルのピースとしてハマったような心中でした。まあ、そうはいっても当時は怖さしかなかったですね。楽しい、楽しいというのは全くなく、怖さしかなかったです。取材陣にぐるりと囲まれても、どこか人ごとな状態でした。取材してもらって紙面やテレビニュースになっている自分は、自分ではなくただやらされているような感覚です。しっかりアマ球界で活躍もできてないのに、こんなのでドラフト1位が決まってしまうのかという気持ちでしたね。もちろん、プロには行きたくて人には言えないくらい練習した自負はありました。でも、練習すればすればするほど不安になる。理想と現実のギャップで。こうやって投げているイメージなのに、結果的に抑えてはいても何かが違う。自分は完璧主義なところがあり、プロ入り後にもそれが邪魔になったことも多くありました。結果、抑えられればいいじゃないか、とはなれなかった。インターコンチではヤクルト・岩村明憲さんや、のちにチームメートとなる阪神・浜中治さんらとプレーしました。投手では広島・黒田博樹さんもメンバーに入っていました。ただ当時の自分は、そこと客観的に比較してという状況ではありませんでした。阪神を逆指名という道を選ぶわけですが、各紙虎番記者の取材攻勢がすごかったことも、圧倒されすぎてて覚えてないですね。入団会見の前に母親がホテルの部屋のカーテンを閉めようとしたら電動で「えーーーっ」ってなってたのが印象強すぎて会見はあんまりですね。フラッシュや照明でまぶしかったし暑かったし。緊張しすぎて野村監督を「あっ、本物や」と思ったことを覚えてるくらいですね。新人王取るとか、優勝しますとか記者の皆さんに言わされましたね。会見場から中継でイヤホンつけて関西の情報番組にも出ました。関西ではすごく有名なベテランアナとやりとりしたのですが、当時の僕は番組もアナウンサーも知らない状態で誰だろうと思いながら、こなしたのも覚えてます。ドラフト後もそんな毎日でしたね。広報の方に言われるがままですよ。手応えのないまま阪神のドラ1としてのプロ入り。そしてとうとうキャンプ初日がやってきました。各社マスコミが注目していることはもちろんわかりました。常に誰かの目にさらされながら僕は早速、プロの洗礼を浴びることになります。

能代工業バスケットボール部 元監督 加藤廣志さん 瑞宝小綬賞、能代市民栄誉賞

wa秋田県山本郡三種町川尻出身の歌手、友川カズキさん(70)=本名・及位典司=が主演を務めるドキュメンタリー映画「どこへ出しても恥かしい人」は、1月29日から2月7日まで大館市御成町の映画館・オナリ座で上映、秋田県内での上映は初めて。<2020.5.18> 瑞宝小綬賞、秋田県文化功労者、能代市民栄誉賞<2018.3.05>秋田県立能代工業高校バスケットボール部を率いて33度の全国制覇を成し遂げた元監督の加藤廣志氏が3月4日午後1時20分、肺腺がんのため能代市の病院で死去した。80歳。粕毛村 (現藤里町) 生まれ。日体大を卒業した1960年に母校の能代工高に赴任して以降、30年間にわたりバスケットボール部監督を務めた。選抜、インターハイ、国体を各11度制覇し、このうち同じ年に各大会を制する 「3冠」 を5度遂げたほか、インターハイ7連覇を達成。展開の速いプレーで相手の高さに対抗するプレースタイルを磨き、黄金時代を築いた。<2007.8.12> 無敵の集団として名を馳せる秋田県能代市の県立能代工業高等学校バスケットボール部。著者は監督在任時の30年間に、インターハイ、国体などで同校を33回の日本一に導いた。現在、米プロバスケットボール (NBA) で初の日本人プレーヤーとなるべく挑戦中の天才・田臥勇太選手もまた、同校で指導を仰いだ1人だ。優秀な素材を全国から呼び寄せるといっても、未成熟な高校生であり、しかもメンバーは毎年代わる。それを常勝軍団に仕立て上げるべく、徹底的に個々の選手と向き合い、選手の欠点さえも強みに変えていく指導論が披露される。枠にはまらない異色の人材が持つ潜在能力を引き出して組織が強くなった事例など、多くの指導者が見過ごしがちな心得を示す。

NPB12球団ジュニアトーナメント2020(12/29~、明治神宮・横浜)

日本ハムファイターズJr.-東北楽天ゴールデンイーグルスJr.
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2021 令和3年1月26日 / 日本学生野球協会審査室会議 高校5件の処分発表

59842ba5日本学生野球協会は1月26日、オンラインで審査室会議を行い、高校5件の処分を決めた。昨年7月にのぞき行為による迷惑防止条例違反で逮捕された愛媛県高野連の審判委員(53)が昨年8月22日から、盗撮行為が判明した瀬戸窯業(愛知)の副部長(46)が昨年10月18日からそれぞれ1年間の謹慎となった。その他の処分は以下の通り(肩書は当時)。<謹慎>・水口(県、滋賀)の監督 昨年12月7日~3か月=監督の報告遅れ。・同部長 1月14日~3か月=部長の報告遅れ。・千葉学芸(私、千葉)の部長 昨年12月1日~3か月=部長の報告遅れ。・柳井学園(私、山口)のコーチ 昨年11月29日~1か月=コーチの部内体罰。

東スポWeb / 社会人2年目1999年 ジャパンに選ばれインターコンチ杯で銅

arayhttps://www.tokyo-sports.co.jp/ 藤田太陽「ライジング・サン」(13) 自分の希望だった社会人野球への進路を選び、生まれ育った秋田を後に。無名の高校から名門・川崎製鉄千葉野球部での生活になじめず、精神的に参っていました。今なら冷静に耐えられる理不尽にも、分かりやすく反発してしまう若き日の僕でした。一時は退部も考えるほどに追い込まれていました。猛練習についていけず、さらに最年少ということで雑用地獄。早朝4時半に起きる生活で心が病んでいきました。ただ、そんな中でも支えになってくれた存在がいました。それは同期入社ですが大学出で4歳上の加藤友樹さんです。僕とは違い1年目から即戦力の投手でした。現在は兵庫・西宮で接骨院を経営され、野球少年たちを育成する活動も熱心にされています。当時病んでいた僕に加藤さんは「太陽な、今はきついだろうけど、お前は絶対にプロに行くんだから辞めるなよ」と言って支えてくれました。「何かあったら何でもいいから俺に言ってこい」と言って、先輩方の洗濯とか雑用とか手伝ってくれましたね。その当時、新入団では大卒選手が4人いました。1年目ということで雑用もあてがわれますが、担当するのは一人の選手のみでした。唯一の高卒だった僕はそれ以外すべてということになります。「あれ買ってこい、これ買ってこい」と言われても、僕には車もなかったですしどうしようもない。そういう時に加藤さんが助けてくれました。1年目は試合ではほぼ投げることもなく、そんな感じで過ぎていきました。自分では目立った成長を感じることもなく2年目を迎えます。しかし、春のキャンプでは1年目にしこたま走った成果でしょう。そのおかげで相当なバネが自分の知らないうちについていました。脚力が相当にアップしていました。劇的に球速もアップして、プロのスカウトも注目…かと思いきや、そうはなりません。サーキットトレーニングで開脚してジャンプを行い着地するメニューで、大けがをしてしまうんです。着地に失敗し右ヒザが外側に曲がる形になり、半月板を損傷。手術を受けることになりました。そこから何とか3か月後の5月くらいに復帰することができました。そのころは都市対抗予選の真っただ中でした。そんな状態では投げる機会もないだろうと思っていると登板が巡ってきました。投手のコマが足りなかったんでしょうね。どうだったのか、今となっては思い出せないのですが、何せ投げたんです。正直、何で自分が投げるの?と思いながらマウンドに向かいました。そうすると、直球がめちゃくちゃ速かったんです。そこからオール直球です。というか、ゲームで使えるボールが真っすぐしかなった。結果、直球のみで日本通運打線を抑えてしまった。当時、地区予選では本田や日通、新日鉄君津あたりに勝っていかないと都市対抗には出られない状況でした。そんな中で結果が出てしまったんです。その時くらいからでしょうか。日本代表のスタッフ関係者が「面白いぞ」というふうに評価していただいていたようです。雑用にランニング、トレーニングばかりの1年目で、おまけにけがまでしてしまいましたけど、そのタイミングですべてがかみ合って勝手に成長してしまいました。その社会人2年目のシーズンとなった1999年、ジャパンに選ばれてシドニーで行われたインターコンチで銅メダルを取りました。本当に自分でも怖いほどトントン拍子にいってしまいました。でも、そのままトントンいかないのが僕です。プロ入りが決まる翌年2000年にはシドニー五輪の合宿にも参加しますが、ここでもアクシデントが待っていました。

2018(平成30年)第90回センバツ高校野球大会出場 秋田県立由利工業高校

2018.1.26 由利工 第90回センバツ大会出場決定
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2018(平成30年度) 春季秋田県南地区高校野球大会 平成-角館 (GSよこて)。

平成 県南地区覇者角館に善戦 松本春輝投手好投
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2020.12 / 仙台大学 松本春輝投手(190、最速150km、平成-横手南)

よこてfun通信 vol.22 で紹介 「がんばる横手人 仙台大 松本春輝さん」
読者募集中!交流情報紙 『よこてfun 通信』
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2019.8.12 / 仙台大 松本春輝投手(188/100、平成-横手南-横手南)

よこてfun通信 vol.22 で紹介 「がんばる横手人 仙台大 松本春輝さん」
https://twitter.com/ozex41?lang=ja

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2012 平成24年 第32回高円宮賜杯全日本学童野球秋田県大会優勝・準優勝

横手南野球スポーツ少年団 / 決勝戦先発> [遊]細川皓介(6)、[三]神原陸(6)、[投]○佐藤駿(6)、[捕]伊yokoteminami藤理玖(6)、[一]松本春輝(6)、[左]齋藤達基(6)、[右]江上将夢(6)、[中]藤原翔矢(6)、[二]大和頌(6)、日野綾太(6)、堀川哲平(6)、細川活(5)、藤井エル(5)、若松亮祐(5)、塚本竜史(5)、高橋佑輔(5)、山影浩夢(4)、藤原訽一朗(4)、佐々木悠希(4)、高橋大地(4)、[責、監]木村茂、[コ]大和康範、江上善一、[マ]川越皓介、[記]齋藤篤。<角間川ブレーブスJr. / 決勝戦先発> [遊]榊健汰(5)、[二]小野寺聖真(5)、[投]川本哲平(6)、[捕]○佐藤kakumagawa大悟(6)、[一]佐々木凌真(5)、[三]相馬稜(6)、[中]畠中皓人(6)、[左]打川海斗(6)、[右]照井優星(6)、八木偉哲(5)、齊藤温人(5)、吉田光汰(4)、佐々木美菜(3)、高橋成哉(3)、照井大愛(3)、[責]照井高志、[監]佐藤弘樹、[コ]高橋彦雄、藤田正典、[マ]川本仁、[記]榊昭浩。

東スポWeb / 入社当時の感覚は洗濯屋さんをやりながら陸上部をやっている感じ

https://www.tokyo-sports.co.jp/aray 藤田太陽「ライジング・サン」(12) 地元・秋田の公立校から社会人の名門・川崎製鉄千葉に入社しました。野球どころか練習のレベルにもついていけず、環境の変化も相まってメンタルも相当やられていました。入社からしばらく経過した5月くらいのことだったでしょうか。大阪の強豪・日本生命と練習試合に行った時、事件は起こりました。当時のヘッドコーチに「おい太陽、ちょっとボールペン買ってこんかい」と言われたんです。ダッシュでコンビニに走り、ボールペンを買って戻ると「アホか、ノートも買ってこんかい」と言われるわけです。当時の僕とすれば「なぜ、ボールペンを買ってこいと言われ、その通りにしているのに…」と理不尽な思いをした感覚です。ノートを買いには行きましたが、いつものダッシュではなく普通に歩いて帰りました。「最初からノートとボールペン」って言ってくれよ。当時の僕の心には余裕はありませんでした。器用に生きられる人であれば、またダッシュして「行ってきますっ、すいません」ってやるんでしょうけど、僕にはできなくて…。その夜、僕は監督の部屋に行き「僕はこんなことをやるためにここへ来たわけではないので、辞めます」と告げました。そうすると当然、ちょっと、待て待てとなります。くだんのヘッドコーチには謝罪してもらったんですが、それは恐らく監督から促されてのものだったと思います。昔ながらの野球界というのか、理不尽が横行していた時代です。こういうのを人にやるのは、野球界だけではなく、普段でも絶対にダメだと思うんです。今は理不尽が通用しない時代になってきましたけどね。そんなこんながありながら、僕の社会人野球1年目は過ぎていきます。1年目は試合ではほぼ投げていません。1試合だけ、3イニングだけ投げた記憶があります。それまでピッチングすらさせてもらえず、ただひたすらに走っていた記憶が強いです。練習中、ずっと左右両翼のポール間を走るだとか、20キロのランニングだとか。でも、それはまだいいんです。それではなくその後がしんどかった。最年少ですから何から何まで雑用は自分の仕事です。グラウンド整備はもちろん、マウンドの整備や備品の準備など多岐にわたります。クーラーボックスのドリンクも朝4時に起きて作って、バスの前にセット。先輩の洗濯物も全部で十何人分やってました。社会人とあって、そういった雑用を自分でやる先輩方もいました。ですが、お前やっとけという人が多数派でした。そうこうするうちに7時過ぎには出社するので、逆算すると4時半には起きないと回らない。当時の感覚としては洗濯屋さんをやりながら陸上部をやっている、そんな感じ。改めて振り返るとそのころ、ちょっと僕は精神的にきてましたね。近ごろ、よく話題にもなるウツのような状態でした。当時、医師の診察を受ければそう診断されたかもしれません。環境としては良くなかったですね。当時の自分にはどうすることもできなかったですが。でも、それでも、後に僕はプロにスカウトしていただけたんです。理不尽ばかりではない。そこには支えてくれる人の存在がありました。

伝説多数 元祖「安打製造機」榎本喜八選手 奇人じゃなかった? 週べ回顧1972

enomot<週刊ベースボール> 球界の奇人と言われる西鉄・榎本喜八だが、その奇行の中には、周囲の思い込みもある。5月20日、小倉球場でのロッテ戦がそうだった。この日、榎本は守備練習でもヘルメットをつけたまま。相手のロッテからは「お年寄りが張り切るとすごいな。ヘルメットつきのフィールディングだぜ」と、古巣だけに遠慮のないひやかしの声が上がっていた。実は、榎本は帽子を忘れただけだった。マネジャーに代わりの帽子を探させたが、なかなか見つからず、ヘルメットで守備練習をしていたという。結局、ワンサイズ小さいものしかなかったようだが、「まあ、いいでしょう。私は何をかぶっても似合いますから」と笑顔で話し、それをかぶった。<2012.3.30> 史上最年少31歳で2000本安打、「ミスターオリオンズ」、伝説多数元祖 「安打製造機」 榎本喜八選手(西鉄-毎日)が2012(平成24年)3月14日、大腸がんのため死去、75歳。京都府出身、早稲田実、1955(昭和30年)パリーグ新人王を獲得。60年と66年の2度リーグ首位打者、ベストナイン9回。打率3割以上を6度マークし「安打製造機」の異名。72年に西鉄(現西武)に移籍、その年限りで現役を引退。プロ通算成績は18年間で2314安打、246本塁打、打率2割9分8厘。引退後は球界とは無縁の生活を送っていた。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A6%8E%E6%9C%AC%E5%96%9C%E5%85%AB

能代工硬式野球部員 / 学校周辺の民家や道路などの除雪ボランティアに汗を流す

i25p02県立増田高校野球部(1.2年生15人)も高齢者宅で除雪ボランティア。<2021.1.20> 能代工の硬式野球部とバスケットボール部の部員たちが今年も学校周辺の民家や道路などの除雪ボランティアに汗を流し、住民らが安全に生活できる環境づくりに貢献。<2019.1.27> 連日のように雪が降り、厳しい寒さが続いている能代市内で、高校生が除雪ボランティアに汗を流している。1月25日は、能代工の硬式野球部員が同校近くの道路や隣接する渟西小敷地周辺の雪を寄せ、住民や児童が安全に通行できる環境づくりに努めた。能代工高硬式野球部は、降雪期の体力づくりを兼ねて除雪ボランティアに取り組んでいる。この冬は、今月に入ってから開始。積雪の状況を見て実施している。※平成30年秋季大会地区大会敗退、1年生大会全県出場。

日本ハム 吉田輝星投手 初のキャンプ1軍スタートに「気合いを入れていきたい」

チーム初実戦となる2月7日の紅白戦登板に意欲
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2021(令和3年)1月場所 (1/10~、両国・国技館) 秋田県出身力士番付

優勝決定戦、最後は魁(芝田山)が芝(木瀬)を寄り切りで下し優勝
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将豊竜 16枚上げて自己最高位幕下8枚目 十両昇進視野
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株式会社アーバンビソー施工 / 市営八橋硬式野球場バックスクリーン階段改修工事

平成12年 秋田県アマチュア野球選手権 高校選抜交流試合(8/19、八橋球場)

79cde972プロ野球ソフトバンクでエースとして活躍した摂津正さん(38)が1月23日、自身のインスタグラムで慢性骨髄性白血病と診断されていたことを公表<紅組> [監]小野平、[コ]佐々信雄、[記]佐藤俊平(秋田商)[投]摂津正(経法大付-将軍野)、[投]鈴木裕介(大曲工-大曲西)、[投]永山順一(大曲農-角館)、[投]神田一嘉(能代商-琴丘、[捕]佐藤光総(秋田商-秋田北)、[捕]栗森智也(秋田工-男鹿東)、[捕]平尾和也(由利工-西目)、[内]遠藤久士(経法大付-井川)、[内]川口昭仁(秋田工-秋田東)、[内]水戸正人(秋田商-藤里)、[内]鈴木実(横手工-大雄)、[内]北林勝秀(秋田商-山本)、[内]田口大地(大曲工-大曲西)、[内]花田郁夫(大館鳳鳴-成章)、[内]石田康二(新屋-秋田西)、[外]田村彰啓(秋田商-西仙北東)、[外]袴田孝夫(能代商-能代南)、[外]久家一裕(湯沢商工-湯沢北)、[外]関口直樹(大曲農-大曲西)、[外]高橋尚吾(横手工-増田)。<白組> [監]鈴木寿、[コ]阿部大樹、[記]松井知也(経法大付)[投]菅原達郎(秋田商-能代一)、[投]小田嶋拓也(秋田工-協和)、[投]菅原洋介(由利工-象潟)、[投]高橋英康(横手工-中仙)、[投]三浦邦彦(男鹿工-飯島)、[捕]鈴木裕充(経法大付-秋田西)、[捕]佐々木拓也(大曲工-南外)、[捕]疋田俊昭(合川-合川)、[内]山本明弘(秋田商-城東)、[内]川崎敦(湯沢-湯沢北)、[内]大場雄二(由利工-金浦)、[内]小山内春喜(能代工-山本)、[内]佐々木浩樹(金足農-八竜)、[内]今野義久(大曲農-大曲西)、[内]高橋康太(横手工-山内)、[外]大平達也(秋田商-城東)、[外]菊地直樹(経法大付-羽城)、[外]照井徹(大曲工-仙南)、[外]阿部拓(経法大付-横手南)、[外]山田浩平(能代商-能代二)。

東スポWeb / 川崎製鉄千葉に加入し社会人野球のレベルの高さに圧倒されました

arayhttps://www.tokyo-sports.co.jp/ 「藤田太陽ライジング・サン」(11) 高校卒業までを地元の秋田で過ごし、社会人野球の川崎製鉄千葉に加入したことで初めて親元を離れることになりました。高校3年生で本格的に投手を始めて、ここからがようやくスタートライン。ただ、名門校でもまれてきたわけでもない僕は、社会人野球のレベルの高さに圧倒されました。まずは練習についていけなかったです。ウオーミングアップにすら、ついていけないんです。投手のランニングの量、投内連係のスピードから何から何までです。超弱小高校から社会人のトップチームに行ったわけです。最初はボール渡ししかしてなかったですが、いざ練習に入れと言われて入ってみたら、キツくてついていけないと体感して…。卒業式の前に1か月練習参加したんです。その後、式に出席するために一度秋田に帰るじゃないですか。そのころには本気で千葉に戻るのをやめようかなと思いましたね。その年、川崎製鉄千葉では高卒入団した選手は僕一人でした。基本的には大学卒しか獲らないんですよ。高校生は獲るには獲るんですが、その意味合いは5年以内にプロを狙える選手であることです。僕は何とか無事に入社を果たし野球部での生活をスタートさせることができました。ただ、練習についていけない状況は変わりません。ウオームアップのメニューは次から次と違った種目の練習をこなしていくサーキット系のトレーニングでした。息が止まるところがない感じで一個、一個のメニューをマックスの力で動きまくります。それだけでかなり体力がつきました。一時期、はやった「ビリーズ・ブートキャンプ」をずっとやっているような状態です。それでいて、常に声を出さないといけない。ちょっと軍隊入ってますよね。社会人野球って。その要素、大いにありますね。今は薄れてきているとは思いますけど…。とはいえ、今でも強いチームにはそういう要素はあると思います。社会人野球って大事な試合はトーナメント方式。その中で勝つということは、そういうことだと思うんです。適切な表現じゃないかもしれないですが、戦争に派遣されて戦死してしまったらジ・エンド。そうならないために、いっぱい準備をするじゃないですか。相手の戦力を調べて、地理的な知識も備えて、自分自身のコンディションも整えて、できうる限りの準備の引き出しを揃えておく。その上で戦場に飛び出していくのがトーナメントを戦う上での備えだと思うんです。指導者になった今、選手たちにもよく言うんです。何も分からない状態でグラウンドに出ていっても、自分が恥をかくだけだぞって。なぜ、今やっているこの練習をやらないといけないのか。言い回しをいろいろと変えながら選手に伝える。なぜここまで細かく言うのか。野球で名門といわれる一流の高校、大学出身者はこのへんをすでに理解していることが多いんです。でも、僕のように普通の高校からやってきた子には、そんなことが分からないんです。いきなりトップレベルのチームにポンと入っても分からないんです。当時の僕はというと、必死で目の前のメニューをこなしているだけでした。高卒は僕だけで、雑用なども一番年下の僕に集中します。新社会人、新たな環境。入部してしばらく経過した5月くらいでしょうか。僕は意を決して監督に相談に行くことにしました。

東スポWeb / セレクションを受験したのはJR東日本東北と川崎製鉄千葉です

arayhttps://www.tokyo-sports.co.jp/ 「藤田太陽ライジング・サン」(10) 高校3年生で投手デビューを果たしました。春からの練習試合ではほぼ、点を取られない無双モードでした。それでも簡単に甲子園に行けるほど甘くはありません。最後の夏の大会はノーシードから1回戦で勝利したものの、2回戦負けでした。当時から打者の練習に関しては高性能なマシンもありましたし、夏の大会では速い球だけでは対応されることもありました。連打や長打はないのですが、四球や失策が絡んで失点というパターンはそこそこありました。やはり速い球を投げるだけでは試合には勝てません。2回戦を勝ち進んでいれば、その次は金足農業との対戦でした。当時は一番の甲子園候補でした。しかし、前年の秋季大会で優勝していた秋田商が甲子園への切符を手に入れました。石川雅規(後に青山学院大からヤクルト入り)のいた秋田商です。前年秋に準優勝していた我々、新屋高は藤田太陽もいるし甲子園もあるんじゃないかという空気はありました。金足農業に勝てば先の道が見えている感じもあったのですが、その時点でスキがあったんでしょうね。最後の夏が終わればその後の進路の話になります。いろいろな大学や企業の方々が学校に来て、監督と話をしていたのを覚えています。希望すれば、だいたいの野球名門校には進学できるとも言っていただきました。東京六大学、東都リーグ、地元なら東北福祉大などです。見学に行ってみるかとも勧められましたが、その当時の僕はお断りを入れさせていただきました。プロ以外では社会人しか頭になかったんです。地元のTDKかJR東日本東北、川崎製鉄千葉(現JFE東日本)の3つしか頭にありませんでした。理由の一つは金属バットはを持った大人の社会人を相手に対戦できるということ。その厳しい環境で結果を残し日本代表で日の丸をつけたかったんです。柔道をやっていた時、国歌演奏をバックに表彰台に立つ選手の姿がすごくカッコ良くて憧れました。国の代表としてプレーしたいという気持ちがとにかく強かったんです。大学に行くとまた1年生から奴隷のような生活が始まるとイメージしていました。そんなんなら、ちゃんとお給料もらえて、職業としての野球がしたかった。早ければ3年でプロに進むこともできる。それで社会人野球を選びました。プロ入り時に逆指名もできて自分で入団するチームを選べたらいいなとも思っていました。実際にセレクションを受験したのはJR東日本東北と、川崎製鉄千葉です。どちらにも合格をもらいました。僕の中ではようやくここで、スイッチが変わりました。これまでは地元で自由に野球をやらせてもらってきました。でも、ここからは人生をかけた勝負なんだと。大学を飛び越えて社会人で野球をやるなら、高いレベルでやらないと意味がない。何度も都市対抗に出場している名門の川崎製鉄千葉を、ここでは選ばせていただきました。全国区のチームであったというのが一番の選んだ理由です。両親には大学に行けと言われました。今までなら、親に見てもらうために東北地方の大学を選んだかもしれません。でも、その時の自分は違いました。18歳で覚悟を決めて、まだ卒業式の前に千葉に行って練習に参加していました。初めて親元を離れての生活になります。自分なりに気合を入れて実りある野球生活をと意気込んでいましたが、ここでも僕を待っていたのは試練でした。

ベースボールマガジン社 / 週刊ベースボール2021.2.01 / ドラフト候補特集

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東スポWeb / 2年の新チームになってからの秋季県大会では準優勝したんです

arayhttps://www.tokyo-sports.co.jp/ 「藤田太陽ライジング・サン」(9) ついに投手として本格的に始動しました。高校3年生の春です。新3年生となる春先の試合からどんどん投手として投げさせてもらって結局、夏の大会前まで防御率が0・60くらいでした。正確な数字は覚えていませんが、何せ点を取られなかった記憶があります。大会前の新聞なんかには、ダークホース的な扱われ方をしていたのを覚えています。もともと、2年生で打撃に目覚めて4番を打たせてもらってましたから、投手として投げ始めるとワンマンチームみたいな感じになってしまいました。ただ、やっぱり慣れてない投手を本格的にやりだして、結果も伴って楽しくなる半面でヒジが痛かったですね。本当の意味でのピッチングフォームというものを知らなかったんです。ヒジがしなって柔らかいという表現で褒められるとうれしいですが、実際はヒジがかなり痛かった。今みたいにトレーニング方法も近代化してませんでしたし、インナーマッスルがどうとか知識がなかった時代です。鉄棒にぶら下がって指の力を鍛えるくらいしかなかった。投球後のアイシングくらいはしてましたけど。試合の方は僕が投げれば連勝、連勝、連勝です。その前の新チームになってからの秋季県大会では準優勝したんです。春は投げてない試合で負けて、夏の予選はノーシードでした。当時の秋田県は金足農業、秋田商業、秋田経法大付とあともう1校、進学校の秋田高が有力チームとされていました。秋田高の1学年上にはのちにオリックスや楽天で活躍された、後藤光尊さんが4番で投手。僕らが3年生のころにはもちろんいませんが、後藤さんがスーパースターだったのをすごく覚えてます。その後は同じ川崎製鉄千葉でチームメートとなりお世話になりました。肝心な甲子園をかけた夏の大会はというと2回戦敗退です。僕が先発して自責1でしたが、失点7でしたかね。延長戦でサヨナラ失策で高校野球は終わりました。チームとして失策は多かったです。でも、当時の自分はそれが嫌だとは思わなかった。そういうのを含めて、僕はこのチームで野球をしようと決めたわけですから。周囲には新屋高でなければ甲子園に出られたのに、とか言われたりはしました。でも、新屋高で甲子園に出るために自分は選んで入ってきた。みんな一生懸命やってるのは分かってるし「なんでエラーしてんだよ」とは1ミリも思わなかったです。自分自身も完成した投手ではないですしね。人を責めるなら、僕があの場面で三振取れなかったからそうなったんだと、そう考えていました。僕は高校野球で県大会優勝投手になったこともない。投手をやり始めてまだしばらくの人間が調子に乗って、練習試合でうまくいったからって、そんなに甘いものではない。本大会ではヒジの痛みもあって、ガンッと全力で投げられない苦しい投球でした。でも、そのうまくいかなかった経験が、次に社会人野球に進もうと思えた原動力になりました。とんとん拍子にうまくいっていたら、そのままプロに行っていたかもしれないですけどね。この高校3年生のシーズンが投手・藤田太陽の元年でした。
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